文学

三島由紀夫の総合研究

創立35年の老舗「三島由紀夫研究会」の会報を兼ねた、あらゆる角度からの総合研究メルマガ

全て表示する >

三島由紀夫研究会メルマガ <<清水文雄の国文学と教育(その2)

2019/09/03

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
『三島由紀夫の総合研究』(三島由紀夫研究会 メルマガ会報)
   令和元年(2019)9月3日(火曜日)参
          通巻第1364号   
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
三島由紀夫研究会公開講座講演録
令和元7月26日   於:アルカディア市ヶ谷 

清水文雄の国文学と教育(その2)
@@@@@@@@@@@@@@@@
                    展転社代表取締役 荒岩宏奨


 ▲ 日本浪曼派と三島をつないだ清水文雄

 三島が「私の遍歴時代」で「當時二本の絲が、私を浪曼派につないでゐた。一本の絲は、學習院の恩師、清水文雄先生」と述べゐる通り、三島と日本浪曼派をつないだのが清水文雄だつた。
 清水は日本浪曼派と深いつながりがある。清水らの『文藝文化』は昭和十三年に創刊したのだが、『日本浪曼派』の終刊が昭和十三年だつたこともあり、『文藝文化』は『日本浪曼派』の後継誌といふ捉へ方をされてゐる。

 日本浪曼派を代表する人物といへば、やはり保田與重郎である。
 清水は三島に保田の本を何冊か紹介してゐる。清水が保田との対談で次のやうに発言してゐる。

  清水 三島由紀夫が学習院中等科にゐる時、日本武尊について書いて来ましたので、保田與重郎氏に日本武尊についてのエッセイがあるから読んでごらんといつて「戴冠詩人の御一人者」を教へてやりました。さういつたところから、多分日本浪曼派の詩情に深く触れて行つたのだと思ひます。それで保田さんのお宅にもお訪ねする樣になつたんですね。(『保田與重郎全集 別巻四』「日本浪曼派とその周辺」)

 清水が三島に『戴冠詩人の御一人者』を薦めたやうだ。
 そして、三島は保田の文章に影響された。三島が東に宛てた手紙を見てみよう。

 「文芸文化」の創作、およみ下さつたさうでありがたう存じました。第一回あたりまでは、活字でよむと原稿よりよい気がしてをりましたが、第二回あたりからそれと反対になつて、何もかもイヤになつてしまひました。外国語と日本語の相違もお説のとほりと存じます。たゞ私としては、さういふ抽象的概念的な言葉を詩語のやうに取扱ひたく思ひましたので、そんな言葉に詩味を感じたのは、リケルや保田与重郎の影響だつたらしいことは、蔽ふべくもありません。(『三島由紀夫十代書簡集』「昭和十六年十一月十日付 東徤宛」)

  ここでの「創作」とは「花ざかりの森」のことである。「花ざかりの森」を読んだ東から意見が来たことに対しての返信で、保田の影響があると書いてゐる。
 その保田のもとに三島を連れていつたのが清水であつた。清水は三島に保田與重郎の『和泉式部私抄』を薦めてゐる。
 三島が清水に次のやうな手紙を送つてゐる。

  このあひだおすゝめいただきました「和泉式部私抄」たゞいまよみをはつたところでございます。保田氏が式部をどのやうな方法で現代に連関させてゐるかに興味をもつてよみはじめましたが、氏の独自の文化批評が王朝と今日との連関のすがたに、いきづまるほどはげしい花やかさを展いてをられるのに一驚し、そのなかに式部の俤がかつてないあざやかさをとりながら、高まつてゆくありさまをこよなく存じました。(『師・清水文雄への手紙』昭和十七年六月十四日付)

 清水は『戴冠詩人の御一人者』だけでなく、『和泉式部私抄』も三島に薦めてゐる。その後、三島由紀夫は清水文雄を通して、保田與重郎に講演を依頼。おそらく、学習院での講演を依頼したのだと思ふ。

 昭和十七年十月二十日、三島は清水に次のやうな書簡を送つてゐる。

 では失礼ながら保田与重郎氏の御講演、もしおねがひできますれば、おねがひいたしたう存じます。(『師・清水文雄への手紙』昭和十七年十月二十日)

 そして、三島は清水文雄とともに講演依頼のために保田與重郎宅を訪れた。そのときのことを三島は東文彦に宛てた書簡で次のやうに書いてゐる。

 この間講演の交渉に清水文雄先生と、保田与重郎氏のところへゆきました。氏は毎晩仕事をはじめて徹夜し朝からおねになるのだそうですね。憂鬱な目つきと人なつっこい笑いと、温和な関西弁との、いかにも柔和な人でした。この人があの烈々とした文章を書くとハ思われません。(『三島由紀夫十代書簡集』東文彦宛、昭和十七年十一月十五日付)

