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三島由紀夫の総合研究

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三島由紀夫研究会メルマガ <<御代替わりに際して〜あらためて国体とは何か 金子宗?>

2019/09/03

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『三島由紀夫の総合研究』(三島由紀夫研究会 メルマガ会報)
   令和元年(2019)9月3日(火曜日)
          通巻第1362号   
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御代替わりに際して〜あらためて国体とは何か
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金子 宗?〔里見日本文化学研究所所長・亜細亜大学講師〕

 
▲はじめに ― 「国体」と「国体論」

 「御代替わり」まで二週間を切りました。こういうタイミングで「国体」について論ずる機会を与えて頂き、有難うございます。
 「国体」を論ずるにあたり、前提として確認しておかなければならないのは、「国体」と「国体論」の違いです。この点について、国体学者の里見岸雄〔明治30(1897)〜昭和49(1974)〕は、次のように述べています。

 国体と国体論とは明らかに区別すべきである。国体とは国体と名づけられる事実そのものであるに反し、国体論とは各時代の思想家や学者などが、それぞれの立場に於て国体を論明解釈した思想なり学説なりであって、両者はあたかも社会と社会学、人体と生理学、演劇と演劇論、憲法と憲法論などの如き関係にある。こんなことは特別にことわらなくても常識ある人にはわかりきったことなのであるが、(中略)およそ国体を論議し又は研究せんとするほどの者は必ずまづ国体そのものと国体論との間に明確な一線をひいて、国体論が直ちに国体そのものであるかの如き錯覚を起こしたり、人間の頭で考えた国体論が絶対であるかの如き妄信に陥らぬよう警戒する必要がある。

  これは、敗戦直後の昭和22年に上梓された『科学的国体論』の一節です。昭和10年に起こった天皇機関説事件を契機として国体明徴運動が起こります。これを受けて、岡田啓介内閣が二度にわたって「国体明徴声明」を発表し、さらに文部省が『国体の本義』を刊行しましたけれども、その過程で天皇主体説・一国一党論と結びついた非理性的な国体論が跳梁跋扈し、異論を封殺しました。その反動もあって、敗戦後、宮沢俊義の「八月革命論」を始め「国体変革」を強調する主張が一世を風靡します。これに対し、里見は事実としての「国体」と論としての「国体論」を混同することの愚を指摘しているのです。
 里見は、事実としての「国体」を学術的に解明することに全力を傾け、その方法を「国体科学」、それによって得られた成果を「科学的国体論」と称しています。イギリスの科学哲学者カール・ポパーは、科学が科学たり得る所以は「仮説の反証可能性」にあると述べていますが、「国体科学」・「科学的国体論」も「反証可能性」に開かれています。私も同様の立場を採る者です。本日の講演内容に異論がありましたら、是非とも反証を示して頂き、「国体科学」・「科学的国体論」の発展に御協力を頂けると幸いです。

▲「国体」の伝統的用例

事実としての「国体」とは如何なるものか。それを探るべく、過去の主要な用例を辿ってみたいと存じます。
 「国体」は漢語ですから、その初出は漢籍です。『漢書』成帝紀には、陽朔二年(紀元前二)に発せられた皇帝の詔勅として「儒林ノ官ハ四海ノ淵原ニシテ、宜シク古今ニ皆明シ、故キヲ温ネテ新シキヲ知リ、国体ニ通達スベシ」という一節があります。歴史を学ぶことで通達するものとしての「国体」ですから、「国の在り方」という意味ですね。

 我が国における初出は、平安時代初期に編纂された『延喜式』の巻八「祝詞」に収録されている『出雲国造神賀詞』の「高天の神王高御魂命の皇御孫命に、天下大八嶋國を事避り奉りし時、出雲臣等が遠祖、天穂比命を国体見に遣はしし時に」という一節です。祝詞ですから漢語ではなく和語で「クニカタ」と読むのが通例で、アメノホヒノミコトを見に行かせたという文脈から「国内の形勢」を意味すると思われます。国造とは古代日本において地方豪族に与えられた官職であり、大宝律令の制定に伴って廃止されたものの、出雲氏など一部の氏族に限って名乗ることを許されました。国造の継承に際しては宮中で儀式が行われ、この祝詞を新しい国造が奏上します。アメノホヒノミコトはニニギノミコトの父であるアメノオシホミミノミコトの弟、即ち天照大神の子です。記紀においては、この祝詞とは逆に、葦原中国の状況を調べるべく高天原から下されたにもかかわらず、スサノオノミコトの娘婿であるオオクニヌシノミコトに従って報告を怠ったと書かれており、両者の記述は食い違っていますが、出雲氏からすれば臣従の誓いですから、裏切りの歴史は隠蔽したかったということでしょう。

