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成長するクリスチャン

子供の成長を願わない親はいませんね。同じように神様は、その子となったクリスチャンが、聖書の全てのみ言葉を栄養にして、大人に成長するように願っておられます。これは成長なさりたいクリスチャンのための励ましのメ−ルマガジン
です。

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成長するクリスチャン

2018/01/08

私たちは家庭では、家族の一人であり、会社では職場のメンバーであり、愛の共同体である教会に連なり、そして高齢になれば、介護施設で共同生活者の一人にもなりますが、その国籍は天の国にあります。

そう考えたとき、私たちキリスト者は、それぞれの環境にあって、どう生きるかが問題になります。

ここで、主イエスは、神を愛するという最重要な掟てと共に、自分自身を愛するように隣り人を愛する掟てを実行することをお命じになっています。

隣り人とは、あらかじめ範囲を定められる律法的概念ではなく,「あらゆる差別を乗越えた愛によってつくりだされる関係」を言います。

イエスが教えた「善きサマリア人の譬え(ルカ10:30以下)」は、隣り人とは、「愛の義務を負っている人」であることを教えています。

私は今この介護施設に入居して、入居者の方々とは主がお命じになった隣り人という関係において、共同生活を始めてすでに1年5か月にもなるのに、いまだに確信が得られないときがあることを悔い改めます。


今日は、なぜそうなのか?反省を込めて、私の目で見たあるいは体験した実情をもう少し詳しく、書き込みさせていただきます。

お詫び:以下長文のため、推敲が思うに任せず、誤字・誤記も多いと思います。ご判読をお願いいたします。


この介護施設では、各個室に洋服ダンス、衣類収納引出しなどが造り付けになっていますから、持ち込む家具と言えば、椅子と机ぐらいでしょうか。私は車椅子を椅子代わりに、来客は私のベッドに座っていただいていますが、パソコン用デスクだけは、なくてはならないものとして持ち込みました。

電気器具では小型冷蔵庫、小型テレビと加湿器を持ち込んでいますが、各個室に入居の方々にとってテレビは、ここでの生活の主要な部分を占めていると言えそうです。

それでいて、3度の食事に各階の食堂に集まって配膳を待つ間も、入居者はそこの大型テレビ画面を見続けておられます。

NHKテレビのニュースよりも、コマーシャルが多い民放番組がかえって好まれ、視聴されていているようです。

さすが全員食事中は職員がテレビを消しますが、食事が終るころには、再び電源が入れられます。

朝起きてすぐ、個室で時間をかけてデボーションをした後、その階の食堂に行く私にとって、そこでぼんやりとテレビを見続けておられる、あるいはまだ眠気が残ってテーブルにうつぶせになっておらる入居者の姿を見ると、

This is the day
This is the day
that the Lord has made
that the Lord has made
We will rejoice
We will rejoice
And be glad in it
And be glad in it

など元気にくりかえして賛美したその霊的パワーを悪魔によって奪われそうになります。


それが嫌で、配膳が終わった頃合いを見計らって食堂に行きますと、施設長に「もっと早くに来て、テレビを見ながら、待っていてください」という意味の注意をされました。


ところで、テレビの功罪について考えますと、最近は、各局各番組の視聴率競争の余波を受けてでしょうか、NHKもコマーシャルがないだけで、民放みたいな部分が多くなっているようにも感じます。

民放では、教育的あるいは「考えさせる」番組は少なく、いわゆる芸能あるいはゴシップ番組、お笑い・ドタバタ喜劇に加えてグルメ番組も多く、政治に関しても、週刊誌みたいに扱われる番組が好まれているようですね。

多分に私の独断と偏見からですが、テレビを見ても新聞を読まない中学生や、お茶の間でテレビを見て毎日を過ごすお年寄りは、次第に思考力を失っていくのではないかという危惧を私は持っていますす。

それが高齢者では認知症の発症と関係すると言ったら、言い過ぎでしょうか。


さらにこの施設で(他の施設でもそうだと聞いていますが)、気になるのは、「認知症の入居者は、朝の着替えをさせて、個室から誘導して食堂に集め、チャンネルが何であろうとテレビを見せておけば、ひとりの職員でもなんとか監視できる。

個室から出て徘徊したり、職員の目が届かないところで転倒したりするのを防げるという管理方法です。

テレビを見せるくらいなら、美しい映像付きのクラシック音楽CDを映し出した方が、心が休まって認知症の治療にもなるのではと提案したのですが、「それは認知症について知らないからです!」と一蹴されてしまいました。

テレビを見たり歌を歌ったりした後、みんなで話し合うのも、音楽療法の一環として世の中では提案されていますが、この施設で試みた結果、誰も付いてこなかったそうです。

インターネットで知ったことと、ここの介護職員の方の話はつながりません。

素人の私が考えても無駄なのでしょうが、それでも認知症の初期からさらに症状が進んだ方々と共にあって知ったことがあります。これも誤解と偏見かもしれませんが、まとめてみます。

