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成長するクリスチャン

子供の成長を願わない親はいませんね。同じように神様は、その子となったクリスチャンが、聖書の全てのみ言葉を栄養にして、大人に成長するように願っておられます。これは成長なさりたいクリスチャンのための励ましのメ−ルマガジン
です。

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成長するクリスチャン

2018/03/24

いわゆる初心者、入門者と呼ばれ、教会へ来て日の浅い方が遭遇すると言いますか、もっとはっきり言って、躓きやすい聖書個所がいくつかあります。

「復活」もある意味でそうですし、旧約聖書に書かれている、「主なる神に率いられたイスラエルの民の約束の地カナンへの侵攻と原住民の殺戮(さつりく)」はよほどていねいに説明しなければ、教会へ来てもやがて黙って去るという取り返しのつかないことになりがちです。

私たちは、ヨハネの福音書の初めにある、「はじめに言(ことば)があった(ありき)。言は神と共にあった(ありき)。言は神であった。」などをいともたやすく引用しがちですが、初めて教会へ行ってこの聖書個所を教えられたとして、素直について行けるでしょうか?

教会で教えられることの中には「ありき」論が多くあります。
礼拝の初めに会衆が唱える使徒信条(その必要を認めない教会もありますが)には、そこにも「ありき」がありますが、初心者には内容が難しく、素直に受け入れられない方々も少なくありません。

使徒信条

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、
ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、
死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり、
天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。
かしこよりきたりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。
我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、
からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。
アーメン

初めて教会へ来た人は、この信条を覚えないとクリスチャンになれないと思い込みがちですが、そんなことはありません。


ここで今日の本題に入ります。

マタイの福音書の復活に関係する箇所を、新共同訳の見出しでで追いますと、
・・・・十字架につけられるー>イエスの死ー>墓に葬られるー>番兵、墓を見張るー>復活するー>番兵、報告する・・・・
となっていて、復活(resurrection)と言う言葉が既定事実のように用いられています。

でもここでは、厳密に言うとそうだと断定できるに足る状況だったかどうか、ドラマとしては疑心暗鬼の状況もっと描写してもいいのではないか。その方が、「それこそがイエスの生き返りの証拠だ」と結論付けやすいのでは?と思うのです。

様々な状況証拠から、ありえないことが起こったらしく、それをこの段階でも、「死からのよみがえり」と思わざるを得ないのではないか。信じられないことなのだが・・・みたいな書き方をした方がいいのではないだろうか。

と言いますのは、日本神話は別として、歴史的にも日本人の心に大きな影響を与えている釈迦の教えの仏教には奇跡はないからです。
キリスト教国の人々は、神の奇跡こそが神の全知全能の何よりの証拠だととらえるのですが
日本人は奇跡などというと、すぐ「信じられない!」という反応を示しがちです。

「日本人は世界で最も宣教が難しい人たちで、だから日本のクリスチャン人口は戦後ずっと総人口の1%以下だ。」と嘆く外国人宣教師は多くおられます。


話がそれましたが、ここでルカの福音書24章を、「イエス復活する」ではなく「イエスの墓の中であったこと」として、ドラマに仕立てます。

すでに、復活はイエスの預言にもあるのだから、<復活ありき>で、「イエスの復活」でもいいのでしょうが、ここではあえて、「イエスの墓の中であったこと」とします。


ルカの福音書
 24:1 週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた。
 24:2 見ると、石が墓からわきにころがしてあった。
 24:3 入って見ると、主イエスのからだはなかった。
 24:4 そのため女たちが途方にくれていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちの近くに来た。
 24:5 恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。
 24:6 ここにはおられません。<よみがえられたのです>。
まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。
 24:7 人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」
 24:8 女たちはイエスのみことばを思い出した。
 24:9 そして、墓から戻って、十一弟子とそのほかの人たち全部に、一部始終を報告した。
 24:10 この女たちは、マグダラのマリヤとヨハンナとヤコブの母マリヤとであった。彼女たちといっしょにいたほかの女たちも、このことを使徒たちに話した。
 24:11 ところが、使徒たちにはこの話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった。

村川注)「使徒たちにはこの話はたわごとと思われた」は使徒たちに限ったことではなく、私だってそう思いました。復活のドラマはここから始まります。


ルカの福音書の続き

 24:12 しかしペテロは、立ち上がると走って墓へ行き、かがんでのぞき込んだところ、亜麻布だけがあった。それで、この出来事に驚いて家に帰った。

そして、ドラマには次の展開が待っていました。

 24:13 ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。
 24:14 そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。
 24:15 話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。

 24:16 しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。
 24:17 イエスは彼らに言われた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。
 24:18 クレオパというほうが答えて言った。「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らなかったのですか。」
 24:19 イエスが、「どんな事ですか」と聞かれると、ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。
 24:20 それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。
 
 24:21 しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、
 24:22 また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、
 24:23 イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。
 24:24 それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。」
 
 24:25 するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。
 24:26 キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」

 24:27 それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。
 24:28 彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。
 24:29 それで、彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中に入られた。
 24:30 彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。

 24:31 それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。

 24:32 そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」
 24:33 すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻ってみると、十一使徒とその仲間が集まって、
 24:34 「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現された」と言っていた。
 24:35 彼らも、道であったいろいろなことや、パンを裂かれたときにイエスだとわかった次第を話した。


ー弟子たちに現れたイエスー

 24:36 これらのことを話している間に、イエスご自身が彼らの真ん中に立たれた。

 24:37 彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。
 24:38 すると、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。
 24:39 わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」
 24:41 それでも、彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか」と言われた。
 24:42 それで、焼いた魚を一切れ差し上げると、
 24:43 イエスは、彼らの前で、それを取って召し上がった。
 24:44 さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」

 24:45 そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、
 24:46 こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、
 24:47 その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。
 24:48 あなたがたは、これらのことの証人です。

 24:49 さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」

 24:50 それから、イエスは、彼らをベタニヤまで連れて行き、手を上げて祝福された。
 24:51 そして祝福しながら、彼らから離れて行かれた。
 24:52 彼らは、非常な喜びを抱いてエルサレムに帰り、
 24:53 いつも宮にいて神をほめたたえていた。

ドラマ風に聖書を読んだ読者は、ここまでもリアルに記述されている内容でも、所詮は超自然現象であるゆえに、”illusion” に基づく記述であるゆえに、やはり信じられないとおっしゃるでしょうか?

このドラマは、イエスの十字架死の意味も分からず、イエスのよみがえりも信用できず、あれほどに絶望していた弟子にある大きな変化が起こり始めていることを明らかに示しています。

そしてそのことは、イエスのよみがえりと昇天に続く、聖霊降臨日に確実に起こり、意気喪失していた弟子たちが宣教の素晴らしい力に満たされるのです。

それが今日の教会の始まりだったのです。

イエスの復活物語は、そのドラマは、この「聖霊降臨日」に大団円を迎えることになります。
(続く)

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