「コクタイ」と漢語で読むものとしては、平安後期の真言僧・成尊が即位灌頂について記した一書の「天子ノ践祚ハコレヲ継体ト謂フ、継体ハ天子国体ヲ継承スルコトナリ。天照尊ハ是レ大日金輪、和国ノ御国体ナリ。手ニ金輪ノ印ヲ結ビ心ニ天照尊ヲ想ヒ、天子自ラ国体ヲ證シ、天照尊応現ス」という一節が用例としては古いです。即位灌頂とは、天皇の即位に際して、新帝の頭上に水を灌ぐ密教儀式です。その際、新帝は(金剛石のように全ての煩悩を打ち砕く堅い智慧を有する存在とされる)金剛界の大日如来を表す印〔ハンドサイン〕を結び、(母胎のように一切を包み育成する菩提心を有する存在とされる)胎蔵界の大日如来を表す真言〔呪文〕を唱えます。これにより自然人としての天皇と真理としての大日如来が一体となると考えられたわけです。その大日如来は天照大神と同体であり、その天照大神が「和国ノ御国体」というわけですね。形而上学的・超越的存在との関りにおいて「国体」が論じられています。

その後、「国体」の語は長らく用いられませんでしたが、江戸時代に入ると、水戸学によって新たな意味が付与されました。その契機は、栗山潜鋒が元禄期に執筆して尚仁親王(後西天皇の第八皇子)『保建大記』です。これは、後白河天皇が即位され、保元の乱が起こった保元元年(1156)から、後白河法皇が崩御されて源頼朝が政治権力を完全に掌握した建久3年(1192)までの歴史を振り返り、皇室が衰微する一方で武家が興隆していった理由を探ったものです。その中に、承安2年(1172)年の出来事として、宋の地方官が朝廷に何かしらを献じたものの、添えられた書状に非礼な表現が見られました。これに対して清原頼業は突き返すよう主張したにもかかわらず、後白河法皇は聞き入れあそばされなかったのです。こうした法皇の姿勢について、潜鋒は「国体を遐邇に示す所以に非ず」すなわち「我が国の体面を自他に示す方法ではなかった」と、道義を護持する立場から後白河法皇の御振舞いを批判しました。つまり、この一節において「国体」は「国の体面」という意味で用いられているのです。

 水戸学における「国体」の代表的な用例は、会澤正志齋の『新論』に見られます。同書は五章からなりますが、その最初が「国体章」です。その中で、正志齋は君臣父子の情義こそ生命の永遠不変なる根本義と位置づけた上で、それに従って受け継がれてきた皇位・皇統の神聖さ、さらには、皇位・皇統の護持を軌範として受け入れて実践してきたことが「国体」であると論じています。さらに、その流れを汲む吉田松陰は、『講孟?記』において、「道は天下公共の道にして所謂同なり。国体は一国の体にして所謂独なり。君臣父子夫婦長幼朋友、五者天下の同なり皇朝君臣の義万国に卓越するが如きは、一国の独なり」と、普遍的な「道」に対する日本独自のものとして「国体」を位置づけます。

 ▲「国体」認識の混乱

 こうした国民精神との関わりで説かれる「国体」観は、『教育勅語』の「我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ国体ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦実ニ此ニ存ス」という表現に繋がりますが、同じ時期、西洋法学の流入に伴って「国体」に新たな用例が加はりました。穂積八束の『憲法提要』〔明治43年〕には、「国体トハ国家組織ニ於ケル主権存在ノ体様ナリ」という一節が見られます。ここでいう「国体」は、ドイツ国法学における「シュターツ・フォルム(Staats Form)」の訳語で、具体的には主権者が一人である「君主国体」、主権者が数人である「貴族国体」、国民全体が主権者である「民主国体」と分けられます。大日本帝国憲法には「主権」という語はありませんが、穂積は「統治権」イコール「主権」と解し、大日本帝国の「国体」は「統治権の総覧者」たり天皇が主権を有する「君主国体」であると主張しています。

 これに対して、イエリネックの国家法人説の影響を受けた美濃部達吉は、「主権」は特定の自然人にではなく法人たる国家に属するものとみなし、穂積流の議論を否定しました。そのため、『憲法講話』(明治45年)に「国体と云ふも政体と云ふも同一にして共に機関組織の体様なり」とある通り、「国体」を「政体」の同義語と見なしています。

とは云へ、両者とも「国体」を統治機構との関わりで把握していることは共通しています。明治44年に治安維持法が制定され、「国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」と定められましたが、ここにおける「国体」も統治機構としての側面です。