  そして、訪問を受けた保田與重郎も、三島は清水文雄に連れられてきたことを書いてゐる。

 私が三島由紀夫氏を初めて知つたのは、彼が學習院中等部の上級生の時だつた。この最初のことを私は久しく思ひ出せなかつたが、去る年三島氏の自刃のあと、彼の恩師の清水文雄氏に聞かされた。清水氏が、彼を伴つて拙宅へこられたといふことだつた。これは私の記憶でなく清水氏の話である。中學生の三島氏のかいた日本武尊の論が、非常によく出来てゐたので、そのころ私も日本武尊のことを書いたあとだつたので、伴ひこられたのである。勿論當時中學生の三島氏は、私の文章を知つてゐたわけではなかつた。
 そのあと高等部の學生の頃にも、東京帝國大學の學生となつてからも、何回か訪ねてきた。(保田與重郎『作家論集』「天の時雨」)

 保田は、三島が『戴冠詩人の御一人者』を読んでゐないと思つてゐたみたいだが、清水の推薦ですでに読んでゐた。
 次の手紙から、清水が保田に講演を依頼するやうになつたことがわかる。

 ――先日はわざわざ御葉書をありがたう存じました。保田氏御依頼下さいますやうでおそれいります。カウエンをもしやつていたゞけますなら、何日頃にやつていたゞけますか、そのうち御うかゞいしたう存じます。では秋冷がふかまつてまゐりましたゆゑ御自愛のほどを。(『師・清水文雄への手紙』昭和十七年十二月六日付)

  清水は三島を連れて講演依頼のために保田宅を訪れてゐるのだが、もしかしたらそのときは具体的に講演を依頼したのではなく、まづは三島と顔合はせをして、その後講演依頼をしたのかもしれない。
 また、少し不思議なのは、三島が清水に保田の講演依頼をお願ひする手紙を送つてゐるのが昭和十七年十月二十日なのだが、その前の昭和十七年七月十日付で、三島は清水に保田與重郎の住所を教へる手紙を送つてゐる。

  今日は文芸文化頂戴いたし洵に有難う存じました。また昨日の歌会にはおいそがしいところを御出席下さいましてありがたう存じました。
 けふまた蓮田様より御葉書をいたゞきました。蓮田様池田様へよろしくお伝へ下さいませ。
 尚保田与重郎氏の御住所は
  淀橋区上落合二ノ八三四でございます。
 では暑熱の折柄御身御大切に。(『師・清水文雄への手紙』平成十七年七月十日付)

 いづれにしても、三島が清水に連れられて保田宅を訪れたといふことは三者ともに一致してゐるので、間違ひないだらう。

 三島は、その後も日本浪曼派人脈との交流を重ねてをり、そのことを清水に報告してゐる。
 年改まると共に、林氏が俄かの応召にて、御存知かと思ひますが、この五日に東京を発たれ、二日には、林氏と一日痛飲し、芳賀檀氏、保田与重郎氏を訪問しました。そのとき保田氏は肺炎から来た肺侵潤とやらで、気息えんえんとしてゐられるので、悉皆(すっかり)酔もさめて、夜遅く林氏の御宅の前で別れました。(『師・清水文雄への手紙』昭和二十年一月八日付)

 ここに登場する林氏とは、林房雄ではなくて詩人の林富士馬のこと。三島を浪曼派につないだ二本の糸のうち、一本が清水文雄で、もう一本がこの林富士馬である。ここに書かれてゐる林富士馬、芳賀檀、保田與重郎は、日本浪曼派系の文学者たちだ。
 この書状を受け取つた清水は、日記に次のやうに書いてゐる。

  林富士馬氏の応召は初耳である。平岡も良き友を得て幸せであった。この手紙でいふ所も一々首肯され、平岡も立派に仕上げられてきたと、見上げる思ひである。(清水文雄『戦中日記』昭和二十年一月十日)

  教へ子からの手紙を感慨深く読んだのだらう。
 このやうに、清水文雄が三島と日本浪曼派をつないだ。

 ただ、無闇に三島を文壇につないだわけではない。清水の日記の昭和十九年七月一日にはかう書いてゐる。

 手紙が添へてある。公威君からである。それによると過日「朝倉君」という十七枚ほどの小説を林君の奨めにより中河与一氏の所へ送ったら折返し同人になれといってきたが、如何しようかといふのである。その返事を九日以後舞鶴から帰るからその頃までに留守宅までくれといふのである。文藝世紀の同人とは好ましくないことである。入らないでおけと書いてやらうと即座に決める。
 好ましくない同人には入らないやうに促してもゐる。
 
