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三島由紀夫の総合研究

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三島由紀夫研究会メルマガ ]反抗と仁愛 ──日本の浪曼主義(その2)

2018/11/03

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『三島由紀夫の総合研究』(三島由紀夫研究会 メルマガ会報)
    平成30年(2018)11月3日(土曜日)弐
         通巻第1287号   
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<<短期集中連載>>

反抗と仁愛 ──日本の浪曼主義(その2)
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                                    澤村修治

◆両様の「仁」

人は高位に登ろうとし、権勢を得ようとする。まあそれは人情でしょう。そして、いったん座に就けばこれを離さないように汲々【きゅうきゅう】とする。これをけしからんといっても仕様がありません。人情の常だからです。
明治の元勲たちもだいたいそうでした。山縣有朋は、自分は生涯一武弁だと神妙なことをいいながら、「人は権力を離れてはならぬ」と七十歳で述懐しています。実際、常に権力とともに在ったのがリアリスト山縣の生き方だった。ところが南洲だけはそれがない。むしろ権勢から去ろうとしたのが、南洲の常というか、癖でした。彼の権勢嫌いは筋金入りのものです。そこには東洋的な仁愛の姿勢があった。

どうしても我良しのふるまいに至る権勢者の一員となることに、がまんがならなかった。利を求めない南洲はかえって勇敢であり、怖れを知らぬ断固たる行動家でありました。そして一方で、再び内村鑑三の言に従えば、〈西郷の強さの奥には、ずいぶん女性的な優しさがありました〉と。これもまた南洲の不思議なところです。涙もろく、弱いものいじめは決してしなかった。
日本の大衆は南洲のほうを好むのはわかります。山縣には人気がないことも。山縣は自分に人気がないのを知っていて、権勢のほうを後世に伝えようとした。彼の墓碑銘は〈枢密院議長元帥陸軍大将従一位大勲位功一級公爵〉ですよ。これでまた人気が出なくなった(笑)。一方、南洲はどうか。鹿児島に南洲神社があり、そこには仲間の墓と並んで南洲の墓もある。墓には〈西郷隆盛墓〉とあるだけ。にぎにぎしいものは何もない。背丈も仲間の墓とあんまり変わりません。どちらが庶民の人気になるかは、いうまでもないことだと思います。

南洲には、古い東洋的な倫理として「仁」をもって他者に接する、という意識が濃厚にあった。それは研ぎ澄まされて、気高いものだった。生涯に幾たびも訪れた厄難は、彼の「仁」の心を棄損させることは出来なかった。人間不信の出来事に何度も愕然となりましたが、その体験は彼を小さな、保身的な人間にしてしまったわけではない。むしろ逆です。艱難辛苦がかえって「仁」意識を高めた。それは人格の途轍もない透明度にまで達したと思います。
「仁」という表意文字は「人」と「二つ」が組み合わさったかたちです。人と人とが共生していくための、思いやりや慈しみをこの漢字があらわすのは、そうした文字の「かたち」からもわかります。人と人とが寄り添うことをあらわした「仁」は、東洋的な「愛」と見てもいい。一方、「仁」という文字は、「重いものを背負っている人を表す」との解釈もあります。自分の重荷と他人の重荷を背負う人、それが仁なる者ということになります。
この両様の解釈は、ともに南洲に当てはまるように私は思います。南洲はまさに「仁愛」の人間だった。しかしまた、藩主に期待され、兄貴分として武士仲間から慕われるのを、重荷に似た役割と考えていた。

南洲は自分が英雄ではないとわかっていたし、そう周囲に語ってもきました。幕末維新期、多くの優秀な人間が不遇の死を遂げた。それで自分に役割が回ってきたにすぎないのだよ、という謙譲の精神をいつまでも忘れませんでした。そのうえで、重荷ではあっても、人びとの総意、公共の総意──それは「天命」に通じる──なら、厭ともいわず素直にこれを引き受ける。一身に背負うという態度。こちらの意味でも南洲は「仁」の人間であるのは間違いないところです。
明治維新を果たしたあと、彼は近代化の矛盾を「一身に背負った」、西南戦争に至る過程では政府への不満の塊を「一身に背負った」、文句も言わず黙々と背負い続けたのが南洲でした。彼を「仁の人」といわないわけにはいかないのです。