 昭和10年、天皇機関説事件が起こります。これは、天皇は法人たる国家の最高機関であるという美濃部の学説が、「国体」に反する学説であると貴族院で問題とされたことに端を発するものです。議論の争点は、近代法学の次元において天皇が「最高機関」であるのか、さもなくば「主権者」であるのかという点で、政府は前者を否定する「国体明徴声明」を二度に亘って発表します。さらには、「国体」に関する政府の総合的な公式見解を示すべく、各界の有識者を集めて昭和12年に『国体の本義』を刊行しました。けれども、論者の「国体」に対する理解は大きく異なっていたため、国民精神と統治機構を架橋する総合的な国体論が示されることなく、せいぜい以下のような漠然たる認識が示されるに止まり、その目論見は失敗します。

  抑々社会主義・無政府主義・共産主義等の詭激なる思想は、究極に於てはすべて西洋近代思想の根柢をなす個人主義に基づくものであつて、その発現の種々相たるに過ぎない。個人主義を本とする欧米に於ても、共産主義に対しては、さすがにこれを容れ得ずして、今やその本来の個人主義を棄てんとして、全体主義・国民主義の勃興を見、ファッショ・ナチスの擡頭ともなつた。即ち個人主義の行詰りは、欧米に於ても我が国に於ても、等しく思想上・社会上の混乱と転換との時期を将来してゐるといふことが出来る。久しく個人主義の下にその社会・国家を発達せしめた欧米が、今日の行詰りを如何に打開するかの問題は暫く措き、我が国に関する限り、真に我が国独自の立場に還り、万古不易の国体を闡明し、一切の追随を排して、よく本来の姿を現前せしめ、而も固陋を棄てて益々欧米文化の摂取醇化に努め、本を立てて末を生かし、聡明にして宏量なる新日本を建設すべきである。即ち今日我が国民の思想の相剋、生活の動揺、文化の混乱は、我等国民がよく西洋思想の本質を徹見すると共に、真に我が国体の本義を体得することによつてのみ解決せられる。

 ▲「国体」認識を巡る課題

 結果として、「国体」に対する総合的理解が形成されぬまま、我が国は大東亜戦争に突入してしまいました。そして、皆さんも御承知の通り、敗色が濃くなる中で、昭和20年7月26日、敵方の連合国側がポツダム宣言を発表します。しかし、この宣言には天皇の地位に巡る記述がなく、それに不安を覚えた我が国政府が「天皇ノ国家統治ノ大権」に関して問い合わせを行ったにもかかわらず、連合国側は明言を避けました。こうした連合国側の姿勢に対し、政府内部において様々な議論がなされたけれども、最終的に、昭和天皇が「国体問題についていろいろ危惧もあるということであるが、先方の回答文は悪意をもって書かれたものとは思えない。要は、国民全体の信念と覚悟の問題であると思う」として、受諾の御聖断を下されました。この発言からは、昭和天皇が、「国体」について、統治機構に関する概念という側面より国民精神と関わる側面を重視されていたことが窺えます。だからこそ、玉音放送には、「朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ」、「誓テ国体ノ志操ヲ発揚シ」という前向きな御発言が見られたのでしょう。

 しかしながら、天皇の御役割が「統治権の総攬者」から「象徴」へと改められた日本国憲法制定後、近代法学の世界では、ポツダム宣言を受諾したことにより主権者は天皇から国民に移行したのであり、従って統治機構としての「国体」は変革したという「八月革命説」が主流を占めるに至りました。さらには、七十有余年といふ時の経過を経て国民精神としての「国体」という側面も忘れ去られたかに思われ、今や「国民体育大会」の略語として人口に膾炙しています。そうした中で、敢えて「国体」について語る論者も居ないわけではありません。その一人が、保守派知識人として活躍した渡部昇一です。彼は『正論』〔平成26年5月号〕に寄稿した「日本が日本である所以」において、「日本の国体、国のあり方 ― 英語で言うとconstitution ― は、世界無比で他国の参考になるような国体はない」と述べていますが、「あり方」を突き詰めようとはしませんでした。また、左派の若手論客として売り出し中の白井聡は、昨年に上梓した『国体論 菊と星条旗』〔集英社〕の中で「『国体』が戦前日本と戦後日本を貫通する『何か』を指し示しうる概念である」と述べているものの、「何か」の具体的内容には触れていません。両者とも、思いつきの域を出ていないのではないでしょうか。

 令和の御代を目前にして我々がなすべきは、日本国憲法の制定によって天皇が「統治権の総攬者」でなくなったとしても、さらには、戦前と比べて国民精神が大きく変化したかに見えたとしても、国民の無意識裡に残存し、新たな意識の形態を取って現出し得る可能性の基盤としての「国体」を明らかにすることです。そのためには、自らの信念を吐露したり、内面的な倫理道徳の歴史的一貫性を説いたりするのみでは限界があり、歴史的一貫性を有する社会的実体の実在を学問的に立証する必要があります。そうした社会的実体としての「国体」は、国家の政治的体制でもなければ国民の精神的特質でもなく、そうしたものの根底にある民族共同体です。それは血縁や地縁を通じて形成されるものですが、日本民族においては「国体」の中枢に天皇が坐していることは云うまでもありません。天皇は、血縁や地縁の中心であるのみならず道徳的軌範を示し給う御存在であり、それゆえに国民統合においても大きな影響力を行使されます。そのことは、御譲位の御意思表明から新元号の内定に至る一連の出来事に対する国民の反応を見れば明らかです。

▲「皇位」とは何か?

