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賢者の道

忙しく複雑化したストレスの多い社会で生活するためには、どうしたら良いのでしょうか?体に食物が必要なように、心にも栄養が必要です。賢者の知恵=「聖書の教え」を配信します。難しく考えることなく、シンプルに生きられたら幸いです。

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賢者の道〜 Vol.1173

2018/10/03

賢者の道〜Vol.1173「イザヤ書と救い主イエス」2018-10-3
聖書:ヨハネ福音書12章40〜41節

■「神は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた。こう
して、彼らは目で見ることなく、心で悟らず、立ち帰らない。私は
彼らをいやさない。」イザヤは、イエスの栄光を見たので、このよう
に言い、イエスについて語ったのである。

◎ユダヤ北朝の滅亡に亡国の再興を祈ったイザヤは、バビロン捕囚の
中から新時代の霊性を予測した預言者であった。

彼の務めは、紀元前760年に始まり、60年以上も続き、4代の王に仕え
歴史は、彼が鋸(のこぎり)で二つに切断されるという残過酷な方法
で殉教したと伝えられている(ヘブル11:37)。

紀元前722年、アッシリア王センナケリブによってサマリヤの北朝は
壊滅。それより136年、ユダヤ王朝、即ち、ダビデ王朝は、バビロン
王ネブカドネツァルによりエルサレムの地を去ることになり、不滅の
都エルサレムは、陥落。

時に紀元前586年、ユダ王ゼデギヤは、城壁を抜け出て逃走したが、
捕縛、両目をつぶされ、青銅の足枷(あしかせ)をはめられ、バビ
ロンに連行されたのである。多くの民も捕囚となり、バビロンに連れ
去られた。

預言者イザヤの心には、神以外にこの壊滅した民族を救うものは
ないと、自覚せざるを得なかったのだ。そればかりでない、イザヤは
「イエスの栄光を見た」ので、主を信じない者は癒されないと断言
した言葉をイエスもまた引用し、主イエスに従った使徒パウロも
このイザヤ書6章の言葉を使徒28章で引用した(ヨハネ12章40〜41節、
使徒28章26〜27節)。

おそらく、イエスは、このイザヤの記した書を洗礼者ヨハネから指し
示されそれを自分のものとするほど暗誦したのであろう。そうでなけ
れば『山上の垂訓』は、生まれなかったに違いない。

被造物のために悩む神は、罪人を救おうとする意志をもって、イエス
の自覚となし、歴史の上に躍り出、受難者としてカルバリの山の上で
十字架を私達に凝見させることとなった。

イスラエル北朝の滅亡、ユダヤ南朝の崩壊、そして、アレキサンダー
大王によるユダヤ征服、イエスが受難者として自覚した頃のユダヤは、
ローマ帝国に占領されていた。

だが、イエスにとって、血をもって血を洗う政治的革命の道より大い
なる道が備えられていた。それは、人類の罪悪を取り除く解放の道、
その道のみが、荒野にサフランの花を咲かせ、小羊と獅子とを同じ
洞窟に共生せしめる道であったのである(イザヤ書35:1,62:25)。

◎1945年8月15日、日本は滅亡した。その日本がいかに再興するのか
いまだ沖縄、北方領土の問題は解決していない。朝鮮半島が分断
しているのも、日本に責任があるがいまだ解決していない。

この再興の道は、イザヤが自覚した受難者の道、十字架への道に
他ならない。ただ、神の愛以外にこの失楽園からの回復の道は
ないだろう。

イザヤ書は、絶望の淵で呻吟(しんぎん)する者に、イエスの心を
呼び覚ます。イエスは、イザヤ書に生き、遂に救い主キリストに
なった。

イザヤ書は、荒野に降る雨、悲しみの日の慰め、闇の中にいる者に
とっての光明であり、人を救う福音の力なのである。

◎イエスは、神を「天の父」と呼んでいるが、これは、イザヤ書63:16
と64:7に出ており、イザヤ書にその起源を持つ。

イエスは本来、神ご自身であったが、イエスはイザヤの思想によって
感化された。有限なる人となられた神が、無限の神に対して「父」と
呼び、放蕩息子をも赦す温かい神のイメージを示した。

よって、人性をとられたイエスは、祈る時も神と呼ばず「父」と呼び、
父と自分が一つと考えた。このことが、イエスが十字架にかけられた
理由の一つであった(ヨハネ福音書10:30)。

こうして復活を経過して昇天し、復活の命を与える聖霊として私達の
内の霊の中に宿り導く神が、存在するのであるが、これを三位一体の
神と呼ぶのが、この考えもイザヤに起因し、承継していたのであろう。

◎イエスは、野の百合を見よ、空の鳥を見よ、と大自然が神の顕現の
一つであると強調し、イザヤは、この世の環境、災禍も戦争も神の
摂理、神の必然と見た。

イエスは『山上の垂訓』で「平和を実現する人々は、幸いである」
(マタイ福音書5章9節)と言うが、それは、イザヤ書11章の気持ち
と同じで、狼と羊、豹と子ヤギ、小羊と若獅子、羊と熊、獅子と牛
が共に生きる姿だ。

それは、イエスが「断食をするときには、あなたがたは偽善者のよう
に沈んだ顔つきをしてはならない」と言った背景であるイザヤ書58章
の真の断食の実践によって実現する。真の断食とは、虐(しいた)げ
られた人を解放し、飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう
貧しき人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に
助けを惜しまぬこと。

そして、安息日に歩き回るのをやめ、主の聖日を尊び、したいこと
をせず慎むこと。その時、争いはなくなり、平和がやって来ると言う
のである。病も癒され、力が与えられる、と言う。このような断食を
する人が平和を造りだす人とイザヤは言う。

自分の周りの環境がいかに変化しようとも、それを神の必然として
受け止め、喜びの日として感謝して歩むなら平安がやってくる。
これが、イエスの思想の中に継承されている。イザヤは、平和の幻を
確かに見ていた。いつの日か、主イエスは国々の争いを裁き、多く
の民を戒め平和をもたらす。

イザヤ書2章4節は、こう綴っている「主は国々の争いを裁き、多く
の民を戒められる。彼らは、剣を打ち直して鍬(すき)とし、槍を
打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うこと
を学ばない。ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」と。

◎今日、一切の裁きの権利を、父なる神は、御子イエス・キリストに
委ねられている(ヨハネ福音書5章22節、27節)。従って私達は互いに
裁きあってはならず、全てを御子にゆだね、御子の判断に従うことで
ある。

それゆえ、聖書は「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に
裁かれている。」(ヨハネ福音書3章18節)と告げている。

主の懲らしめを受け、災難に遭わないように、獄に捕らわれないよう
に、周囲の人々に主イエスを救い主として信じるように宣べ伝えたい。
「福音を宣べ伝えなければ、私は災いである」(1コリント9:16)
とのパウロの言葉を受け止めて歩みたいのである。

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