▲ 三島との師弟交流

  三島は小説「花ざかりの森」を書き上げたときも、感想をもらふために清水文雄に原稿を送つてゐるが、他の作品についても清水文雄に送り、指導してもらつてゐる。

 三島が東に宛てた書簡で、次のやうに書いてゐる。

   ――今私「世々に残さん」を少しずつそれも一日半頁位いずつのかたつむりのようなスピードで書いておりますが、しかし有職故実のむずかしさには困ります。今まで出来た十二、三枚の内でも清水先生に既に「雑式」と「雑色」と、「笏で指している」を一寸した参詣には「笏」は使わないと訂正されました。こういう細かいところは一人で研究してもなかなかわかりませんし、一つところで停頓して調べたりしていると感興がとぎれて了いますしむずかしいものです。
 でも平家没落哀史というのは我々が子供ながらにもっている一つの雰囲気で包まれていますからその点やりやすいのです。まして鎧に身を固めた合戦の数日前に平安朝そのまゝの歌舞管弦が行われていたなんてなか??ロマンチックだと思います。

   清水先生は、世阿弥の「花」などから考えても日本の文芸の世界は、
    花←あわれ←  わび← まどい
            さび  なげき
   というように花がすべての上に咲きほこっているものと考え、その花の具現こそ「都」だという風に考える、と云っていられましたがなかなかの御卓見と思いました。(『三島由紀夫十代書簡集』東文彦宛、昭和十八年二月三日付)

このやうに清水は、非常に細かい指摘をしたり、深い考察を述べてをゐる。

 三島が東に次のやうなハガキを送つてゐる。

 さて雑誌の顧問の件、今日改めて清水先生にお願いいたしました処、御承諾下さいました。つきましては、御作(此度「赤絵」へお出しになる)及び徳川さんの「花粉」及び、拙作「祈りの日記」とりまとめお送りくださいませ。清水先生のところへおもちして御批評を仰ぎ徳川さんの採否なぞ、その御批評の結果、正式に決めるのがよろしくはございませんか。(『三島由紀夫十代書簡集』昭和十八年二月二十二日付葉書)
 三島は清水に、三島と東で発行する雑誌『赤絵』の顧問を依頼し、清水は引き受けてゐる。

 また、三島はさまざまな文学者と交流を持つが、そのことを清水に報告し、清水の発言を東宛の手紙に書いたりもしてゐるので、一通だけ紹介しておく。

  このあいだ志賀さんにお目にかゝった時のことを清水先生にお話したことがありましたが、その時、清水先生から実にいゝことばをうかゞいました。即ち「志賀さんのような人は古典としてみればよいのだ」と。このごろ、何かにつけて旧文壇排撃がかしましく、影山正治など藤村をみそくそにやっつけていたのに反して、かような見方こそ真の正しい立場ではありますまいか。(『三島由紀夫十代書簡集』東文彦宛、昭和十八年九月十四付)
 
このやうに、清水は三島から非常に信頼され、頼りにされ、三島にとつては、本当に「よき師」であつたといふことがわかる。
 また、清水も三島の才能をより引き出す教育をしてゐたやうに思はれる。
 清水と三島はこのやうな師弟関係を築いてゐた。

 ▲ 東宮殿下御教育案

  さて、清水といへば三島の恩師といふことで取り上げられることが多い。世界的著名人となつた三島が多くの文章で恩師・清水文雄について触れてゐるので、当然といへば当然のことだと思ふ。しかし学習院時代の清水は、皇族方の御教育と東宮殿下御教育案の作成にも関はつてゐたのだ。
 昭和十八年一月一日、清水は宮中に参内。清水の日記には次のやうに書かれてゐる。

  十時三十五分参内。殿上に列し、大君の尊顔を拝し、感泣。宮内官としてのかかる光栄に狎るるなからんことを、年頭に当り誓ふ。(清水明雄編『清水文雄「戦中日記」』)

  「大君」は昭和天皇のことである。当時の学習院は私立学校ではなく、宮内省の外局だつた。この年、清水は歌会始の陪聴も仰せつかつてゐる。一月二十五日の日記にはかう記してゐる。

 廿八日行はれる歌会始の儀陪聴((ばいちょう))仰付けらるる旨、式部長官子爵松平慶民((まつだいらよしたみ))氏より通達あり。うれしきことこの上なし。長年の念願かなひし也。