自身の悲運を従容と受け止めるという、エゴの強い近代人にはなかなか見られぬ南洲の澄み渡った態度。それは彼の詩精神に流れ、詩文をひきしまった、朗々たる名調子にしています。
ひょんなことから歴史の重荷を背負う羽目となったことに戸惑い、一方で、人びとの苦しみや真情をわがことのようにシンクロさせんとする稀有な感情体系が、まがいやインチキなど向こうから逃げだすかのような詩心を招き寄せた。そこには純朴かつ清冽な抒情があふれている。

本日はやがて日本の浪曼主義の話をしていきますが、日本の浪曼主義は何より、文芸の方法、文芸的な知と意と抒情によって主張された運動です。文芸的なアプローチによって思想が、態度が伝わっていく。その意味で南洲の詩人性は重要です。
南洲という矛盾人間のなかに、浪曼への架け橋となる「詩魂」があるということは何より大事なのです。
もちろん南洲は京都政局の中心にもいた維新期の大政治家です。そして「死地に赴く兵たち」を動かす軍人です。現実政治の動きの渦中にあれば、机上において理屈をこねくりまわすだけでは済みません。時には臨機の顚末も、成り行きの仕儀もあったはずです。その点ばかりを鬼の首を取ったかのように指摘し、辻褄の合わない点を細かくあげつらって批判する者もいます。

また南洲は、権力闘争の激しい薩摩で、斉彬派の重要人物でした。当然、反対党からは嫌われる、また、煙たがられる。
実際、南洲は同志の裏切りにもあっており、一ツ腹と思えた仲間が自分のぼろくど【ぼろくど、に傍点】に喰いついた、とまで表現しています。ぼろくど【ぼろくど、に傍点】とは頭蓋骨のことです。しかしどこまでも礼儀正しく口論を嫌った彼は、論難者たちに対して、基本線としては冷酷なパワーゲームではなく、徳義のようなもの、東洋的な「仁」をもって相対【あいたい】しようとした。
それでも心が通じ合わない局面に幾たびとなく出会ったはずで、二度も島流しにあったことからもわかります。維新の功労者として軍と政府の要人になっても、威張ることはない。彼は出来なかった。こちらも、東洋的な「仁」の観念が強かったためです。力で言うことをきかそうとすれば出来たはずですが、浅ましいことだと思ってそれをしなかった。ゆえに人間関係に苦労し、辛酸をなめたわけで、志操堅固な彼でさえついには世の中が、人間のうごめく世界が嫌になって、死にたくなったくらいでした。
これも南洲なのです。彼の詩魂はそのなかで形成された人生観すら発露させている。

さて、南洲の独特の政治的磁力については葦津珍彦が面白いことをいっています。維新後、日本の朝野には不平不満が充ちた。しかし、政府への批判勢力はバラバラだった。実際、彼等は異質の勢力だったのです。
攘夷論的復古主義者もいたし、逆に、急進的な民権主義者もいた。国権論と民権論が入り乱れ、復古とラディカルがこれまた入り乱れていた。イデオロギー的にも人脈的にも支離滅裂だった。しかし、それらをまとめあげる力のあった人物が一人いた。西郷南洲です。葦津は『永遠の維新者』でこう書いています。
〈〔南洲の〕説くところは東洋日本の伝統文明にもとづいて成長してきた尊皇攘夷、敬天愛人の大道のみであって、それは、復古主義者にも、攘夷開明派にも、その発展として成長してきた民権主義者、国権主義者にも、それぞれに深く共感させうる多面性を固有していた。しかもその人物は情義にふかく、寛仁大度の重厚の風があって、威ありて礼正しく、天下の人心を信頼せしめ、統合するには申し分なかった。〉