 あと10日もすれば約30年ぶりの皇位継承が行われますけれども、社会共同体としての「国体」において「皇位」は如何に位置づけられるでしょうか。里見の『万世一系の天皇』〔昭和36年〕を手掛かりとして考えてみたいと存じます。

「皇位」とは、文字通り「天皇の位」です。「位」という漢字は「イ(=人)」と「立」の組み合わせで、「人の坐立する場所」を意味します。また、日本語の「くらい」は「くら」から派生した語。即位礼正殿の儀における新帝の座所を「高御座(たかみくら)」と称することからも分かる通り、坐所という意味です。これは、欧米語でも同様で、例えば英語においても、王位を意味する〈throne〉は「椅子」が原義です。こうした事実を踏まえ、里見は「国民のすべての者が、すなわち、支配階級も被支配階級も、前代の者も後代の者も、悉く、そこを住止の窮極点として、調和を求め、安定を約し、永世存続を証することの出来る唯一の場所とする。皇位とはそのような、唯一無二ものである」と述べています。つまり、皇位は座標空間上の原点のようなもので、その存在ゆえ、性別や貧富や居所の別にかかわらず、さらには過去・現在・未来を問わず、あらゆる日本人は一体となり、人格的共存共栄という理想を描くことができるというのです。

 とはいえ、「皇位」そのものは飽くまで理念的存在です。これが実質的な役割を果たすためには、皇統を受け継ぐ自然人が位に在(ましま)す必要があります。自然人である以上、たとえ天皇の地位にあらうと、時には病み、さらには老い、いずれ死を迎えるという運命から逃れることは出来ません。そのような時、「皇位」は天皇から皇嗣へと継承されます。
 明治皇室典範が制定されてから今日に至るまで、崩御すなわち死を契機とする皇位継承しか認められてきませんでしたが、「高齢化社会の到来」といふ社会の変化を踏まえ、老いによる譲位を契機とする皇位継承という古例が復活しました。

▲皇位継承儀礼を巡って

 皇位継承において避けるべきは、皇嗣たる自然人が即位せぬ「空位」という事態です。それを避けるべく、現行皇室典範の第4条には「天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する」と定められており、譲位を定めた特例法の第2条にも「天皇は、この法律の施行の日限り、退位し、皇嗣が、直ちに即位する」と定められています。これによって、法理上は、4月30日24時に今上陛下が退位され、5月1日0時に新帝陛下が即位されるので「空位」は生じません。

 では、問題はないかと云えば、そんなことはありません。具体的には、儀礼を巡る問題です。「皇位」が継承されるにあたっては、様々な儀礼が行われます。これらの儀礼は、里見が指摘する通り、「自然人天皇が天皇になるための、又天皇となる事を国民が確認するために不可欠のもの」ですが、「退位」に伴う儀礼を4月30日に、「即位」に伴う儀礼を5月1日に行うこととした結果、実質的な「空位」が生じるという印象を国民に与えてしまっているわけです。
 こんなことになってしまったのは、「譲位」を「即位・退位」と分割したこともさることながら、「この法律の施行の日限り」という規定ゆえです。本則においては先帝陛下の「崩御」が直ちに新帝陛下の「即位」の契機となっており、それと日付は関係ないのですが、特例法では日付に拘束されるため、「退位」の儀式と「即位」の儀式とを同日に行うことが困難となってしまうのです。

 これを回避するためには、「退位」儀礼と「即位」儀礼を4月30日深夜から5月1日の未明に行うという方法が考えられます。皇室祭祀の中には深夜から未明に掛けて行われるものがあるので、決して奇策とは言えません。また、また、5月1日に行われる「即位」儀礼に上皇陛下が御臨席あそばされ、新帝陛下に三種の神器を託される形にし、実質的な「譲位」儀礼とするという方法も考えられますが、政府は明るい時間帯に「退位」儀礼と「即位」儀礼をそれぞれ行うべきとの立場を崩しませんでした。次回以降は、この点について政府は再考すべきでしょう。

▲ 改元を巡って

 皇位継承に伴って行われる改元についてですが、「令和」という元号は意味深長かつ語感も斬新で、新しい御代に相応しいものと思いますけれども、事前公表については種々の議論がありました。この点について、思うところをお話します。
 そもそも、「元号」は君主によって定められますが、これは君主が空間のみならず時間をも統治するという思想に基づくものです。我が国では、吉事を言祝ぐため、あるいは凶事の影響を断ち切るためなどの理由で天皇在位中の改元も少なくありませんでしたが、明治改元以降、改元は御代替わりの際に限る「一世一元の制」が採用され、これは明治皇室典範にも明記されました。加えて、崩御後には元号を追号として奉るという慣習も確立しました。これは明代以降の支那の制を採用したものですが、天皇と元号との関係が明確になるという大きな利点があります。