 そして、二十七日の日記には「明日は歌御会始陪聴の日。今日より心身清めて、ひたすらに待つ」とあるのだが、歌御会始当日の二十八日は、日付のみで何も記載されてゐない。

 一月十一日の日記には「院長のところで、皇族御教育案起草委員会集り、先日の問題を話す」と書かれてゐるので、清水も皇族御教育案起草委員だつたのだらう。そして、御教育案を起草するだけでなく、実際に御教育にもあたつてゐた。

 昭和十九年九月二日の日記に清水は次のやうに記してゐる。

 本日午後三時半妃殿下に拝謁仰付けられる御旨をうけてゐるので、少し早いが一時に工場を出て宮家に向ふ。(略)御門に参着したのが三時にまだ五分位あるとき。三時半までにはまだ相当時間があるが、案内を乞ふ。見知らぬ御老人が出て来られ、来意をつげると直ちに一室に招ぜられた。間もなく長沼氏が見えて、おしぼりをお持ち下され、上衣をぬいで汗をぬぐふ。そこへ事務官も挨拶に見える。やがて三時二十五分頃長沼氏お奥の御都合を伺ひ、正三時三十分に奥の一室に伺ふ。すでに妃殿下、俊彦王殿下は御出ましになってゐる。恭しく御成績表を提出し、それについて御下問に奉答し、特に修練の内容については、詳しく申上げる。それから御体位が向上遊ばされたこと、進んで一般学生と同様に遊ばされようとなさる御思召しに一同感激致してゐること、士官学校の要求に基き、御苦痛でも修練作業の間も学課の御補習をつゞけていって頂きたいこと、等を言上する。

  俊彦王殿下とは東久邇宮稔彦(なるひこ)王の第四子。
 また、久邇宮の邦昭王、賀陽宮(かやのみや)治(はる)憲(のり)王の師でもあつた。

 日記には、清水が学習院教授であることの覚悟と義務を書いた一文があるので紹介する。昭和十九年九月十七日の日記である。

  今朝は四時頃床の中で目がさめ、一つの皇宗に昂奮を覚え、到頭眠らず了ひ。その構想といふは、学習院有志による、有事の際の皇城防衛隊の組織についてである。先づ、古沢、瀬川の二人を近く呼んで、意中を打ちあけ、彼らに学生の同志を募らせ、小生は先づ高等科の磯部教授を説き二人が中心となり、山本修教授も相談相手として参加してもらふ。有事に際しては武装して皇城に駆けつける。その団体結成に当りては程々の障害があることは自明なれど、慎重にその障害の在所を極め、決意と熱意とを以てそれを排除して邁進せねばならぬ。職を学習院に奉じ、学業を学習院に受くる者の、報恩の道は此の外にないと信ずる。その隊名を自分流に命名するとすれば「清明隊」と呼ばん。上に「学習院」と付する必要はなからう。清明隊の結成及び任務遂行に当りては十分の自信がある。

 このころの学習院は、皇室の藩屏であるといふ自覚があつたが、清水にはさらに強い自覚を持つてゐたのだといふことがわかる文章である。
 昭和十八年から、東宮殿下御教育案の作成にも関はることになる。七月二十九日の日記にかう書かれてゐる。

 七月二十九日
 午過山本修教授より電話あり、白馬登山に出発の前に一度会ひて話したき事ありといふ。言葉に従ひ、夕刻六時頃山本教授官舎に参上。用向きの大要左の如し。今回中等科校舎を喜多見御料地内に移築することは一先づ延期となりたり、従って、東宮殿下の御学問所は目白の学習院内に設けらるることヽなる、それに伴ひ、中等科御利用の学課目、時間数並に御学問所に於ける学課目、時間数等につき至急調査研究し、在沼津御用邸の石川傅育((ふいく))官と折衝すべしとの院長よりの命なりと。
 固よりその任に非ずと自省すれど、山本教授と共にすることなれば、すべて同教授の指導に任すこととして、承諾す。

 ここでの東宮殿下とは、現在の上皇陛下のこと。このとき、上皇陛下は学習院初等科四年に御在学あそばされていらつしやつた。中等科にご進学なさるのは、三年後の昭和二十一年のこと。傅育官といふのは教育係である。石川傅育官とは石川岩吉といふ人物で、戦後は國學院大學の理事長兼学長に就任してゐる。そして、このときの学習院長は、元海軍大将の山梨勝之進といふ人物だつた。

