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三島由紀夫の総合研究

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三島由紀夫研究会メルマガ

2018/11/14

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『三島由紀夫の総合研究』(三島由紀夫研究会 メルマガ会報)
    平成30年(2018)11月14日(水曜日)
         通巻第1292号   
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三島由紀夫研究会第271回公開講座(平成30年5月25日)

「もう一つの日本』を求めて─『豊饒の海』を読み直す
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井上隆史氏(白百合女子大学教授)

 平成三十年二月に『「もう一つの日本」を求めて―三島由紀夫『豊饒の海』を読み直す』(現代書館)を刊行した。
この本の背景やテーマ、残された課題などについて報告したい。
 私は以前、『三島由紀夫 幻の遺作を読む―もう一つの「豊饒の海」』(光文社新書、平成二十二年)を書いた。ここでは『豊饒の海』の創作ノートに基づいて、三島がある時期まで本物の転生者に導かれて本多老人が幸福な死を迎えるという結末の構想を抱いていたことを明らかにし、もし完成作の『天人五衰』とは異なるこの構想に従って作品が書かれていたら、どのような内容になっていたか、私なりに想像を膨らませてみた。
これが『「もう一つの日本」を求めて』に繋がる論究の起点の一つである。

 起点はもう一つあって、それは『三島由紀夫「豊饒の海」VS野間宏「青年の環」−戦後文学と全体小説』(新典社、平成二十七年)である。
三島と野間は、文体も作風も思想的立場も正反対で、一緒に論じるのは無意味、無謀であるように見えるかもしれない。しかしこの二人には、ともに小説というフィクションの形において、世界と人間の生の全体的ビジョンを読者に差し出そうとしたという共通点がある。

そもそも日本の戦後文学にはそのような全体小説への志向が認められ、三島と野間はこれを実践し、おのおののやり方で目覚ましい成功を収めた代表的な作家であった。
私はこの二人の作品を対照しながら、それぞれ方法論の特質と、そこから私たち現代の読者が受け取るべき生のビジョンのあり方を追求したかったのである。

 この二つの前著を掛け合わせ、議論をさらに展開しようとしたのが、今回著した『「もう一つの日本」を求めて』である。そこで目指したことを一言で言うなら、『豊饒の海』をバルザック以降の近代小説の系譜に連なり、その試みをさらに前に進めようとした全体小説として、世界文学史上に正当に位置づけようとすることであった。

 少し詳しく説明するなら、第一に、三島由紀夫という存在のあまりに強烈な個性、また輪廻転生という筋立てのユニークさのせいもあり、これまでの研究では、『豊饒の海』を他の作家や文学作品と共通の地平において論ずることは、あまり試みられてこなかった。
しかし、創作ノートや関連の書簡類を分析し、テキストを丁寧に読み直してゆくと、三島は日本のみならず世界史における近代の光と闇に厳しいリアリストの目を向け、バルザック、プルーストやジョイスの方法を十分に意識しながら、戦後日本という場の中でその現実の全体を表現する新たな方法を真摯に探ろうとしていたことがよくわかる。

世界文学的な文脈における新たな小説方法論の模索といえば、日本では例えば大江健三郎の名が挙げられる。
そういう観点から見ると、三島に対しては冷ややかな評価が下されることが多いのだが、実は大江以前に三島がこの問題を深く追究しており、大江はやむなく三島のやらなかったこと、三島が追究したのとは反対の方向に可能性を探らざるをえなかったと言える面もあるのだ。
そしてそれは、三島由紀夫が、二葉亭四迷、有島武郎、島崎藤村、横光利一といった日本近代文学史における長編小説作家の試みと挫折を引き受け、これを乗り越え発展させた作家であることをも意味しているのである。


▼全体小説とは何か

 第二に、全体小説とは何か、という問題がある。全体小説は世界と人間の生のすべてを描く小説とみなされ、その場合抑圧的イデオロギーを伴うものと批判されることもあるが、こうした理解は改められなければならない。
それはむしろ、世界と人間の生の全体的ビジョンを読者に与えるような構造を備えた小説の謂いなのだ。そのような小説として、バルザック、プルーストなどフランス小説や、ガルシア=マルケス、バルガス=リョサらラテンアメリカの文学作品がよく問題になる。

この文脈においても三島に対してしばしば冷ややかな評価が下されるが、これも誤解である。
『豊饒の海』は全体小説の可能性を最大限に探ろうとした作品の一つであり、五十年近くも前に完結した作品であるにもかかわらず、東日本大震災を体験した私たち現代の日本人に対しても世界と人間の生の全体的ビジョンを立ち上げる力を備えた作品なのである。

第三に、ではそのビジョンとは、いったいいかなるものなのであろうか。
それはたいへんニヒリスティックなものである。近代化の行きついた果てとしての「虚無の極北」であると同時に、その先に現れる、よりいっそう深刻なもう一つの「虚無の極北」の光景でもある。私の考えによれば、それは原爆による廃墟の光景であり、原発事故によって剥き出しになった日本と世界の荒涼たる光景でもあるのだ。
私の中にはこれを認めたくない気持ちもあるが、それは欺瞞で、実は私たちは常に既にそこに置き去りにされているのではないか。この二重の意味での「虚無の極北」を『豊饒の海』ほど如実に描き出した世界文学は、他に例がない。
しかし、これは『豊饒の海』が差し出すビジョンの一面だと私は考える。