 大東亜戦争敗戦後に明治皇室典範が配されたことに伴い、元号の法的根拠が失われたものの、慣習的に元号は用いられ続けました。その後、昭和54年に元号法が制定され、元号は法的根拠を取り戻しました。同法の規定によれば、元号は内閣の定める政令で公布することとなっていますが、政令の公布に際しては天皇の御名・御璽が必要であり、また、前回および今回の改元においてもメディアを通じて国民に公表する前の段階で、今上陛下および新帝となられる皇太子殿下の御聴許を得ている模様であり、日本国憲法の下で何とか旧慣を維持しようとする努力は認めて良いと思います。

 今回、新天皇の一ヶ月前に新元号を公布しましたが、これは前例のない新儀です。政府は、新儀を採用した理由として、改元に伴うコンピュータプログラムの変更に時間が掛かることなどを挙げています。行政府としては、社会の混乱を避けたいと考えたのでしょう。もう少し細かい話をすると、改元を布告する政令は「官報」に掲載されますが、その発行は午前8時30分。さらには、組版の関係で前日の午後10時までに最終稿を持ち込まなければならないそうです。従って、現行の官報発行のプロセスからすれば、そもそも御即位当日の改元は困難なのです。

歴史的に見れば、新帝の即位から改元まで数か月の間が空くことは珍しくありませんでした。システム整備に要する時間が必要というなら、改元の時期を新帝即位後の1ヶ月後にするという方法もあります。ただ、大正・昭和・平成と、新帝即位の翌日には改元されており、今日の国民は新帝即位と新元号とを不即不離のものと観念していると思われます。そうである以上、新帝陛下と改元との間を置くことなく、なおかつ、システム整備に要する時間を確保する便法として、元号の事前公表は許容されると考えます。

とは言え、元号法には「皇位の継承があつた場合」と定められており、これは新たに即位された天皇が改元の政令を公布することが前提とされていると思われる。これは、一世一元の制という点からしても妥当です。従って、事前公表をするにしても内定に留めて置くべきであったと思います。その点からして、譲位して退かれる天皇が次の「元号」に関する政令を公布するという今回の過程は異例としか云いようがなく、政府の判断は極めて不遜と云わざるを得ません。例えば、4月30日に譲位、5月1日から改元というスケジュールは考えられなかったのか。特例法の規定とも関わり、難しいのは分かりますが、次の御代替わりにおいては再検討すべきでしょう。
ただ、政令に今上天皇の御名・御璽を賜っている以上、江戸時代以前に行われていた御在位中の改元と同様と解することもできるわけで、「天皇の元号」という本質は辛うじて保たれたと、私自身は解しています。また、これまで述べてきた皇位継承に伴う儀礼や改元を巡る政府の不手際を招いた背景には、今上陛下が譲位の御意思を示された際、「尊皇」を自称する者たちが「承詔必謹」することせず、議論を徒らに混乱させたことも無関係ではありません。

 ▲「元号」と社会

 去る4月10日、新元号の発表を受ける形で、教鞭を執る都内の某私立大学で学生たちにアンケートを行い、81名から回答を得ました。
 まず、「元号と西暦、日常的に使うのはどちらか?」と尋ねたところ、元号と答えたのは約8分の1にあたる11名に過ぎぬ一方、西暦と答えたのは約6割の47名、残り約3割の23名は両方と答えました。続いて、元号および西暦を用いる理由を尋ねたところ、元号を用いる理由としては「書類などで使うのが多いから」というものが多く、自発的に使っているという学生は一人も居なかったのです。一方、西暦を用いる理由としては「分かりやすい」、「覚えやすい」、「メディアでよく使われる」、「外国でも使われている」などが挙げられ、日常生活では西暦が用いられていることが窺えます。

 こうした傾向は、皇室においてすら見られるのです。一昨年の9月に行われた眞子内親王殿下と小室圭氏の婚約会見において、小室氏のみならず内親王殿下までが西暦を用いられており、私は愕然とした記憶があります。

 ただ、希望もあります。「新元号の『令和』に対する印象」を問うたところ、良いが6割強の50人に対し、悪いは1割強の13人に留まりました。この数字は、国民の平均的意識を反映していると思われます。「『令』は命令を想起させる」などといった否定的な論評とは無関係に、大方の国民は新元号を好意的に受け入れたのではないでしょうか。便乗商法めいたものもありましたが、それも国民が元号に強い関心を抱いている証だと思います。私たちとしては、そうした関心の高まりに目を向け、「国体」に関する意識を喚起することが肝要でないでしょうか。