(1)認知症になると、過去のことはよく覚えていても、今あるいは少し前にしたことさえ記憶に残らない。


具体的に例を挙げますと、過去のことはよく覚えていて、体が不自由な今もそうしようとするので、転倒などの危険がある。また、過去の自分にこだわって、介護スタッフの言うことを聞かない。

過去のことはよく覚えているということは、例えば、息子さんや娘さんの自慢話を繰り返して、聞いてあげる相手をうんざりさせますが、聞いてもらえるそのことがその人には生きがいにもなるようです。

子どもたちを立派に育てあげた女性に多いタイプです。

過去の職業やその栄光にこだわり、それを聞き手に得意げに繰り返し伝えますが、自分の現状については考えが及ばない。

高い社会的地位を得ていた男性に多いタイプです。


(2)いわゆる「お世話型(おせっかい?)」の場合

「他人に親切にして喜ばれたい」は現代若者とは対照的に高齢の日本人に多いようですね。
因果応報の仏教思想が浸透しているからでしょうか。

そのこととも関係するようですが、車椅子で施設内を移動中の入居者を、なんとか歩行ができる程度の入居者が後ろから押してあげているのを施設内で見かけます。

それは転倒や衝突などの大きな事故にもつながる危険性があるので、介護スタッフが注意するのですが、納得してもらえないそうです。


ということで、理由の説明はなく、しなさい!してはいけません!で事が運ばれることも多いですから、残された思考力でさえ停止に向かうのではないかと思わされることもあります。

さらに、お世話型の場合、食事の際に同じく高齢で同席の人に、箸の上げ下ろしまで干渉したり、食事のマナーまで教えようとする人がいます。
普通なら干渉されて腹を立てるでしょうが、そこは認知症者どうし、何となくそれで済んでいるのが不思議です。

以上のような書き込みは、認知症の方への私の差別意識の現れと誤解されることもあって困惑するのですが、皆様に実情を知って、祈っていただくためのもので、むしろ主のみ心に応えたいがためです。

イザヤ
65:1 わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。わたしは、わたしの名を呼び求めなかった者たちに向かって、「わたしはここだ、わたしはここだ」と言った。

さらに、認知症は進むばかりで治らないと思いこみ、対症療法でしのごうとすることにも反対をします。

主にあって私はあきらめません。

イエスはその時代、宣教の日々にあって各地を巡って奇跡を起こし、悪霊を追放し、多くの病人を癒されたではありませんか!


以上、長く書き込みましたが、最後に読者の皆様に知っていただき、祈っていただきたいこととして、以下があります。

介護スタッフは、入居者に理由を説明して何かをしてもらおうとしても、理解ができず、またすぐ忘れるので、一方的に命令したり叱ったりして、してもらうしかない。

しかしそれが保護者に虐待と受け止められて訴えられ、かつそう認定されれば、介護スタッフや施設長が監督官庁の処罰の対象になります。

このどうにもできない状況に介護職員たちのストレスは溜まり、介護を拒否したり協力しないで抵抗する入居者に困り果てている・・・そのような状況を目にすることもしばしばあります。

ところで、その解消先がスタッフどうしや施設長などの上司であっても、それは企業の職場ではよくあることです。

しかしどう間違っても、それが悪魔に導かれて、取り返しのつかない結果にならないことを願い求めて、私は祈っています。

「居住者と介護スタッフのために絶えず祈りなさい」は、主の私への至上命令で、恵みと共に与えられた試みとも捉えさせていただいております。

追記:

先週土曜日の朝6時のNHKニュースで、老々介護の夫が介護に疲れ果てて、妻に切りつけ、警察に逮捕されたという悲しい報道がありました。

しかし、それとは対照的に、84歳の妻がタブレットのアプリを操作して住民タクシー(自家用車を活用して、高齢者の外出を助けるある過疎の町のボランティア―活動)を呼び、認知症の夫を病院へ連れて行くという取材レポートがありました。

現在、超高齢化社会の日本には、夫や妻と死別して一人暮らしの高齢者、認知症発症者やその予備軍ともいえる人たち、90歳を超えてもなおも生きがいをもって、常に新しいことに挑戦なさっている高齢者もおられます。

何がどう違うのでしょうか?

私にはわかりませんが、確信をもって言えるのは、キリスト者の場合です。

コへレトの言葉
12:1 あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。
わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。

を実行できた人たちであると言えましょう。さらに、

詩篇
119:105 あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光。

としてこの世に生きて、

2コリント
4:16 ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの<外なる人>は衰えても、<内なる人>は日々新たにされています。

という確信に立たせていただいております。

主がともにいてくださるからです。


そしてさらに年齢を加え、介護施設に入居するまでに至っても、主は共にいて下さいます。

イザヤ
 46:4 あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。

そのことへの私たちの応答は、

詩編
71:18 年老いて、しらがになっていても、神よ、私を捨てないでください。私はなおも、あなたの力を次の世代に、あなたの大能のわざを、後に来るすべての者に告げ知らせます。

ではないでしょうか?

(シリーズ書き込み終わり)

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