文学

三島由紀夫の総合研究

創立35年の老舗「三島由紀夫研究会」の会報を兼ねた、あらゆる角度からの総合研究メルマガ

全て表示する >

三島由紀夫研究会メルマガ << 「影山正治と維新文学」(後篇) 

2018/07/05

「影山正治と維新文学」(後篇) 
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
『三島由紀夫の総合研究』(三島由紀夫研究会 メルマガ会報)
    平成30年(2018)7月6日(金曜日)
         通巻第1261号   
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
  ♪
荒岩宏奨(株式会社展転社取締役編集長)
「影山正治と維新文学」   (後篇)
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

                三島由紀夫研究会会員例会 (平成30年6月29日)
 
 ▲昭和維新の狼煙から神兵隊事件まで

  大正時代にも維新運動は展開されたのだが、少し飛ばして昭和の御代に移る。

 維新には「詩と剣」が必要である。文武両方とも必要なのだ。新国学は近世国学よりも「剣の精神」が強調されてゐる。これまでは、文学での国学が興り、その思想を根底に実践が行はれてきた。しかし影山は、昭和維新運動においては実践が先行し、国学がそれを追ふ形になつてゐるといふ見方をしてゐる。
影山が文学面で特に重要視するのは保田與重郎ら日本浪曼派である。

 光平の『南山踏雲録』のやうに、影山が自身の実践体験を記録したのが『一つの戦史』である。そこで、影山の維新文学である『一つの戦史』を参考としながら、昭和維新運動における実践と文学の流れを見ていく。

 昭和維新には五つの大きな事件がある。昭和七年の血盟団事件、同じく昭和七年に起きた五・一五事件、昭和八年の神兵隊事件、昭和十一年の二・二六事件、昭和十五年の七・五事件である。これらは「昭和維新の五大事件」と言はれる。戦後にGHQが日本の維新思想を抹殺しようとして、日本の司法当局と治安当局に資料を提出するように命じた。すると、超国家主義にもとづく代表的事件として、この「昭和維新の五大事件」といふリストが示されたのである。影山正治はこの「昭和維新の五大事件」のうち、昭和八年の神兵隊事件と昭和十五年の七・五事件に直接参画してゐる。

 それでは、昭和維新の実践と文学の流れ、詩と剣の流れを確認していく。

 昭和四年、影山正治は國學院大學に入学し、維新運動に挺身する。

 昭和維新運動は一発の銃声によつて幕が開いた。昭和五年、愛国社社員の佐郷屋留雄が東京駅で濱口雄幸首相を銃撃。濱口首相は東京帝国大学医学部附属病院に搬送されて手術し、一命をとりとめた。佐郷屋は裁判で、銃撃の理由を「統帥権を犯した」と供述。ロンドン軍縮会議で、陛下のご判断を仰ぐことなく軍縮を決定したことが統帥権干犯だといふ主張である。

 この事件は先ほどの五大事件のリストには入つてゐない。しかし、昭和維新の狼煙を上げたといふ点では、非常に重要な事件である。影山正治もそのやうな位置づけをして重要視してゐる。

 幕末には桜田門外で水戸浪士らが井伊直弼を討つたときに志士たちが奮ひ立つたやうに、佐郷屋の事件で多くの昭和の維新者たちが奮ひ立つたのではないだらうか。

 影山は『一つの戦史』でこの事件について次のやうに書いてゐる。

   昨日浜口首相東京駅にて狙撃さる。神命が降つたのだ。事を断じたのは愛国社の佐郷屋留雄氏。各新聞は一斉に暴力団の暴挙としてこれを葬り去らうとして居る。草刈少佐の時と同じだ。ジアナリズムの大罪言語に絶す。浜口雄幸「男児の本懐なり」の一語を発したとか。何が男児の本懐であるか。たゞこれ神裁のみ。(影山正治『一つの戦史』)