 清水と山本は院長より、石川傅育官と折衝するやうにといふ命を受けたのだ。
 そして八月三日の日記は、次のやうに書かれてゐる。

  八月三日
  夜七時過山本教授官舎に参上。
  沼津なる学習院遊泳場に滞在中(本夕帰京)の院長より山本教授に対する書信に来る十日沼津御用邸に拝趨、石川傅育((ふいく))官と具体的交渉をなすべし、その大体の着眼点は左の三点なり、
   1 御単独の御学習
   2 少数の御学友と共に遊ばさるる御学習
   3 普通教室に於ける御学習
  右の各に於ける学課、時間の振当につき考究するやうにとの御文面なり。かつて清水二郎教授の東宮御学門所に関する調査をなせしことあり、その調査書、山本教授の手許にあるを参照しつつ、種々意見の交換をなす。明朝院長に面会の上、種々指示を仰ぐこととして、十一時過辞去す。

 そして、翌日の日記には、

 八月四日
 午後九時三十分院長室に出頭、既に山本教授は対談中なり。院長の談話の内容は昨夜見たる書面と大体同様なり。六日朝九時五分東京発の汽車にて沼津に着けば、御用邸の自動車迎へに出てゐる筈とのお言葉。

  さて、石川傅育官とどのやうなことが話し合はれたのかが気になるところなのだが、昭和十八年の日記はこの日で終はつてしまひ、この日以降は記述されてゐない。したがつて、八月六日に御用邸に参内したのだらうが、残念ながら具体的にどのやうな内容が話し合はれたのかといふことについてはわからない。

 次に御教育に関することが書かれてゐるのは、昭和十九年六月二十六日。

   院長室に出頭すると、折柄星大佐(配属将校)来談中。暫く衝立((ついたて))の陰に待つ。星大佐と入れ替りに院長の前に出る。用件は、過日山本教授に授けられた要務につきての事。即ち、東宮殿下御修学科目中、主として歴史の取扱について如何にすべきかの意見を求められたのである。原案では現行中学校教授要目に準拠して、一、二年に東洋史、西洋史、三、四年に国史を御修め願ふことになってゐるが、院長の考では、一、二年といふ大事な時期に国史からお離れになることは何としてもよろしくないと思ふが、どう思ふかとのこと。その点全く賛成の意を表す。その事は国語と漢文の場合にも当てはまる、又国語と英語の場合も同様である旨小生の意見としてのべる。その他担当教官の振当て方(老大家本位か否か等)等につきても意見を求められたが、この方は小生などの余り口にすべきことではないが、何れにせよ、第一級の人物を広く天下に求める方針の方よろしからんとのみいふ。一時十分頃辞去。作業場に至る。今日は秋山教授監督して下さるさうで、それではとお任せして、高等科の教官室に山本教授を訪ひ、高等科会議室の一隅の卓子によって、院長の命令事項を検討して如何なる点から着手するかを相談する。先づ別表一の「御受業種別表」についてみる。

   ?.御単独ニテ遊バサルル学課
     修身、作文、和歌、書方、馬術
     国語、歴史(国史)
   ?.御学問所ニ於テ御学友ト共ニ遊バサルル学課
     外国語、数学、物象
   ?.学習院ニ於テ普通受業御利用ノ学課
     地理、生物、図画、教練、武道、体操
     国語、歴史(東洋史・西洋史)、工作
     (普通ノ中学校課程ノ内、音楽、修練ヲ除キ、和歌、馬術ヲ加フ)

   右表の内、第三種に属する歴史(東洋史、世界史)を第一種に入れ、同時に第一種に属する歴史(国史)を全期間御修学といふことにしたらといふことを先づ問題とする。或は東洋史、世界史は三、四年に当てるといふ方法もある。そこは専門の学者にはかった上できめることにする。その他は右の表に基き、修身、数学、物象を山本、国語、作文、和歌、書方を清水担当にして、今上陛下御学問所時代の御教科書其の他によりて調査することにして、二時四十分終る。それから二人で庶務課に至り、明日から殿下御控室の戸棚に蔵せられてゐる御教科書を被見することにしたから、その戸棚の鍵を拝借しておきたいといふと、別に鍵はかヽってゐないとのこと。ともかく明日から暇々に右室に至りて調査することにする。

  次に御教育のことが登場するのは七月十一日。

  昼食のとき、院長が山本修教授と小生に院長室に来いとの達しで、0時四十五分出頭。東宮殿下御教育要目の件につき、沼津御用邸で傅育官と打合せられた結果、左のごときにつき達示ありたり。
一、来月初旬日光玉沢御用邸に両人参上して、傅育官と凝議すること。
二、それまでに大体の要項を立てておくこと。そのため今月中に自分の手許までそれをとヽのへて提出のこと。
 三、修身、歴史は根本となるもの故特に慎重を期すること。歴史については児玉教授の意見も両人とは別個にきくが、それはそれとし児玉教授を加へ三人で相談してもよし。場合によりては三人で御用邸に参向してもよし。

