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賢者の道

忙しく複雑化したストレスの多い社会で生活するためには、どうしたら良いのでしょうか?体に食物が必要なように、心にも栄養が必要です。賢者の知恵=「聖書の教え」を配信します。難しく考えることなく、シンプルに生きられたら幸いです。

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賢者の道 Vol.783

2014/12/31

賢者の道Vol.783「神はただそこにおられる」2014-12-31

■聖書「ヘブライ 9章27〜28節」
また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが
定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うためにただ
一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分
を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるの
です。

■死後の問題について語りますが、聖書には「人間にはただ一度死ぬ
ことと、その後に裁きを受けることが定まっている」(ヘブ9:27)
とあります。

誰でも亡くなることは知ってますが、すべての人が死んだ後に裁き
を受けねばならないことを知っている人はそうおりません。
この二つ、死と裁きとは、神が定められたことです。

今日の主題は、裁きです。今日は裁きがあることを証明する訳では
ありません。

神があるのも、罪があるのも、死があるのも、証明しようとは思わ
ないように、裁きも一つの事実として受け止めます。

しかし、多くの人は裁きをそれほど重要でないと考えています。
ただ聖書は裁きの結果も告げているのです。それは永遠の滅び
です。

「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を
受ける」(マルコ16:16)とイエスは言い、「神を認めない者や、
私たちの主イエスの福音に聞き従わない者に、罰をお与えになり
ます。

彼らは、主の面前から退けられ、その栄光に輝く力から切り離さ
れて、永遠の破滅という刑罰を受けられるでしょう」(テサロニケ
1:8〜9)とパウロは告げました。

ヨハネ黙示録20:14には「死も陰府も火の池に投げ込まれた。この
火の池が第二の死である。その名が命の書に記されていない者は、
火の池に投げ込まれた」とあります。

その裁きの時、多くの人は言い訳をするでしょう。
「説教の意味が難しくて理解できませんでした」と。

しかし、イエスは律法学者やファリサイ派の人々たちにヨナの
エピソードを語り、ニネベの人々がヨナの説教を聞いて悔い改め、
邪悪な道から向きを変えたのを、神は知って、呪うのをやめた
(マタイ12:39以下)、

この事例を引用して、今の人々を裁くのはニネベの人々だと告げた
のです。神はただそこにおられるだけなのです。

◎見よ!ヨナにまさるものがいます。今日、私たちは神の御子の口から
 出た言葉を持っています。

先ほどのマルコ16:16のみことばの前半「信じて洗礼を受ける者は
救われる」を信じる人は多くいます。クリスチャンもそれを信じて
伝道します。

しかし後半「信じない者は滅びの宣告を受ける」という箇所を真剣
には告げない場合が多いのです。不愉快で告げにくい箇所だからです。

にもかかわらずこの聖書の箇所を否定することは出来ませんし、
言い逃れをすることが出来ません。

ニネベの人たちは立ち上がって、「私たちはヨナの説教で悔い
改めた。あなたたちは神の言葉を聞いたのに悔い改めなかった。
どうしてこの罪を逃れるでしょうか」と言うでしょう。

ある人は、「田舎に住んでいて教会もなければ、福音を聞く機会も
ありませんでした。このような者を神は罪に定めるでしょうか」と
言います。

これに対して言い訳させないための事例をイエスは述べます。
「南の国の女王が裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、
彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、
地の果てから来たのである」(マタイ12:42)と言います。

シバの女王の事ですが、エチオピアの女王です。彼女はソロモンの
名声を聞いてはるばるエルサレムまでやってきたのでした。

◎「ここに、ソロモンよりもまさるものがある」、主イエスは、
ソロモンよりも知恵があり、思慮深くあります。

どうして何百キロも離れていても、教会のある町に言ってみことば
を聞くことが出来ないでしょうか。

ですから裁きの時、南の女王がそのように言い逃れをする人の罪を
責めることが出来るというのです。ですから救われていないのは、
教会や伝道者のせいではなく、裁きの時に言い逃れすることは出来
ないのです。

■「罪について余り説教で語らないで下さい」と注文をつけた人が
おりましたが、罪は実際にあります。

罪を放置していたら、社会は滅茶苦茶になりますから法律が存在し、
それを犯せば裁かれるのです。罪が処理されなければ、裁きも処理
されません。

ですからキリストが人の罪を担うために、一度死んで、十字架上で
人のために裁きを受けられたのです。

主イエスは、私たちのために死なれました。私たちの罪を担われました。
ですから私たちは救われ、罪から自由になりました。

イエスが来られたのは私たちを裁くためであったのです。これを
信じる者は、裁きから免れるのです。

十字架とは、このことです。代わって刑罰を受けられたということ
です。

■ヨハネ3章18節にこうあります。
「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。
神の独り子の名を信じていないからである」と。

ヨハネ5:24には「私の言葉を聞いて、私をお遣わしになった方を
信じる者は、永遠の命を得、また裁かれることなく、死から命へと
移っている」。

最後の裁きの日まで安らぎのない日々を生きるのでなく確信ある
平安を持ちましょう。

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発行:ファイアサイド  協力:おとずれ社 
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