 「神命が降つた」「たゞこれ神裁のみ」といふ文章から、事件を高く評価してゐることがわかる。

 また、影山の仲間の軍人は、濱口首相を倒さうとしたことには賛同できても、佐郷屋が浪人であることに反感があつたやうだ。影山はその軍人に次のやうなことを言つた。

  いやしく大丈夫が、親をも恩師、朋友、恋人をも棄てはてて死を決し、賊と呼ばれ、狂と呼ばれることを充分承知の上で立ち上ると云ふには、単に民政党とか政友会とかの党利党略のための倒閣運動に使はれて満足すると云ふやうなあやふやな気持では到底出来ることぢやないと思ふな。死後の一切を国家から保証され、靖国神社にお祭りされる軍人の死とくらべ、賊として扱はれることを覚悟の上の、このやうな純民間有志の死の決しかたは決して容易ではないぞ(『一つの戦史』)

 影山は『維新者の信條』で「維新者は正しい意味の浪人でなければならない」としてゐる。

 戦死すれば靖国神社にお祭りされる軍人よりも、死を覚悟した浪人の行動を評価してゐるのだ。これは影山が尊敬する内田良平の「憂国志士」といふ詩に通じる思想である。

 内田良平の「憂国志士」を紹介しておく。

生きては官に養はれ 死しては神と祭らるる 幸ある人の多き世に
  こは何事ぞ憂国の 志士てふものは国の為 尽しつくして草莽の
   伏屋の軒と朽ち果つる 弔ふものは泣く虫の 声より外に亡き後も
    不滅の精神皇国守る

官給受けし役人に 収賄事件続出し 華(か)冑(ちゅう)の子弟赤化して
 国体呪ふ国賊は 罪名重く刑軽し 憂国の志士雄健びて
  事向けすれば忽ちに 絞首台下に繋がるる 刑重くして凶漢の
   汚名に死すも皇国守る

 ▲襲撃の前に一礼 

 草莽の志士は軍人や官僚のやうな高待遇を受けることがなく、獄に下らうとも、死刑にならうとも、汚名を着せられやうとも、皇国を守るために尽力するといふ詩で、これが維新者の精神である。

 なほ、佐郷屋は濱口首相に私的な怨恨があつたわけではない。銃撃に私心はなかつたのだ。実は、佐郷屋は狙撃する前、濱口に対して一礼をした。これを見た警察は佐郷屋を警戒せず、結果的に銃撃可能な状況をつくりだしたのである。
 戦後、佐郷屋は名を嘉昭と改め、右翼民族派が結集した全日本愛国者団体会議(略して全愛会議)の初代議長に就いてゐる。そして、
佐郷屋の弟子たちを佐郷屋一門と呼ぶ。

 平成十八年八月十五日、加藤紘一宅を焼き討ちした堀米正広は佐郷屋一門の系統である。この事件の裁判では、祖国正当防衛を主張した。これは野村秋介らがYP体制打倒青年同盟を名乗つて経団連を襲撃した、経団連事件の裁判で主張した民族当防衛と同じ理論である。経団連事件の森田忠明は影山のつくつた大東会館学生寮の出身であり、伊藤好雄、西尾俊一は三島由紀夫の楯の会の出身であつた。堀米裁判の判決では、国家危急の場合の正当防衛権は存在してゐるといふ文章があつた。ただし、今回の事件はその緊急性が認められないといふ判決内容だつたやうに私は記憶してゐる。

 また、今年二月二十日に桂田智司と川村能教(よしのり)の二人が朝鮮総連を銃撃した。このうちの桂田智司は、佐郷屋一門の系統である。
 このやうに、佐郷屋精神は戦後の右翼民族派にも引き継がれ、実践されてゐる。

 話を昭和維新運動に戻す。
 翌昭和六年、影山は國學院大學内に大日本主義同盟を結成して「大日本主義」といふ機関誌を創刊。そして、この活動を新国学のための種まき活動の一つであると位置づけてゐる。

