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三島由紀夫の総合研究

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三島由紀夫研究会メルマガ ]反抗と仁愛 ──日本の浪曼主義(その4)

2018/11/03

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『三島由紀夫の総合研究』(三島由紀夫研究会 メルマガ会報)
    平成30年(2018)11月3日(土曜日)四
         通巻第1289号   
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<<短期集中連載>>

反抗と仁愛 ──日本の浪曼主義(その4)
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                                    澤村修治

◆民族と宗教と風土

日本浪曼派は雑誌『コギト』を母体として興りました。『コギト』は旧制大阪高校の文科乙類のクラスメートたちによってはじまります。乙類はドイツ語を学ぶクラスです。旧制大阪高校に保田與重郎が入学したのは昭和三年四月でした。彼はそこで肥下恒夫、田中克己ら、のちの『コギト』創刊グループと出会う。このとき保田の文学者・思想家としての人生が決定されたといってもいいでしょう。
クラスメートたちは東大・京大へと進学したのち、OBとして集まり『コギト』を創刊する。コギト・グループはドイツロマン派(シュレーゲル兄弟、ティーク、ノヴァーリスほか)の影響を受けていました。「肥下恒夫日誌」の昭和六年二月頃──『コギト』創刊一年前です──と思える記述のなかに、こうあります。

〈W.シュレーゲル
古典的=彫刻的。普遍性。雰囲気の描写は許されないで、現はさるべき当体、したがってその一般的性格の描写が要求される。
浪曼的=絵画的。特殊的。細部の描写、前景と背景と、色彩と陰影と空気と光、あらゆる雰囲気の描写が許される。〉

また、肥下のノートには、こういたメモ書きもあります。

〈ウイルヘルム  シュレーゲルに依れば 古典的と浪曼的との対立の根拠は 主として民族と宗教と風土の上にあったと。〉
 
色彩と陰影と空気と光をすべて許容するという精神、それが戦時という過酷な時代相のなか、若者たちを真っすぐ捉えていきます。統制中の統制といえる時代に、形式を否定して、歴史的な「系譜」を観念することで魂の共感を呼び込み、風土が生み出してきたものへの愛着を全開させる。そこから自由の精神、人間性の回復を求める。
 
日本浪曼派への評価には、もちろん、さまざまなものがあります。むしろ戦後、忌み嫌われ、否定と論難の嵐にさらされたのが日本浪曼派ですが、彼らの運動は古典主義的なありように対立する〈根拠〉をもったものだった。このところを見据えない批判は、状況的な意味しかもちえないと私は思います。
南洲が浪曼的であるというのも、肥下メモの言葉に示唆がある。封建徳川と西欧近代という二つの〈普遍性〉に対峙したのが南洲だった。〈普遍性〉がもつ統制や抑圧に抗して、彼は何をめざしたのか。それは〈民族と宗教と風土の上〉に立つ、〈色彩と陰影と空気と光〉をもった豊かな人間社会の構築である。そう思えてなりません。
そして浪曼には〈色彩と陰影と空気と光〉を捉える詩心が決定的な介在となる。保田與重郎は、間違いなく、そのあたりの事情がよくわかっていたのだと思います。

◆三島由紀夫と日本浪曼派

 さて、最後に三島由紀夫と日本浪曼派の関わりについて見ていきましょう。何より三島自身の回想を引用します。「私の遍歴時代」からです。
〈私は日本浪曼派の周辺にゐたことはたしかで、当時二本の糸が、私を浪曼派につないでゐた。一本の糸は、学習院の恩師、清水文雄先生であり、もう一本の糸は、詩人の林富士馬氏であつた。〉

〈この人たちは、佐藤春夫、保田與重郎、伊東静雄諸氏の仕事に感心してをり、これらの名は会合の席でもひんぱんに出た。私は保田氏の本を集めだしたが、「戴冠詩人の御一人者」や「日本の橋」「和泉式部私抄」などの本は、今でも、稀に見る美しい本だと思つてゐる。〉

