
賢者の道
忙しく複雑化したストレスの多い社会で生活するためには、どうしたら良いのでしょうか?体に食物が必要なように、心にも栄養が必要です。賢者の知恵=「聖書の教え」を配信します。難しく考えることなく、シンプルに生きられたら幸いです。
賢者の道 Vol.216
2007/02/10
<賢者の道〜Vol.216 -Amazing Grace- 2007-2-10>
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■【今週のテーマ】「主の御名を呼び求めよ」
■【聖書】 創世記 4章25〜26節
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人が堕落から逃れる道は、主イエスを信じ、神の救いの道を取る
ことですが、同時に僭越にならない、つまり出すぎた業をしない
ことに注意をしなければなりまぜん。
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神の啓示によらず、自分の思いに従って善を行い、神を礼拝し、
神に仕えることは避けねばなりません。これはカインの事例で
例証されています。
いくら自分では善いことであっても、自分で何かをすることは僭越
です。これをまぬかれるためには、アベルのように神の道に従って
神の御言と福音の原理に従って、それに反しないように生きなけれ
ばならないのです。
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創世記4章で特に意義深い名を見出します。
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一つは、アベルで「むなしさ」を意味します。堕落の結果、ひとの
生活はむなしく、空虚の感覚を持つようになったのです。
人がどんなに成功しても、社会的身分が何であれ、内側は虚しさ
以外の何ものもない、空の空、一切は空なのです。
いかに善をしても虚しいのです。もう一つの名は、人類の第3世代
のエノシュです(26節)。彼はアベルに替わる地位を得た人ですが
「もろい、死ぬべき人」を意味します。
堕落後、人は虚しくなっただけでなく、もろく、壊れ安い、衰え
やすいものとなりました。いつ死ぬかわからない運命を生きるもの
となったのです。
ですから私たちは自分に信頼し、僭越にも神の道から離れてはなら
ないのです。いまや、この虚しさ、弱さを認め、主の御名を呼び
求める必要があります。
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4章26節は、このエノシュの時から「主の御名を呼び求めた」と
言ってます。
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「主」とは、ヤハウエのことで2章2節から始まり神と人との関係で
用いら、「神」とは、エロヒームのことで第1章で主に用いられ
神と創造との関係で用いられています。
主(ヤハウエ)は人と親密な関係へと入って来られる神の名です。
ですから四26では、エロヒーム(神)の名を呼び求めたとは言わず、
ヤハウエ(主)の名を呼び求めた、と言ってます。
人々は万物を創造した方を呼び求めたのでなく、昨日も、今日も、
とこしえに共にいてくださるヤハウエを呼び求めたのです。
人が衰え、死ぬべきはかない存在であることを認識した時、永遠
なる、存続するヤハウエ(主)を呼び求めたのです。
虚しさ、はかなさを認識しなければ主の名を呼び求めることはない
のです。
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主の御名を呼び求めることの意義は何でしょうか?
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これは祈ることとは違います。呼ぶことも一種の祈りですが、呼ぶ
ことはそれだけではありません。
原語「カラー」は「呼ぶ、叫ぶ」の意味があります。呼ぶだけで
なく叫ぶわけです。
祈りには黙祷もありますが、「呼ぶ(カラー)」は、叫ぶことを
意味し、これが、聞こえるように呼ばなければならないわけなん
です。
ですから哀歌3章55〜56節では、「主よ、私は御名を叫びます。
耳を閉ざさず、この声を聞き、私を助け、救い出してください」
と言います。
ちょうど呼吸のようで叫ぶ時は呼吸することによって吐き出し、
吸い込みます。一切の否定的な事柄を吐き出し、主の積極的なもの
で満たすのです。
かんしゃくを起こしそうになったら、それを押さえつけないで
「おお主イエス様、かんしゃくを起こしそうです、見ていてくだ
さい」と祈ることによってかんしゃくを吐き出し、主イエスの霊
(主の霊)を吸い込むのです。
それは、純粋な心を持って呼び求めることです。
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しかし、主は内側にいるからその必要はないという人がいます。
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それは息が内側にあるから呼吸の必要がないというのと同じで、
実際的ではありません。また、なにもそんなの大声で叫ぶことは
あるまし、神さまは耳が聞こえないわけではないという人もおり
ます。
しかしながら、ヘブライ5章7節で主イエスがどのように祈ったかが
あります。
そこには「激しい叫び声をあげ、涙を流しながら」祈ったことが
記されています。
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なぜこのように主イエスは祈ったのでしょうか?
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父と共におられたのになぜ叫んだのでしょうか?
それは詩編66篇1節で「「神に向かって喜びの叫びをあげよ」とある
ように数回喜びの声でなく、叫びを上げよと出てきます(81篇1節、
95篇1節、98篇4節、100篇1節)。
ですから主に向かってそうする必要があるのです。それは聞かれるか
どうかでなく、主が私たちの霊の中に入ってきて、心にあるものを
解き放つかどうかにあります。
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「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」(ローマ10章13節)
からです。
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パウロが手紙を記した多くの人は「主イエス・キリストの名を呼び
求めているすべての人」(コリ1章2節)でした。
このように旧約を通して、主の御名を呼び求めてきたように、新約
時代も実行されてきました。
しかし旧約時代も「あなたの御名を呼ばない者となってから、
私たちは久しい時を過ごしています」(イザヤ63章19節)とある
ように無視された時代もありました。
ですが私たちはこれを回復し、実行し、主にある命の豊かさを享受
することを望みます。そうする目的は、徹底的に救われるためです。
悩み、困難、悲しみと苦痛から救い出されるためです。聖霊に満た
されるためです。自らを奮い立たせ、引き上げるためなのです。
聖なる業を回復させ力強い信仰生活を始めていきましょう。
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