 この年、十月事件があつた。橋本欣五郎ら桜会がクーデターを決行して荒木貞夫内閣の樹立をめざすといふ計画が露呈し、未遂に終はつた。影山はこの事件にも衝撃を受けてゐる。

 この事件に依る衝撃頗る大。もつともつと深く考へて見なければならぬ。軍中枢の諸君は既に観念や抽象理論ではなく身を挺してこゝまで考へてゐるのだ。もつともつと踏み込まねばならない。(『一つの戦史』)

 同じ年、内田良平が大日本生産党を結党、影山は第一回党大会に参加した。大日本生産党は昭和維新をめざす日本主義政党として結党された。顧問は頭山満である。
 昭和七年には、血盟団事件、五・一五事件と続き、昭和維新における実践活動が活発になつた。

 まづは二月九日、小沼正が民政党幹事長の井上準之助を射殺、三月五日には菱沼五郎が三井財閥総帥の団琢磨を射殺した。これらの事件の首謀者が井上日召でである。

 小沼正の事件について、影山は次のやうに記してゐる。

   本日井上蔵相暗殺さる。天下震愕。暗殺者は小沼正君と云ひ水戸の産なる由。遂に時至れるか。起るべきもの起れるのみ。驚くことなし。たゞこの事件の真の意義を我が胸中に生かさんことこそが大切。万感胸に迫りて夜更くるまで眠れず。寒風粛々、熱涙を止むるすべなし。(『一つの戦史』)

  このやうに、事件に対して夜も眠れず涙を流すほど感動した。

 そして菱沼五郎の事件については、次のやうに記してゐる。

   財界の巨頭団琢磨射殺さる。決行せるは菱沼五郎君。小沼君と同じく水戸の産。井上蔵相のことに相次いでこのことあり、満天下愕然。支配階級の狼狽その極に達し、社会不安益々深刻となる。

  火はすでについたのだ。昭和維新の火が。(『一つの戦史』)

  影山は、血盟団事件により昭和維新の火がついたといふ認識を持つたやうである。
 なほ、菱沼五郎は無期懲役の判決を受けたのだが、紀元二千六百年祝賀の特赦によつて六年ほどで出所。名を小幡五朗と改めた。
そして、戦後は自民党から出馬し、茨城県議会議員を連続八期つとめた。そして県会議長にもなつた。

 昭和七年五月十五日には海軍の古賀清志と三上卓、そして橘孝三郎の愛郷塾らによる五・一五事件が勃発。このときのことは、次のやうに書かれてゐる。

   今夕軍部青年将校蹶起。犬養首相射殺され、政・民両本部、警視庁、牧野宮相邸襲撃さる。来るべきもの続々として来たる。感無量。ひそかに決し、ひそかに誓ふところあり。人心乱を思ひ世情騒然。諸友と深更まで語る。互にはげまし合ふ。維新を念願するものの重大決意をなす秋だと云ふことを身にしみて思ふ。何とはなしによる、長い手紙を彼女に書く。(『一つの戦史』)

 この文章からは、このときに自分も実践活動で続くといふ決意と覚悟を、リアリティをもつて考へたのではないだらうか。

 血盟団事件と五・一五事件について、影山は「五・一五事件一周年記念大同クラブ報告書」で次のやうに書いてゐる。

   我等の同志、血盟団事件の青年志士達は切迫せる公判を控へて闘志愈々熾んであり、更に五・一五事件の青年将校農民同志達は、無気味な世相の真只中に厳然と支配階級を睨み付けてゐる!

