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成長するクリスチャン

子供の成長を願わない親はいませんね。同じように神様は、その子となったクリスチャンが、聖書の全てのみ言葉を栄養にして、大人に成長するように願っておられます。これは成長なさりたいクリスチャンのための励ましのメ−ルマガジン
です。

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成長するクリスチャン

2018/03/31

「信じられない!」

そうおっしゃる方にも、こう言えば、信じていただけるのではないか?
そんな思いが私にはあります。

本当は、主にゆだねることこそ大切!と分かっていて、またヨハネの福音者のイエスのみ言葉に圧倒的に多い「信じる」の数々を反芻(はんすう)しているのですが・・・。

ヨハネの福音書
20:29 イエスはトマスに言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」

でも、見てもなかなか信じられないのに、見ないでどうして?・・・という反論もあるかもしれませんね。


イースターまでには・・・と思って書き込み始めたのに、明日の日曜日は、もうイースターになってしまいました。

このあたりでまとめさせていただきます。


私は先日、ギリシャ語のピスティスとピステウオーから入って見たのでしたが、クリスチャンとしてはまだ成長途上の方の場合には、かえって理解を難しくさせてしまったのではないかと、現在では反省しています。

そんなとき、
1コリント
12:3「 ですから、私パウロは、あなたがたに次のことを教えておきます。聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。
が私の心にひしひしと迫ります。
私がその人を変えるのではない! 聖霊が、主が、変えてくださるのだ!
さらに、
 3:6 私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。
 3:7 それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。


話は変わりますが、先日、国会での証人喚問のテレビを視聴していて、「信じる」という日本語にもいろいろなニュアンスがあることを知り、言葉のむつかしさをいまさらながら実感しました。

「あなたのおっしゃることは信じられません。(あなたは、嘘をついているのではありませんか?)」
「私は客観的事実からそう証言しているのであって、事実を枉(ま)げて、そう申しているのではありません。」

日本語では、これを「水掛け論」と言いますね。

あるいは、「私の夫に限って、私に隠れて浮気をするなど到底信じられません。誰か別の人の間違いではないですか?」と確信を持っても、それが事実であることもあります。


私の大腸がんが、その手術後に肝臓に転移し、広がっていた時のことですが、CTで追跡していて、それがあるとき奇跡的に止まりました。

「なぜでしょうか?」と主治医に尋ねたら、なんとその答えは「神のみぞ知る!」でした。
最先端の医学にも詳しいその先生から、そんな言葉を聞くとは、驚きでしたが、この世界には、
信じています!信じられません!と論争を繰り返しているとき、神のみがご存知の真実がただ一つ存在しているのかもしれませんね。

だからと言って私は不可知論者ではありません。


言えることはただ一つ、父なる神とそのひとり子イエス・キリストが、聖書で「信じなさい」とおっしゃっていることは、信じるに足ることで、それは旧約及び新約聖書がその長い歴史に耐えて信じられてきたことからも分かります。


注)聖書の無誤性と無謬性ー Wikipediaなどから引用

聖書の無誤性(むごせい、Biblical inerrancy)は、聖書が原典において全く誤りがない神の言葉であるという聖書教理の前提になっている。
この立場では「歴史と科学の分野を含んで完全に正確」であり、誤りの部分はないと言われている。

無誤性は、聖書は「信仰と生活との誤りなき規範」であるが、歴史や科学の分野には誤りがあるとする聖書無謬説(むびゅうせつ、Biblical infallibility)とは対立する。

「無謬」と言う言葉は、<理論や判断に間違いがない場合を言う>とは、デジタル大辞泉の説明にあります。

私、村川は、アメリカの高校教育に「聖書の創造論」を持ち出し、科学である「進化論」の授業を問題視しているような極端な「聖書無誤論」には疑問を持ちます。

無誤性は、聖書は「信仰と生活との誤りなき規範」であるが、それは歴史や科学の分野では誤りがあるとする聖書無謬説とは区別されなければなりません。


ここで多少の付け加えあるいは妥協をしますと、聖書の無誤性の論争には三つの見解があるとされています。
(1)絶対無誤説
聖書は歴史や科学の問題に言及していて、それらにおいても真理である。
(2)十全無誤説
聖書は歴史や科学について書かれたものではないが、それらに関する言及にも誤りが無い。
(3)限定無誤説
聖書は救いという中心教理においてのみ誤りがない。
(注終わり)


さて、日本語の「信じる」は英語では ”believe" であることは、英語を習い始めた子供でも知っていますが、神を信じるというとき、「神の存在を信じる」というニュアンスであれば、
"believe God" ではなく、前置詞を付けて、”believe in God" とします。ニュアンスとしては、「信仰」に近い言い方になります。

とは言え、「あなたは(この世に)幽霊がいると信じますか?」と言うときも使います。念のために。

イスラム教でも、believe in Islam とも言いますが、仏教の場合どういえばいいのか私にはよくわかりません。

信仰対象が、仏教の場合、キリスト教の「信仰」に対して、習慣的に「信心」ということが多いようです。対象が神でなく、神格化はされていても、一人の人間に過ぎない、実践人生哲学者の釈迦なのですから。

では、神道の八百万(やおよろず)の神々についてはどうでしょうか?

日本の国造りを行ったイザナギ・イザナミの二人の尊(みこと)を聖書の創世記の天地万物の創造神と同様に信仰するのでしょうか?

ウィキペディアによれば、信仰(しんこう、英語 faith)とは、

1.神や仏などを信じること。また、ある宗教を信じて、その教えをよりどころとすること。
2.人やものごとを信用・信頼すること。
3. 証拠抜きで確信を持つこと。
4. またそれらを信じることを正当化する要因。
信仰のことを仏教においては「信心(しんじん)」と呼ぶことが一般的である。「信仰」と書いて古くは「しんごう」と読んでいたこともある。
また比喩的な用法として、何らかの対象を絶対のものと信じて、疑わないことを指すこともある。
(引用終わり)

私は、上記ウィキペディアの中で、日本語「信仰」に対する英語として、"faith" を明記していることに注目して、それこそが、聖書でいう<信仰 >だと結論付けます。

日本語「信仰」に対する英語を、<信じる , believe>の名詞形の<belief>とするのは、英語では間違いと言ってもいいでしょう。

英英辞典で”faith”を調べますと
1. complete trust or confidence in someone or something.
2. strong belief in the doctrines of a religion, based on spiritual conviction rather than proof.

ところで、”believe in God" を名詞形にすれば、”belief in God" となりますね。
でも、英語ではこの言い方はしません。実際は、もっと強い言い方で、”faith in God" と言います。
じつはこれが<英語でいう信仰>なのですね。

ところで、ここにもう一つの問題があります。

この "faith" は、日本語聖書では、「真実」と訳されてきましたが、日本語の真実とは、「真実だけを求めて生きること。または、誠実に生きることです。

山本有三の名作小説「真実一路」(一路はまっすぐ、あるいはひたすらという意味)。
父と姉に育てられた少年を主人公に、人生を“真実一路”に生きようとしながら傷ついていく人々の真摯な姿を写し出す不朽の名作をついつい思ってしまいます。

英語に慣れていると、どうも使い勝手がよくない日本語に感じますが、私の偏見かもしれません。

新改訳2017では、この「真実」どう訳出しているのか?

旧版と同じなのかどうか、気になるので、日本語―英語ーギリシャ語をインストールできる”Windows 10  -旧版を持っていれば¥4860(税込み、送料込み)- を購入することにしました。

では、主にあって、よいイースターをお迎えください!

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創刊日:2002-03-24  
最終発行日:  
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