 実は三島と日本浪曼派との関係は、ややぎくしゃくしています。保田の戦後の生き方に三島は批判的でした。三島と伊東静雄の間には明らかな葛藤がありました。とはいえ、主峰・保田の著書を〈稀に見る美しい本〉だというのは好意的です。
日本浪曼派の影響を自分は否定出来ない、と三島自身、どこかで把握していたからなのでしょう。
三島由紀夫は戦後における、日本浪曼派の最もすぐれた継承者だという評価があります。一方、三島文学はロマン的というより古典的な完成をめざしたものだとの評もある。たとえば、『潮騒』は古典主義的と見られている。古代ギリシアの散文作品『ダフニスとクロエ』に着想を得て書かれた、というのもどこか古典主義志向です。

三島由紀夫は大才です。小説でも戯曲でも評論でも、あるいはメディアへの対応でも、みな巧みにおこなう。だから古典主義文学もうまく仕上げてしまう。ゆえに三島の本質はかえって見えにくい。しかし私としては、三島文学を全体として眺めると、個性的であることの重視、美的なものへの傾斜、民族と宗教と風土を取り込んでいく姿勢などが目立ち、やはり三島は、浪曼的な要素が主調の作家だと捉えています。
 
一方、保田與重郎のほうですが、彼は三島について何度か言及しています。座談会での回顧談を次に紹介します。こちらも実に好意的なものです。

〈学習院の雑誌に載った〔三島の〕小説を、(中略)「文藝文化」をやった清水文雄が三島さんの先生で、この清水さんが持って来た。いいんですな。本人がある時来て、その頃食糧が不足してたんだが、生徒が弁当はみんな持って来るが、それが盗まれるのです。女の子が盗られて、男の子のは盗られない、という話をしました。その話をきいていて、この少年はいい小説家になる、と思うた。(中略)三島は何でもないことを言うたんです。それで清水さんに、これはいい小説家になるでえ、と言うたんです。〉(座談会「日本浪曼派を語る」『国文学 解釈と鑑賞』昭和四十四年八月号)

なお三島と日本浪曼派といえば、保田や伊東などコギト・グループではなく、蓮田善明など『文藝文化』のグループとの関係のほうがよく取り上げられます。話すと長くなってしまいそうで(笑)、困っていますが、時間と相談して一つだけ紹介させてください。三島の文章のなかで、先ほど挙げた南洲のスケッチとともに、私の好きな、いつまでも忘れられない名文句です

〈文人の倖は、凡百の批評家の讃辞を浴びることよりも、一人の友情に充ちた伝記作家を死後に持つことである。〉

これは三島筆、小高根二郎『蓮田善明とその死』の序文にある一文です。短いなかに、表現者の本質を突いた見事な評言だと思います。生きているときに多数の評価を得る。賞にも恵まれる。それは本当の「幸い」ではないのだと。賛辞は死後、概【おおむ】ね続きません。
堂々と(?)忘れられる。「多数」の意向はそういったもので、大抵ウタカタだからです。三十六年も編集者をやっていて、読まれなくなった書き手を幾人も見ており、一時の評価・人気との落差に愕然とすることしきりです。

三島は書き手の立場からそのあたりを見抜いていた。むしろ〈友情に充ちた〉態度で評伝を書く〈一人〉──それは真率の、本物の理解者といえます──を得て、作家の姿が後代に確かに伝えられていく。これこそ〈倖〉である。三島は蓮田・小高根──共に日本浪曼派系の書き手です──の〈友情〉に感銘し、自然とこの名言が出てきた。流石の眼力です。
ついでに、このさいとなりますが、自身の話で恐縮ながら、私もまた小さな評伝書きとして、たとえば『唐木順三』(ミネルヴァ書房)などを上梓しています。
『唐木』がどの程度の出来かはわかりませんが、編集者の大先輩として、また戦後の左翼全盛、日本的なるものの批判が盛んな風潮のなか、バランスのよい視点で日本の伝統とその価値を捉えなおした文人として、唐木への〈友情に充ちた〉姿勢で書いたことは間違いありません。評伝書きは実のところ苦しい作業でもあり、唐木伝も時折そうでしたが、『唐木順三』は全体的には実にさわやかな執筆体験でした。

