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賢者の道

忙しく複雑化したストレスの多い社会で生活するためには、どうしたら良いのでしょうか?体に食物が必要なように、心にも栄養が必要です。賢者の知恵=「聖書の教え」を配信します。難しく考えることなく、シンプルに生きられたら幸いです。

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賢者の道〜 Vol.1059

2017/08/23

賢者の道〜Vol.1059「祈りは聴かれる」2017-8-23
聖書:ルカ福音書18章9〜14節

◎日本のクリスチャンは、韓国のクリスチャンに比べると余り祈り
に熱心であるとは思われません。

祈るにしても祈祷会とか名のついた集会には来て祈るにしても、
教会に一人でやってきて何時間も祈る人はそう多くはない。それだけ
忙しいのか時間つぶしくらいにしか考えていないのかもしれません。

しかし、古い時代から祈りのない民族はなかったし、祈りのない
時代はなく、必ず祈りはありました。神に対して悔い改め、自分の
罪を告白し、罪のための献げものをささげて、神のなだめと安息を
得て、願い事をするという習慣は古代から今日に至る変わらぬ様式
でした。

ルカ福音書18章9〜14では、2人の人が神殿に祈りを献げるために上って
行った、とあります。ファリサイ人と徴税人の2人です。神に会う
ためにはいかなる立場にいても神殿に出向いて祈る姿があります。

イエスにしても歌っては食事をとり、食事をしては祈っておられま
した。いつも神の国の実現の為に祈っており、わがままな祈りは
ありません。

モーセやアブラハム・リンカーンが奴隷解放の為に夜通し祈った
ように、イエスもまた、病人の為、弱者、失業者、罪人の為、弟子
たちの為、神に卯感謝する祈りを持ったのです。
こういう祈りは必ず聴かれます。

◎「主の祈り」(ルカ福音書11章、マタイ福音書6章)は美しく、
これ以上の祈りはできません。そこには第1に、神の為の祈りが
あります。

神を崇める、拝むとは、絶対の帰依であって、お任せしますという
意味です。わがままを言わずに神の飾りとなるように祈る、これが
神の栄光を現すということです。

ある人は神の冠の紐、ある人は神の靴、ある人は神の眼鏡です。
眼鏡ではやだと不平を言わないようにしなければなりません。

次に、神の国が到来するようにと祈っています。
日本やロシアやアメリカが神の国となるのでなく北朝鮮、イラン、
イラク、イスラエルもまた神の国となり全世界が神の国となるよう
にとの祈りです。

これは神の支配で心の問題です。いつも神の風が吹くように祈ること
です。それは聖霊のご臨在で、邪悪な思いで満ちると聖霊は離れます。
しかも邪悪な思いで主の集会に接したり、主の名を唱えて祈ったり
すると祭司長スケワの7人の息子たちのように災いに遭います(使徒
19:16)。

◎また「主の祈り」には、人の為の祈りがあります。
食事を与えて下さいと祈れと教えます。だから生活のことの為に
祈るのは間違っていません。

職を与えて下さい、家を下さい、配偶者を与えてください、こう
いった祈りだって聴かれないはずはありません。

お金を貸してください、病気を癒してください、食べ物を下さい、
と求められることがしばしばですが、お金がない、食べ物もない、
まして病など治せるすべもないので困る時、祈らざるを得ません。

エリアがイスラエルの暴虐に反対して、アハブ王に、数年間、露も
降りず、雨も降らないぞと言うとそうなりました。

またエリヤがケリト川のほとりに3年間、身を隠していた時、一羽の
カラスが毎日毎日彼の為にパンと肉を運んでくれました。不思議に
私たちが真実の道を歩んでいるとカラスが神の使いとなってやって
来るように、全然知らない人が助けてくれるのです。

何十羽、何百羽のカラスが来て助けてくれなければ大きな仕事は
できるわけありません。

◎更に、祈りが聴かれるためには、過去の「負い目」「罪」の赦し
合いをしなければなりません。罪を犯すのは人の常です。

卑怯なことをしたり、取り返しのつかない過ちを犯したとしても、
神の前に謝るなら必ず赦されます。そのためにイエスは十字架に
かかり磔にかけられたからです。

ところが、ルカ福音書18章でファリサイ人の祈りは、祈りというより
人への非難と神への高ぶりに終始しているように聞こえます。

自分は、「奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者、徴税人のような者
でないことを感謝します」と祈っているからです。このような自分の
罪を認識せず他人の罪を数え上げる人がいますが、正常なクリス
チャンとは言えません。

反対に徴税人は、目を天に上げることもせず、胸を打ちながら
「神様、罪人の私を憐れんでください」と祈っています。彼は罪を
犯していることを認識し、いかに神を必要としているか、救い主を
必要としているかを訴えたのです。

彼は「罪を償ういけにえ」を求めたのです。そのいけにえこそ
イエス・キリストであったとヨハネ2:2は告げています。
「この方(イエス・キリスト)こそ、私達の罪、いや、私達の
罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです」。

クリスチャンは人の罪を責める役割に召されたのでなく、人の命を
生かし、罪を赦す役割に召されたのです。 

最後に、未来の「誘惑」「試練」について祈ることです。私達の
多くは、不安で心配で仕方ありません。いつか嵐はやって来るで
しょうが、中心が逸れるように祈る必要があるのです。

◎「主の祈り」はこういったことを教えており、しかもルカ18:1の
「やもめと裁判官の譬」の初めで、イエスは「気を落とさず絶えず
祈らなければならない」と話されました。

時にはしつこいと思われる位でもいいから祈れと言うのです。ただ
聴かれる祈りには一つの原則があります。

ある祈りは、自分の必要から生じます。かつてイスラエルの民は
40年の荒野の旅路で自分たちの欲望の満足を求めて神に祈り、その
望むものは与えられましたが、神のみ前でやせ衰えました(詩編
106:15)。

その祈りは神の満足した祈りではなかったからです。しかし、神の
必要から出る祈りもあります。神の願いに高められた祈りです。

「御国が来ますように、御心が行われますように、天におけるよう
に地の上にも」との祈りは、私たちの祈りが普遍的価値・意義を見い
出して、その祈りの内容を神の思いに配慮して高めることを意味
します。

自分の感覚を越えて祈ることです。

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