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三島由紀夫の総合研究

創立35年の老舗「三島由紀夫研究会」の会報を兼ねた、あらゆる角度からの総合研究メルマガ

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三島由紀夫研究会メルマガ

2019/10/25

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『三島由紀夫の総合研究』(三島由紀夫研究会 メルマガ会報)
   令和元年(2019)10月26日(土曜日)
        通巻第1375号  
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三島研究会「公開講座」講演録
          令和元年9月20日(アルカディア市ヶ谷)
                       宮田慶子(演出家)

魅力的な三島戯曲(その2)
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 能はもともと古くは猿楽からスタートしました。室町時代の観阿弥、世阿弥を通過して体系化されていったものですけれども、能の特徴としては、主役中心形式があり、シテ方が中心でいろんな説明は地謡がしていくという特徴があります。それから、テーマが決まっていまして、神・男・女・狂い・そして鬼というだいたいこの五つの分類に分けられます。この五つの要素をそのまま盛り込もうとしているのが近代能楽集でした。さらには、能と同時にギリシャ悲劇への造詣というものを同時に盛り込みたかったのではないか。特に一作目に書かれた邯鄲を見るとそのことを強く感じます。三島さんが近代能楽集を書くにあたって寄せた言葉を二つ紹介します。

 『能楽の自由な空間と時間の処理や、露わな形而上学的主題などを、そのまま現代に生かすために、シチュエーションのほうを現代化したのである。』「近代能楽集あとがき」
『私の近代能築集は、韻律をもたない日本語による一種の詩劇の試みで、退屈な気分劇に堕してはならないが、全慢に、時間と空間を超越した詩のダイメンシヨンを舞蓋に実現しようと思つたのである。いまのところそれは一向に成功してをらない。』「卒塔婆小町覚書」

▲近代能楽集の魅力と企み

近代能楽集の中の作品について、それぞれを見てみましょう。
「邯鄲」はよくご存知の邯鄲の枕の話です。ある枕で寝て自分の一生を全部見たものの、それは飯の炊けるまでのわずかな時間であったという話です。
近代能楽集では「邯鄲」にだけ合唱が入っています。これはギリシャ悲劇におけるコロスを意識なさったのだろうと思っています。同時にこのコロス達は、仮面を被るという指定が入っております。仮面というと能面との比較がいろいろ説かれておりますが、私はギリシャ悲劇における仮面の方がイメージに近いのではないかと思っています。時空の飛躍の構造は謡曲と同じで、眠ったら夢の中に入っていった。ただ謡曲と違うのが、主人公がとてもシニカルなことです。ほとんど人生を諦めているような、生意気な18歳です。原典の邯鄲は、人生の本当の意味を求める青年が旅に出る話なのですが、ここではほとんどもう人生を投げやりになっているような青年が主人公です。

そして最後に、老国守という人が出て来て、生きようしたことがないからお前はだめなんだという説教をします。リーディングや上演をしようとするときに、この辺が演劇的には難しいところです。大変失礼ながら、最初にお書きになったということなのか、いろんな冒険が盛り込まれているんですが、最後に説教的になったのはもったいないなあと思うところです。実はこの邯鄲は、言葉が硬かったり、文体がばらばらに混在しています。無理な現代化をしようとしたのかとも思ったりします。それから最終景で女中の菊だけが残り、主人公が最後の最後に袖(舞台の見えないところ)に行ってしまうところも、余韻の残し方に技が必要です。

