その他ニュース

賢者の道

忙しく複雑化したストレスの多い社会で生活するためには、どうしたら良いのでしょうか?体に食物が必要なように、心にも栄養が必要です。賢者の知恵=「聖書の教え」を配信します。難しく考えることなく、シンプルに生きられたら幸いです。

全て表示する >

賢者の道〜 Vol.1065

2017/09/13

賢者の道〜Vol.1065「神の啓示と負担の解き放ち」2017-9-13
聖書:民数記11章10〜17節

◎モーセは、神の言葉の奉仕者として神の啓示の光を保持しま
したが同時に負担をも負わねばなりませんでした。

出エジプト後の荒野での旅路にあって多くの民は激しい不満を訴え
たのです。肉や魚やたまねぎが欲しいと訴えた者もいました。

モーセは神と民との板ばさみにあって「主よなぜ自分はこの民すべて
を重荷として負わねばならないのですか。とてもこの負担を負いきれ
るものではありません。重すぎます」と主なる神に告げざるを得ま
せんでした。

この「重荷、負担」というへブル語は、マーシャで「耐えられる
重荷」を意味しますが、このように言葉の務めを持つものは負担を
も負わねばならないのです。

なぜ語るのかといえば、啓示の光を受けるからです。これを分かり
やすい思想に転換することが奉仕者に課せられたことですが負担でも
あります。

しかし、それは光が保持されている時に限って、主の御前で負担を
持つことができます。ではどのようにして重荷から自分自身を解き
放てるでしょうか?それには、霊的な負担なのですから神の啓示の
言葉によって流し出す以外にありません。

もし、この啓示の言葉を持っていれば語れば語るほど自らも聴く者も
負担から解き放たれますが、思想だけ持っていても神の啓示の言葉を
持っていなければ、語りかけは堂々巡りで迷路をさまよう空虚な言葉
となって負担からの解き放ちをもたらしません。

それどころか一層不安になります。鍵は「霊の一部」を関係者に
分与することです(民数記11:17)です。命を流し出す言葉を語るとき
重荷は軽減されるのです。 

◎パウロは、コリントの教会の人々に対してこう述べました。

「わたしがこれ(筆者注・神から恵みとして与えられたもの)に
ついて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、
”霊"に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものに
よって霊的なことを説明するのです」(コリント2:13)。

つまり、霊的な事柄は、霊の言葉によって解釈するのです。これは
神の啓示の言葉を持っているかにかかっています。主イエスが地上
におられた時、主は神の言葉が肉体となられました方として奉仕さ
れました。

神の思想を持つだけでは神の啓示の奉仕者となることはできません。
私たちは命の光を必要とします。私たちは内なる言葉を必要とします。
それらが私たちの霊の中を照らし、明らかになる時、それが啓示です。

これを他の人に分与するには、光を思想に転換し、それを外なる
言葉に転換しなければなりません。その時、言葉として私たちを
負担から解き放ちます。啓示には豊かな内容が満ちています。
そこには命があります。

啓示を通して命を分与するのであって、その時、負担も
解き放たれるわけです。思いは明瞭でなければなりません。

◎内なる言葉は、非常に濃縮された形をしています。これを薄め
外なる言葉に置き換えなければなりません。そのためには、語る人
がその人自身の言葉を使って語ります。

ペテロは彼の言葉を通りて語りましたし、パウロは彼なりの言葉を
語りましたが、それなりの味わいがあったことは言うまでもありま
せん。

神の言葉は人にゆだねられています。言葉遣い、表現、文法上の違い
など、教えは同じであっても、言葉は人のものになるのでして外なる
言葉に転換されたとき重荷を解き放つものとなるか、異なります。

ですから言葉の奉仕者には責任が伴います。こういう訳で神の言葉、
証しもそうですが、語る人が砕かれていなければならないのです。
内なる言葉を人の前に大きく表現することも出来ますし、封印して
人からそれを覆い隠すことも出来るからです。

そこで私たちは外なる言葉を準備する時、聖書の言葉に注意を
払わなければなりません。聖書を土台としていなければならない
のです。

それは聖書の教えと聖書の真理によって支えられていなければなら
ないのです。人の心を刺し通し、人の理解力を照らすためには、
聖書に精通していなければならないのです。

聖書の言葉を用いて、受けた啓示を発表するのです。自分の受けた
啓示を伝えるのです。こうするのは、御言葉のある部分が私たちの
経験と一致するからに他なりません。

私たちの聖書の学びは、単なる解釈のためであるべきではなく、
内側にある重荷、負担を解き放つためでなければならないのです。

聖書を読んでいますと挑発を受けることがあります。存在の根底から
揺さぶられる衝撃により、行動しだすのですが、それが上からの啓示
との出会いによるともいえます。こうして内側にある負担が解き放さ
れていきます。

確かに聖書は語るときの最上の道具でもありますが、十分ではあり
ません。聖書の文字は、教理にすぎません。言葉の務めの土台は、
啓示、内なる言葉なのです。

語るときの原則は、私たちの目が、負担を下ろすことに向けられて
いることなのです。

------------------------------------------------------------
発行:ファイアサイド  協力:おとずれ社 
まぐまぐ(ID:99821) http://www.mag2.com/
melma!(ID:151618) http://www.melma.com/
------------------------------------------------------------


規約に同意してこのメルマガに登録/解除する

メルマガ情報

創刊日:2002-11-10  
最終発行日:  
発行周期:週1〜2回発行  
Score!: 100 点   

コメント一覧コメントを書く

この記事にコメントを書く

上の画像で表示されている文字を半角英数で入力してください。

※コメントの内容はこのページに公開されます。発行者さんだけが閲覧できるものではありません。 コメントの投稿時は投稿者規約への同意が必要です。

  • コメントはありません。