その他教育

成長するクリスチャン

子供の成長を願わない親はいませんね。同じように神様は、その子となったクリスチャンが、聖書の全てのみ言葉を栄養にして、大人に成長するように願っておられます。これは成長なさりたいクリスチャンのための励ましのメ−ルマガジン
です。

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成長するクリスチャン

2018/05/26

ここでは病棟のように起床時間は定められていませんが、朝食は各階食堂で7時30分からですから、それまでに起床・洗面を終えなければなりません。

と言っても梗塞などの後遺症で、体がご不自由な方、認知症を発症なさっていて、毎朝のことであっても自分ではどうすればいいのかわから方も多いので、夜勤の介護職員がひとりで、担当階の25室を順に回って起こし、そして着替えをさせるなどの世話をします。

眠いからでしょうか、介護職員の言うことを聞かない人もいて、叱りつけたり、なだめたり、制止したりする大声があちらこちらの部屋から聞えてきます。

しかし認知症の方の場合そのままにしておきますとまた眠ってしまわれるので、着替えが済んだら各階の食堂に連れて行って、そこでテレビを見せ、自分で歩き回らないようにしておきます。

自分で着替えができる方も、個室にいるのが寂しいからでしょうか、食事時間を待たずに、食事が始まる30分あるいは1時間も前から食堂に行ってみんなと一緒になんとなく、(チャンネルは気にしないで)テレビをご覧になっています。

私の場合は、スマートフォンの目覚ましをセットして朝5時に起き、その後、着替・洗面などを終え、NHKの朝のニュースを見ます。その後、毎朝ナース・ステーションに提出する体重、体温、血圧、血中酸素濃度などを計測記録します。
ほとんどの方は、食堂で食事を待つ間に職員に測ってもらいますから、夜間の見守りに加えて、朝の介護などなど、職員の忙しさは、入居してみてよくわかります。

介護される側ももう少し協力的であってほしいと思っても、それは認知症の方には通用しません。

さて、話しを元に戻しますと、私は、主が与えてくださったこの個室(祈りの部屋)で、毎朝の日課、モーニング・デボーションに入ります。
約1時間、賛美、聖書、黙想、祈りと続いて、だれにも煩わされず、聖書(マタイ6:6)が教える「奥まったところで主と共にある」珠玉のひと時です。主に感謝します。

しかし、食事が配膳される前にはデボーションを終えて食堂へ向かうと、そこにはその階のほとんどのかたが、見るともなく見ないともなく、また見ていることについて話をするでもなく、またある方はテーブルにうつぶせになって眠っておられます。

テレビ画面に映る、米朝交渉も、日本の国会の紛糾も、大学運動部の不祥事も、ここに集まってテレビを見ている人たちには、全く関心がないのでしょうか。
まるでお通夜の翌朝みたいな、無気力としか言いようがない雰囲気に、私は、先ほどのデボーションから無理矢理に引きずり込まれるのです。

しかしそこにおられる方々は、じつは私にとっては、これからもずっと続く「介護施設での共同生活者」であり、イエスの教えにある最も重要な掟の第二、「自分を愛するがごとく愛しなければならない隣人(となりびと)」なのです。

聖書辞典による隣人の定義は、「社会的に最も近い関係にある人」ですが、イエスはこれを人間全体に広め、たとえ敵であっても、自分の助けを必要とする人、したがって「愛の義務を負っている人は隣人である」と教えました。
そしてその例として、ルカ10:30以下の「よいサマリア人」の譬えが挙げられています。

よくご存じでしょうが、念のため、新改訳2017で読んでみますと、
ルカの福音書
10:30 イエスは答えられた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下って行ったが、強盗に襲われた。強盗たちはその人の着ている物をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
10:31 たまたま祭司が一人、その道を下って来たが、彼を見ると反対側を通り過ぎて行った。
10:32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
10:33 ところが、旅をしていた一人のサマリア人は、その人のところに来ると、見てかわいそうに思った。
10:34 そして近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱した。
10:35 次の日、彼はデナリ二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
10:36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」
10:37 彼は言った。「その人にあわれみ深い行いをした人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って、同じようにしなさい。」

このことを私と私と同じ介護施設におられる入居者との関係に当てはめると、その間には介護職員がいますから、隣人に手を貸すことは必要なく、介護の資格がないのに介護することになり、かえって危険です。

しかしこのことは守られず、歩行できる入居者が、車椅子を使っている被介護者を後ろから押して、それが親切心の表れだとされていることに、私は憂慮します。

しかし、それとは別に、言葉をかけることは、イエスの憐れみに倣う意味において大切であると思います。

ある新約聖書小辞典は以下のように説明しています。。
他者の苦しみに心を動かされることを「憐れみ/哀れみ, (compassion)」と言い、これは神自身の最高の特性であり、人間を罪から救う救い主としてまた、病苦の癒し主としてのイエス・キリストの行為に決定的に現れたものとして、恵みあるいは愛にも等しい。

そして人もまた憐れみ深いことが求められている。
【新改訳2017】
マタイ
18:32 そこで主君は彼を呼びつけて言った。『悪い家来だ。おまえが私に懇願したから、私はおまえの負債をすべて免除してやったのだ。
18:33 私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。』

しかし、圧迫骨折で、激しい痛みに耐えていたころの私の経験から言いますと、「いかがですか?」の compassion のお気持ちには感謝してお答えしなければならないのですが、いちいち答えることがつらく感じることが多くありました。

そこまで考慮していただきたいのですが、酷なのは、日本人がしばしば病人に対しても口にする「頑張ってください」です。
口先だけの「一日も早いご全快をお祈りします。」などもそうで、実際は祈るのではなくそうあってほしいと思うだけなのです。

しかし、「いかがですか?」と言わないでいると、その人は同情心がない冷たい人だと思われがちです。

クリスチャンどうしなら、「お辛いのでしょうね。癒し主の癒しが与えられるようにお祈りしています。」と言って励ますことができますし、主イエスも次のように教えておられます。

マタイ7:12
何事でも自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。それが律法であり預言者です。

ところで、この介護施設での隣人は、私の場合は、一人の信徒と未信徒という関係であり、昨日まで見ず知らずで、その生活も生活背景も知らないある人と、食堂で同じテーブルで食事を共にすることが、なんの紹介もないままに、施設側から一方的に決められて、隣人関係が始まります。

介護職員が採用されて働き始めても紹介はありませんし、いなくなって初めてその人の退職を知ります。
それもこの介護施設の本部や施設長の方針らしく、隣人との関係を大切にしたい私にとっては、今はあきらめに似た思いでいますが、これはこの施設がそうで、介護施設の中では特殊な存在のようです。

認知症者には、情報提供も理由説明も無駄に終わるから、介護スタッフの言うなりに入居者を従わせるという方針なのでしょうか。

経営は企業が責任を持っても、運営には教会あるいは教会連合が深く関わり、信徒・未信徒の別なく誰もが入居でき、人生の終焉に欠かせないみ言葉が伝えられ、かつ行われる。
介護スタッフには、すでに良い評判を得ているキリスト教国のフィリピン人たちを訓練して来日してもらい、フィジカルに加えてメンタルに、さらにできればスピリチュアルにも日本人高齢者をケアーできる体制を確立する。

病院に入院すれば?退院できても、?介護施設入居の場合は、そこで死を迎えなければならないことから、入居者もその家族も、目をそらすべきではないと思います。

これが、繰り返しになりますが、現在の私村川のビジョンであり祈りなのです。
(終わり)

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創刊日:2002-03-24  
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