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賢者の道

忙しく複雑化したストレスの多い社会で生活するためには、どうしたら良いのでしょうか?体に食物が必要なように、心にも栄養が必要です。賢者の知恵=「聖書の教え」を配信します。難しく考えることなく、シンプルに生きられたら幸いです。

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賢者の道〜 Vol.1032

2017/05/20

賢者の道〜Vol.1032「聖なる教会を信ず」2017-5-20
聖書:エフェソ2章14〜22節

■実に、キリストは私たちの平和であります。二つのものを一つにし、
御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめ
の律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において
一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を
一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。

キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、
近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。
それで、このキリストによって私たち両方の者が一つの霊に結ばれて、
御父に近づくことができるのです。

従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に
属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられて
います。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストに
おいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿
となります。

キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって
神の住まいとなるのです

◎聖というのは、人や物の性質、性格のことではなく神との関係が
保たれているという事を意味する言葉です。

サムエル記下6章にウザという人が出てきます。彼は神の箱を牛車に
乗せてある町からエルサレムに運ぶ任務を帯び、ナコンの麦打ち場
まで着た時牛がよろめいて神の箱が転がり落ちそうになりました。

ウザははっとして箱を押さえました。次の瞬間彼は死んでいたのです。
聖なるものに触れた罪を犯したからです。「この過失のゆえに神は
その場で彼を打たれた」(6:7)とあります。

彼には一切の悪意はなく、一般の倫理観では理解できません。これは
聖が、神の絶対性を示す概念だということです。しかし、この概念を
取扱う人は絶対的なものはなく罪あるもので、闇を創り出す存在です。

自分たちこそ聖なるものだと思い込むと聖でない俗なるものと決め
付けた者たちに対して区別が生まれます。そして、時には人の生死
をも支配する特権が、自分たちにはあるのだと信じ込むことがあり
ます。

この聖なる概念が、絶対性となってそれを操る人々に神的特権がある
かのように思えてくる事がいかに恐ろしい事か。宗教のもつ擬装も
さる事ながら、科学という名を借りて「絶対の安全性」を、まこと
しやかに断言する科学者も闇を創り出す人々となるのです。

◎自分の生きている意味を他者と比較し、時には差別する気持ちが
民族と民族、国家と国家との間に入り込んでくると、そこに聖戦思想
が生まれます。

それは「聖絶・大量虐殺」(ホロコースト)です(民数記21:3、申命記
7:1〜3)。このホロコーストとは、元来「焼き尽くす献げ物」で
へブル語の「全部」と「燃やす」との合成語です。

神の名のゆえに聖なる行為としてうやうやしい顔をして大量虐殺が
行われる点が問題です。まじめで虫も殺さぬ人が、信仰のために平気
で残虐な行為をするのです。「信ずる」という行為から恐ろしい結末が
起こりうることをいつも知っていなければなりません。

チエックポイントは、罪の現実を担う、償う主体として十字架の
贖罪愛に生き、愛の業を実践しているかにあります。十字架を抜き
にしたキリスト教がいかに誤った結果をもたらしたかは、歴史が
物語っています。

旧約聖書は、ヤ―ウェ信仰の徹底という視点で書かれていますが
新約聖書の光つまり、キリストにおいて示された神の人類への愛の
視点で批判的に読みませんと誤った理解をしてしまいます。

◎そこで礼拝の原点となったユダヤ教の祭儀について考えてみま
しょう。

祭儀とは、聖なるものとの交流です。人が貴重なものを捧げることに
より、聖なるものに仕え、その祝福を期待する行為です。聖なる者に
変身します。

日常の自分を脱して非日常の力を帯びる為に踊り出るのが祭りで
あり、祭儀です。そのためには「無駄」と見える消費がなされます。
身を粉にして働き貯めたお金を湯水のように注ぎ盛大な消費がなさ
れるのです。

その動機は変身願望によります。聖なるものへの願望なのです。
やりきれない人生を変えたい。その気持ちは分りますが、思考停止
して観念的、宗教的になるのはいかがなものかと思います。

やはり変えられるものは変え、変えられないものは抱え込みながら、
絶望せず、神が与えた環境、生の限界を喜び生きる工夫を持つ事です。

◎祭儀で犠牲を捧げることよりも大切なものとして、主イエスは隣人
への憐れみ、愛を挙げました(マタイ5・23、24、マルコ12・33、34)。

この祭儀批判が、高い宗教税に苦しんでいた人々の心をとらえキリ
スト教進展の原因となったのです。しかし、主イエスは全く祭儀を
否定したわけではありません。

重い皮膚病の人が癒された後、「行って祭司に体を見せ、モーセが
定めた供え物を献げ」(マタ8:4)るように命じ、社会復帰に必要なら
供え物をしなさいと勧めています。

あくまでも人々の現実に則して、人の幸せを求め、「人の言い伝え」
やこだわりや自己欺瞞から自由を促しています。祭儀の限界を認識
しつつ聖なるものを位置づける事が大切です。

「聖なる教会を信ず」とは、聖霊の働きによって成り立っている
限りで聖なるものと信ずることです。聖霊に満たされた愛の教会
では、歓びがあふれ麗しい交際があるでしょうが、間違った聖書解釈、
歓びのない賛美、不愉快な交流が支配する教会もあります。

しかし主イエスの名によって集まれば「聖なる教会」といえます。
いづれにしても他を見下す傲慢や自己卑下という別の傲慢を避ける
ことです。
                         
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