 「綾の鼓」の特徴は、設定が舞台の上では上手と下手の二つに分かれておりまして、下手は法律事務所。これがト書きでは、古ぼけた部屋、善意の部屋、真実の部屋とされています。 一方の上手の洋裁店は、最新流行の部屋、悪意の部屋、虚偽の部屋、大きな姿見があると書いてあります。この観念的な対比を舞台上で具現化するという指定ですが、一体に、善意と悪意というものを、どうやって舞台装置で表現するのかという問題は、演出家を含め装置家にとっても、腕が試されるところです。ただし、邯鄲に較べると写実的な台詞回しが多く、特に洋裁店の方は俗っぽさをうたっていますので、喋りやすい台詞にはなっています。 この戯曲のもう一つの課題点は、現実的な場面が5分の4くらいあり、最後の最後に亡霊と女主人公の華子が出会うところがわずか5分の1だということです。ここで現実から幽玄の世界に入るのですが、主題は実はこちらにあり、急展開を成立させるダイナミズムが必要になります。

「卒塔婆小町」の老婆の演じ方にはいろいろあり、途中で絶世の美女になるところで、具体的に衣装を着替える演出方法を取ることがあります。エンタテイメントにはなりますが、私は本来は着替えるべきではない、老婆は老婆の姿のまま鹿鳴館に行くべきだと思っています。台詞の力だけで、絶世の美女であると詩人の目には映っていくことがはっきり見える方が本来の主旨ではないかと思っています。ここで時空の飛躍がありまして、「邯鄲」や「綾の鼓」のように、夢とか幽霊とは違って、想念の世界へ飛ぶということに演劇的な力強さがあります。そして、世俗的な恋人たちは、その場にいる登場人物であると同時に、構造的な愛の不毛とか世間の通俗さを全部表現してくれていますので、これも新しいコロス像になっています。

「葵の上」は病室でヨットが出るのをどのように表現するのか、演出家が皆知恵を絞る所でもあります。ヨットを出すのか、映像を使うのか、あるいは巨大な布が出るのかと、いろんな形で行われています。さらにそこから、場面が湖に変わってくところも難しいところです。
また、看護婦の存在をドラマの支柱と資料に書きましたが、私はこの看護婦が実に個性的でとても好きです。シニカルで、メロドラマを客観的に眺める視点でもあり、その世界そのものの怪しさを担ってもいます。

「班女」は、謡曲では地謡で語られる絵描きの実子に視点を移しているところがとても面白いと思います。

「道成寺」は、原典の鐘を箪笥に置き換えています。原典ではあからさまにヘビになる話ですが、ヘビは嫉妬やいろんな表現のときに使いますが、能だけではなくて、キリスト教等でも同じように扱われ、世界共通で面白いと思ったりします。箪笥の中に貼られた鏡で己の姿を見て恐れおののく、と言う展開はとても西洋的でもあります。

「熊野」については、常に三島さんの戯曲は「幕切れの一言」が、それが書きたいがためにこの戯曲を書いたのではないかと思われるほどに魅力的なのですが、宗盛の幕切れの台詞も素晴らしいです。
自分の首に捲かれた熊野の腕を軽く解きほぐし、その手を握つたまま、女の顔をやや遠くから見つめて、「いや、俺はすばらしい花見をしたよ。・・・俺は実にいい花見をした。」
すべて嘘とわかっていながら、相手の嘘を全部見守ったあげく、その心の動きが実に面白かったという、最高に意地悪な台詞だと思います。この台詞によって、すべてのどんでん返しが来るような台詞です。

 「弱法師」も最後の台詞が素晴らしいですね。熊野と弱法師の最後の一言というのは絶品だと思っています。盲目の俊徳が最後に孤独な中で、「僕ってね・・・どうしてだか、誰からも愛されるんだよ。」
空襲の猛火によって眼を焼かれ、この世の終わりを見てしまった俊徳が、「地獄を見た」ことを得意になって奢ってゆくさまがずっと描かれるのですが、その最後に発せられる「誰からも愛されるんだよ」という言葉は、俊徳の深い孤独な心と虚栄心を映し出す絶品の一言だと思います。

「源氏供養」は、後に作者により近代能楽集から外されました。題材としてアダプテーションすることが間違いだったという発言がありましたが、なぜ廃曲となったのかの真意はつかみ切れておりません。