   我等の大同クラブは歴史的五・一五事件の一周年記念に際し、さゝやかな努力の跡を誌し、全国の同志と共に獄中の諸同志の壮志を無にすることなく、君国のために起たん日に備へんとするものである。

  これは昭和八年五月十五日づけで書かれた文章である。血盟団、五・一五事件の参画者を同志とし、それに続かうといふ気迫がみなぎつてゐる。

 昭和七年七月、影山はこれらの事件を機に学内活動の一戦から退いて、対外的な国民運動を展開するために大日本生産党に入党した。

 昭和七年には、昭和維新の実践活動を追ふ形で文学運動が展開する。東京帝国大学の学生である保田與重郎らが『コギト』を創刊したのがこの年であつた。
影山は『コギト』創刊を保田與重郎の線における新国学運動の種まきが開始されたといふ捉へ方をしてゐる。

 そして昭和八年七月十一日、影山は神兵隊事件で検挙される。神兵隊事件とは、愛国勤労党や大日本生産党などを中心に、陸海軍の青年将校も加はつたクーデター未遂事件である。他の事件と違つて、破壊部隊と建設部隊に分かれてゐたといふ特徴を持つてゐる。しかし、事前に事件の情報が警察に漏れてゐたので、蹶起のために集結したところを検挙された。『一つの戦史』には、ここまでのことが日記小説として書かれてゐる。
この事件によつて、影山は二年半の獄中生活を送ることになつた。

 ちなみに、神兵隊事件の判決が出るのは八年後の昭和十六年である。「朝憲紊乱(びんらん)を目的とする内乱予備罪」で裁判に問はれたので、神兵隊は「朝憲紊乱ではない」と主張する。
さらに、事件を「朝憲紊乱」目的とするのは裁判官が国体を理解してゐないからだとして、裁判官に国体とは何かを問ひ糾す国体明徴運動を裁判で展開。そして、朝憲紊乱ではないので内乱罪には該当しないけれども、殺人放火予備罪などにはあたるので有罪、しかし刑を免除するといふ異例の判決が出る結果となつた。裁判闘争では神兵隊が勝利したのである。
 
 ▲出所後の昭和維新運動

  ここまでは実践活動が活発だつたのだが、昭和十年あたりからは文学運動が活発になつてくる。
  昭和十年三月、影山が獄中生活を送つてゐるとき、保田與重郎らによつて『日本浪曼派』が創刊された。そしてこの年の秋に、影山は出所して維新運動に復帰した。

 昭和十一年、影山は維新寮を創設。この年、昭和維新の実践活動としては二・二六事件が発生した。そして文学面では影山正治が歌集『悲願集』、保田與重郎が『日本の橋』を出版してゐる。昭和十一年は昭和維新の実践面でも文学面でも大きな動きがあつた重要な年だと言へる。

 昭和十二年九月、影山は維新寮を主体として日本主義文化同盟を結成し、機関誌『怒濤』を発行。
 翌昭和十三年、影山が『怒濤』五月号に「林房雄に寄す」を掲載したところ、林房雄は影山の論文に応へる「美と力と詩人」といふ論文を『新潮』七月号に寄稿した。

  最近、日本主義文化同盟の機關紙『怒濤』に於て、私は激しい批判をうけた。(中略)林房雄論をなすために三箇月の準備を費したと書いてある。確かにそれに違ひない文章であつて、間々毒舌と罵倒に似た言があつても、匿名批評流の無責任な惡罵ではなく、私の思想的文學的經歴は詳細にたどられて、殆ど餘すところがない。その言は一々私の心を撃つものがあつた。(林房雄「美と力と詩人」)

  そして日本主義文化同盟は「林房雄氏を囲む座談会」を維新寮で開催した。林房雄は、維新寮の窪田雅章に案内されて維新寮をを訪ねたのである。そして、日本主義文化同盟と五時間にわたつて語り合つた。

 またこの年、中河與一が影山の歌集『悲願集』を推賞する文章を「日本短歌」昭和八月号に掲載。そこから書簡での交流が始まつた。そして影山が「東亜日日新聞」に「中河與一の文学」を連載する。

