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賢者の道

忙しく複雑化したストレスの多い社会で生活するためには、どうしたら良いのでしょうか?体に食物が必要なように、心にも栄養が必要です。賢者の知恵=「聖書の教え」を配信します。難しく考えることなく、シンプルに生きられたら幸いです。

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賢者の道〜 Vol.1029

2017/05/10

賢者の道〜Vol.1029「陰府(よみ)に下り」2017-5-10
聖書:1ペトロ3章18〜22節

◎キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、
正しくない者達のために苦しまれたのです。あなたがたを神のもと
へ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では
生きる者とされたのです。

そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊達のところへ
行って宣教されました。この霊達は、ノアの時代に箱舟が作られて
いた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。
この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち8人だけが水の中を通って救わ
れました。

この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活に
よってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くこと
ではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。

キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力
は、キリストの支配に服しているのです。

◎使徒信条に「陰府に下り」という句があります。
使徒信条は4世紀に西方諸教会で用いられるたのですが、その基礎
には、ローマ信条(2世紀後半)がありました。それに付け加えて完成
させたもので、この「陰府に下り」は付け加えられた部分の一つです。

陰府とは死者が集まる場所で、「よみがえり(復活)」のよみです。
「黄泉」とも書く場合がありますが、」「陰府」という言葉では
新共同訳聖書の旧約で70ヶ所、新約で10ヶ所でてきます。

では一体なぜ「葬られ」と「3日目に死人のうちよりよみがえり」
の間に「陰府に下り」をいれる必要があったのでしょうか。この
象徴的言語によってどのような信仰が告白されているのかという
ことです。

◎原始教会の頃、キリスト仮現論(ドケティズム)という思想がありま
した。

それは、キリストは善であり、神的存在だから、受肉ということは
ありえない、キリストはただ人間の目に肉体として仮に見えただけだ
というものです。

パウロは、それに対抗してイエス「肉によればダビデの子孫から生ま
れ」(ロマ1:3)とか「神はみ子を女から生まれさせ」(ガラ4:4)と
言っています。

このあと4世紀に至るまで論争があり、イエス・キリストは「まこと
の神にしてまことの人」という理解が確立していくのですが、ローマ
信条から使徒信条での過程はこの頃でもあります。「陰府に下り」も
このキリスト仮現論を意識した言葉であるわけです。

イエス様が私どものところにきたのは、幻や観念でなく、私達と同じ
肉体をとってのことで、同じ肉体の苦しみ、死の不安を経験し、死ん
で死人の仲間入りをした、だからこそ救いとなり、慰めとなるのだ、
と理解したのです。

また、この「陰府に下り」の表現は、私達が死んでも、主は共に
いてくださるという信仰がのべられています。元来、旧約聖書での基本
的な考え方では、陰府とは一切の関係、神との関係までもが断たれる
場所であります。ですから大きな苦しみでした。しかし、後期になると
イザヤ書あたりでは、陰府まで神の支配が及ぶと考えるようになりました。

よもあれ、イエス様が「陰府に下った」ということは、陰府の苦しみ、
恐怖を共にして下さるという事なのです。ですから恐怖もなくなるわけ
です。

1ペトロ3:19で「霊においてキリストは、捕らわれていた霊達のところ
へ行って宣教されました」とありますが、この「霊達」とは、不従順の
人々でした。

ノアの言う事を聞かなかった人達です。神の言葉に従わず、洗礼を受け
なかった人々も陰府に行った主イエスによって福音が語られるというので
す。敗者復活戦のようなものです。

◎キリスト教の福音に触れることなく召された人々はどうなのか、です。

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」
(使徒16:31)とあります。その人の家族が救われれば良い訳です。
しかしそれだけでなく、このペトロの手紙では、洗礼を受けていない人
でも、キリストの恵みにあずかることができるというのです。

1人の人が地獄にいる時、99人の残りの人にも幸がない、というのが
主イエスの思想なのです。

神様はすべての人を救われる、主イエスの十字架は、ただクリスチャン
になった人だけのものでなく、全ての人は再生するためのものであるの
です。

主が再び来られる時、神の国が完成されるというのは、全ての関係の
修復、修繕なのです。ねじれ、ゆがみ、離れてしまった関係の修復です。
どういう形かは知りませんが、全ての者が回復するのです。

この陰府は死者の行く所ですが、原始教会では、信仰者、殊に殉教者
は、キリストの祭壇の下(黙6:9)にいると考えられてきました。

これは「生きていて私を信じる者はだれでも、決して死ぬことは
ない」(ヨハネ11:26)の主イエスの言葉に影響しています。ですから
不従順の者達だけが陰付(原語は地獄と訳された)に行くと考えられ
ていました。

では、サタンに身を売ったイスカリオテのユダは一体どうなったので
しょうか。

この問いは他の弟子達も関心がありました。彼らも裏切りの種を宿し
ていたからです。ですから、使徒信条に「陰府に下り」の句を挿入した
のは、ユダの救いの告白というより、他の弟子達の切羽詰った祈り、
願いではないでしょうか。

牧会者パウロは、コリントの教会である人達を処分しなければならない
事があった時、「このような者達を、その肉が滅ぼされるようにサタン
に引き渡したのです。それは主の日に彼の霊が救われるためです」
(5:5)と言っています。

除名か離脱にまかせるのかでしょうが、涙を飲んだ処分だったと思われ
ます。この一節は、激しい祈りでもあります。なぜなら、パウロは、
かつてキリスト教徒達を迫害し、殉教者達の血を浴びていたからです。
いかなる者も主のさばきの日に救われるという確信があればこそ、
「主の来たりたもう日」を待ち望んだのです。

テモテ1:19、20にも復活否定者ヒメナイ、銀細工人アレクサンドロ
の追放が見られますが、最終的救いが前提となっています。これが
原始教会の信仰のようでした。

◎確かに、主イエスの言葉には乱暴なものもありました(マタイ18:6〜
10)が、最終的救いの確信があればこそ、激しい言葉がはけたのであり
ましょう。

滅びる者と滅びざる者とを区別し、そこで脅迫し、金儲けする宗教が
多い昨今、イエス様の思想の原点に戻って、考える必要があるのでは
ないでしょうか。すべての者へ修復愛をです。

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