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三島由紀夫の総合研究

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三島由紀夫研究会メルマガ ]反抗と仁愛 ──日本の浪曼主義(その3)

2018/11/03

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『三島由紀夫の総合研究』(三島由紀夫研究会 メルマガ会報)
    平成30年(2018)11月3日(土曜日)参
         通巻第1288号   
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<<短期集中連載>>

反抗と仁愛 ──日本の浪曼主義(その3)
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                                    澤村修治
 

◆予感する能力の持ち主

 今度はその南洲を描いた作品を、印象的な箇所を引用することで見ていくことにします。まずは江藤淳『南洲残影』の一節です。
〈私の脳裡には、昭和二十年(一九四五)八月の末日、相模湾を埋め尽すかと思われた巨大な艦隊の姿が甦って来る。日本の降伏調印を翌々日に控えて、敗者を威圧するために現われた米国太平洋艦隊の艨艟【もうどう】である。あれだけ沈めたはずなのに、まだこんなに多くの軍艦が残っていたのかという思いと、これだけの力を相手にして、今まで日本は戦って来たのかという思いが交錯して、しばしは頭が茫然とした。

 その巨大な艦隊の幻影を、ひょっとすると西郷も見ていたのではないか。いくら天に昇って星になったと語り伝えられた西郷でも、未来を予知する能力があったとは思われないというのは、あるいは後世の合理主義者の賢しらごとかも知れない。人間には、あるいは未来予知の能力はないのかも知れない。しかし、国の滅亡を予感する能力は与えられているのではないか。その能力が少くとも西郷隆盛にはあり、だからこそ彼は敢えて挙兵したのではなかったか。〉
 ここに〈艨艟〉というのが出てくる。ひっくりかえして〈艟艨〉とも書きます。「艨」「艟」はともに中国で古くに使われていた漢字で、どちらも軍艦の意味です。「艨」は舟偏をトルと蒙となる。暗がりです。啓蒙が蒙を啓【ひら】くという意味だというのは、よく知られています。
古い中国の軍船は亀の甲羅のような防御用の屋根がかぶせられていた。それで船内はぼんやりして暗い。蒙【くら】い船で「艨」です。「艟」は舟偏に童ですね。童は瞳で、子供は瞳が大きいから児童の「童」に使われている。ここでいう瞳というのは、軍船のあけられたのぞき窓のことでしょう。そこから矢を射ったり、棒を突き出したりして攻撃する。その装置を備えた船というわけで、こちらの「艟」も戦闘用の船、現代で言えば軍艦となります。

 その〈艨艟〉が相模湾を埋め尽くした。満十一歳の江藤少年はそれを見て、彼我の力の差を知って愕然とし、軍国日本の滅びを実感したのだと思います。このとき少年江藤の脳裏に、まったく唐突に一つの幻影が浮かんだ。この光景を南洲が見ていたという幻。途轍もない感慨です。城山で滅びた南洲が、七十八年の時空を超えて、あの巨眼をもって、見つめている。さらに江藤の感慨は走るのです。明治国家は過去を捨て、西洋に倣うことで近代社会の荒波に生き残ろうとした。それは当時の切迫した状況下、わからないでもありません。
しかし南洲は、それによって日本人が獲得したものは、やがては自らを滅ぼすだろうと。そう予感した。だからこそ南洲は決起した、そして「滅んでみせた」。この認識は重要です。江藤淳という保守派の文芸的知性人が、日本の近代史をどう見つめ、南洲の立場をどう理解したのかが、こうした感慨からよく伝わってきます。
 
◆「心」の美しさを持った行動家
 
続いて三島由紀夫の言葉を紹介します。夕刊紙に載せた一筆書きの南洲素描ですが、三島のこの表現はすばらしい。飾り気のない、寛く、あたたかい心がここにある。まるで南洲の人格が三島に乗り移ったかのようです。

〈あなたは涙を知つてをり、力を知つてをり、力の空しさを知つてをり、理想の脆さを知つてゐました。それから、責任とは何か、人の信にこたへるとは何か、といふことを知つてゐました。知つてゐて、行ひました。〉(三島由紀夫「銅像との対話」)

三島が捉えた南洲のこうした人間性は、変革期において、「この人のためなら死んでもよい」と思わせる人格力を生む。それは危機の時代における指導者の器量にほかなりません。三島由紀夫はよくわかっていた──矛盾のなかで誠実にふるまうことの重要性が。そして、それが人びとを引き付ける器量に達するということが。
 
