文学

三島由紀夫の総合研究

創立35年の老舗「三島由紀夫研究会」の会報を兼ねた、あらゆる角度からの総合研究メルマガ

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三島由紀夫研究会メルマガ 『私の三島由紀夫コレクション』(その1)

2019/08/14

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『三島由紀夫の総合研究』(三島由紀夫研究会 メルマガ会報)
   令和元年(2019)8月14日(水曜日)
          通巻第1357号   
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『私の三島由紀夫コレクション』(その1)
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〈公開講座〉講演要旨(令和元年6月24日 於アルカディア市ヶ谷)

                             渥美饒児

  私は〈元楯の会〉の隊員で、市ヶ谷駐屯地に三島氏と共に赴いた精鋭メンバーである小川正洋さんとは生前に懇意にしていた。インターネットの〈ウキペディア〉にも、小川正洋と面識のあった作家の渥美饒児によれば、小川の印象は「温厚な人」で「三島事件についてはあまり語りたがらず、過去を封印しているようにも見えた」と書かれている。
 私が小川さんと出会うきっかけになったのは、三島由紀夫氏のモデル小説を書くために取材を申し込んだことからだった。
 ある知人から、三島由紀夫氏と共に自衛隊に乱入したメンバーが浜松に住んでいるとの情報を得て取材を申し込んだのだ。本人にとっては古傷に触れることであり、当然断られると思っていたが意外にも承諾してくれた。
 小川さんは、昨年十一月二十六日に心不全のために七十歳で他界された。しかし私には、十一月二十五日ではないかとの疑問が拭い去れなかった。なぜなら、十一月二十五日は三島由紀夫氏の命日だからである。
 奥さんによると、「命日に合わせると関係者に迷惑をかけるので、あえて一日ずらしたのではないか……」とのことであった。と言うことは、小川さんの死は〈決意の旅立ち〉ではなかっただろうか?

 〈生前の小川正洋さんとの会話〉

?  小川さんは昭和四十五年十一月二十四日、当時交際していた女性の籍を入れ、翌日に市ヶ谷駐屯地に出向いたようだ。三島事件では〈監禁致傷〉〈嘱託殺人〉の罪により、四年間を獄中で過ごすことになる。
?  その後、入籍した女性とは離婚―。
?  刑期を終えると、前妻の子供を引き取って再婚相手の浜松市の実家で暮らす。私の取材に対しても、「居候の身なので外で会いましょう……」と大変に実家には気を遣っていた。
?  浜松では右派国会議員の秘書を務めていて、支持する代議士の落選以後は定職に就いていない。
?  小川正洋さんに対する第一印象は、〈楯の会〉旗手の凛々しいイメージはなく痛々しいほど年老いて見えた。とても、自分とは六歳差とは思えないほど老成しているように感じた。
?  小川さんが発した言葉で最も私の心に残っていることは、「昭和四十五年十一月二十五日以降の自分の人生は余生である……」という発言であった。
?  「刑務所に居た四年間が読書ができ最も人生で充実していた時期」であり、できれば「もう一度刑務所に戻りたい」と断言し、さらには「現在の日本には私が生きる場所がない」と漏らしていた。
?  「三島由紀夫さんからの〈手紙〉や〈楯の会〉の関係書類があったら見せて欲しい……」と尋ねると、全て処分したとの回答だった。後に奥さんの弁によると、ロッカーの奥に仕舞い込んで鍵が掛けてあるとのことであった。告別式には、関係者により楯の会の制服を着用して納棺されたという。
?  三島氏自決に際して小川さんは、「割腹直前には色紙を用意しておいてくれ……」と直接に命令を受けていたようであった。色紙には自らの血で武士の〈武〉の文字を書き残そうとしたらしい。しかしその場になり彼が色紙を差し出すと、「もう、そんな物はいいよ」と断られたという。

私が三十歳を過ぎて三島由紀夫という人物に興味を持ったのは、彼の作品に魅せられたというより、むしろ人物そのものへの好奇心からだった気がする。きっと、作家らしからぬ作家に興味を抱いたのだろう……。
さらに分かり易く云うならば、彼以後に登場した作家は、すべて三島由紀夫という小説家の模倣なのである。三島氏は、生前に作家の枠を越えてあらゆるものを行動により表現しまったのだ。

 展示されている『三島コレクション』の解説をする。
 以下、展示品の説明!

