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賢者の道

忙しく複雑化したストレスの多い社会で生活するためには、どうしたら良いのでしょうか?体に食物が必要なように、心にも栄養が必要です。賢者の知恵=「聖書の教え」を配信します。難しく考えることなく、シンプルに生きられたら幸いです。

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賢者の道〜 Vol.1055

2017/08/09

賢者の道〜Vol.1055「主イエスにおいて知る神」2017-8-9
聖書:ルカ福音書11章1〜4節

■イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人が
イエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも
祈りを教えてください」と言った。

そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。
『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。
私たちに必要な糧を毎日与えてください。
私たちの罪を赦してください、私たちも自分に負い目のある人を
皆赦しますから。私たちを誘惑に遭わせないでください。』」

◎人間は、不安になると神をつくりあげたり、悪いツキを恐れて
神頼みに走る傾向があります。

従って、神とか神的存在と言うのは、生活に不安を感じたりしている
ものの不満や苦痛を吸い取り、安心を与えるように機能する存在と
して要請されます。

そこで自分に都合のいい神的存在を作り上げていないか絶えず反省
する必要があります。

しばしば、私達は、神とは、全知全能にして永遠であり、普遍で
ある慈愛に富むお方だと言ってしまいますが、そのような観念を
どこから仕入れたのか、もっと明らかにしなければ、ならないの
ではないでしょうか。

しかし、ここで私たちキリスト者が知っている神と言うのは、
厳密に、イエス・キリストのおいてあらわされた神であってそれ
以外の神は知らない、と言わねばならないのです。

キリストに縁もゆかりもない神など全く知らないと言わねばなら
ないのです。ですからイエスが「父よ」と呼んだ神しか教会は知ら
ないのです。

それ以外の神を知りませんし、知る必要もありません。主イエスの
迫りにおいて神と出会うのです。

「イエス」と言う場合、史的イエス、パレスチナの荒野に生きた
人物を指し、無関係でいられますが、「主イエス」と言った場合、
「イエス・キリスト」つまり救い主として私たちの生き方を問い、
反省を求め、勇気づけ、圧倒的な力を持って迫ってくるお方として
無関係ではいられない存在を指します。

ここで「イエスは主なり」という告白を思いますが、これは主イエス
こそ中心者であり、上にも下にもいっさいの神的権威を認めないと
いう意味で無神論、唯物論的な主張に限りなく近づいています。

ですからキリスト教徒は、神を信じない無神論者として非難された
こともあるわけですし、また父なる神と聖霊なる神、キリストなる
神と三位一体の神を主張すると「多神論者」であると非難されたこと
もあったのです。

◎では私達が「神」を信じるというのは、どういうことでしょうか?

「五千人の給食」(マルコ福音書6・41)で見られるイエスのように
「天を仰ぎ」神を崇拝するのではなく、イエス自身の生き方、私達を
巻き込んでいく生き方の中に救い主を見、具体的にイエスに促し、
イエスをも巻き込んだ行動に倣うということではないでしょうか。

苦しみ、耐えがたいうめきの只中にいる私達は、しばしばその現実
から目をそむけます。にもかかわらず主イエスは目を現実に向ける
よう引き戻すのです。

「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのでは
ない」(マルコ福音書2・27)との言説は、その一例です。

神への奉仕(サービス)は、空腹な人に食べさせ、渇いているとき
に飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、
病気のときに見舞い、獄にいたとき訪ねる(マタイ福音書25・35)
他者への奉仕に他ならないと言っています。

形式的な安息日厳守は、非人間化し、神信仰を錯覚していることだ
というのです。

主イエスが他者に対して関心を集中しているのは、「神を思うこと」
に徹底しているからといえます。神に祈り、「神ひとりのほかに
よい者はない」(マルコ福音書11・18)といい、ペトロに対しては
「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」
(マルコ福音書8・33)と戒めています。

「みだりに神の名を唱えてはならない」(十戒の第三戒)とありま
すが、大切に思えばこそ、その具体性を近きにいる「他者」に見た
のです。

◎そこで「父よ」という呼びかけですが、これを家父長制度の影響
だと見て批判し、「神は父母だ」と主張する人もおりますが、その人
との関係は、親と子のそれであり、無限の近さをもっていることの
現われでしょう。関係の近さです。

見捨てられているようであるが、支えられ、見守られている「神
われらと共にいます」近さの証言です。愛されていることをひしひし
と感じる思いです。

その父よと呼びかけるイエスをあの百卒長は、「神の子」と呼んだ
のです。百卒長は、イエスに迫る神をを見たのです。

いま、私達は、主イエスの迫りをもってこれまでの一切の価値ある
意味付けが崩壊し、主イエスにおいて現わされた神によって生き方
が建て直されたことを経験しています。

従って、主イエスこそ神を知る起点であり、視点であるのです。
この「一点」に私たちは全存在をかけて生きるのです。それゆえ
にこう告白しないわけにはいかないのです。

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」
(使徒16・31)と。

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