▲皇位の安定的継承を如何に図るか

 これまでは、既往のこと、あるいは近い将来のことについて述べてきましたが、これからは「国体」を巡る長期的展望について私見を申し上げたいと思います。
 まず取り上げるべきは、「皇位の安定的継承を如何に図るか」という点でしょう。
 皆さんも御存じの通り、皇太子殿下が新帝として御即位された暁には、皇位継承資格を有する男性皇族は御令弟で皇嗣たる文仁親王殿下、その御子息たる悠仁親王殿下、御叔父である正仁親王殿下の3名しか居られなくなります。それゆえ、皇位の安定的継承を可能ならしめるため資格者の範囲を拡大することが急務です。

 この危機を乗り越えるべく、2つの方法が提示されています。第一に、現時点では皇位継承資格が認められていない女性皇族のうち、生まれながらの皇族である内親王3名(愛子内親王・眞子内親王・佳子内親王)、女王3名(彬子女王・瑤子女王・承子女王)の計6名の皇位継承資格を付与して女性天皇の即位を可能とし、さらには結婚しても皇室に留まることができるようにした上で、その子や孫に継承資格を拡大して女系天皇に道を開くべきというもの。第二に、皇位は神武天皇から一貫して男系で継承されてきたのだから、前例のない女系天皇を認めるのではなく、大東亜戦争敗戦後に臣籍降下を余儀なくされた旧皇族および末裔を皇族として迎え入れ、皇位継承資格を認めるべきというもの。

 歴史的事実という点においては、後者に一理があります。古代において女系継承があったとする論者も居ますが、男系によって構成される一族の中で、女系の継承は直系と傍系とを繋ぐ補助線としての役割を果たしてきたに過ぎません。また、一度は臣籍に降下しながらも皇位に即かれた宇多天皇、その御子で生まれたときは臣籍にあったが皇籍を付与され、最終的には皇位に即かれた醍醐天皇のように、後者の先例もあります。
 ただ、「世襲」という観念じたいは女系を排するものではなく、なおかつ、天皇と国民とは血縁によって繋がれた日本民族の一大家族ですから、全くの新儀となるけれども、女性皇族が婿を迎え入れ、さらには子孫が皇族となるという前者の可能性を全否定すべきではないと、私は考えます。

 最終的には、前者か後者、あるいは両者の折衷案という3つの選択肢から結論を出さざるを得ませんが、国民が徹底的に議論を重ねた上で最終的には天皇の御聖断を仰ぐことが必要だと思います。と云うのも、如何なる結論を下すにしても納得し難い思いを抱く国民は少なくないと思われ、そうした分断された国民意識を束ねられるのは天皇しか居られないからです。

 先ほども述べた通り、第一の選択肢も検討に値すると思いますが、その場合、大きな阻害要素となるのは、眞子内親王殿下の婚約を巡る混乱です。小室圭氏の危うさについては、私が編集長を務める『国体文化』(平成29年10月号)に掲載した拙稿で懸念を示したのですが、残念なことに的中してしまいました。

 この問題について、御父君である文仁親王殿下が「今いろんなところで話題になっていること、これについてはきちんと整理をして問題をクリアするということ(が必要)になるかもしれません。そしてそれとともに、やはり多くの人がそのことを納得し喜んでくれる状況、そういう状況にならなければ、私たちは、いわゆる婚約に当たる納采の儀というのを行うことはできません」と述べられる一方、御令妹である佳子内親王殿下は「姉が結婚に関する儀式を延期していることについてですが、私は、結婚においては当人の気持ちが重要であると考えています。ですので、姉の一個人としての希望がかなう形になってほしいと思っています」と述べられました。こうした御認識の齟齬を拝し、国民の一人として憂慮しています。

 いずれにせよ、この問題が解決せぬ限り、女性皇族に婚姻後も皇族として留まって頂く「女性宮家」の創設はおろか、女性皇族に皇位継承資格を拡大することは議論の俎上にも載せるべきではないでしょう。そもそもの問題は、女性皇族の婚姻について、現在の皇室典範には「皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる」(第12条)という規定しか存在せぬことです。旧皇室典範には、「皇族ノ婚嫁ハ同族又ハ勅旨ニ由リ特ニ認許セラレタル華族ニ限ル」(第40条)、「皇族ノ婚嫁ハ勅許ニ由ル」(第41条)と定められています。その趣旨を斟酌するなら、皇位継承資格を女性皇族に拡大するか否かは別にして、女性皇族の婚姻についても皇室会議の議を経るよう現行皇室典範の規定を改められるべきだと思いますが、皆さんは如何お考えでしょうか?