 六年前、三十年間に亙り密かに蒐集してきた〈三島コレクション〉を、浜松文芸館の依頼により三ヶ月間公表したことがあった。以来、すっかり情熱が覚めてしまい一点も三島由紀夫の関連品を購入しなくなってしまった。それ以後、三島由紀夫への情熱を自分の心の中に封印しようと決意した矢先に、再び、今回の〈公開講座〉の企画を伝えられたである。

 三島由紀夫という小説家は、十人いれば十人がそれぞれ違う解釈ができる生き様と死に方した人物である。それら全ては、三島由紀夫が周到に仕組んだシナリオと云っても決して過言ではないだろう。
 今日の講演は、作家・三島由紀夫と同時に、平岡公威(ひらおかきみたけ)という個人の側面からも語りたいと思う。三島由紀夫の文学と人物を端的に表現すると、〈優雅極まりない絢爛(けんらん)たる文章〉と〈過剰な美意識とナルシシズム〉ではないだろうか……。当初、私は三島氏の装飾過剰な文章が生理的に受け入れられなかったのである。

 平岡公威という人物は、生涯、三島由紀夫という〈仮面〉をかぶることで文学空間を彷徨(さまよ)い、自己防衛し続けなければならなかったのではいかと思う。そして〈仮面〉を外して、素(す)の〈平岡公威〉になった時、早すぎる死が待っていたのではないだろうか……。

 今日は、三島由紀夫を知る上で代表的な三作品を取り上げてみたいと思う。
?  『仮面の告白』―→同性愛的傾向を告白した自伝小説。(二十四歳)
?  『金閣寺』―→三島由紀夫が到達した日本文学の極致。(三十一歳)
この頃から三島氏は〈ボクシング〉や〈ボディビル〉により肉体改造を試みるが、それは彼独特のコンプレックスの裏返しであったのかもしれない。

 ?  『豊饒の海』―→死を前提とした輪廻転生の物語。(四十歳)
 五年間を費やした〈遺書〉ではないかと思える作品で、当初は『月の宴』というタイトルだったと記憶している。
 三島由紀夫氏と私の出会いは、高校二年の時である。高校の授業の合間に女子高生が持ち込んだ一冊のグラビア雑誌がきっかけだった。
「えっ、三島由紀夫が自殺した?」
 当時、私が三島由紀夫について知っていたことは、小説家であることくらいだった。しかし、次の「三島由紀夫が切腹したんだって……。ほら、生首が転がっているよ」との一言で頭を殴られたような衝撃を受けた。
 グラビア雑誌に掲載された床に転がった生首のモノクロ写真が、私と三島由紀夫氏との最初の出会いだった。しかし当時、文学にまるで興味のなかった私の印象は、ただ生々しく不気味なだけで、それ以後、私の記憶から三島由紀夫の名前は消えてしまう。

 個人的なことだが、三島由紀夫が二十四歳で『仮面の告白』を発表した年代に私は小説を書き始めた。
そして名作『金閣寺』で名声を博した三十歳で、私は作家デビューすることができた。しかも三島氏が『仮面の告白』を発表した河出書房の文芸雑誌『文藝』の新人賞を受賞したのだ。改めて、三島由紀夫の辿った経緯と自分とを比較して愕然とする。というのも、彼が文壇の寵児として『金閣寺』を発表した年齢に、やっと私はヨチヨチ歩きで文壇にデビューしたのだった……。

 平岡公威(三島)の祖父・定太郎は、農林省に入省後に満州に渡り、樺太長官となる。しかし財政赤字による責任を取って、家と屋敷を失ってしまう。そんな夫に祖母(夏子)は失望し、彼女の期待は一身に孫の公威(きみたけ)に集まることになる。幼い三島は病気で寝込む祖母から離れることが許されず、遊び友達は女の子のみで〈ママごと〉や〈積み木遊び〉しか許可されなかったという。幼い頃から平岡少年は、祖母と母の顔色をうかがいながら日々を過ごし、物心つくと同時に仮面を付けて生きることを強いられたのではないだろうか。

平岡公威は昭和六年に学習院中等科に入学する。あだ名は、虚弱な体だったことから〈アオジロ〉と呼ばれていた。十六歳の時に『花ざかりの森』を書いて同人誌し、この時に始めて恩師・清水文雄から「三島由紀夫」というペンネームを与えられた。
 昭和十九年に徴兵検査を受けるが、前日に発熱して不合格となる。以後、この事実が公威少年のコンプレックスとなり、ずっと三島由紀夫という仮面の奥に封じ込めることになる。