女流作家野添紫の幽霊が主人公で、彼女が書いたベストセラーの主人公である藤倉光が小説の末尾で投身自殺を遂げる岬に彼女は現れます。彼女は青年たちに、藤倉が崖から投身する様子を繰り返し見せますが、投身を繰り返す藤倉光と見えていたものが、実は廻転する灯台の光りに過ぎなかったことに気づきます。野添の「安手なトリック」に幻滅した青年たちは、野添の小説本を放り投げ、笑い飛ばして幕となります。

▲三島戯曲を演出するということ 

三島さんの戯曲の現場的な難しさは、なんといっても「台詞」にあります。美しく論理的で、どの言葉も裏側が複雑に深く込み入っていて、表面的な台詞はどこにもありません。登場人物たちのある種のねじれたプライドであるとか、皮肉であるとか、愛憎であるとか、自尊心であるとか、ありとあらゆる嘘や空想やすべてのそういうものが、台詞の一つ一つによって、登場人物たちの言葉の裏に隠されています。

それを納得し言葉に込め、なおかつ最終的には、さらりと美しく発していかなければいけません。何よりもそのことが、現場の俳優を悩ませます。そのためには、先ほど申し上げましたように、今サド侯爵夫人をやれる俳優がいるだろうかと思うほどに、とんでもない技術が必要になります。

演出家として、特に若い俳優たちに伝えている「台詞表現の五原則」があります。

1.強弱
2.高低
3.緩急
4.硬軟
5.音色(ねいろ)

 台詞とは、これだけの要素を縦横無尽に、全部使いながら発せられないと美しく発声できないのです。よく俳優たちは役作りということをいいます。一生懸命にその人物の人生であるとか心理の綾であるとか、人となりや個性、これが例えば俊徳であれば、なぜこういう青年になったのかとか、いろんなことを考えていくのですが、それらを腹に落とし込んだ上で、最終的に表現するときには、先ほどの五原則を駆使できないと三島さんの台詞は喋れないのです。
単に人物造形をしたから演じられるといったそんな甘いものではありません。それを作った上でなおかつ、戯曲としての美しさというものを表現してもらわないと、演出家もそうですし、お客様も納得なさらない。ここが俳優たちにとって一番高いハードルだと思います。

▲演劇というダイナミズム

 それと同時に台詞だけではなくて身体性。舞台は当然生身の全身をさらします。それだけの台詞を喋りながら、なおかつ存在の華やかさであるとか、清らかさであるとか、時にはまっすぐな雄々しさであるとか、それから場合によっては深い卑屈さであるとか、そういうものも全部身体表現としてできていかないと、三島さんの言葉には太刀打ちができません。また、役に対する掘り下げの力、理解力、それが取りも直さず俳優にとっては一番大切な人間造形力となります。

俳優はただ台詞が喋れればいいわけではなく、いつも言うのは、リアリズムに頼れというわけではなく、俳優の生身が舞台に乗る限りは、虚構の中に生きていられる存在感ということの裏付けを取らなくてはいけないので、やはりあたかもその人物がそこにいるようなところまで、役に対する理解をしていかなければいけません。三島さんの作っている各人物が、なんとややこしいことか。どの役もこの近代能楽集だけでなく、どれもこれも、本当に人間ってこんなにも複雑で、自分自身に対する懐疑的な要素や、ものすごく高い自尊心や、いろんなものが渦巻きながら人間が成立しているんだということに挑戦していくことが求められるので、俳優たちは本当に苦労します。同時にそれは、演出家の立場としては、なんとか俳優からそういったものを引き出したいという思いでいろんなことをサジェスションしていきます。ここが一番三島戯曲に挑戦しがいのある面白いところだと思うのです。   