 そして同盟結成一周年記念号である『怒濤』九月号には倉田百三、中河與一、林房雄の文章が掲載された。影山と保田與重郎との出会ひもこの昭和十三年の年末であつた。

 昭和十三年から十四年にかけて、日本主義文化同盟には、倉田百三、林房雄、保田與重郎、浅野晃、尾崎士郎、大賀知周、藤田徳太郎らが集つた。ここで、影山と日本浪曼派系文学者が合流して文学運動を展開し、それが新国学へと発展することになる。影山は「日本主義文学運動」や「日本浪曼派運動」から「新国学運動」への転換は、昭和十四年の春からだとしてゐる。

 昭和十四年四月三日、影山は大東塾を創立した。塾監として、徳田宗一郎、藤村又彦、摺建一甫、白井為雄ら四名が就任。顧問には井田磐楠、小林順一郎、吉田益三、前田虎雄、梅津勘兵衛、倉田百三、田尻隼人、永井了吉、八幡博堂、鈴木善一ら十名が就任した。その理由を影山が次のやうに述べてゐる。

    開塾當初に於ける、このやうな、やや幅の廣い顧問、塾監の人選方式の間には、大東塾創設の最も大きい當初目標たる再蹶起企圖を祕匿するためのカモフラージ的意味が多分にあつた。このへんの眞意を知るものは、ただ前田虎雄氏と僕の二人だけであつた。(中略)

   前田氏と僕の間で、再蹶起のため據點構築をめざして塾開設の計畫が最初に話し合はれたのは前年(昭和十三年)末の頃で、二人の分擔は、前田氏が、創設と維持に要する一切の資金を作る、僕がそれを用ゐて創設と運營の全責任を負ふといふことであつた、前田氏はただ默々として必要資金を調達し、一切すべてを僕にうちまかせ、一言半句も口をさしはさまなかつた。(影山正治『日本民族派の運動』)

  大東塾の創設は前田虎雄との話し合ひで、再蹶起の拠点をめざして開設されたのだ。前田虎雄とは、神兵隊事件の中心人物の一人である。ここでの「再蹶起」とは、未遂となつた神兵隊事件のやうな昭和維新断行を再度決行するといふことを意味してゐる。

 大東塾の機関紙「大東報」創刊号には次のやうに書かれてゐる。

   「我等は大東維新の戰士たらむと念願する。大東維新とは大東洋維新のことである。そしてそれは本塾塾誓にもある如く内は日本維新に、外は世界維新につながつて居る。この三者は常に不可分の關係にある。切り離すことは出來ない」(影山正治『日本民族派の運動』)

  大東維新とは、東洋の維新といふ意味だとしてゐる。そしてそれは、東洋の維新だけでなく、日本維新、世界維新とも不可分の関係にあるとしてゐる。

 そして、明治維新と昭和維新の違ひについてかう述べてゐる。

  明治維新は國内維新に止まつた。それは明治維新の本質から云つて當然のことであつた。しかし昭和維新は國内維新のみに止まることなく、更に滿・支を中軸とする大東維新の實現にまで進まなければならない本質をもつて居る。

  まづは、日本国内の維新を断行し、さらにその次は東洋の維新もめざす組織として、大東塾が創建されたといふことになる。その国内維新の断行の具体的な計画が、未遂となつた神兵隊事件の再蹶起だつたのである。

 昭和十五年、影山は七・五事件で検挙された。七・五事件は第二神兵隊事件と呼ばれることもある。大東塾創設の目的は昭和維新断行のための再蹶起であつた。影山は、日本主義文化同盟で日本浪曼派の文学者と深く交流して文学運動に携はる傍ら、前田虎雄とは再蹶起を計画し、大東塾を開設したのだ。そして、資金、人材、武器を調達し、襲撃目標も定め、いざ蹶起のために集結してゐたところを一斉検挙された。

