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賢者の道

忙しく複雑化したストレスの多い社会で生活するためには、どうしたら良いのでしょうか?体に食物が必要なように、心にも栄養が必要です。賢者の知恵=「聖書の教え」を配信します。難しく考えることなく、シンプルに生きられたら幸いです。

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賢者の道〜 Vol.1033

2017/05/24

賢者の道〜Vol.1033「公同の教会を信ず」2017-5-24
聖書:詩編22:23〜32

■私は兄弟たちに御名を語り伝え集会の中であなたを賛美します。 
主を畏れる人々よ、主を賛美せよ。ヤコブの子孫は皆、主に栄光を
帰せよ。イスラエルの子孫は皆、主を恐れよ。 

主は貧しい人の苦しみを決して侮らず、さげすまれません。御顔を
隠すことなく助けを求める叫びを聞いてくださいます。 それゆえ、
私は大いなる集会であなたに賛美をささげ神を畏れる人々の前で
満願の献げ物をささげます。 

貧しい人は食べて満ち足り主を尋ね求める人は主を賛美します。
いつまでも健やかな命が与えられますように。 地の果てまですべて
の人が主を認め、御もとに立ち帰り国々の民が御前にひれ伏します
ように。王権は主にあり、主は国々を治められます。 

命に溢れてこの地に住む者はことごとく主にひれ伏し塵に下った
者もすべて御前に身を屈めます。私の魂は必ず命を得、子孫は神に
仕え主のことを来るべき代に語り伝え成し遂げてくださった恵み
の御業を民の末に告げ知らせるでしょう。 

◎使徒信条、ニケア信条に出て来る「公同」という言葉は『広辞苑』
にも出てこない言葉で教会用語ですが、その意味するところは重要
です。

それらの原文ではラテン語のカトリカムで「全般的な、普遍的な、
全体的な、包括的な、かたよらない」などの意味があります。英語
では、カトリックとなります。

ですから、「一部の者を排除せず包括的な」の意味と理解したいと
思います。そこで私たちプロテスタント教会は、公同の、即ち真の
カトリック教会をめざして教会形成をしてきました。

カトリック教会を否定したわけではありません。宗教改革者は分派
を作る意図があったわけではありません。福音をねじまげようとした
勢力に対して対抗して教会改革をなしたのでした。

しかし結果的にはカトリック教会から追い出され、プロテスタント
(反抗する者たち)といおう有り難くない名前を押しつけられ、通称
になったのでした。
 
本来、この「カトリック」という意味は、いつでも、どこでも誰に対し
てでも開かれ、キリストに従いキリストをあかしし、キリストの思想を
教えるキリストの体でありつづけました。私たちはこの事を「信ずる」
わけです。

教会が「一つ(統一性)であり、聖(神との関連性)であり、公同(時間・
空間における同一不変性)であり、使徒的(過去と未来との継続性)」
であることを信ずるのです。これが教会がめざす目標である、課題
でもあります。

◎第1に、「いつでも」教会はキリストの体として同一です。
「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることの
ない方です」(ヘブ13:8)。主イエスは、各地を旅し、病める者を
癒し、神の国が近づいた事を宣部伝えました。そして最後に処刑
され、死して葬られましたしかし生死を越えて、主であるのです。

これが主の復活という事です。

教会も歴史の現実に身を置きながら、絶えず変革しながら歩んで
います。教会は生命体として歩んでいるのです。

イスラエルの民は教会の予型として、いつでも神に従う者として同一
である様に努めて来ました。詩編22編では苦難の時(2〜22節)も、
感謝・賛美の時(23〜32節)もいつでも主は変わりたもうことはない、
という信仰告白が見られます。

2節は十字架の主イエスの「わが神、わが神、なぜ私をお見捨て
になるのですか」(マル15:34)の典拠です。この訴えに神は沈黙する
のですが、神への信頼は失われていません。

「私たちの先祖はあたたに依り頼み、依り頼んで救われてきた。
・・・裏切られたことはない」(5、6節)。しかも、人々が嘲笑し、
手足を砕き、着物を剥ぎ取る、人間の屑として虫けらのように辱め
を受けても神への信頼は変わりません。

教会もまた、苦しみ、うめき、嘆き、激しく訴えることがあります。
教会を教会たらしめるのは、主イエスを通して神を信頼し、聴き
従う事です。

◎第2に、「どこでも」教会は主イエス・キリストの体として同一です。
主イエスは各地を歩き廻り愛の伝道をしました。そして主イエス自身
弟子たちに「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ
伝えなさい」(マコ16:15)と命じました。

かくして教会は「地の果てまで」出向き、あらゆる人種、文化、国家
形態、宗派、地理を超えて不変の愛の奉仕、美しい助け合いの生活を
してきました。

ケーリーは雑役夫をしながらインド伝道をし、ハドソン・テーラー
は薬屋をしながら中国伝道をしました。金がなくても伝道しました。
人に嫌がる事を報いを望まず歓んでしたのです。教理、教条だけでは
だめで、愛がなかったら教会は生きる事が出来ないのです。

ですからこの「どこでも」は人間関係の「どこでも」でもあります。
仲たがいしている人にあってでもです。気が重いでしょうが、煩わ
しいと自暴自棄になったり無視せず、「反感」の渦巻く中へも出て
いかねばならないのです。

◎第3に、「誰に対してでも」教会は主イエス・キリストの体です。
教会員にとっては言うまでもなく主の体です。主の体の臨在があり、
そこへ向かって招かれ、仕えるのです。そこには主の体に仕える
愛の歓びと感謝があってこそ公同の教会です。

いくら人が集まっても数を競い高慢となるようでしたら公同教会で
あるとは限りません。しかし砕かれ、無力と悲惨とを身に負いつつ、
救いを求め、教会の外から眺めている人にとっても主の体なのです。

愛と言うのはこの悲惨、無力を引き受け担う形に於いてしかありえ
ないからです。このキリストの贖罪愛は、公同の教会の外部にいる人
「塵に下った者」(30節)にも注がれているのです。

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