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賢者の道

忙しく複雑化したストレスの多い社会で生活するためには、どうしたら良いのでしょうか?体に食物が必要なように、心にも栄養が必要です。賢者の知恵=「聖書の教え」を配信します。難しく考えることなく、シンプルに生きられたら幸いです。

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賢者の道〜 Vol.1121

2018/03/28

賢者の道〜Vol.1121「過越の食卓と主の食卓」2018-3-28
聖書:マタイ福音書26章17〜30節

■除酵祭の第1日に、弟子達がイエスのところに来て、「どこに、
過越の食事をなさる用意をいたしましょうか」と言った。イエスは
言われた。「都のあの人のところに行ってこう言いなさい。『先生が、
「私の時が近づいた。お宅で弟子達と一緒に過越の食事をする」と
言っています。』」

弟子達は、イエスに命じられたとおりにして、過越の食事を準備した。
夕方になると、イエスは12人と一緒に食事の席に着かれた。一同が
食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、
あなたがたのうちの一人が私を裏切ろうとしている。」

弟子達は非常に心を痛めて、「主よ、まさか私のことでは」と代わる
代わる言い始めた。

イエスはお答えになった。「私と一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、
私を裏切る。人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。
だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者
のためによかった。」イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、
「先生、まさか私のことでは」と言うと、イエスは言われた。
「それはあなたの言ったことだ。」

また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、
これを裂き、弟子達に与えて言われた。「取って食べなさい。これは
私のからだです。」

また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。
「みな、この杯から飲みなさい。これは、私の契約の血です。罪を
赦すために多くの人のために流されるものです。ただ、言っておき
ます。私の父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、
私はもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」

一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。

◎過越の食卓と主の食卓の違いについて考えます。
過越の祭の食卓は新しい契約の食卓となりました。その意味について
学びます。

主イエスは、十字架にかかる直前、過越の祭の食事をした記録が見ら
れます。7日間持たれる除酵祭(種なしパンの祭り・レビ23章6節で
除酵祭の最初の日が「過越祭」ルカ22章1節と呼ばれています)の
最初の日に、弟子達がイエスのところに来て「過越の食事を準備す
るかどうか」を尋ねると、

イエスはペトロとヨハネを使いに出し(ルカ22章7節)都の入口で
「水がめを運んでいる男」に出会う、その人が入った家の主人に
「先生」(デイダスカロス)が弟子達と一緒に過越の食事をする
部屋はどこか」と尋ねよ、と命じます。

それは2階の部屋でした(ルカ22章、マルコ14章)。主の言われた
とおりであったので食事の準備をしました。

しかし、ヨハネ福音書はこの過越の食事の日、イエスは既に前夜逮捕
され、大祭司カイアファの尋問を受け、総督ピラトの官邸に連れて
行かれた朝であったことが記されています。

なぜならその時、ユダヤ人達は十字架執行の日の朝、「汚れないで
過越の食事をするために」、異邦人の官邸に入って汚れることを嫌い、
中に入らなかったことが明記されているからです。

これらのことから共観福音書(マタイ、ルカ、マルコ)とヨハネ福音
書とは主イエスが弟子達と共に持った「過越の食事」は本当の過越の
食事ではなかったのではないか、と言う疑問が起ったのです。

これは、神学上大問題でした。おそらく過越の祭の時、十字架に
かかっているのを知っていた主はその過越の食事を早めて持ったの
であると考えられます。

◎この主の食卓は、主イエスが弟子の1人ユダに裏切られた時に持た
れました。21節「あなたがたのうちの1人が裏切ろうとしている」と
イエスは言います。

「主よ、まさか私のことでは」と弟子達は代わる代わる言い始めまし
た。この後、ユダが去りました。その後、主は食卓を設定されました。
ユダは、過越の食事を食べましたが(21節)、主の食卓には加わらな
かったのです。

主の食卓は、パンと杯で設定され、過越の食卓に置き換えられました。
なぜなら主はその過越の予表を成就し、私達にとって実際の過越に
なろうとしておられたからです。

いまや私達は、種なしパン(キリスト)の実際の祭りを守っている
のです。キリストは、「パン種の入っていない、純粋で真実のパン」
なのです(1コリント5章7〜8節)。

イエスはパンを取り、それを祝福して割き、弟子達に与えて言われ
ました。「取って食べなさい。これは私の体である」。イエスの体は、
十字架上で私達の為にさかれ、その命を解き放って、私達にそれに
あずかるようにしてくださいました。

これにより私達は「キリストの体」となります(同12章27節)。
その体も食卓のパンによって表徴されます(同10章17節)。
ですから、私達はこのパンにあずかってキリストの体を持つのです
(同10章16節)。

過越の時、人々は小羊の肉を食べました。しかしこの祭りの後、
イエスは小羊の肉を取らず、パンを取り弟子達に与えました。
このパンが私達を養う主の体の表徴です。

ですから聖餐に参加するのは、主を養いとして自分の中に食べ込む
のです。主の体を養いとするのです。キリストの死を記念として
主の苦しみを思い巡らすだけではありません。

「私の記念としてこのように行いなさい」(ルカ22章19節)
とは、パンを食べ杯を飲むことによって主の食卓にあずかり、
主を食べ飲みすることです。

◎真の記念は、主を食べ、摂り入れることです。食卓のパンは主の
物質の体の表徴ですが、しかし、十字架と復活の後、その主の体
は私達すべてから成り立っている奥義的な体となりました。

パンを食べる時、体のすべての一部が、そのパンの中に代表され
ています。ですから主の食卓で、イエスだけでなく、主の兄弟達
をも享受するのです。

杯は「祝福(ユーロギア)の杯」(1コリント10章16節)で神の祝福
と神ご自身であり(詩編16編5節)、新しい契約の血なのです。
聖餐の恵みにあずかることは、主イエスとの交わりであるばかりか、
主の教会、主にある兄弟姉妹達との真の一致をもたらすのです。

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