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三島由紀夫の総合研究

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三島由紀夫研究会メルマガ <<清水文雄の国文学と教育(その1)

2019/09/03

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『三島由紀夫の総合研究』(三島由紀夫研究会 メルマガ会報)
   令和元年(2019)9月3日(火曜日)弐
          通巻第1363号   
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三島由紀夫研究会公開講座講演録
令和元年7月26日 於:アルカディア市ヶ谷 

清水文雄の国文学と教育(その1)
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                    展転社代表取締役 荒岩宏奨

  ▲ 清水文雄の略歴
 
清水文雄といふ名前は、三島由紀夫の恩師であるといふことから知つてゐる人は多いだらう。しかし、清水がどのやうな人物かといふことまで知つてゐる人は少ないと思ふので、まづは略歴を紹介する。

 明治三十六年六月六日、三代(みよし)太郎とチカの長男として熊本県球磨郡五木村で生まれる。父が清水家の養子となつたことから、文雄の姓も清水となる。
 明治四十一年、母の生家である広島県阿佐郡深川村(現在の広島市安佐北区深川)に転居。明治四十三年四月、深川尋常高等小学校に入学。
 大正五年四月、同校の高等科に入学。高等科には、家業を手伝ひながら通学した。
 大正七年四月、同校併設の農業補習学校(夜間)に入学。
 大正十一年三月、補習学校の恩師の勧めにより、山陽中学校併設城南中学(夜間)第三学年に編入。大正十二年九月、山陽中学校(昼間)第四学年に編入。家を離れて広島市内に住むことになり、夜は働くことになつた。また、この年に徴兵検査があり、第二乙種合格となつてゐる。大正十四年四月、広島高等師範学校分科第一部に入学。
 昭和四年三月、広島高等師範学校を卒業。卒業論文は「正岡子規における和歌革新の第二段階」で、指導教官は斉藤清衛だつた。
 そして、四月に広島文理科大学に入学。専攻は国語国文学。
 昭和七年、三月に広島文理科大学を卒業。卒業論文は「和泉式部集の研究」。この月、児玉房江と結婚した。四月には、成城学園成城高等学校尋常科教諭として赴任し、東京に転居する。
 昭和八年九月、池田勉、栗山理一、蓮田善明と同人研究紀要『国文学試論』第一輯を刊行。そして十一月には高等科の教授に就任。
 昭和十一年八月には池田勉、栗山理一、蓮田善明と高野山に籠もり、斉藤清衛編・星野書店発行の「作文」(中学校用)の編集に携はる。昭和十二年八月、昨年に続き高野山に籠もり、この年も「作文」(女学校用・実業学校用)の編集に携はつた。
 昭和十三年三月三十一日、成城高等学校を退職し、四月一日からは学習院の講師嘱託となる。七月、池田勉、栗山理一、蓮田善明と「日本文学の会」を結成し、月刊雑誌『文藝文化』を創刊。
 そして八月一日付で学習院教授に就任する。
 昭和十五年四月、学習院中等科三年寄宿舎(青雲寮)の舎監となり、その寄宿舎に転居。
 昭和十六年七月、清水文雄校註『和泉式部日記』を岩波文庫で出版。
 昭和十九年、家族を疎開させ、清水文雄は世田谷の栗山理一宅に転居した。
 この年、『文藝文化』が終刊となる。また、十月には学習院昭和寮に転居した。

 昭和二十年になると、学習院も疎開に踏み切り、清水文雄も日光へと疎開。そして、疎開先の日光で八月十五日を迎へ、玉音放送を聞くことになつた。昭和二十二年、学習院を退職して、広島に帰郷。そして、五月に広島師範学校の講師となり、六月には教授となる。
 昭和二十四年、学制改革に伴ひ、広島大学教授兼広島大学広島師範学校教授になり、東雲分校勤務となる。昭和三十一年四月からは広島大学教育学部に勤務することになつた。
 昭和三十六年十一月には、学位請求論文「和泉式部歌集の研究」で広島文理科大学より文学博士の学位が授与された。昭和三十九年、広島大学教育学部付属小学校の校長に就任。
 そして昭和四十二年三月、広島大学を定年退職。四月からは比治山女子短期大学教授となつた。
 昭和四十五年、学習院時代の教へ子である三島由紀夫が割腹自決。
 昭和四十八年、秋の叙勲で勲三等旭日中綬章を授与された。昭和五十五年、比治山女子短期大学副学長に就任し、五十六年には学長になつてゐる。
 そして平成二年三月に教授ならびに学長を辞職し特任教授となり、平成六年には特任教授を辞任し、参与となつた。平成十年二月四日、肺炎で逝去。