 ただし、私のような演出家の立場でいうと、舞台というとてもリアルな空間の中で、夢幻に飛ばなきゃいけない、鬼が成立しなければいけない、そういうことに対してどういう演出をしたら成立するのかということも同時に課題となります。今は舞台技術が大変発達していますので、例えばプロジェクションマッピングの映像技術で、舞台上の“見てくれ”を変えることはなんでも出来てしまいます。映像を使えば、閉まっているドアを開けることも、人物が空中を飛んでいるように見せることもできます。現実の装置が一瞬にして廃屋に変わるなんてこともできるのです。ただし、それをやってなんぼのもんだということも同時に思うのです。演出家としては逆にいえば、いかにそんなことをしないで時空を飛ばせるかというのがまた、正しい挑戦の方法であろうと思っています。そこでやはり、三島さんの戯曲というものを、映像とかCGに頼らず、舞台機構に頼らず、非常にアナログな方法で人間の想像力だけを頼りに作っていくっていうのが、演出家にとってはとても大きな挑戦になります。

 近代能楽集でいいますと、30分から60分くらいの間で、どれだけドラマティックな空間を作れるかというのも大きな挑戦です。「ドラマとは落差である」ということを演出では修行時代に教え込まれます。ギャップです。何かの状況があって、スコーンと落ちる、スコーンと上がる、このギャップがあればあるほど、ドラマティックであるということをいわれていまして、若いころからいかにこの落差を明確にそして個性的に作っていくかということが演出の使命としていつも考えさせられています。

いい人に見えていた人が一気に鬼になるとか、悪い人だと思っていた人間が善良に改心していくとか、正しいと思っていたことが観客の心の中で不安要素になっていくとか、この落差をいかに作っていくかというようなことをいつも考えています。

▲幕切れの一言に向かって

 三島さんはラシーヌにも造詣が深く、西洋の演劇技術も積極的に取り入れています。近代劇の場合にはコロスの扱いが全体像としてではなくて、一人一人の顔を持つアンサンブルになります。三島戯曲の中での、コロスの要素を持ちながらもアンサンブルの要素をも持ってくるという使い方、脇の人間一人一人にもきちんと人生を作らなければいけない、そして主張しすぎない範囲内で人物たちの存在意味を成立させるという課題も演出家がいつも背負うことであります。

 それからとてもわかりやすい演出の苦労としては、先ほども申し上げたように、サド侯爵夫人をいまだれができるのか、葵の上の六条康子を今だれができるのか、それからどうしても三島さんの本ですと、(ここに女優さんがいたら怒られますけれど)、私はやはり美女は美女でやってほしい、美女の女優さんがほしい、ということもあります。時には、美しく凛々しい青年がほしいといったキャスティングの悩みというのも、非常に現実的な話ですが、実は演出家やプロデューサーの中にはあるのです。そんな悩みやハードルもありながら、三島さんの戯曲というのは、我々の憧れなのであります。

 そして何と言っても「幕切れの一言」。いつもこの一言に本当に辿り着けるのかどうか、この一言のために三島さんが戯曲をお書きになっていて、我々はちゃんとこの一言をお客様に伝えることができるかという切実な思いで三島さんの戯曲にいつも取り組んでいます。
私の大好きな「朱雀家の滅亡」の最後の場面では、十二単を来た璃津子が経隆に対して、「滅びなさい。滅びなさい。今すぐこの場で滅びておしまひなさい。」といいますが、それに対しての経隆がゆっくり顔を上げて璃津子を注視、そして間があって「どうして私が滅びることができる。夙うのむかしに滅んでゐる私が。」と返します。私はこの台詞に向かうたびに震えるような感動を覚えます。なんて美しい台詞でしょうか。この一言。この一言で、三時間かけて作り上げてきたドラマがすべて謎解きできると同時に、深く澄み切った、荒涼とした世界の底に落とされるような気もします。この最後の一言は、我々の憧れでもあり目標でもあるのです。

 鹿鳴館の「耳のせゐだよ、それとも花火だ。さうだ。打ち上げそこねたお祝ひの花火だ」。サド侯爵夫人では、ずっとずっと待ちわびて、何十年待ちわびていた夫がぼろぼろになって帰って来たときに、家政婦にこう言います。「お帰ししておくれ。さうしてかう申し上げて。『公爵夫人はもう決してお目にかかることはあるますまい』と。」