 その後、影山は取り調べ中に悪性貧血症で倒れて警察病院にかつぎこまれた。一度は警察病院を出て拘置所に移つたのだが、再び病状が悪化。医務課長から「所外医療を要す」との上申書が出たため、広尾病院に入院することとなつた。そして危篤状態に陥るも、快復した。

 危篤状態のなか、影山は塾生に保田與重郎の『日本の橋』の重要性について次のやうに話してゐる。

   〈日本の橋〉といふのは、先き程も云つた通り、〈?と日本人、天皇陛下と日本人、日本人と日本人同士を結びつける橋〉だ。いいか、〈日本の橋〉になることが我々の念願なのだぞ。(『影山正治全集 第二十七巻』「昭和維新と新國學」)

  影山は保田の『日本の橋』を重要視してゐたのである。

 そして、昭和十六年三月二十七日には吉田益三を身柄引受人として責付出所となり、四月二十三日に広尾病院より退院許可が出てゐる。

 昭和十六年四月十日付で、ぐろりあ・そさえてといふ出版社から「新ぐろりあ叢書」の十八冊目として影山正治の歌集『みたみわれ』が出版されてゐる。この出版の世話にあたつたのが保田與重郎であり、影山はこの「新ぐろりあ叢書」は、広い意味での日本浪曼派叢書と位置づけてゐる。

 そして、八月には日本主義文化同盟を文化維新同盟と改称した。そのときに次のやうな宣言が発表されてゐる。

  昭和十二年九月、吾人ハ日本主義文化同盟ヲ結成シ、機關誌『怒濤』ヲ發行シ、唯一ノ文化維新運動トシテ奮鬪シ來タリシガ、昨昭和十五年六月ヨリ機關誌ヲ『文化維新』ト改名、運動ノ刷新飛躍ヲ企圖セリ。然シテ今囘新同人ノ多數參加ヲ見ルト同時ニ此ノ運動ヲシテ昭和維新ノ新國學運動タラシムベク再出發ヲ決意シ、一大飛躍ヲ爲スニ當リ、本同盟ハ日本主義文化同盟ノ名ヲ文化維新同盟ト改稱スルコトニ決定セリ。右天下ニ通告ス

  ここで、文化維新同盟と改称して再出発する主旨は「昭和維新ノ新国学運動」であると明言してゐる。ここで、影山らによる文学運動は、日本主義文学や日本浪曼派文学を経過して新国学へと発展したのである。

 この年の十一月には、「新国学と歌道」を掲げて『ひむがし』を創刊。発行は短歌維新の会であつた。

 翌年七月に文化維新同盟が解散して、機関誌『文化維新』が終刊となつた。そこで、短歌維新の会を「新国学協会」と改称して、新国学協会が『ひむがし』を発行し、新国学運動を展開することになつた。

 戦後には新国学協会は不二歌道会、『ひむがし』は『不二』に名前を変へて、新国学運動が受け継がれてゐる。

 戦前の昭和維新における、影山正治を中心とした新国学運動はこのやうな流れになつてゐる。

 ▲影山正治の天皇観

  影山正治は国学を「国体の学び」と捉へてゐた。上代国学から新国学まで一貫してゐるのは天皇である。そこで最後に、影山の天皇観を確認しておきたい。

  天皇陛下を、「あまつひつぎ(天津日嗣)」と申しあげる時は、主として縱の關係の中心點であられることを、「すめらみこと(皇尊)」と申しあげる時は、主として横の關係の中心點であられることを現はして居る。(『影山正治全集第十七巻』「求道語録」)

  天皇の御本質を知るためには、天皇のことを申し上げる本来の日本語――やまとことばで考へる必要がある。そのなかでも代表的なのが「あまつひつぎ」と「すめらみこと」であり、それは縦の関係の中心点、横の関係の中心点であられるのだ。