 維新革命のスターターだという内村鑑三の評を先ほど紹介しました。葦津のいう、バラバラの力を一つに統合する存在という説明は、それと響き合っています。
南洲は「多面性」を固有した。無欲で澄み切った精神がそこに説得力をもたらした。多くの人が彼に共感した。人びとをまとめる驚くべき作用がここに生じるのです。それゆえに明治政府は南洲をおそれた。バラバラの批判勢力をまとめあげる力量を心底おそれた。ついには挑発し、叛逆をさそい、南洲を「賊魁」に仕立て上げなければならなかった。

ただし南洲を自裁に追い込んでも、その精神は滅びなかった。明治政府が進めた西洋化という与党路線に対して、南洲の道、野党の路線が対立軸として厳然と残っていく。それはのちに述べる勢力によって受け継がれていくのです。

 
◆反抗の意志

 南洲の詩についてはのちに紹介することとして、今度は「情」の把握という問題、そしてこれと関連がある「反抗」の志について触れていきましょう。
 すでに私は、いささかながら「情」の話をしはじめたようですが、人びとを束ねて、動かし、歴史的な事業をおこなうとき、条理とともに、「情」の重要性を始終忘れなかったのが南洲でした。
南洲は安政の大獄で弾圧され、故郷の鹿児島へ逃げて行きます。このとき、保身の塊になった藩から冷たい仕打ちを受ける。命と名誉を守ろうとした僧月照も救えなくなった。追いつめられた南洲は月照との入水事件を起こします。それに関して、内村鑑三は『代表的日本人』でこう書いています。〈双肩に新国家をになっていた〉にも関わらず、西郷という男は、〈友人に対する人情と親切の証【あかし】として、みずからの生命をも惜しまなかった〉のだと。

南洲の「手抄言志録」より、一文を紹介しましょう。
〈政【まつりごと】を為すの着眼は情の一字に在【あ】り。情に循【したご】うて以【もっ】て情を治む、之を王道と謂【い】ふ。〉
「手抄言志録」は、佐藤一齋の『言志録』を南洲自らが抜粋し小冊子としたもので、紹介した文はそこに収録されていた一節です。南洲は「手抄言志録」を身近に置き、繰り返し読んで生きる指針としました。『言志録』の作者・佐藤一齋は幕末の大儒者です。羅山【らざん】を継ぐ林家【りんけ】の塾頭として、また幕府昌平黌【しょうへいこう】の教官として朱子学に長【た】けていましたが、一方で陽明学に深い関心を抱いていた。陽【おもて】には朱子学を説いたが、陰【そのじつ】として王陽明の学を唱えていたという意味で、「陽朱陰王【ようしゅいんおう】」と呼ばれた人物です。王陽明『伝習録』の欄外書(註釈書)も残している。昌平黌教官だから、体制人のなかの体制人というべき儒者です。それなのに一齋は反体制の視点を確かに持っていたのです。江戸幕府のいわば「内側」にあって、かえって国の行く末に対する危機意識を深めていた。それゆえに、反体制を理解する立ち位置もまた取れたのでしょう。こうした思想家が体制内からも出てくるのは、幕末維新期に向かって「歴史が動く」時代だったからにほかなりません。

 南洲が現実に、敬意を持って師事したのは世代がかなり違う一齋ではなく、陽明学者の春日潜庵【せんあん】でした。実はその潜庵も一齋と会っている。接触してきたのは一齋のほうからで、ついに面談がおこなわれたわけです。一齋はすでに触れたとおり、幕府の儒学者として大権威でした。一方の潜庵は、大塩平八郎と親しい交流も望んだ在野の陽明学者です。幕府の忌み嫌う陽明学者と会うのですから、一齋も腹の据わったよほどの大人物です。この経緯は拙書『西郷隆盛──滅びの美学』に書きましたので、ご興味のある方はお読みくだされば、と思います。