 是非ともいろんな三島戯曲を読んでいただき、最後の一言を、戯曲の面白さを味わっていただけたらと思います。三島さんには55本の戯曲があること、その中のとても大事な時代に近代能楽集が書かれたということ、そしてそれぞれが深く人間の深淵に踏み込んでいるということ、戯曲のいろんな挑戦を三島さんがなさったということを感じていただけたらと思います。
我々演劇人にとって三島戯曲とは、今も高いところに輝く憧れの星です。折があれば、また「朱雀家の滅亡」も演出してみたいと思いますし、リーディングで残る一本の「班女」を、また山中湖でやらせていただけたらと思っています。
 
 (みやたけいこ氏は平成22年(2010)から30年8月まで新国立劇場 演劇部門芸術監督。28年4月より公益財団法人新国立劇場演劇研修所長。また公益社団法人日本劇団協議会常務理事、日本演出者協会副理事長)
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◎事務局よりお知らせ   ◎事務局よりお知らせ
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三島由紀夫氏追悼 第四十九回 追悼の集い『憂国忌』の御案内
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 ことしも憂国忌の季節となりました。三島由紀夫先生の没後四十九年にあたり、政界、言論界でも「最後の檄文」の主張にもある憲法改正の方向性が出てきました。
また去る五月新帝が御即位されて令和の御代となりました。今秋には大嘗祭が執り行われますので、本年は「三島由紀夫の天皇論」をテーマとするシンポジウムを開催します。
万障お繰り合わせの上、ご臨席いただきますれば幸甚です。
 実施要綱は左記の通りです。                      
            記
 日時   十一月二十五日 (月) 午後六時 (午後五時開場)
 場所   星陵会館大ホ|ル (千代田区永田町二|十六|二)
 資料代  お一人 二千円 

<プログラム>                       (敬称略、順不同) 
午後六時  開会の挨拶     三島由紀夫研究会代表幹事  玉川博己
                   
 シンポジウム  「三島由紀夫の天皇論」
               金子宗?、荒岩宏奨、藤野博、菅谷誠一郎 
 追悼挨拶    「憲法改正の時が来た」 参議院議員   中西 哲  
午後八時十五分    閉会の辞  全員で「海ゆかば」斉唱    
        (なおプログラムは予告無く変更になることがあります。ご了承下さい)
(憂国忌代表発起人)(五十音順)入江隆則、桶谷秀昭、竹本忠雄、富岡幸一郎、中村彰彦
西尾幹二、細江英公、松本徹、村松英子
(実行委員会責任者 宮?正弘 研究会代表幹事  玉川博己)

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墓前報告祭の予定が決まりました。
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毎年「憂国忌」を終えて、多磨霊園の平岡家墓前における報告祭ですが、ことしは下記の通りです。

とき    12月1日(日曜) 午後二時
ところ   多磨霊園 平岡家墓前
集合場所  多磨霊園正門前「よしの家」(1330)
      墓前祭は神式で行われ、お一人づつの玉串奉奠があります
      終了後の直会に参加される方は会費千円か、二千円ほど。

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新年の公開講座が決まりました。
令和二年初の公開講座は下記の要領です。

とき   令和2年1月20日(月曜) 午後六時半
ところ  市ヶ谷「アルカディア市ヶ谷」
講師   長田育恵(劇作家、脚本家、劇団ユニットてがみ座主宰)
演題   「『豊饒の海』の舞台化」(仮題)。
参加費  おひとり2000円(会員は千円)
     講師の長田氏は早大卒、文化庁芸術祭賞。鶴屋南北戯曲賞を受賞。
また『豊饒の海』上演で、紀伊国屋演劇賞を受賞。
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  三島由紀夫研究会 http://mishima.xii.jp/contents/index.html
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