次に内村鑑三の言葉を挙げてみます。内村は『代表的日本人』の最初の章で「西郷隆盛」を取り上げており、そこにはこう出てきます。
〈一八六八年の日本革命は、二つの明らかに異なる文明を代表する二つの民族が、たがいに立派な交際に入る、世界史上の一大転機を意味するものであります。ヨーロッパとアジアとの好ましい関係をつくりだすことは、日本の使命であります。今日の日本はその課せられた仕事に努めているところです。私どもは、維新革命のさなかの、西郷の落ち着きぶりをみてきましたが、これは明瞭なヴィジョンをもっていたことの当然の結果であります。〉
 南洲は山縣のような政治的人間ではない。近代に馴染む人間でもない。彼は古きよき東洋的人間でした。だから彼は、弱肉強食が大手をふるう近代という世の入口で、あるいは理想主義的すぎる〈立派な交際〉を考えた。そのためにも〈落ち着く〉ことが大事だと理解し、率先垂範した。欧米列強が植民地化せんとアジアに押し寄せてきた時期です。〈落ち着く〉といっても、なかなか出来はしないでしょう。

実際、維新の功臣も、明治国家を創ったいわゆる維新官僚たちも、せかせかして落ち着きがなかった。「遅れた日本では駄目だ。変われ、変われ」で顔を青くしたり赤くしたりしていた。南洲だけはそうではなかったのです。〈落ち着きぶり〉を一貫して示した。なぜそう出来たのかといえば、内村も指摘するように、彼には〈明瞭なヴィジョン〉があったからです。それは〈二つの明らかに異なる文明を代表する〉者同士の〈立派な交際〉という、日本近代の道筋です。こちらを思い描いて、短兵急な西欧化に対して、日本は日本の、東洋は東洋の良さを抱いて、西欧という文明と〈立派な交際〉をすればいいのだと。しかしそのヴィジョンは敗れました。日本自体が否定した。一直線の西欧化へ向かったのが明治政府でした。

西南戦争という内戦は、短兵急な西欧化路線と、南洲路線の対決だったと見ればよい。敗者となり徹底的に滅ぼされたのは南洲のほうです。ここに日本の悲劇がある。それは大東亜戦争の経緯と、勝者のアメリカにすり寄ることで生存を求める戦後日本の姿へと繋がります。大東亜戦争の敗戦を迎え、南洲のもの悲しい巨眼が、相模湾を埋め尽くした勝者である敵の艦隊を、天空から見ていたという江藤の異様な描写もまた、
こうした悲劇と繋がっている。南洲の問いは過去のものではない。百五十年の時空を経て、いま問われ続けていると見なければなりません。そしてこのアポリア(難問)は、襷を渡すように次世代へと伝わり担われて行ったが、未だ解けていない。それは日本人にとっての、未来への宿題なのです。南洲はその宿題を出して滅びた。しかし、その魂の声は後代へ響いている。そう考えなくてはいけないと思います。南洲の課題を継承した近代日
本の潮流については、次に説明します。
引用の最後になりますが、林房雄は『西郷隆盛』(徳間書店版)の「あとがき」で、二つの言葉を記しており、紹介しておきます。
〈大川周明は言う。──「北一輝君は、大西郷の西南の変をもって一個の反動なりとする一般歴史学者とは全く反対に、これをもって維新革命の逆転または不徹底に対する第二革命とした。」

 竹内好は書いている。──「西郷が反革命なのではなくて、逆に西郷を追放した明治政府が反革命に転化していた。この考え方は、昭和の右翼が考え出したのではなく、明治のナショナリズムの中から芽生えたものである。それを左翼が継承しなかったために、右翼に継承されただけである。」〉

 ひたすら欧米化に走った日本を批判する象徴として南洲は受け止められた。これは日本人への課題であって、それを引き継ぐ潮流に在ったのは、まずは黒龍会・玄洋社の運動、在野のジャーナリズム、野党勢力の一部、あるいはカッコ付けながら社会主義者の一部(明治大正・昭和戦前期、社会主義運動に挺身していった若者は、ある意味、南洲的であり浪曼的です)、またこれも種々論議があるでしょうが皇道派系の革新軍人たち、そして、日本浪曼派の面々でした。

 これらのうち、本日の講演で取り上げるのは日本浪曼派です。昭和に入り非常時・戦時と日本史が動いていった時期に、日本浪曼派は、日本近代を問い直す運動の狼煙【のろし】を上げました。合理もいいが、道理も大事である。理性も重要だが、理性の前に「情」のあるのが人間である(別段、「情」が優位だといっているわけではありません。「前にある」といっている)、個人は歴史を重層的に背負っている、ゆえに家族や地域の伝統、そして民族や国家から切り離しての「個」はない。──こういった発想を前提にした昭和期の浪曼主義運動に、南洲の精神は受け継がれていったと私は捉えています。
いうまでもなく、昭和戦前戦中期における浪曼主義運動の主人公は日本浪曼派であり、その主峰は保田與重郎でのちに言及します。
 
