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賢者の道

忙しく複雑化したストレスの多い社会で生活するためには、どうしたら良いのでしょうか?体に食物が必要なように、心にも栄養が必要です。賢者の知恵=「聖書の教え」を配信します。難しく考えることなく、シンプルに生きられたら幸いです。

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賢者の道〜 Vol.1026

2017/04/29

賢者の道〜Vol.1026「キリスト教的救いの方法」2017-4-29
聖書:ローマ書7章15〜20節

■私は、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは
実行せず、かえって憎んでいることをするからです。
もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして
認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、
もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。

私は、自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことを
知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行
できないからです。私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行って
いる。もし、私が望まないことをしているとすれば、それをしている
のは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。

◎人が救われるにはどうすべきでしょうか?そもそも救いとは何で
しょうか?

ここで言う「救い」とは、神の救いを指しています。それは、私達の
内側で、罪深い行いをすることを動機づけるためにそそのかし強制
する力からの解放を言います。

これが聖書の言う「罪」で天然の命と関係し体全体を支配し、罪悪を
犯すように仕向け、引っ張る力で罪の法則とパウロが呼ぶものです
(ロマ書7:13)。

これは、私達の外側の罪深い行いとは違います。犯した人々の罪は
赦される必要がありますが、この内側の罪への傾向を持つ法則からは
解放される以外に救われる道がありません。この意味でどんな人でも
罪を内在化していると言えます。

1.罪人
多くの方は「罪人」とは、罪を犯す人と答えると思います。ところが
聖書を読むとこの世の人はすべて「罪人」であると言います。
ロマ書3章23節で、パウロは「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられ
なくなっている」と言います。「正しい人は、一人もいない」と言い
ます(同3章10節)。

ですから、パウロはこの世に人は全て「罪人」であると言うのです。
しかしこの3章では「罪人」という言葉を見い出すことはできません。
ただ全ての人が罪を犯したことだけです。罪人について語っている
のは、第5章です。そこで初めて罪人とは誰であるかを告げています。

ロマ書5章19節でアダムの中に生まれた者はすべて「罪人」であると
言います。私達は生まれつき「罪人」であるので、罪を犯そうが
犯すまいが常に「罪人」です。犯した様々の罪を赦されても私達は
「罪人」のままです。

この罪人、お金を借りている人(債務者)に似ています。お金を借り
ることは、望ましいことではありません。しかし、人が借金を負うこと
と借金をする習慣を持つことは別のことです。

借金壁のある人は、他人のお金を使うのをそれほど気にしません。
聖書は、クリスチャンはお金を借りる人(債務者)になるべきでは
ないと言います。「誰に対しても借りがあってはなりません」(ロマ書
13章8節)とあります。クリスチャンは、人からむやみに借金をして
はならないのです。

2.借金の返済
人は返済することもできないほどのお金を借りることは、悪いことだ
と知っている人は、多くおります。ところが、何かが欲しくなると
衝動的に借金をしても手に入れなければ気が収まらないので、借金を
してしまいます。

何かがその人を促し、扇動しており、まだ返せるからもう一度借金を
すべきだと告げるのです。これが「肉の中の罪」なのです。この罪の
力は、人をそそのかし、強制し、引っ張りさえします。

では誰が、この返済できなくなった借金を肩代わりしてくれるので
しょうか?全ての罪、全ての借金を肩代わりできるのは、神以外に
ありません。

ところが、多くの人は自分自身によって解決できると考えます。
返済できなければ、全ての物を売り払い、大切な財産を手放し、
更に一生涯かけて働いて、返済し続けなければならないのです。

聖書によれば、二つの解決方法があります。一つは、罪を犯した人を
取り扱うこと、もう一つは、罪を被った相手を取り扱うことです。

当事者以外に問題を解決できる人はいません。即ち、罪を犯した人が、
借金をした人が重荷を負うことが一つの解決方法です。イエスが全て
の人の身代わりに死なれたのなら、イエスを信じる人も信じない人も
救われるはずです。しかし、イエスは信じる人のために死なれたのです。

しかも罪を犯した者の責任は重く、その人以外の誰も肩代わりする
ことはできません。罪を引き受けることができるのは、その罪を
被った者、損失を被った者だけができるのです。第三者が入ることは
できません。これが「赦しの原則」です。

では、キリストの贖いの御業とは何でしょうか?それは、神ご自身が
やって来て、御自分に対する罪、貸したお金を担われたと言うことです。
神がやって来て、私達、人間が犯した罪や借りたお金を帳消しにして
くれると言うことです。言い換えれば、もしナザレ人のイエスが神で
なければ、イエスは私達の罪や借金を担う資格はなかったということ
です。

イエスは神であったゆえに、私達が罪を犯した対象である神であった
のです。イエスは神であったゆえに、私達が罪を犯した対象である神
であったのです。

神は自ら地上に降って来られ、私達の罪を担われたのです。キリスト
は神であって人ではありません。これが十字架の不思議な御業なの
です。

ではなぜ神は人にならなければならなかったのでしょうか?
神は世の人々を愛されました。しかし、人は誰一人神に対して罪を
犯さなかった人はいませんでした。罪が人の内側で動機づけ、行動を
するとき、それは、死をもたらしました。

ですから、もう一方の当事者である神が、来られて私達の責任を担われ
死なれたのです。しかし、本来神は死ぬことがありません。御自分に
対する人の罪の裁きを担うには、神が人の体を取る以外にありません
でした。御自分の体をささげて、人の罪に対処されたのです。

主イエスは、人となりこの世に来て十字架に釘づけされたのです。
主イエスは第三者ではなく、当事者であったのです。神であったので
十字架につけられる資格があったのです。彼は人なったので私達に
代わって十字架で死ぬことができたのです。

こうして、私達は「罪の法則」から解放されて、「命と霊の法則」に
生きることができるようになったのです。神は、贖いの業を成就させた
証拠として、主イエスを死者の中から復活させられたのです。

これは、私達が義とされたことの証拠であり、借金が帳消しになった
ことの証拠なのです。主の復活は、主の十字架の業が正しかったこと
の証拠なのです。私達の信仰の対象は、復活のイエスです。

◎ロマ書10章9節は、こう言います「口でイエスは主であると公に
言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じる
なら、あなたは救われるからです」。

聖霊は、主イエスの命を与える霊で、神の主観的な救い主です。
この聖霊に満たされているならば復活であるイエスを内部に住まわ
せ生きることができ、全ての罪とサタンの罠から解放されるのです。

復活を生きるなら、私達は超越した人生を暮せます。この世の荒波を
乗り越えて人生行路を前進して行きましょう!

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協  力:おとずれ社 
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