 このやうに、戦前は東京で教職として働きながら、『文藝文化』を発行する文学活動を展開した。戦後は、広島に戻り、やはり教職として働きながら随想や論文を執筆したのである。

▲ 清水は「三島由紀夫」の名づけ親
 
 まづは、学習院時代の清水文雄を取り上げてみたい。
 清水が学習院大学の講師となつたのは昭和十三年四月。このとき、のちに三島由紀夫となる平岡公威は中等科二年に在学してゐた。その三島は、手紙やエッセーなど多くの文章で、清水について触れてゐる。

 三島の「師弟」といふ文章の一部を紹介しよう。
 
 学校の先生のたゞ一人の例外として、清水文雄氏は私のよき師であつた。清水氏は作文や国文法を教へてゐたが、本当に親しく教をうけるやうになつたのは、授業の上では交渉のなくなつたのちであつた。清水氏は主に平安朝文学の世界へ私をみちびき入れたが、氏からうけた古典の教養について、つひぞ今まで一瞬間でも後悔をおぼえたことはない。(中略)氏がおだやかな美的考察を唯一の尺度に古典の宝窟を切りひらいてみせてくれたとき私を襲つた感動は、終生二度と私を訪れることがあるまいやうな感動であつた。(三島由紀夫「師弟」)

 清水は国語の教師で、学習院では作文や国文法を教へてゐた。
 三島は「たゞ一人の例外」の「私のよき師」として、清水文雄を挙げてゐる。ただ、三島のこの文章からだと、授業で受けた教へよりも、授業を離れたなかでの教へに大きな影響を受けたといふことである。

 清水の専門は平安時代の王朝文学で、とくに和泉式部の研究家として知られてゐる。専門分野だつたからなのか、とくに平安朝文学で三島を魅了し、三島をその世界へ導いてゐる。三島文学の大きな要素は、やはり古典に裏打ちされた文章だと思ふが、その教養は清水から受けたものだと三島自身が書いてゐる。
授業外でも古典について清水と三島が語り合つてゐたといふことは、三島が東健(たかし)宛に出した書簡からも窺ひ知ることができる。

 それにしても学校の人々の古典をよまないこと。なまじっか読むとなれば、前島さんみたいな皮相な読み方しかできません。この間、清水文雄先生のところへ伺いましたが、前島の論文はありゃ一体、論文だか何だかわからない、僕だったらあんなものを一等になぞしない。東条先生や何かが審査員なのにどうしたことだろう、と云っておられました。(『三島由紀夫十代書簡集』東徤宛、昭和十七年二月十六日付)

 東徤といふ人は三島の学習院の先輩にあたる。
 三島を文壇へと登場される大きなきつかけや、「三島由紀夫」といふペンネームを考へたのも清水文雄である。
三島は次のやうに述べてゐる。

 私は日本浪曼派の周邊にゐたことはたしかで、當時二本の絲が、私を浪曼派につないでゐた。一本の絲は、學習院の恩師、清水文雄先生であり、もう一本の絲は、詩人の林富士馬氏であつた。
 私の小説をはじめて學校外の社會へ紹介してくれたのは、清水先生であり、私の現在の筆名を作つてくれたのも先生である。先生は和泉式部研究家として著名で、岩波文庫の和泉式部日記も先生の校訂によるものだ。
 當時、齋藤清衞博士の門弟の國文學者たちが、「文藝文化」といふ雜誌を出してをり、蓮田善明氏、栗山理一氏、池田勉氏、清水先生などがその同人であり、國文學界のヌーベル・バーグの觀があつた。私の「花ざかりの森」は、先生のその紹介によつて、この雜誌に發表され、同人諸氏の集まりにも招かれるやうになつた。(『決定版三島由紀夫全集32』「私の遍歴時代」)

 三島のデビュー作である「花ざかりの森」は、清水によって『文藝文化』に掲載されることになつた。そして、そのときに「三島由紀夫」といふペンネームがつくられることになつた。

 それでは、「花ざかりの森」が『文藝文化』に掲載されるまでをたどつてみる。
 昭和十六年七月二十八日、三島は清水に次のやうに書いた手紙を送つてゐる。

 扨て突然ではございますが、先日完成した小説をお送り申上げます故、御高覧下さいませ。これは秋の輔仁会雑誌に出す心積でをりますが、何か御高評の御こと葉たまはれば幸ひに存じます。(『師・清水文雄への手紙』昭和十六年七月二十八日付)

 この「小説」とは、「花ざかりの森」のことである。三島は、学習院の学生組織である輔仁会の雑誌に載せようとして、小説を書いたみたいだ。その小説を清水文雄に読んでもらひ、意見を伺はうとしてゐる。