『仮面の告白』は、そのような己の内面を吐露した作品であり、小説のスタイルは一人称の独白体で書かれている。

『仮面の告白』の〈あらすじ〉紹介――。
 特殊な育てられ方と自らの性的異常を感じた主人公は、同級生の不良生徒に憧れながら友人の妹に恋をする。しかし、どうしても異性に対して肉体的な欲望が芽生えない主人公は落第生の不良生徒・近江(おうみ)という男子学生に対し性的な倒錯を独白する自伝的小説である。当時の時代背景からすれば、新進作家のデビュー作とは思えない衝撃的な作品です。同性愛というセンセーショナルなテーマは、たちまち話題を呼び、一躍、時代の寵児となる。

 当時の三島氏は『仮面の告白』に対して、以下のような作品解説をしている。
 〈今回の書下ろし小説は、十一月二十五日を起筆と予定し、題は『仮面の告白』というのです。この度の小説は、生まれて初めての私小説で、もちろん文壇的私小説ではなく、今まで仮想の人物に対する心理分析の刃を自分に向けて、自分で自分の生体解剖をしようという試みで、ボードレールの、いわゆる死刑囚にして死刑執行人たらんとするものです……〉と自虐的に伝えている。

〈死刑囚にして死刑執行人……〉とは、自分を他人のように冷静に見るということであり、彼はその仮面の奥に〈平岡公威〉と〈平岡家の記憶〉を封じ込めようとしたのではないだろうか。
 参考までに『仮面の告白』の序文を朗読する。

 〈永い間、私は自分が生まれた時の光景を見たことがあると言い張っていた。それを言い出すたびに大人たちは笑い、しまいには自分がからかわれているのかと思って、この蒼ざめた子供らしくない子供の顔を、軽い悲しみの色差(いろざ)した目つきで眺めた……。〉

  その後、三島氏は『禁色』という同性愛をテーマにした長編小説を発表。この頃の彼には、同性愛に対して強い憧れがあったようだ……というのも、彼が崇拝していた西欧の作家にホモセクシュアルの人物が多かったからだ。
 たとえば、氏の著作『ラディゲの死』のレイモン・ラディゲの交際相手はジャン・コクトーであり、そのコクトーの恋人はココ・シャネルである。また、三島氏が指標とした作家オスカー・ワイルドの交際相手は詩人のアルフレッド・ダグラス。さらに天才詩人アルチュール・ランボーの恋人は、同じく詩人のポール・ベルレーヌであった。
 すでに、この頃から三島由紀夫の頭の中には逃れられない二つの言葉があった。それは〈同性愛〉と〈夭折(ようせつ)〉という命題である。ラディゲは二十歳で病死し、オスカー・ワイルドも四十六歳の時に伝染病で命を落とした。三島由紀夫という作家は、自他ともに認める天才作家であった。その彼の最も憎むべきは〈老醜(ろうしゅう)〉だった。しかし美しい肉体にも、ただ一つの欠点がある。それは、いかに鍛えようとも、年とともに肉体は老いていくことだった。

遺作となった『豊饒の海』の第四巻「天人五衰」の中の一節に、本田繁邦(ほんだしげくに)は、〈あらゆる老人は、からからに枯渇して死ぬ。豊かな血が、豊かな酩酊を、本人には全く無意識のうちに、湧き立たせていた素晴らしい時期に、時を止めることを怠ったその報いに……〉と書かれている。
また、三島由紀夫は『仮面の告白』を書き終えて、こう語っている。

 〈この本は今まで私がそこに住んでいた死の領域へ残そうとする遺書だ。この本を書くことは、私にとって裏返しの自殺だ。飛び込み自殺を映画に撮ってフィルムを逆に回すと、猛烈な速度で谷底から崖の上へ自殺者が飛び上がって生き返る。この本を書くことによって私が試みたのは、そういう生の回復術である……〉

 この〈三島由紀夫〉という仮面こそが、生涯に亙り彼を苦しませることになったと私は考える。しかし、その後は、『愛の乾き』『潮騒』などの華麗な文体で〈美やエロス〉の世界を構築していく。三島由紀夫の最高傑作を一つ挙げろ……と云われたら、迷わずに私は『金閣寺』と答えるだろう。なぜなら、『金閣寺』ほど完璧な文学作品に出会ったことがないからである。

