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賢者の道

忙しく複雑化したストレスの多い社会で生活するためには、どうしたら良いのでしょうか?体に食物が必要なように、心にも栄養が必要です。賢者の知恵=「聖書の教え」を配信します。難しく考えることなく、シンプルに生きられたら幸いです。

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賢者の道〜 Vol.1126

2018/04/14

賢者の道〜Vol.1126「変わることなき救い主」2018-4-14
聖書:ヨハネ福音書21章1〜15節

■こののち、イエスはテベリア湖でふたたび自らを弟子達に現わされた。
その様子はこうであった。シモンと・ペテロと、デドモことトマスと、
ガリラヤはカナの出のナタナエルと、ゼベダイの子らと、ほかのふたり
の弟子がいっしょにいた。

シモン・ペテロが彼らにいう、「私は漁に行く」と。彼らはいう、
「われらもいっしょに行く」と。彼らは出かけて船に乗った。しかし
その夜は何もとれなかった。

もう夜明けになるころ、イエスが岸に立っておられた。しかし弟子達は
それがイエスとは知らなかった。イエスは彼らにいわれる、「子ども達、
食べ物はあるのか」と。彼らは答えた、「いいえ」と。

彼はいわれた、「船の右がわに網を打ちなさい。獲物があろう」と。
彼らが網を打つと、魚が多くて、もはや網を引きあげえなかった。
イエスの愛された弟子がペテロにいう、「主だ」と。シモン・ペテロは、
「主だ」と聞くと、裸であったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。

しかしほかの弟子達は、魚の綱を引きながら船で行った。陸からあまり
離れず、200ペキュスであった。陸にあがって見ると、炭火がおこして
あって、魚がのせてあり、パンがあった。

イエスは彼らにいわれる、「今とった魚をすこしもって来なさい」と。
シモン・ペテロがあがって綱を陸へ引くと153匹もの大きな魚でいっぱい
であった。こんな大漁でも網は裂けなかった。

イエスはいわれる、「朝飯になさい」と。弟子は誰も「あなたはどなたで」
とあえてたずねなかった。主であることを知っていたからである。
イエスは来てパンを取って彼らに与えられた。魚もそうされた。イエスが
死人の中から復活して弟子達に現われたのはこれではや三度目である。

食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、
この人達以上に私を愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、
主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、
イエスは、「私の小羊を飼いなさい」と言われた。

◎ヨハネ福音書21章において、復活後、イエス様は弟子達に御自身を
現されました。

この事例が見せていることは、私達がこの世の中に陥る時でさえ、
すなわち、私達が最も弱くなって主に近づくことを忘れる時でさえ
私達に近づいて下さるということです。

ガリラヤ湖(ティベリアス湖と呼ばれた)で、生計を立てるために漁に
戻った弟子達でしたが、何も捕れない日がありました。

夜が明けた頃、岸に立っておられた主イエス様は、弟子達には、その方が
イエス様であるとは、識別できませんでしたが、イエス様は彼らの必要を
知っており、沖から戻った弟子達に「何か食べるものがあるか」(21:5)
と尋ねますと、彼らは「ありません」と答えました。

そして「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」と教える
ので、彼らは言われた通りにそこに網を打ってみると153匹の大きな魚を
捕りました。

彼らが陸に到着すると、炭火と、その上に魚とパンが置かれてあるのを
見ました。この経験は、ペトロにとってつらい経験でした。なぜなら彼は、
主の十字架以後、この世に戻っただけでなく、他の弟子達も共に連れて
行ったからです。

彼が「私は漁に行く」と言い出すと弟子達の何人かは「私達も一緒に
行こう」と言いました。これは、集団でこの世を愛しに行ったことを
意味します。

しかしながら、イエス様は彼らに漁を続けさせ、彼らをイエス様が用意
された魚とパンをもって養われたのです。弟子達が捕ってきた魚とは別
です。

彼らが食べた後、主イエス様はペトロに尋ねました「ヨハネの子シモン
この人達以上に私を愛しているか」(15節)。これらの言葉をもって、
イエス様は弟子達に対して落胆していないことを知らせました。

イエス様は弟子達が継続して従い、仕えてほしかったのです。これは、
主との接触するための主要な原則です。

ですから、私達は自分が弱く、ダメで、この世に深入りして、祈りも
なくなり、滅茶苦茶な生活に陥ったとしても、イエス様に近づくこと
は、できないと決して思うべきではないのです。

◎そのような時、私達は主に近づくこともできなくなり、教会に行く
こともできなくなるとしても、主は、私達に近づいてきて下さると言う
ことを忘れてはいけません。

私達は主に触れることができない、すべきでないと考えても、イエス様
は、近づいて来て下さり、接触して下さるのです。私達の手を強く握り
しめ、決して離しはしません。

私達は皆、イエス様と接触することに失敗した者ではないでしょうか?
ペトロは、漁に行きましたし、私達も彼のように<漁に行くのです>。
そして、失敗しますが、主は決して失敗しません。

私達が主の下に近づくなら、主は必ず接触して下さいます。私達が主に
近づかない時でさえ、主はなおも来てくださって私達と接触されるのです。
私達は、信頼できる存在でしょうか?決して信頼できる者ではありません。

私達は今日、主イエス様と接触しても、明日は接触しないかもしれません。
あるいは、今月、主と接触しても、来月は接触しないかもしれません。
これが、私達の姿です。

しかし、私達の状態がどのようであっても、主イエス様は同じままです。
私達がどれほど変わったとしても、決して変わりありません。

このゆえに、私達が主と接触することにおいて、認識しなければならない
ことは、私達がどれほど変わったとしても、主は決して変わらないと言う
ことです。これが、原則です。

◎私達は聖霊の語りかけを仰ぎ望み、どのように主に近づき、主と接触
するかを学ぶ必要があります。

主とタッチすることが大事です。タッチするとき、愛されていることが、
はっきりします。しかし、主に近づくことは、私達の手の中にいないと
いうことです。それは、主イエス様の手の中にあるのです。

私達は、主の御そばに近づくかもしれませんが、主が近づかれるのです。
それまで主に触れることは、できません。どんなに私達が主から遠く
離れて立っている時でさえ、主は近づき、タッチして下さるのです。

「あなたは私を愛するか、私のそばにいらっしゃい!」と言われるの
です。

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