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私たちはなんのために生きているのでしょうか?どうしたらもっと生きがいのある人生を送れるのでしょうか?それは聖書のイエス様と共に生きること。みんなで本当の生き方を分かち合いませんか?

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「今日もイエス様と共に」について(共通メッセージ)

発行日:8/18

この書き込みは、「今日もイエス様と共に」の読者の方々に向けたものですが、教会では先輩クリスチャンとして、後輩クリスチャンを、言葉と行いにおいて励ます立場の「成長するクリスチャン」の皆様にもぜひ読んでいただきたく、今日も共通メッセージとして書いています。

といっても、先輩と後輩の区別は、イエスが言われた、
マタイ 19:30「 ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。」
という緊張感においてであることは、ご存知の通りです。

書店で見かける「キリスト教入門」や「キリスト教はどんな宗教か」などのタイトルが嫌いで、初心者対象のメルマガに、「聖書とは何か」でもなく、「今日もイエス様と共に」という名をつけさせていただいたのです。

その心は、これは私の持論ですが、「キリスト教」という宗教もキリストと呼ぶ教祖も存在しないからです。あるのは聖書だけです。そこに啓示されているのは、唯一絶対で天地万物の創造神、霊なる神が、この世に人の姿で(見える形で)遣わされたそのひとり子イエス・キリストだからです。

● 「今日もイエス様と共に」とは、イエス・キリストによって、父なる神につながることです。
 
ヨハネ 14:6 イエスは言われた。「わたしが道であり、真理(注1)であり、いのち(注2)なのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。14:7 あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。

注1)▲真理:
−以下の注は成長なさっているクリスチャンを対象に、復習のため、聖書辞典から抜粋引用したものです−

聖書において「真理」を指す代表的な単語は、旧約では〈ヘブル語〉エメス,新約では〈ギリシャ語〉アレーセイアである。

〈ヘブル語〉エメスは、神に由来し(詩篇25:5,86:11)、神の告知した内容を指す(詩篇19:9,119:160)

〈ギリシャ語〉アレーセイアは、哲学的な真理を指しても用いられていたが、聖書における用法はさらに広い意味がある。ことに罪、贖(あがな)い、救いといった思想と、イエス・キリストによる啓示、さらに倫理的な規範の設定といった点において特徴的である。

聖書は、人間の理性と知恵のみによって真理を把握することが不可能であることを十分に示した上で、なお真理の様々な側面を明らかにする。

真理の源は、究極においては,神御自身(ローマ3:7,2コリント13:8)とそのことばであり(ヨハネ17:17,19,2コリント4:2,6:7)、イエス・キリストはその具現者(ヨハネ14:6,ローマ15:8)また証示者である(ヨハネ18:37)。

聖霊は、キリストの昇天後、その働きを継続し(ヨハネ14:17,1ヨハネ5:6)、偽りの霊と対照される(1ヨハネ4:6)。

罪の赦しの福音(ガラテヤ2:5,14,コロサイ1:5)、教会の正しい教え(1テモテ3:15)、また霊的な洞察(同2:4)も、真理と呼ばれる。

真理を悟り(1テモテ2:4,4:3)、それに従って行動する時(ヨハネ3:21,1ペテロ1:22,3ヨハネ3,4)、人はまことの自由と(ヨハネ8:31,32)、霊的で建設的な力を与えられる(2コリント6:7,13:8,エペソ4:15)。

○初心者は、聖書の真理を哲学の真理と混同します。

注2)▲いのち:
ヨハネ文書においては、信仰者に与えられる「いのち」に焦点が当てられている。
永遠のことば(ロゴス)は、永遠のいのちであり、永遠に神とともにあり、人の世にイエスとして受肉された(ヨハネ1:1‐18,1ヨハネ1:1,2)。

それゆえ、イエスのうちにいのちがあり(1ヨハネ5:11)、イエスが永遠のいのちの「ことば」を持っておられる(ヨハネ6:68)。それだけでなく、イエス御自身が真のいのちそのものであり(ヨハネ6:35,14:6)、永遠のいのちにほかならない(ヨハネ11:25,1ヨハネ5:20)。

神は、イエスを通し、イエスのみことばと人格を通して、人々にいのちをお与えになる(ヨハネ3:16,6:33,63,10:10,20:31,1ヨハネ4:9)。

ヨハネ文書における永遠のいのちとは、必ずしも死後のいのちを言うのでないことは、以上のことからも明らかである。神と御子を信じる者のうちに、すでに永遠のいのちは現存するのである(ヨハネ17:3)。

ヨハネの黙示録においては、もはや死のない完全ないのちが示され(21:3,4)、新しい神の都における「いのちの木といのちの水」の表象を用いて、神にある永遠のいのちの完全さが強調される(21:6,22:1‐14,19)。


● そして、次に、もうひとつ重要なことがあります。
「今日もイエス様と共に」とは、イエスが言われた次のことに基づきます。

黙示録 3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

イエス様は、私たちに対して、「あなたの家(部屋)に入って、共に食事をする」とおっしゃるのです。

注)ここで言う食事とは今日の日本人が忘れているあるいは、経験したことがない、家長が中央に座って、おそらく手づくりの料理を前に、家族全員が語り合い、ゆっくりと食事をする晩餐のことです。
見える神であるイエス様が、家長の座にすわって、家族全員が、イエス様と語りあえるのですから、こんなすばらしいことはありません。