 まづは「あまつひつぎ」といふ言葉を確認していく。

 影山は、「あまつひつぎ」とは「大いなる〈ひ〉であられる皇祖天照大御?の靈と血と道と生命とを無窮に継ぎ継がれる日本國の中心のお方」のことだとしてゐる。

 「あまつ」の〈あま〉は天であり、天照大御神や高天原のことであらう。そして、〈つ〉は格助詞の「の」にあたる。

 「ひつぎ」の〈ひ〉とは、生命の核心のことを言ふ。魂とか霊魂と言つてもいいだらう。生命の核心である〈ひ〉がとどまつたものを〈ひと〉といふ。その男性が〈ひこ〉であり、女性が〈ひめ〉である。

 そして、〈つぎ〉とは継承する、継ぐといふことである。

 高天原の天照大御神の生命の根源、魂をずつと継いで来られてゐるご存在が「あまつひつぎ」であり、天皇なのである。したがつて、「あまつひつぎ」は時間的なつながりであり、影山は縦の関係の中心点と表現してゐるのだ。

 次に、「すめらみこと」について見ていく。

 「すめらみこと」の〈すめら〉とは「すべら」のことで、「統べる」「総べる」「治べる」の意味があり、結びとかつながりの役割のことを指してゐる。

 〈みこと〉とは生命のことであるとともに、言葉や使命のことをあらはす言葉でもある。我々が生きてゐる使命とは、天照大御神の神勅をこの国土で実現することなので、使命と言葉と生命は直結してゐる。

 したがつて、「すめらみこと」とは、生命をすべる、言葉をすべる、使命をすべるといふ意味がある。「あまつひつぎ」が時間的なつながりを意味してゐるとするならば、「すめらみこと」は空間的なつながりを意味してをり、影山は横の関係の中心点であると表現してゐる。

 生命の根源を時間的に、空間的につなぐ、結ぶといふ重要な役割を担つていらつしやるのが天皇なのである。

 保田與重郎は『日本の橋』で、橋とは道の端と道の端をつなぐものであるとしてゐる。「はし」とは何かと何かを結ぶものなのだ。なかなか気づかないかもしれないのだが、保田與重郎の『日本の橋』は、実は天皇の御本質を描き出してゐるのだ。

 そして影山は、次のやうに述べてゐる。

 「すめらみこと天皇」は、皇居の中にだけ居られるのではない。わが生命の中にも居られるのだ。(『影山正治全集第十七巻』「求道語録」)

  天皇が私たちのなかにいらつしやる、天皇陛下の大御心が私たちの心のなかにもあると考へてゐるのだ。

 そして、「みわみわれおのれ恐むわが内に天津日嗣は神づまります」といふ歌を詠んでゐる。わが生命の中にも天皇がいらつしやる、我々の心のなかにも天皇の大御心が宿つてゐるからこそ、陛下の臣民であるといふ感動を得ることができるのである。これが「みたみわれ」であり、君民一体のわが国の思想が現れてゐるのだ。

 さて、最後にいはゆる「人間宣言」に対する考へを紹介しておく。

   もともと「あらひとがみ」であられ、「あきつかみ」であられる 天皇陛下が「神」であられながら、同時に「人」であられることは、はじめから解りきつたことなのだ。食事もされるし、戀愛もされるし、大小便もされる。『萬葉集』開卷第一の歌が、 雄略天皇の明るい戀愛の歌で始まつて居り、『古事記』 神武天皇のくだりには 天皇の美しい戀物語が詳しく語り傳へられて居る。自然人の一面をもつて居られればこそ、古來帝王學と云つて人間修業のために刻苦勉學をされて來たのだ。戰後、占領軍の強要した「人間天皇宣言」といふやうな考へ方は、全く「天皇の御本質」を知らない西洋式、クリスト教流の大錯覺にほかならないのだ。(『影山正治全集第十七巻』「求道語録」)

  私も、天皇は神でもあり、人間でもあると考へてゐる。

 保田與重郎も「天皇は萬葉の昔、いなもつと上古から人間であらせ給うた」と述べてゐる通り、天皇はずつと昔から人間でもあられたのである。いはゆる「人間宣言」によつて、人間になられたわけはない。また、神でなくなられたといふわけでもない。