 三島が自決したあと、清水は原稿を読んだときの感想を次のやうに記してゐる。

 七十枚の原稿は、掌にずっしり重みを感じさせた。『輔仁会雑誌』(学習院中・高等科合同校友会誌)所載のものも含めて、私がそれまでに見たどの作品よりも、はるかに長大であった。その夜、寮生たちが寝しずまってから、一気にそれを読んだ。読みすすむに従って、私の内にそれまで眠っていたものが、はげしく呼びさまれる実感を味わった。私は、その時のおののきに似た感動を忘れることができない。そこには、「海」という語、「あこがれ」という語が頻出する。今にして思えば、「海へのあこがれ」は、三島由紀夫の終生を貫く志向であり、主題であった。(清水文雄『続河の音』「『花ざかりの森』をめぐって」)

 清水は、三島の小説を読んで、忘れることができないほどの感動を覚えた。
学校が夏休みになると、清水は『文藝文化』同人たちと伊豆の修善寺温泉へ出かける。これは『文藝文化』の編集会議を兼ねた一泊旅行で、新井旅館に泊まつた。
 清水はこの旅行に三島の原稿を持つていく。そして、新井旅館に着くと、三人に原稿を廻し読みしてもらふ。
 そして、『文藝文化』同人らの結論を次のやうに書いてゐる。

 三君の読後感も、私の予想通りで、〈天才〉がわれわれの前に現われるべくして現れたことを祝福しあい、それを『文芸文化』九月号から連載することに一決した。(清水文雄『続河の音』「『花ざかりの森』をめぐって」)

 『文藝文化』の同人たちは、「天才」が現れたと三島を非常に高く評価し、この小説を『文藝文化』で連載することを決めたのだ。
 そして、「三島由紀夫」といふペンネームになるいきさつについても清水が記してゐる。

  ただ、われわれの雑誌は片々たる小冊子ではあったが、校友会誌とはおのずから性格を異にし、読者圏も全国にひろがっていた。掲載するにしても、彼がまだ中学生の身であること、それに御両親の思わくなども考慮して、今しばらく平岡公威の実名を伏せて、その成長を静かに見守っていきたい――というのが、期せずして一致した同人の意向であった。筆名を用いて、この作品を載せるについては、何よりも平岡君自身の承諾を得なければならぬ。そのためには筆名の試案のようなものを持っているのがよい。旅館の一室で、だれからともなく言い出したヒントは、「三島」であり「ゆき」であった。東海道線から修善寺へ通ずる電車に乗り換える駅が「三島」であり、そこから仰ぎ見たのが富士の秀峯であったことが、ごく自然にこの二語を選ばせたのであろう。それがその席で、「三島ゆきお」までは固まったと思うが「三島由紀夫」まではゆかなかったと記憶する。ともあれ、交渉の使者には私が立つ外なかった。

 帰京すると、さっそく目白の学習院官舎へ平岡君に来てもらった。『文芸文化』に掲載することは喜んで承知したが、筆名の一件を切り出すと、はたして「平岡公威ではいけませんか」と反問してきた。はたして――といったのは、すでに『輔仁会雑誌』に発表された多くの作品により、彼の名はひろく中・高等科の学生や教官の意識の中に定着していることを、彼自身十分知っていると思っていたからである。しかし、同人の一致した意向を伝えると、案外素直に、それではどういう名前がよいかと意見を求めてきた。その時私は、こちらで考えた試案を彼に押しつけるような印象を与える言い方は、極力控えようと思った。
 どういう名前をと聞かれて、さきの試案(参考案といった方が私の気持ちにふさわしい)の経緯を一通り説明したうえで、「三島ゆきお」はどうかと、おそるおそる言ってみた。しばらく考えていたが、やがて持ち合せの紙片に〈三島由紀雄〉と書いて、「これはどうでしょう」と言った。私は字面から見て、「雄」は重すぎると思ったので、それを消して「夫」と改めて彼の手許に返した。「それでは、これに決めます」という彼の一言で、〈三島由紀夫〉の筆名が生まれたのであった。(清水文雄『続河の音』「『花ざかりの森』をめぐって」)

 このような経緯で「三島由紀夫」といふペンネームが生まれた。

 「三島由紀夫」といふのは、「花ざかりの森」を『文藝文化』に掲載するためにつくりだされたペンネームだったのだ。
厳密にいふならば、「三島由紀夫」といふペンネームは、『文藝文化』の同人である池田勉、栗山理一、清水文雄、蓮田善明の四人と三島由紀夫の共作といふことにならうが、三島自身が「私の現在の筆名を作つてくれたのも先生である」と書いてゐる通り、「三島由紀夫」といふペンネームの名づけ親は清水文雄と言つてもいいだらう。
 (つづく)
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