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賢者の道

忙しく複雑化したストレスの多い社会で生活するためには、どうしたら良いのでしょうか?体に食物が必要なように、心にも栄養が必要です。賢者の知恵=「聖書の教え」を配信します。難しく考えることなく、シンプルに生きられたら幸いです。

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賢者の道〜 Vol.1116

2018/03/10

賢者の道〜Vol.1116「アブラハムのとりなし」2018-3-10
聖書:創世記18章22〜23節

◎創世記18章でアブラハムが聖書に出てくる最初のとりなし者で
あったことを知ります。ここには、とりなしの物語だけでなく、
とりなしの基本的な原則についての啓示があります。

とりなしは重要な事柄であり、キリストの卓越した務めはとりなし
であったことを忘れることができないからです(ローマ書8:34、
ヘブライ7:25)。

とりなしの第1の基本的原則は、それが神の啓示に従っていなけれ
ばならないことです(創世記18:17、20〜21)。

アブラハムはある昼の暑さの中で天幕の入口に座って涼んでいると
神は人の形をとってやって来ました。最初、アブラハムは、彼ら3人
が神と御使いであるとは気づきませんでした。ただ親しい友人のよう
に神と語り合います。

数時間会話をし、食事をし、道案内までして送り出しています。
ここで神が愛に神であるだけでなく、テストする神であることを
知ります。そして内側にある者を引き出します。

神が来られた目的は何であったでしょうか。
食事のためでも、サラに子どもが生まれることを告げるためでも
ありません。神が来られたのは、とりなす者を求めておられたから
です。

神はソドムの悪い町に裁きをなすことを決定されましたが(18:17)
アブラハムの甥で神の民がそこにいることを忘れませんでした。
神の来られた目的はロトの救出であり、そのためにはとりなす者が
いなければならないということです。実態を知らせ、そのために
とりなす者を見いだすことです。

このとりなし者がいなければ、神は何もすることができないという
原則です。

◎とりなしの第2の基本的原則は、とりなし者がいなければ神は誰も
救うことができないと言うことです。

神は、天の御座から来られ、アブラハムにロトのためにとりなすよ
うにされました。つまり、神の意図を促し、それに従ってロトの
ためにとりなす負担をとりあげるようになることでした。

しかし神はこのとりなす者を求めてアブラハムのところに来られ
ましたが、その目的については一言も言われませんでした。

なぜでしょうか?
私たちもしばしば同じ振る舞いをします。ある人を訪ね自分のために
何かをしてもらいたいとします。しかし、賢明ならすぐには、して
欲しいことを求めないでしょう。

様々な事柄を語り合い、相手の気持を推し量り、その訪問が終わりに
なって、戸口まで見送る段になって、自分の願いを告げることがある
のではないでしょうか。

別れ難い様子もなければ、又会いましょうとは言いません。しかし、
分かれ難くもっと一緒にいたい思いがあれば、自分の願いを告げ、
受け入れてもらえることを知ります。

◎神もアブラハムに会い、アブラハムは水を用意し、食事を備えま
した、神は来られた目的を打ち明けませんでした。

天幕を出て、別かれ際に初めて自分の意図を告げました。
「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろ
うか」(18:17)と言われました。

その打ち明けたことは直接的でなく、暗示的でした。ソドムに
ついて告げますが、ロトについては語りませんがそれとなく告げ
たので、アブラハムはロトのためにとりなしたのです。

しかもそのとりなしは、神に向かって祈ったり、神の御名を呼び
求めたりするものでなく、親しい友と共に食事をする人としての
業でした。親しい会話、食事、これがとりなしでした。

◎とりなしの第3の基本的原則は、神との親密な語り合いで全能なる
神と語り合うというのでなく、もう一人の人と語り合う、楽しく
食事する感覚です。

するとアブラハムは直ちに神が何を欲しているのかを理解しました。
アブラハムはソドムのためにとりなしました。それはロトのための
とりなしでもあったのです。

「あなたは正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか」(18:
23)。ここにロトが暗示されています。

それは19:29「神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中
から救い出された」の一句で証明できます。

神はロトに御心を留めたのでなく、アブラハムを覚えられロトを
救い出したのです。このとりなしは、新約での教会におけるとり
なしのようです。

神の民の一部分であるロトの家族はこの世に流れ込みましたよう
に、教会の人々の何人かはこの世に流れ込んでいます。

この人たちのためにとりなさねばなりません。正当なとりなしは
常に、人の形を借りた神の訪問によって開始します。

どんな人でも自分の前に現われた人は、神の訪問ではないか、と言
う感覚で接すると、とりなすべき課題が認識できます。

別れるとしても「さようなら」でなく、何で来られたのかを考え、
神の語りかけを聞き、「アーメン」となり、神の語ることを言い
出す者でありたいものです。

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