 さて、その潜庵も一目置いていた一齋の言葉を南洲は座右に置いた。人間の「情」について省察する一文がそこにあった。
ただこの文章は「情」を過度に重視する表現ではない。〈情を治む〉、ここが重要です。人びとの心を納得させる。そのためにも彼等の「心」に寄り添い、「心」を理解する。そして治める。治めることで人びとを動かす。歴史を動かす。そうした働きが人間社会に不可欠であると南洲はわかっていた。南洲をはじめ維新の志士たちの行動哲学となったのは陽明学です。王陽明の主著といえる『伝習録』には、惻隠【そくいん】の情が大事であると、繰り返し出てきます。惻隠の情を持たない者は人間ではない、とまで述べている。身分や立場を超えて、相手が陥った状況について慮【おもんぱか】る、その能力こそ惻隠です。『伝習録』では惻隠の情の例として、子どもが井戸に落ちたら、助けようとする心が起こるだろうという話を紹介しています。その子どもが敵対党派の者か見方側かということなど関係ない。相手の悲運を咄嗟【とっさ】に理解し、救うべく行動する。立ち上がる。自分が損か得かと考える前に、人間なら、自然と惻隠する心が起こるだろうと。それがケダモノではない、人間の人間たるゆえんではないか。そう書いています。

こうした観点をも編み上げた道徳体系にして行動哲学こそ陽明学ですが、既成の体制、秩序、上下関係、利によってがんじがらめになった人間関係を超えて、友情と同朋愛の態度で行動する者を生む。大塩平八郎がそうでしょう。
南洲もその精神性を引き継いでいます。それは根本的に反体制なのです。個々の具体的人間に対して惻隠の情を重視する、一種の平等主義です。倫理的平等といっていい。そして、個々の具体的状況に対して、秩序維持の姿勢が招く硬直したありようを否定し、「王道」と観念した平等主義的な行動理念のほうを重視する。
これは民衆の思想であり、解放の思想である。どちらも体制派にとって危険きわまりないもので、一種の革命哲学といえる。これらを重層的に織り込むことで培われた精神性を宿したのが南洲でした。詩人南洲は単なる詠嘆の人ではない。その詩にはどこか行動への決意というか、実践の道がある。だからこそ時空を超えて訴えかけてくるものがあるのだといえましょう。
 
◆南洲の詩

南洲の詩を具体的に紹介していきます。
   獄中有感
朝蒙恩遇夕焚抗  人生浮沈似晦明  縦不回光葵向日  若無開運意推誠
洛陽知己皆為鬼  南嶼俘囚独竊生  生死何疑天附与  願留魂魄護皇城
 
まずは、読み下してみます。
朝【あした】に恩遇【おんぐう】を蒙【こうむ】り、夕べに焚抗【ふんこう】せらる。人生の浮沈、晦明【かいめい】に似たり。たとい光をめぐらさざるも(めぐらずとも)、葵は日に向かい、もし運を開くなくとも、意は誠を推【お】す。洛陽の知己【ちき】、みな鬼となり、南嶼【なんしょ】の俘囚【ふしゅう】、ひとり生をぬすむ。生死、何ぞ疑わん、天の附与なるを。願くば魂魄【こんぱく】をとどめて、皇城を護【まも】らん。

焚抗の焚は焼かれる、抗は穴埋めにされるで、晦明は明暗、「鬼となり」は鬼籍に入る、死ぬです。南島で囚人の身となった自分だが、運命の浮沈はいかあろうとも、皇城(皇居のこと)を守る志は変わらない──南洲はそう告げている。その彼が最後に「皇城」に刃向かう「賊魁」として「鎮滅」させられた。これこそ歴史の悲劇ではないか。そう考えると、さまざまな感慨に襲われる詩でもあります。

この詩「獄中有感」は、沖永良部島での流刑中につくられたとされ、南洲三十歳代半ばの作です。平泉澄は『首丘の人 大西郷』で、〈西郷の詩として伝へられるもの百三十数首、その中に於いて最も重要なるものとして、私は此の詩をあげたい〉と評価しています。
また、林房雄の一大長篇『西郷隆盛』は「獄中有感」をもって全編をしめくくっており、この一篇のなかに彼の五十年の生涯のみならず、死後の運命までが予見されているような気がしてならない、と林は書いてもいます。
なおこの詩は、南洲没後の明治十二年、勝海舟が石に刻して留魂碑としたものが、現在は洗足池のほとりに建っています。