◆統制に対する反発と人間性回復の志

 ここで少し休題的な話を挟んでみます。
人間にも組織にも運不運というのがあるように、言葉にも運不運があります。浪曼、ロマンというのは不運な言葉の一つだと私は思います。明治のはじめ、日本は近代を迎えて、西洋の概念を、漢字を用いて表現する翻訳語が数多く作られました。浪曼(浪漫とも書く)もその一つです。社会(society)、個人(Individual)、存在(existence)、権利(right)などとは違い、ロマン(roman)は単に音を写したもの。音訳ですね。したがって漢字独自の趣意はうすい。それもあったのか、漢字の持つ意味合いが反映ゼロなので勝手なイメージが付与された。よいイメージならいいのですが、そうでないと言葉は流通に苦労します。
ロマンという語は不幸な歴史を歩んだのではないか。日本の場合、ロマン主義、ロマンチシズムという語は、語自体に、知識人に警戒されるイメージが付与されている。それはこの語につきまとう、俗な印象だと思います。言葉自体に責任があるわけではない。それでも俗なイメージが付いてしまうと、もういけない。
たとえば、「昨夜はロマンチックな夜だったよ」は男女の性愛関係を示唆するし、盛り場にある「ロマンの小道」というのは、風俗的な営業店があるのをニュアンスとして含んでいますね。それも味があるといえばありますが、用語としてはいささか困ることころです。そのものずばり日活ロマンポルノというのもある。相当困ってしまいます(笑)。またたとえば、「男のロマンチシズム」というのは、雑誌のタイトル的な表現であり、軽い、格好をつけたがる、といった通俗的な印象の語感がある。かくして「ロマン」は、感傷的で大甘で、表層的な主観にひたるもので、軽薄だ、みたいな、反知性のイメージでとられてしまう。
「ロマン」がアカデミズムでは軽く見られ、敬遠、警戒されるのは、語に付与されたこうした俗なイメージも一因なのではないか。私もよく「浪曼主義を研究している」というと、ロマンかと、さっと引かれることがある。だったら「古典主義の研究」ならいいのか? 愚痴はこれくらいとして、浪曼主義の話をしますが、会場のみなさんはぜひ、「俗なイメージ」を引き算して聴いてほしいと思っています。
 さて、本題に戻ります。日本の浪曼主義です。
 ロマン主義というのは元々、文学・芸術用語で、古典主義を批判するかたちであらわれました。中世ヨーロッパでは、文語としての古典ラテン語に対し、口語をロマンス語と呼んでいます。すなわち、正統的な「ラテン」に対して、「民衆のもの」の意を含んだのが「ロマンス」なのです。ロマン主義はここからきている。教条主義、古典主義の対概念でした。近代ロマン主義は十八世紀末から十九世紀前半にヨーロッパで起きています。
日本では江戸時代の後半にあたる。合理偏重の立場に対し、感受性や主観に重きを置いた。それによって、専制・統制に対する人間性の回復という含意を抱いたわけです。

ちなみに、ロマンス語で書かれたという意味合いを持つのがロマンス、つまり小説、物語。ここには大衆的というニュアンスがあります。また、ロマンス音楽は、自由な形式で、甘美なものを指す。これも民衆性が背景にあったわけです。ちなみに、ロマン主義文学には英雄がよく出てくるが、これは民衆が好んだということ。あくまで「民衆目線」なのです。ロマン主義は、形式重視の古典主義が無視し、ときに抑圧してきた人間の感情面──苦悩・憂鬱・不安・そして情愛への傾斜──を、民衆の共感をもとに、表現の正当として扱おうとする傾向があります。また、抑圧的・制度的な古典主義への反発からはじまる面があるゆえ、「反抗」は、元よりロマン主義の特徴といえます。
 