 ▲グローバル化と「国体」

 皇位の安定継承も極めて重要な問題ですが、民族共同体としての「国体」は、もっと大きく、より根源的な問題に直面している、と私は常日頃から考えています。

 その一つは、グローバル化と如何に向き合うかという問題です。去る2月24日、今上陛下は御在位30年式典においてグローバル化に関して御見解を示されました。
  島国として比較的恵まれた形で独自の文化を育ててきた我が国も、今、グローバル化する世界の中で、更に外に向かって開かれ、その中で叡智を持って自らの立場を確立し、誠意を持って他国との関係を構築していくことが求められているのではないかと思います。

 この、今上陛下からの課題に対し、どのように我々は奉答すれば良いのでしょうか。そのためには、「グローバル化」の実相を見定めねばなりません。
  「グローバル化」とは、一言で云えば「交通手段や情報伝達手段の発達を背景として、モノ・カネ・ヒトが国境を越えて容易に流動するようになること」で、具体的には「自由貿易の推進」、「金融の自由化」、「移民・難民の増加」という形を取って現れます。
  こうした「グローバル化」は、人間の本性と密接不可分です。

 そもそも、あらゆる生命体は、生命の存続と発展とを至上の目的とします。地球上には様々な生命体が存在しますけれども、中でも人間が大きな存在感を有するに至ったのは、その共同体形成能力ゆえです。具体的には、小家族から大家族、さらには氏族から部族、民族へと血縁に基づく共同体は拡大します。そうした動きの動因となったのは、経済活動の必要性です。さらに、民族共同体を基盤として法や政治によって統制される国家が確立し、それらが現在も治乱興亡を繰り広げてきました。冷戦期においては、イデオロギー対立を背景として資本主義圏と社会主義圏とに世界が分断されましたが、市場における欲望の自由な発露を認めた資本主義圏が生産力において社会主義圏を凌駕するに至り、後者は崩壊するに至りました。

 欲望を「燃料」とし、IT(情報技術)を「機関」とするグローバル資本主義は、旧社会主義圏、さらには前近代的な経済システムが残存していた支那やインドを飲み込む形で発展しています。やがては、アフリカをも飲み込むことでしょう。また、それに伴って、少なくとも先進国には人々の欲望を満たすに十分なモノ・カネが集積されました。それどころか、「人手不足」が叫ばれるなど、今やモノやカネよりヒトの方が希少となりつつあります。

つまり、貧困や飢餓が克服されたということで、これ自体は喜ぶべきことですが、新たな歪みをもたらしています。その最も分かりやすい現れは外国人絡みのトラブルですが、より根本的な問題があります。

第一に、市場における交換価値がグローバルな判断基準とされ、人間が「情報を享受し、カネを稼ぎ、モノを消費する存在」として取り扱われるようになってしまう点。第二に、それ以外の側面については個人の自由に任すべきとされ、民族的伝統や宗教的信仰に基づく様々な真善美に関する常識・慣習が力を失う点。第三に、全てが経済的価値に還元され、真善美を巡る「大きな物語」が消滅した結果、人々は淡々と日常生活を過ごすこととなり、歴史に名を遺す英雄が生まれなくなる点。総じて云えば、個人が経済的利害にばかり齷齪する卑小な存在になってしまうということです。民族共同体としての「国体」を支える個人が卑小になれば、「国体」も卑小になっていきかねません。

 IT(情報技術)と「国体」

 先ほど、グローバル資本主義の「機関」と評したIT(情報技術)についても、「国体」との関係で論じておく必要があります。
 今上陛下の御在位30年式典の数日前、誕生日を迎えられた皇太子殿下は、記者の質問に答えて次のような御発言をされています。

  平成は、人々の生活様式や価値観が多様化した時代とも言えると思います。それは、ITその他の科学技術の飛躍的発展によって、更に推し進められた部分もあると思います。今後は、この多様性を、各々が寛容の精神をもって受け入れ、お互いを高め合い、更に発展させていくことが大切になっていくものと思います。
 新帝となられた後、このような姿勢で国民統合の役割を果たされるという御覚悟を示されたものと拝しますが、国民たる我々は何をなすべきか考えさせられる御発言です。

 これに関連して、御紹介したい発言があります。『国体文化』の企画として、私の司会で3月に行った座談会「平成人による平成論」の席上における、山本直人氏(文藝評論家)の発言です。

  「昭和」と区別するという意味で大きかった出来事、なおかつ今日にも大きな影響を与えている出来事として、「ウィンドウズ95」の発売を上げたい。〔中略〕「ウインドウズ95」は単なるパソコンの基本ソフトではありません。この登場により、それまで個々人だったものが、世界と繋がるようになった。さらに、それまでインプットだけだったものが、表現力を持つようになった。それが現在のSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)へと発展します。〔中略〕SNSの投稿に対して「いいね!」という反応することで表現欲を満たしていく時代が始まったのが、この頃ではなかったか。