では、すぐれた文章家、文学者、文明批評家であった三島由紀夫自身はどうでしょうか。いささかの屈曲はあるものの、基本は〈友情〉があった作者たちによって、いくつかの重要な評伝が書かれていると私は見ています。野坂昭如の『赫奕【かくやく】たる逆光』は要作だと思いますが、如何でしょうか。野坂の屈曲は相当なもので、そこがまた面白いのですけれども。

時間になったので、最後に保田と三島の比較を試みてみます。素描にすぎませんが、印象めいた話をすればこうなります。まず保田と三島は、時代や出自を勘案しても、明らかにタイプが違うように見える。保田は徹頭徹尾、文学者ですが、三島は文学者というより知識人に思えます。保田は詩的直観に頼る文体で時に支離滅裂となりますが、三島はより端正で論評的な構えを愚直なまでに外さないところがある。そして、保田は野放図ですが三島はきちんとしている。きちんとし過ぎるくらいに。

三島は戦後日本にあって、政治的な発言、行動も、必要と認めれば躊躇【ためら】わなかった。天皇制、防衛論、昭和の大戦争への評価、自衛隊などで実践家としてふるまった。一方、保田與重郎は反政治的です。政治が極度に緊張した戦中にあってもその点は特徴的で、現実政治に距離をとった。戦後も同じです。保田の『絶対平和論』は、興味深いのですが政治的にはあまりに浮世離れしている論議です。たとえばこう出てきます。
〈今日の日本の自衛権の発動とは、戦争に介入せぬ努力を総【あら】ゆる細心さと勇気を以て行ふ権利のことです。これは政治上の権利でなく、人文上の権利です。侵入国に反抗し防衛する軍事行為ではありません。〉

 えらく「超越的」な立論です。現実を少しでも見ていれば、主張しがたい。それを主張しているところが、いかにも保田的だと私は思います。
 保田は気分的なところも含め、政治的な行き方に批判を通しました。〈わたしは、今になって反省していることは、戦争に協力できなかったことです〉と、白川正芳との対談「転形期と日本浪曼派」『第三文明』(昭和五十年三月号)での発言にあります。
彼は政治的ではなかった。政治的にふるまえなかった。結局、日本浪曼派が戦後、あれほど政治的に論難されたのは、彼等があまりに非政治的だったからではないか。そうとすら思えてしまいます。
 
南洲も本質は政治的人間ではなかった。なれなかった。保田もそうです。三島はどうか。政治的にふるまった面はありましたが、根本は非政治的なのではないか。最期への道程がそれを示しているように思えます。三島は文学者・文人ではあったが、根柢では政治に向かないところがあった。大才なので政治的なふるまいも巧みに出来たというのはありますけれども。

ただ人間社会というのは不思議なところで、政治向きの人間が、まともな政治をするわけではない。
非政治的な面をもつ人間が、とびきり高度な政治的課題を成し遂げるというのは、〈日本の維新革命は、西郷の革命であった〉との、内村鑑三の言葉をまつまでもありません。
保田も戦時下日本で決定的な政治的影響力を発信した。それゆえ政府に睨まれ監視がつくようになった。三島の政治的な影響は、戦後日本への一大批判者として、地下水脈でいまも深く流れていることからも察せられます。南洲・保田・三島という日本浪曼の系譜は、それぞれ特異な思想的・実践的な位置ながら、全体を鳥瞰すると、日本近代百五十年にとって、枯れることなき巨大な伏流になっている。そう考えねばならないと思います。
ご清聴くださり、ありがとうございました。(了)。
 
(本稿は平成三十年八月二十四日におこなわれた講演内容に加筆したものである。文責は三島由紀夫研究会事務局にあります。)

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