 以上のやうなことを申され、最後に、昨夏「東宮殿下御教育案ニ関スル覚書」が宮内省当局者の間に物議の種をまいたことにつき、傅育官の方々にきかれたところによると、特にあの文面に直接触れたことではないが、御教育の根本方針として、狭隘に一方的に偏することがあってはならぬ、国粋主義に傾くのがいけないと同じく、国際主義に堕してもいけない。大東亜の延((ひ))いては世界を荷ふ日の本の天子としての宏大なる御人柄が要望される訳だからすべてその見地から考へられねばならぬ。その立場からするとき、あの文面が一種の錯覚を以て遇せられたのであらうという意味のお言葉であった。勿論臣民として、あれが当然であるし、あれ以外にあらう筈はないが、その点は考慮せねばならぬだらうとも付加された。お言葉至極尤もであるが、あの文面からそのやうな結論を導き仮想敵のやうなものを作っていきまいた当局の方が寧ろ一種の偏見に陥ってゐるやうに思はれる。両人とも一時から受業があるので、一時のベルと共に退去。

 平成十八年の日記は八月四日で終はつてゐたのだが、ここに「昨夏」とあることから、夏の間に「東宮殿下御教育案ニ関スル覚書」を提出してゐたといふことがわかる。そして、その覚書が宮内省当局者の間で物議をかもしだしたといふこともわかる。
 この日の日記はこれで終はらず、さまざまな用事をすませたあと、清水は山本邸に赴き、御学習の時間割についての意見交換をしてゐる。

 そして、各課目についての注意点もまとめてゐるので、国語の部分だけ紹介する
?「国語」(「漢文」ハ別ニ之ヲ考究ス)ハ第三種ハソノマヽトシ、コレ卜並行シテ一、二年ニ於テモ御単独ニテ遊バサルルヤウニスル。ソノ際一、二年ニ於テ御単独二テ遊バルル「国語」ノ教材ニハ「国史」的教材ヲ主卜シテ輯録シ、一、二年ニ於テ「国史」ヨリ離レラルル欠点ヲ補正スルノミナラズ、抽象的説述ヲ避ケテ具体的表現ニヨリテ「国史」ノ御体得ヲ活発ナラシム。尚一年ニ於テハ更ニ「東洋史」教材、二年ニ於テハ更ニ「世界史」的教材ヲ若干加味シ、一般学生卜共ニ遊バサルヽ「歴史」ノ御受業トノ関連ヲハカル。ソノ際アクマデ「国史」中心ナルハ言フヲ俟((ま))タズ。又普通授業御利用ノ「国語」トノ連関ヲ図ルコトモ緊要ナリ。三、四年ニテ遊バサルル「国語」ハヨリ高次広汎ナル見地ヨリ、八統ヲ宇ト遊バサルル御君徳ノ御発揚ニ資スル教材ノ輯録ヲ期ス。ソノ際一、二年「国語」ト連繋一貫セルモノアルハ勿論アリ。尚一、二年ノ第一種ノ「国語」トシテ、一時間トル。従ツテ「国語」ノ時間ガ合計六時間トナル。

  このやうに課題部分を詳細に書いてゐる。
 ここからは、頻繁に御学習に関することが日記に書かれるやうになる。
 七月十六日の日記では、『文藝文化』同人である池田勉と栗山理一にも相談してゐたことや、どのやうな意見をもらつたかについても書かれてゐるが、ここでは省略する。

 七月二十八日、児玉宅に三人が集まり、協議してゐる。このときの清水の国文に関する意見を紹介する。
 
  国文―
   一、神国の国体を明徴にする文章を採ること、且つ歴代の天皇が如何にその継承を重みせられしかをあらはす如き文章を採ること
   二、歴代天皇の聖徳をしのび奉る如き文章をなるべく原典につきとり入るヽこと
   三、臣子の忠誠を表す佳話、逸話を古今の文献中より選出すること、特に国難に処して皇事に励みし忠臣の業績を明かにする文章をとること
   四、皇国の世界的使命(八紘為宇)を歴史によりて明かにする如き文章をとること(神武天皇紀、明治天皇の御皇謨((こうぼ))等)
   五、敷島の道の正統が皇室に伝へられてゐること、この道が皇国の大本を伝へるものなる点を明かにするやうに、和歌を一貫した体系の下に選出編纂すること、総じて和歌を単なるあそびとしてではなく、皇国の本道を表すものとして、之を明かにする方針を立てること、(神祇歌、歴代御製、忠臣武士の歌等)
   六、国土、自然の清麗をたヽへる詩歌文章を入るヽ事
   七、修身、歴史と連絡をはかる事
   八、わが言霊の幸ふ国なることを明かにする事
 ぜひとも、現在の学校での国語教育にも取り入れてもらひたい方針内容だ。しかし、左派勢力は教育勅語よりも拒否反応を示すであらう。

