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賢者の道

忙しく複雑化したストレスの多い社会で生活するためには、どうしたら良いのでしょうか?体に食物が必要なように、心にも栄養が必要です。賢者の知恵=「聖書の教え」を配信します。難しく考えることなく、シンプルに生きられたら幸いです。

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賢者の道〜 Vol.1049

2017/07/19

賢者の道〜Vol.1049「あなたを解放する権威」2017-7-19
聖書:ルカ福音書5章17節〜26節 

■ある日のこと、イエスが教えておられると、ファリサイ派の人々
と律法の教師たちがそこに座っていた。この人々は、ガリラヤと
ユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのである。主の力
が働いて、イエスは病気をいやしておられた。

すると、男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、
家の中に入れてイエスの前に置こうとした。しかし、群衆に阻ま
れて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦を
はがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。

イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」
と言われた。ところが、律法学者たちやファリサイ派の人々はあれ
これと考え始めた。「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに
いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」

イエスは、彼らの考えを知って、お答えになった。「何を心の中で
考えているのか。『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて
歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威
を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「私は
あなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われた。

その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、
神を賛美しながら家に帰って行った。人々は皆大変驚き、神を賛美し
始めた。そして、恐れに打たれて、「今日、驚くべきことを見た」
と言った。

◎ルカ書5章17節冒頭は、直訳すると「そしてそれは、ある日彼が教え
ているときに起きた」となる。

ある日、イエスはある家の中で、たくさんの人々が集まっていて教え
を宣べていた。ファリサイ派の人々と律法の教師たちも一緒に座って
聴いていた。

5:15で「イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、
教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって
来た」とあるように、ここでも人々は、ガリラヤから、ユダヤのすべて
の村々から、そして聖都エルサレムからも集まっていた。

大勢の群衆はイエスの活動の妨げとなることもあった(5:16)。 
またその中には論争の相手となるファリサイ派、律法の教師
(恐らくイエスの教えを調べるために来ていたのだろう)もいた。
 
◎当時ユダヤ教はいくつかの党派に分かれていて、ファリサイ派は
その中の一派であった。

サドカイ派が貴族的祭司的な徒党であったのに対し、マカベア時代
の敬虔派に起源を持つファリサイ派は道徳的に熱心で、民衆の間に
広い尊敬を勝ち得ていた。

彼らの主要関心事は律法が特殊な場合に何を意味するかを詳細に
読み取ることにあった。彼らは、書かれたり口で伝えられた律法
をその細部にいたるまで詳しく守ることにより、聖なる神の民に
なることを信じた。

「主の力が働いて、…いやしておられた」の直訳は、〈主の力が癒し
をするために(イエスに)臨んでいた〉となる。ルカによるこの挿入
は、癒しの記事に対して読者を備えさせる働きをしている。

ルカ福音書はマルコ福音書をもとに書かれたといわれている。
18節、マルコにある「4人の男」はルカでは省かれている。ほかに、
「中風の人」はルカでは「中風を患っている人」と言い換えている。

「瓦」はパレスチナでは一般的な家屋材ではなく、ルカ自身のギリシャ・
ローマ的背景を反映しているだろう。また「床」は、マルコの〔荷運び
台〕という粗野な言葉ではなく、ルカでは〔ベッド〕というしゃれた
単語を使用している。
 
◎中風を患っている人を運んできた人々は群衆に阻まれてもあきら
めず、不可能に見える状況でも乗り越える知恵を得た。

しかも常識を超えて大胆な方法をはばかることなく成した。これは
信仰の成せる業である。何とか癒して欲しいという熱心さ、あの方
になら出来るという信仰が彼らの行動を生んだ。
 
20節、「イエスはその人たちの信仰を見て、『人よ、あなたの罪は
赦された』と言われた」。ここに信仰共同体としての教会の姿を見る。

弱さを抱え自分の力では解決できずにいる者を教会は支え、神の
御前に連れて行く。個人の信仰は弱くても、教会の信仰が彼を支え、
立たしめる。そしてその人は神に栄光を帰すのである。
 
21節、ファリサイ派、律法の教師たちはイエスが「神を冒涜」した
と解した。冒涜に対する刑罰は死であった(レビ24・10〜16)。

イエスは死の危険を覚悟でこの言葉を語った。イエスは彼らの考え
に気づいてもそれを無視して癒しの業をすることが出来たかもしれ
ない。しかし敢えて彼らの考え、批判を取り上げ、彼らとの緊張を
増幅させている。

◎「『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、
どちらが易しいか」。

一方で、人の罪が赦されると言うことは、目に見えることではない
ので、言うだけなら容易である。 しかし他方、罪を赦すという
宣言は人には出来ない行為である。

どちらが易しいかを問うことは出来ず、どちらも神の業である。
イエスは恐らくこの問いの是非に重点を置くのでなく、暗に次の
癒しの展開をこのような表現で示したのではないか。

いずれにしても、ここの文脈の意図は、イエスが罪を赦す権威を
持っているという点にある。

イエスの癒しの宣言により中風の者は立ち上がった。ルカは、二重
の神賛美で締めくくっている。まず、癒されて者が神を賛美し、
次に、群集すべてが神を賛美した。

イエスは心の中の不自由をも解放するために来た。それを解放して
こそ真の癒しであろう。イエスの癒しは全人格的なのである。

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