▼「記憶もなければ何もない」

よく知られるように、『天人五衰』の結末は『源氏物語』の「夢浮橋」の結末を下敷きにしている。また、完成作と逆の結末が考えられていた構想段階においては、記憶に関するプルーストの考えが下敷きになっていたことが、創作ノートから確かめられる。
これは、単に作品の典拠や、秘められた創作、推敲過程が明らかになったということだけを意味するのではない。

「記憶もなければ何もない」という『天人五衰』の文面は既に固定しているように見えるが、実はそこに記された一語一語の間では、記憶をめぐる『天人五衰』とは真逆のプルーストの考え方や『源氏物語』が示す別様の情緒など、多数の理念や感情の葛藤が繰り広げられているということを、それは物語るのである。

そのダイナミズムは創作過程において起こり作品の完成とともに終息した過去の遺物ではない。いま作品に向き合う瞬間ごとに、私たち読者が生み出し、また私たち読者にもたらされる運動なのであり、確かに『豊饒の海』は二重の意味での「虚無の極北」というニヒリスティックな世界像を提示するが、そこでは同時にダイナミックな読書体験が展開しているのである。

そのような読書体験には、「虚無の極北」とは対極にある生のあり方が秘められているとは言えまいか。そうだとすれば、三島は『豊饒の海』において「虚無の極北」のビジョンを差し出しただけでなく、「虚無」のただなかを生き抜く力を読者に求め、そして与えていることになるはずだ。
ここに『豊饒の海』が差し出すビジョンのもう一つの面がある。そしてそれは、一人三島由紀夫の創作力によって得られるものではなく、このようなことを可能にするだけの大きなポテンシャルを日本文化が持っていると三島は信じた。

だから私はこのもう一つのビジョンのことを、「虚無の極北」に晒され、このままでは「虚無の極北」そのものになりかねない現代の日本とは異なる「もう一つの日本」と呼んだのである。


 ▼「もう一つの日本」とは、いったい何か

私は『「もう一つの日本」を求めて』において以上のようなことを述べ、その議論を唯識仏教や『文化防衛論』、天皇論に重ね合わせた。その詳細については、拙著を直接お読みいただけたら、著者としてこれほど嬉しいことはない。
ただ、残された課題があるので、それについて記しておきたいと思う。

それは、本当のところ「もう一つの日本」とは、いったい何かという問題である。いまも述べたように、それは読書体験における緊張に満ちた葛藤のプロセスのこと、『源氏物語』や『失われた時を求めて』の世界観をダイナミックに否定し読み替える、つまりこれまでに生み出されてきた作品世界を一度死なせ、別の世界として生き返らせる生々しい行為のことだが、私はこの営みを読書体験の枠を超え、現実世界における人間の生の活動全般にまで拡大したいと思った。

そしてそれを唯識仏教における同時更互因果の考え方(いま死ぬと同時に、いま生きるという原理)と結び付けた。
だがそれを、具体的な何かとして明示することはできない。それは固定した実体ではなく、生けるビジョンのダイナミックな運動それ自体だからだ。

しかし、このように言っても、雲をつかむ話のように聞こえるかもしれないし、事実、「もう一つの日本」など、ただの幻かもしれない。しかしもし私たちが、「虚無」のただなかを生き抜こうとするのなら、「もう一つの日本」とはこれだ! と指し示すことができるだけの強度をもった行為を、日々実践してゆかねばならない。
それはたえざる自己否定が強いられる容易ならざる営みだが、そのような課題が私たちには与えられていのではないかと、考えているのである。
    (いのうえたかし氏は白百合大学教授)

(本稿は五月の公開講座での講演要旨を編集部がまとめたものです) 

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  「憂国忌」のご案内
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明治百五十年にあたり、背景に明治の残映から始まる三島先生の傑作『春の雪』(『豊饒の海』第1巻)を中心としたシンポジウムなどを執り行います。
 実施要綱は下記の通りです。
            記
 日時   十一月二十五日(日曜) 午後二時(午後一時開場)
 場所   星陵会館大ホール(千代田区永田町2−16)
 資料代  お一人 二千円 
<プログラム>                      (敬称略、順不同) 
                     総合司会     菅谷誠一郎
午後二時   開会の挨拶        三島研究会代表幹事  玉川博己
      『春の雪』名場面の朗読              村松えり
      『天人五衰』最後の場面朗読            村松英子
午後二時半 シンポジウム  「『春の雪』をめぐって」
                    小川榮太?、富岡幸一郎、松本徹 
                  司会  上島嘉郎(『正論』前編集長)
      追悼挨拶「憲法改正の時が来た」   中西哲(参議院議員) 
午後四時十五分    閉会の辞。 全員で「海ゆかば」斉唱    
       (なおプログラムは予告無く変更になることがあります。ご了承下さい)
 <憂国忌代表発起人> 入江隆則、桶谷秀昭、竹本忠雄、富岡幸一郎、中村彰彦
西尾幹二、細江英公、松本徹、村松英子
(実行委員会責任者      宮?正弘)
(三島由紀夫研究会代表幹事  玉川博己)
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  三島由紀夫研究会 http://mishima.xii.jp/contents/index.html
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