 この作品の凄いところは、劣等感の塊である主人公の〈溝口〉とは異なり、〈柏木〉が、自らの障害を愛していることだ。逆に、時として障害者であることを武器にさえしてしまう。

『金閣寺』で三島由紀夫氏が描きたかったことは、滅びることで永遠を獲得することではないかと思う。滅びることで肉体は喪失するけれども、魂は永遠に生き続けるという思想である。〈美〉とは〈醜悪〉の反対概念で、金閣寺は美しく吃音(きつおん)の自分は醜い。『金閣寺』いう小説は、吃音により現実世界から疎外された主人公が、美の極致である金閣寺を破壊することで自己回復する物語である。

『金閣寺』の一節を朗読――。
「美は……」と言いさすなり、私は激しく吃(ども)った。埒(らち)もない考えではあるが、そのとき、私の吃りは私の美の観念から生じたものではないかという疑いが脳裏を過ぎった。「美は……美的なものは、もう僕にとって怨敵(おんてき)なんだ……」
美の滅びは〈美そのものよりも美しい〉。三島氏はビクトリア調コロニアル様式の邸宅や西欧文化を生活に取り入れながら、内面的には日本主義的思想を漲(みなぎ)らせる特異な作家だった。私は、この小説を初めて読んだ時、フランスのノーベル文学賞作家であるアルベール・カミュの『異邦人』を想起した。

『異邦人』の内容説明――。
〈主人公・ムルソーは、ある日、友人のトラブルに巻き込まれアラブ人を射殺してしまう。ムルソーは、裁判で人間味のかけらもない冷酷な人間だと糾弾される。そして彼は、裁判で殺人動機について、「あまりに、太陽が眩しかったから……」と平然と述べて傍聴人たちを驚かせる。死刑を宣告されたムルソーは、人々から罵声を浴びせられることを、ただひたすら望みながら人生最後の希望にするのだった。〉

 三島氏が金閣寺の中で〈美的なものは怨敵(おんてき)であり、金閣寺を焼かねば……〉と言った言葉と、『異邦人』のムルソーが発する「あまりに太陽が眩しかったから」という会話が、当時、私の心に同種の人間の不条理として印象に残った。
『金閣寺』の美についての描写を朗読――。

〈私は激甚(げきじん)の疲労に襲われた。幻の金閣は闇の金閣の上にまだありありと見えていた。それは燦(きら)めきを納めなかった。水ぎわの法水院(ほうすいいん)の勾欄(こうらん)はいかにも謙虚に退(しりぞ)き、その軒には天竺様(てんじくよう)の挿肘木(さしひじき)に支えられた潮音洞(ちょうおんどう)の勾欄(こうらん)が、池へ向かって夢みがちにその胸を差し出していた……〉
 この「優雅極まりない絢爛(けんらん)たる文体」は、読みにくいほどの描写と長文です。三島作品を読み継いでいくと、いかに『潮騒』だけが読み易く書かれていることに気付く。その理由は、『潮騒』はギリシャ神話をベースに、意識的にニュートラルな文体で綴られているからであろう。

 正直に告白すると、当初、過剰な描写で表現された三島文学が私は苦手だった。しかし三島由紀夫という人物と作品を知るうちに、この文体こそが古典として残ることを意識した三島文学であることに気づいたのだった。 (つづく)
                  (文責 三島由紀夫研究会事務局)
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 ◎ 事務局よりお知らせ
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8月の公開講座は評論家で憂国忌発起人の西村幸祐氏が講師です。
           記
◇日時 8月30日(金)午後6時開場、6時半開演
◇会場 アルカディア市ヶ谷(私学会館)
       (JR・地下鉄「市ヶ谷」駅徒歩2分)
◇講師 西村幸祐氏(評論家、憂国忌発起人)
◇演題 「三島由紀夫は甦る」
◇講師略歴 昭和27年生れ。東京都出身。慶應義塾大学文学部哲学科中退。学生時代に『三田文学』の編集に携わる。現在評論、言論の世界で活躍中。主な著書に『21世紀の「脱亜論」中国・韓国との決別』(祥伝社新書)、『日本人に「憲法」は要らない』(KKベストセラーズ ベスト新書)、『韓国のトリセツ』(ワニブックスPLUS新書)など多数。
◇会場分担金 会員・学生千円(一般2千円)
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  三島由紀夫研究会 http://mishima.xii.jp/contents/index.html
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