もう一つ、紹介したいと思います。
偶 成
世上毀誉軽似塵  眼前百事偽耶真  追思孤島幽囚楽  不在今人在古人

 読み下し文にしましょう。
 世上の毀誉【きよ】軽きこと塵に似たり、眼前の百事【ひゃくじ】偽か真か。追思【ついし】すれば孤島幽囚【ゆうしゅう】の楽【らく】、今人【こんじん】に在【あ】らず古人に在り。

 次に現代語訳を試みてみましょう。
 周囲からの評判などくるくる変わる。その軽いこと塵のごとしだ。いま目前に起きていることも真偽のほどはのちまでわからない。思い起こせば、孤島で幽囚にあったときは楽しかった。その楽しみは今の自分ではもう得られず、古い自分にしか味わえない懐かしいものになった。──こういう詩です。

 俗悪きわまりない新体制の権力世界にいた南洲は、昔の南島時代を懐かしんでいます。〈孤島幽囚の楽〉には西郷の南島への思いが凝縮している。五年の南島時代は、政治的には深い逆境の谷でした。しかし南洲は鬱屈して自暴自棄になったのではない。むしろそこで、目立たない勤勉な暮らしを送る人びととの友情を育んだのです。ここが南洲らしさでしょう。彼は武士だからと威張って島民に接したのではない。艱難辛苦の季節にあって南洲は優しかったのです。礼儀正しく、穏やかだった。そして孤独な南島時代、彼はかえって人間理解を深め、感情を重層化させる能力を高め、詩的精神をあふれさせた人間へと脱皮していく。そして、ことばがあらわれ、うたがあらわれる。

南洲は沖永良部島で囚人として過ごした時代、すぐれた漢詩人として成長します。関連した漢詩を紹介しましょう。

暮春送別
暮雨蕭蕭愁態加  欲駆春意使人嗟  誰知此夜双思涙  明日別君又別花

読み下すとともに、現代語に訳してみます。
暮雨蕭蕭【ぼうしょうじょう】として愁態【しゅうたい】加わり、春意を駆【か】らんと欲し人をして嗟【なげ】かしむ。誰か知らん此【こ】の夜双思【そうし】の涙、明日、君に別れ又花に別る。

 暮れゆく頃の雨はひっそりとさびしく降り、もの悲しさが襲ってくる。名残の春のけしきをたのしもうとして、かえって歎きのなかに沈み込むだけだ。この夜のふたつの思いを誰が知るだろうか。明日、君と別れる思いと、花々と別れる思いのふたつを。──
「暮春送別」はまさに、南島との、南島の人びととの別離の悲しみをうたったうたなのです。

 こうやって紹介していくときりがなくなりますね。南洲は政治指導者、軍指導者として一級の歴史的人物でしたが、一方で豊かな詩魂を持つ文人的人間でもありました。その詩は自身の心情を素直にうたうとともに、述志(自らの志を述べた)の文学でした。自身の実存的な、生の苦しみを切実にうたうとともに、社会や国家と相渉っていこうとする「志」を含んだものだったのです。
こうしたタイプの詩人性を持つがゆえに、西郷は変革期に人びとを率いる第一等の人物になったのだと思います。

理想を裏切る政府への反抗の志、詩人性、情の重視、無私無欲の武士道的精神、「心」の美しさ──。こうした特性を一箇の人間のなかに宿した西郷は、まさしく、浪曼的な、しかも日本的・東洋的な浪曼の典型だといえると思います。
 
(本稿は四回に分けて連載されます。あと二回です。平成三十年八月二十四日におこなわれた講演内容に加筆したもので、文責は三島由紀夫研究会事務局にあります。)

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