◆保田與重郎と昭和の浪曼主義

 いま、浪曼主義は元々文学・芸術用語だと言いましたが、日本の浪曼主義も主として文学において唱えられました。明治の浪曼主義運動は『文學界』が担います。北村透谷、上田敏、樋口一葉、島崎藤村らが集った。昭和の浪曼主義運動は保田與重郎らの日本浪曼派です。非常時・戦時といわれる時代に登場し若者の支持を集めた。本日の講演では、続いて、南洲との関わりも含めて、日本浪曼派のほうを取り上げていきます。
保田與重郎の筆による雑誌『日本浪曼派』発刊広告をまず引用紹介します。彼等の運動が何を主張して登場したのか、そこにはっきりと見出せます。日本浪曼派運動の淵源となった同人誌『コギト』の昭和九年十一月号に掲載されました。
〈日本浪曼派は、今日僕らの「時代の青春」の歌である。僕ら専ら青春の歌の高き調べ以外を拒み、昨日の習俗を案ぜず、明日の真諦【しんたい】をめざして滞らぬ。わが時代の青春! この浪曼的なものゝ今日の充満を心情に於【おい】て捉へ得るものゝ友情である。芸術人の天賦を真に意識し、現状反抗を強ひられし者の集ひである。〉

どうお感じになられたでしょうか。
真諦は仏教用語で、絶対的な真理を意味します。保田は〈明日の真諦〉へ向かう意志を、そして〈高き調べ〉の〈歌〉をうたう意志をもって、浪曼派の運動を宣言する。彼等は〈反抗を強ひられし者〉だと己の位置を定めます。反抗こそ浪曼主義の基本姿勢であるかのごとくに。その保田は南洲をどう見ていたのか。彼の南洲観がわかる一文を『日本語録』から紹介します。

〈この大英雄が、また独自の大詩人であった。この偉人の詩人の一面を解さぬ者の大西郷観は、必ず不十分なものとして、英雄の大志の根柢にたどりつき難いであらう。〉
 南洲から保田へ、詩魂が繋がっている。保田が好んだ言葉を使えば「系譜」です。「偉大なる敗北」に連なる隠遁詩人の系譜、あるいは、「ますらおぶり」の系譜というように、保田は「系譜」という語を重視して使いますが、いうなれば魂の共鳴といっていい。「系譜」志向の保田ですから、南洲の詩に接して、そこにあらわされた魂のふるえを、真実の言葉を、彼は直覚し「系譜」として摑み取る。それは南洲の〈大志の根柢〉へと辿り着こうとする保田與重郎の意志なのです。

さて、南洲と魂を共鳴させた主峰・保田與重郎が率いた日本浪曼派。今度はその運動の内実へと話を移していきますが、もう一つ見てみましょう。『日本浪曼派』創刊号の編集後記にある言葉です。昭和十年三月の発刊で、こちらも保田與重郎が書きました。
〈日本の浪曼派は生れた気運でなく、先んじて作らねばならぬ。〉

ここには前衛の気風があります。マルクス主義的な面です。昭和のマルクス主義運動と日本浪曼派には近似がある。多くの研究者が指摘しているところです。
あるいは、昭和のはじめ、マルクス主義者は浪曼的であったといってもいい。日本浪曼派はある意味、その流れを引き継いでいる。
文学史的にいうと、関東大震災後の日本で巨大な潮流となっていたモダニズム(アメリカ文化)とマルクシズム(ソビエト文化)の、退潮からあらわれたのが日本浪曼派でした。ただし、政治的なところから出たのではない。『コギト』(昭和七〜十九)、『日本浪曼派』(昭和十〜十三)、『文藝文化』(昭和十三〜十九)、『四季』(昭和九〜十九)、『日本歌人』(昭和九〜十六) などが軸となって展開されたわけで、文学同人誌が形成した運動です。それが政治的な意味を発信しだした。この立ち位置からも、日本浪曼派は日本の思想史上、きわめて特異な運動だったといえます。
 
先ほどマルクス主義との近似に言及しましたが、一方で日本浪曼派はマルクス主義とも、モダニズムとも決定的に異なる面を持ちます。それは日本、とりわけ古き日本への強烈な愛着です。『コギト』創刊号(昭和七年三月)編輯後記に、同じく保田の筆でこうした記述があります。

〈たゞ私らは「コギト」を愛する。私らは最も深く古典を愛する。私らはこの国の省みられぬ古典を愛する。私らは古典を殻として愛する。それから私らは殻を破る意志を愛する。〉
俺たちは日本の古典を偏愛する。愛するがゆえに、固陋のなかに置いておくわけにはいかないのだ。日本の古典は、民族が危機に瀕している戦時下のいま、むしろ生き生きと甦らせなければならない。何よりも若い我々、〈明日の真諦〉を求める日本人によって。──これこそ〈殻を破る意志〉なのです。そして保田は、この〈意志〉もまた愛していかねばならないと告げている。
 
(本稿は四回に分けての連載。次号完結です。平成三十年八月二十四日におこなわれた講演内容に加筆したもので、文責は三島由紀夫研究会事務局にあります。)
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