でもほとんどの日本人は、イエス様がドアーをノックなさっているのに、それが聞こえないのでしょうか。

あるいは聞こえていても、イエスと言う人が我が家にいたら、窮屈で、したいこともできないからと、居留守を使っているのではないでしょうか。

しかしイエス様に、入ってきていただきたいと思う人は、戸をあけます。
そのとき、牧師は、次の祈りを共にし、受け入れを助けますます。

イエス様を受け入れるために、することは,

(1)自分が罪人であることを認め、
(2)その罪から離れたいと心から願い、
(3)イエス・キリストが十字架の上で「私のために」死んで、墓からよみがえってくださったことを信じ、(これが信じる意味ですが)
(4)聖霊によってイエス・キリストが自分自身の生涯にお入りくださるようにお招きします。

そのための祈りは、

「主イエス様、私は自分が罪人であり、あなたの赦しが必要であると知っています。
私はあなたが私の罪のために死んでくださったことを信じ、罪から離れたいと思います。
今、私の心と生活の中に主として、救い主としてお入りくださるようにお招きします。
私は自分の生涯をあなたにお委ねし、教会の交わりの中であなたにお仕えします。
私の祈りを聞いてくださったことを感謝します。」

です。これを「イエスを受け入れる祈り」といい、クリスチャンになるための最初の約束で、かつ生涯の約束です。

この祈りをすることを拒む人、また、その内容をまだ納得できない人は、クリスチャンではありません。
しかし、そうであっても聖書を勉強するのが好きな人もいます。でもそれは知識を得るだけで、どんなに知識が広まり、また深まっても、罪からの救いは与えられません。
ということは、神からの何の力も与えられることなく、「自己中心」に生きているに過ぎないことになります。

多くの牧師が励ますように、「教会に来るから。あるいは聖書を読んでいるから、クリスチャンなのではない」のです。

その逆に、まだ聖書知識に乏しくても、「私の心と生活の中に主として、救い主としてお入りくださるようにお招きします」と本心から言える人は、罪から救われ、神からのすばらしいエネルギーをいただいて「神中心」に生きることができるでしょう。

神中心とは何か?そのことを伝えるのが、メルマガ「今日もイエス様と共に」の目的でもあります。

■でも「成長するクリスチャン」となると違います。聖書は次のように、厳しく教えているからです。

ヘブル
5:12 あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。
5:13 まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。
5:14 しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。

このような厳しい警告にもめげずに、「成長するクリスチャン」の読者になってくださっている方が多くいらっしゃいます。

さらに聖書を引用するならば、もっと厳しい励ましもあります。

ヘブル
 12:4 あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。

 12:5 そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。12:6 主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」

注)箴言 3:11 わが子よ。主の懲らしめをないがしろにするな。その叱責をいとうな。 3:12 父がかわいがる子をしかるように、主は愛する者をしかる。

 12:7 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。

 12:8 もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。

 12:9 さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。

 12:10 なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。

 12:11 すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。

これらの聖書箇所を読んだ初心者の方は、恐れをなし、「私なんかとてもクリスチャンになれない」と、成長をあきらめるのです。

ここが、成長する(できる)クリスチャンとそうなれないクリスチャンの分かれ道です。

さらにある初心者は、「神中心」という言葉を聞いたとき、抵抗を感じ、私は自分を失ってまでクリスチャンになりたくないと言います。自分を捨てれば神からの豊かな力が与えられ、その力をいただいて、すばらしい生き方ができるのですが、このことがなかなか理解できないようです。

今日の若者の中には、成長したくない、大人になりたくない、いわゆるモラトリアムの状態にある者がいると言われていますが、モラトリアムのクリスチャンもいます。

「神中心」とはどんなことでも、よく祈って、神様に相談して決め、神様と共に生きることです。
「自己中心」とは、その反対で、神の御心を知ろうとはせずに、自分の考えだけで決めることです。
キリスト教嫌いの日本人には、「神なんかいない。いるとすればこの私だ」と言う人もいますが、自己中心の最たるものでしょう。

教会に2年以上も通っているのに、洗礼は納得してからとおっしゃる方は、自己中心から離れられない人です。でも洗礼を受けた人が完全に神中心か?といえば違います。
クリスチャンとして成長するとは、たとえ徐々にであっても、自己中心から神中心へと、神によって変えられることなのです。
初心者の皆様、安心してください。

でも、中には、適当に神中心、適当に自己中心であったり、クリスチャンとしてのたてまえは神中心であっても、本音は自己中心という方も教会にはいらっしゃいます。

つまり分類すれば、教会には次の3つのタイプの人(★, ☆, △)がいるのです。

★ 神中心である、あるいはそうありたいと切に願っている −> 成長するクリスチャン   −>神からいただくエネルギは、日々増大する

☆ 教会では神中心、日常生活では自己中心 =建て前は神中心、本音は自己中心
   −> 成長が遅いクリスチャン
   −> 神からいただくエネルギーは小さい

しかし、日常生活でも、自己中心から神中心へとその比率が増大すれば、それに応じて神からのエネルギーも増大し、☆−>★への変化が見られるようになります。

△ 自己中心的に聖書を学ぶ −> 聖書知識を持つだけで、そのままでは、クリスチャンとは言えない

しかし教会にとって、★, ☆, △ のいずれの人も大切なのです。それはある日突然に、奇跡が起こっ、て神がその人を変えられるからです。
私はそういう人を多く見てきました。
私の書き込みもそのことをわきまえてですが、使徒パウロも言っています。

ローマ
14:1 あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。
14:2 何でも食べてよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜よりほかには食べません。
14:3 食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。
14:4 あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。

ローマ 12:3 私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。

12:4 一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、12:5 大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。

1コリント
12:20 しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。
12:21 そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこともできません。

12:22 それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。

12:23 また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、

◆12:24 かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。

12:25 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。

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