 この後も、学課内容に関する事項を整へていく過程が書かれてゐるが、省略する。
 そして、八月四日の日記には、清水たちが日光の御用邸に参内し、傅育官に御学習に関する内容を説明したことが書かれてゐる。そこには、清水が間違へて一度御用邸の御別邸に行つてしまひ、御本邸に引き返したとき、「石川傅育官のお顔を見てやっと安心する」と書かれてゐるので、日記は中断してしまつてゐるのだが、やはり昨年八月に石川傅育官のもとを訪れてゐたことが推測できる。

 さて、清水は自分の担当である国語、文典、作文について話してゐるが、全部取り上げると長くなるので、国文の部分だけを紹介する。

    〔国文〕
一、国体に関する事項
  国体の万邦無比なる所以と御親((みずか))ら之を御継紹遊ばすべき御身分なることを御自覚願ふ。
 二、歴代御聖徳に関する事項
  国体の護持と臣子の安泰を念じ給ふ御祖宗の御聖徳発現の迹をお慕ひ願ふ。御徳沢は洽((あまね))く臣子の上のみならず更に溢れて諸外国の人々にまで及びし事実を御了解願ふ。総じて天祖の道の発展拡充を昼夜念じ給ふ歴朝の御聖蹟を欽慕遊ばすやうに願ふ
 三、臣子の忠誠に関する事項
  古今に亙り、臣民が、天皇を現御神と仰ぎ奉り忠誠を奉げし行実をあはれみ給ふやう願ふ。
 四、惟神((かんながら))の国振((くにぶり))に関する事項

  (二)(三)調和して国の風俗となる、之惟神の国振なり。之を「みやび」と呼ぶ。「みやび」を写せる文章により、わが国振の如何なるものなるかを御体認願ふ。追記(「みやび」は平時にあっては花鳥諷詠の如き優しき姿をとるが、一旦事ある時は伏敵の利剣となる。「みやび」が夷狄を討つとはこの事なり。)
  五、敷島の道に関する事項
 「みやび」の伝統の神髄としての敷島の道が、皇室に最も正統に伝へられてゐることを、御製、臣下の歌により御了解願ふ。そのために御製並に臣下の歌を一貫せる方針の下に選択編纂する。
 六、国土、自然に関する事項
 わが国土、自然を賛美せる詩歌、文章を輯録し、わが国の花鳥風月趣味がいかなるものなるかを御了解願ふ。
 七、他学科との連関
    修身、歴史との連関を考慮すること、但し、修身とも歴史とも異る国文独自の使命のあることを教科書編纂並に直接進講に当る者が十分心得ておくこと。

  このやうなことを説明したみたいである。
 四と五では「みやび」といふ言葉が出てくる。後年、清水は『文藝文化』同人の蓮田善明のことを「かたくなにみやびたるひと」と表現し、さらに戦後、ジョホールバルで蓮田が上官を射殺して自決したことを「みやびが敵を討つ」と表現してゐる。

 その「みやび」の思想については私の『国風のみやび』の第二章「『死ね』といふ声聞く彼方」をご覧ください。蓮田善明の考へる「みやび」の思想を展開してゐるのだが、それは清水の考へる「みやび」の思想でもある。

 清水の提案に対して、石川傅育官からは次のやうな意見が出されたとのこと。これも国文のところだけ紹介。

   大体今述べた方針で結構と思ふが、若干気付いた所をいふ。
  一、皇国の道の宣揚は当然なるも、教材として修身の項目の如きもののみを並べないやう注意すること。コチ??にならぬやうにすること。
  二、直接皇国の道を説かなくても、花を歌ひ、水の流れを写してもその底ではこの道に連ってゐるのであるから、その見地より、俳句なども入れる。又川柳(これは山田氏提示)、謡曲の類も入れる。総じて「風情」の世界を考慮に入れる。
  三、文学史は高等科に於いて考慮する。
  四、抽象的ならぬやうに心がけ、その意味より抄本など用ゐる。
  五、書簡文、現代文も入れる。

