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賢者の道

忙しく複雑化したストレスの多い社会で生活するためには、どうしたら良いのでしょうか?体に食物が必要なように、心にも栄養が必要です。賢者の知恵=「聖書の教え」を配信します。難しく考えることなく、シンプルに生きられたら幸いです。

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賢者の道 Vol.1001

2017/02/01

賢者の道〜Vol.1001「神の王国に入る条件・再生」2017-2-1

◎世界中で最も神秘的な書物な何かと問われるなら「ヨハネの福音
書」であると答えよう。

その書の書かれた目的は、明らかで同書20章31節に「これらの事が
書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであることを
信じるためであり、また信じてイエスの名により命を受けるためで
ある」とある。

永遠の命以外に教会や社会の破れを繕う方法はないと理解した漁師
出身のヨハネが、その命をもって霊的網の破れをふさぐ務めを記した
書こそ、このヨハネの福音書なのである。

1.非受造の命
まず、彼は神の言葉である救い主イエスの中に永遠の命があることを
啓示した(同書1章4節)。イエスはこの命を人に与えたいと願い(5章
21節)、イエスは命として人の中に生きさえすることを啓示したので
ある(14章19節)。

この命であった神がこの地上に来る前に、万物を創造されたので
あったが、それは、彼を命として受け入れる容器、受ける者が必要
であったためである。

そのため天地に人を造り、人の霊をその中に形づくられたのであった
(ゼカリア12章1節)。しかし、創造において神は人を命を入れる器に
創造されたが、永遠の命は注がれておらず、持ったのは一時的な命
にすぎなかった。人は永遠の、非受造の命を必要としたのであった。

神の子なるには、主イエスによる命を受け入れる以外にはなかった。
この世にあるものは、全て空であり(コヘレト1章2節)、全て塵芥に
すぎない(フィリピ3章8節)のであって、キリストの中にこそ真の命
光、慰め、恵み、愛がある。

そこで洗礼者ヨハネは、宗教運動の中には、社会や政治を復興させる力
などないと考えた。必要なのは再生以外にない、と見た。著者ヨハネ
もそれを理解してか、9つの事柄を例証して一時的命を永遠の命に変え
る原則、言葉を換えれば死を命に変える原則を啓示した。

原則は、2章のカナの婚宴、宮清めによって啓示され、それに続いて
9つの事柄を例証した。

3章のニコデモ、4章のサマリヤの女、病気で死にかけている若者、
5章の38年間病んでいた人、6章の食べ物を求める飢えた群衆、7章の
渇いた人々、8章の罪深い女、9章の生まれつきの盲人、11章の死んで
4日間葬られたラザロについてである。

洗礼者ヨハネは、当時の宗教者たちが偉大な指導者を待望し、彼を
メシヤ(キリスト)なのか、エリヤなのか、預言者なのかと尋ねさせ
た時、自分は「荒野の叫び声」であると答えた。

それは無である、何ものでもない、メシアでも、エリアでも、預言者
でもないと表明した。そして自分の後からこられる方、自分がその人
の履物のひもを解く資格もない方が来られると言い、その翌日、その方
イエスを人々に「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」として紹介した
(1章29節)。

彼は「ユダヤ族の獅子」とは言わなかった。偉大な宗教者を期待して
宗教家たちは失望した。イエスは真に罪を贖う弱々しい小羊として
来られた。イエスが来られたのは運動のためでなく、人類の罪とそれ
に付随する過ちを解決するために来られたのであった。

十字架の贖罪こそ神の愛の表現であったが、それを私達もまた、
イエスによって教えられた「山上の垂訓」(マタイ福音書5章〜7章)
に実行によって現実化するのである。それは、永遠の命を得る道で
あり、霊の網の破れを繕う方法なのである。そのためにヨハネ福音書
の著者は、9つの死を命に変える原則を例証したのであった。

2.ニコデモの事例
最初の事例、ニコデモの事例は死に満ちていた人でなかったと思う
だろうか?実に彼は死に満ちていたので、イエスは彼に再び生まれて
神ご自身である永遠の命を持つ必要があると告げられたのであった。

神の目に彼は死んでいたのであった。よって、死を命に変えられる
必要があった。彼自身は罪深いとも知らず、死んでいるともなおさら
知らなかったが、神の目には死んでいたのである。彼は再び生まれて、
神ご自身である永遠の命を持つ必要があった。

カナの婚宴で人の楽しみのぶどう酒が尽きたとき、人はむさしさと
死を感じるが、その時主はその死を命に変え、永遠の命の神聖な
ぶどう酒で満たされた。

ニコデモは、確かに最上級の人であった。教育においては最高峰を
極めた教師であり、尊敬と権威を持った人であり、年を老い多くの
経験があった。

道徳的な人であり、善人であった。しかも真に神を求める、へりくだり
の人であった。60〜70歳位いであったのに30歳余りのイエスに会いに
来る人であった。

にもかかわらず、イエスは彼に再生が必要であると啓示したのである。
これは道徳的な人、決して堕落しない人であっても再生が必要である
ことを示している。たとえ、アダムが堕落しなくとも再生を必要と
したので神は彼を命の木の前に置かれた。

もし、アダムが命の木の実を選択し、与っていたなら再生されたはず
だった。アダム同様、私達も人の命、肉の命、天然の親からの命を
持っているが、神聖な永遠の命を持たない限り、再生が必要なので
ある。

神の目的は、人が神の命を入れる器であることで、神の命を内側に
宿すことである。また、神の命を内側に宿すことが再生の意義なの
である。

多くのクリスチャンは、ただ堕落して罪があるゆえに再生が必要なの
だと考えているが、この肉の命をいかに改良しても、改善しても解決
には、ならないのである。たとえ、エデンの園でアダムが決して堕落
しなかったとしても、彼には再生が必要であり、別の命、神の命を
持つ必要があったのである。

いづれにしても、神はエデンの園に命の木を置き、さらにそれを選択
しない場合に備えて、贖いの道を備えたのであった。それが主の贖罪
としての十字架であった。失敗し道を踏み外した者を再び神の子と
して迎えるための救済策であった。

ここに神の愛があったのである。従って主イエスの十字架の業は、
神の愛の必然の結果であった。永遠の初めより、神は人を御自身の子
として迎えるために愛をもって導かれたのである。

◎ニコデモは当時の宗教者たちの一人としてイエスを神から来られた
教師と考え、良い教えで自分を改善し、良き社会を繕うとしたので
あったが、イエスは、社会を繕うには神聖な命で満たされるために
再生する必要を啓示したのであった。

彼は知識の木の属する教えを追い求めていたが、イエスは命に則する
命の必要に転向させた。私達の必要とするのも自分を調整し矯正し
たりする宗教や教えではなく、別の命、神の命である必要なのである。

水と霊から生まれなければ神の王国に入ることはできない、と言う
のが聖書の一貫した思想である。聖霊に充満され以外にない、祈り
求めよう!

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