  山本氏が指摘する通り、Windows95の登場により、表現活動の在り方は大きく変化したのです。それまでは、文章で自分の思いを表現し、他者に伝えようとする際には既存の出版メディアを介するか、せいぜい同人誌を創刊するくらいしか術がなかったけれども、ウェブサイトを通じての発信が可能となった結果、誰でも表現者となることが可能となりました。当初は、文字データが中心でしたが、処理速度の向上に伴い、画像や動画なども発信できるようになり、1995年8月には全世界で約1万8000件だったウェブサイトが、2006年11月には1億件を突破し、2014年9月16日に10億件を突破したというのです。

 誰もが自由に表現できるようになったということには、良い点と悪い点があります。良い点として、既存のメディアにより発表が封じられていた様々な政治的主張(具体的には、アンチ・リベラリズムの主張)を発表する場が生まれ、結果的に、既存のメディアが相対化されました。一方、悪い点として、同じく発表が封じられていた猥雑あるいは幼稚な表現の発表も解禁されることとなり、欲望を全面的に肯定する「何でもあり」の世界が現出したのです。「何でもあり」の世界においては、結局のところ市場における交換価値のみが重視されてしまいます。

 ▲「基軸」が失われた世界で

 グローバル化、IT化が進む中で、我々は優劣を判断する真善美の「基軸」を失いつつあります。そうした傾向は高度成長期から顕著となっており、それに対する異議申し立ての書として三島先生が書いたのが『英霊の声』だと、私は理解しています。
 新帝陛下となられる皇太子殿下は、「多様性を、各々が寛容の精神をもって受け入れ、お互いを高め合い、更に発展させていくことが大切」と仰っておられますが、「基軸」なき寛容は「国体」の崩壊をもたらしかねないと、私は思います。

 では、如何にして「基軸」を取り戻すか。現在の私は、この課題に対する明確な解を持ち合わせておりません。ただ、この課題を解くにあたっては、三島先生の『文化防衛論』における「文化」の定義に立ち戻ることが必要だと思っております。
  日本人にとつての日本文化とは、源氏物語が何度でも現代のわれわれの主体に再帰して、その連続性を確認させ、新しい創造の母胎となりうるやうに、ものとしてのそれ自体の美学的評価をのりこえて、連続性と再帰性を喚起する。これこそが伝統と人の呼ぶところのものであり、〔中略〕文化の再帰性とは、文化がただ「見られる」ものではなくて、「見る」者として見返してくる、といふ認識に他ならない。
 又、『菊と刀』のまるごとの容認、倫理的に美を判断するのではなく、倫理を美的に判断して、文化をまるごと容認することが、文化の全体性の認識にとつて不可欠であつて、これがあらゆる文化主義、あらゆる政体の文化政策的理念に抗するところのものである。文化はまるごとみとめ、これをまるごと保持せねばならぬ。〔中略〕

 又、文化は、ぎりぎりの形態においては、創造し保持し破壊するブラフマン・ヴィシュヌ・シヴァのヒンズー三神の三位一体のやうな主体性においてのみ発現するものである。
  この再帰性・全体性・主体性を有する文化、敗戦により表立っての力を失い、高度成長により歪められ、現在進行形の「グローバル化」・「IT化」によって消されかねない文化を取り戻し、「国体」を復興せしめ、ひいては、本当の意味における「グローバル化」すなわち「八紘一宇」を実現することこそ、私たち現代日本人に課せられた使命ではないでしょうか。
(了)

(編集部、この文章は三島由紀夫研究会公開講座講演録(平成31年4月19日(於アルカディア市ヶ谷)です。

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 ◎ 事務局よりお知らせ
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来年1月の公開講座に長田育恵氏が決まりました
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 来年1月の公開講座の講師に劇作家の長田育恵氏が決まりました。長田氏は『豊饒の海』の舞台化を初めて手掛けられた方です。是非御期待ください。
 記
日時 令和2年1月20日(月)18時半開演(18時開場)
場所 アルカディア市ヶ谷
講師 長田育恵(おさだ いくえ、劇作家、ミュージカル脚本家、劇団ユニットてがみ座主宰)
演題 「『豊饒の海』の舞台化について」(仮題)
  <講師略歴> 昭和52年生まれ。東京都出身。早稲田大学第一文学部卒。劇作家、脚本家として数々の作品に携わる。劇団ユニットてがみ座主宰。受賞歴として第70回文化庁芸術祭賞、第19回鶴屋南北戯曲賞など多数。最近では『豊饒の海』の上演で第53回紀伊國屋演劇賞を受賞。
会費 会員・学生1千円、一般2千円
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  三島由紀夫研究会 http://mishima.xii.jp/contents/index.html
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(C)三島由紀夫研究会 2019  ◎転送自由
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