  といふことで、おほむね認められたみたいである。
 昭和十九年九月十六日からは、東宮殿下御使用国語教科書編纂のことが日記に出てくるやうになる。
 清水は「国文教科書編纂に関する試案」を練り上げていく。ここでも、『文藝文化』同人の池田や栗山にも相談して、意見を求めてゐる。

 九月二十九日の日記では「皇族教育調査委員会」といふ名前が出てくる。

        皇族教育調査委員会

   従来学習院御在学ノ皇族ノ教育ニ関シ皇族教育案起草委員会ナルモノ設ケラレアリシガ、今回ソノ名称ヲ頭書ノ如ク改ムルト共ニソノ任務、組織及ビ役員ヲ左ノ如ク定ム

   一、任務
    皇太子殿下及ビ学習院御在学ノ皇族ノ教育ニ関スル調査研究ヲナス
   一、組織及ビ役員
    委員長 山梨勝之進
    幹事  児玉幸多、岩瀬主一
    委員  岩田九郎、河本為次郎、東條操、
        山本修、清水文雄、竹沢義夫、杉山勝栄

  おそらく、これまでは学習院長の命を受けて、児玉、山本、清水の三人が動いてゐたのだが、ここできっちりと組織化されたのではないか。
 その後も清水は、『文藝文化』同人や東條操らに相談しながら「国文教科書編纂に関する試案」を練つてゐる。昭和二十年二月二十二日には「東宮殿下御進学準備委員会」が組織され、清水は委員に任命されてゐる。

 最終的にどのやうにまとまつたのか、どのやうに活かされたのかについては日記に書かれてゐないのでわからない。もしかしたら、戦火激しくなつて、まとめることができなかつたのかもしれない。

 清水は昭和二十二年に学習院を辞職して広島に帰るのだが、学習院在職中に、上皇陛下とも接点があつた。広島に帰つたあと、清水は上皇陛下にお会ひする機会があり、そのときに学習院時代の上皇陛下のことをかう振り返つてゐる。

    昭和二十年十二月の誕生会は、この月の十八日の夜催されました。数名の十二月生まれの者のなかにまじって、二十三日を御誕辰とされる東宮さまも、一同から慶祝うけられたのは申すまでもありません。今わたくしには、頬を紅潮させた少年たちが、瞳をかがやかせながら、劇や独唱を熱演したあの夜の光景が、たまらなく懐かしくまた尊く思ひ起こされるのです。あの会の終わり近く、胸にこみあげてくる感動を、つぎのような今様歌につづり、つたない朗詠をもって御耳をけがしたのでありました。

   万世(よろづよ)のかけて太平の
  御代ひらかんと宣ひし
  国の歩みのあけぼのに
  御子明星となり給ふ

 
  千代(ちよ)万代(よろづよ)に栄(さか)行(ゆ)かん
  国の歩みの象徴(みしるし)と
  み園に生(お)ふる若竹の
  すくすくと君生ひ給ふ

   はかなき命ながらへて
  今日にあふ身のうれしさを
  何にたとへんものもなし
  何にたとへんものもなし

  ひととおり、祝祭の余興が終わって、東宮さまは、一同に対する御答礼として謡曲を一曲うたわれた。「鶴亀」の冒頭の一節です。玉の御声とはこのような声をいうのであろうかと思われました。わたくしはあの夜の感激を永久に忘れることはないでしょう。
   このたび、東宮さまを広島にお迎えして、満二年ぶりにお目にかかり、見ちがえるほど立派に成人なさった御姿を拝し、日本の光、世界の光としてのかがやきを、いよいよ増して来られたことを知り、喜びの情にたえぬのであります。そして、はからずも、あの夜のことが思い出されましたので、ここに書いてみました。(清水文雄『河の音』「誕生会のことなど」)

  これは昭和二十四年に書かれた文章なので、学習院を辞職して二年後といふことになる。
 このやうに、清水は皇族の御教育にも携はつてゐたのである。
                        (次号完結)
           ◎◎◎◎◎ 
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
  三島由紀夫研究会 http://mishima.xii.jp/contents/index.html
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
(C)三島由紀夫研究会 2019  ◎転送自由
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

規約に同意してこのメルマガに登録/解除する

メルマガ情報

創刊日:2006-01-12  
最終発行日:  
発行周期:半月刊  
Score!: 98 点   

コメント一覧コメントを書く

この記事にコメントを書く

上の画像で表示されている文字を半角英数で入力してください。

※コメントの内容はこのページに公開されます。発行者さんだけが閲覧できるものではありません。 コメントの投稿時は投稿者規約への同意が必要です。

  • コメントはありません。