  「人間宣言」をされようが、されまいが、 天皇陛下が「あらひとがみ」としての「?」であられ、「あきつかみ」としての「?」であられることには一點の變りもない。(『影山正治全集第十七巻』「求道語録」)

  西洋の唯一絶対神、創造神ゴッドと日本の神は、そもそも概念がまつたく違ふ。西洋のゴッドは人間をつくつた創造神であり、唯一絶対の存在である。しかし、日本の神は人間を産んだご存在であり、人間の祖先でもある。

 宣長は、日本人の神観を次のやうに定義してゐる。

 凡て迦微(カミ)とは、古御典等(イニシヘノミフミドモ)に見えたる天地の諸(モロモロ)の?たちを始めて、其を祀れる?に坐ス御靈をも申し、又人はさらにも云(イハ)ず、鳥獣木草のたぐひ海山など、其餘(ソノホカ)何にまれ、尋常(ヨノツネ)ならずすぐれたる?(コト)のありて、可畏(カシコ)き物を迦微と云なり、【すぐれたるとは、尊きこと善きこと、功しきことなどの、優れたるのみを云に非ず、悪きも奇(アヤ)しきものなども、よにすぐれて可畏きをば、?と云なり、(本居宣長『古事記傳』「?代一之巻」)

  宣長によると、人智のおよばないものすべてが神なのだ。天皇はゴッドではなく、神であるとともに人間でもあられるといふご存在で、この点は非常に重要だと私は思つてゐる。

 来年四月末日で今上陛下が御譲位あそばされ、五月一日に新帝が践祚あそばされることが決定してゐる。今まで以上に、天皇や皇室に国民の関心が集まるだらう。そこで、我々はこの期に今一度、天皇の御本質について考へるとともに、国体とは何かを深く考える、新国学運動、国体明徴運動を展開しなければならない。そして、その思想や足跡を記録するのが、現在の維新文学である。

 また、現在の保守派でも元号ではなく西暦を使用する人が多い。影山正治は元号法の制定を祈念して自決したのである。
ぜひとも、元号を使用するやうに心掛けてもらひたい。
           ◎◎◎
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 事務局からおしらせ
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
   ♪
七月の公開講座は、憂国の空の将軍として知られる織田邦男元空将を迎えて国防講座を開催します。

日時  平成30年7月26日(木)18時半開演(18時開場)
場所  アルカディア市ヶ谷(私学会館)
講師  織田邦男(おりたくにお)空将(退役)、元航空支援集団司令官
演題  「混迷する東アジア情勢と日本の安全保障」
参加費 2000円(会員千円)
   (織田氏の略歴 昭和27年生れ。愛媛県出身。昭和49年防大卒(18期)同年航空自衛隊入隊。F4戦闘機パイロットを経て第6航空団司令、航空開発実験集団司令、航空支援集団司令官などを歴任。平成21年空自退官。現在は東洋学園大学客員教授。一般社団法人日本戦略研究フォーラム政策提言委員をつとめる)


  ♪
8月の公開講座は澤村修治氏
@@@@@@@@@@@@@

日時   8月24日(金)18時半開演(18時開場)
場所   アルカディア市ヶ谷(私学会館)
講師   澤村修治先生(作家・文芸評論家)
演題  「西郷隆盛、日本浪曼派そして三島由紀夫」(仮題)
<講師略歴>昭和35年生れ。東京都出身。千葉大学人文学部人文学科卒。大手出版社勤務、新書や選書の編集長をつとめる傍ら、主に評論と評伝の執筆を行う。『表現者』にも寄稿。主な著作『悲傷の追想「コギト」編集発行人、肥下恒夫の生涯』(ライトハウス開港社)『敗戦日本と浪曼派の態度』(ライトハウス開港社)『唐木順三―あめつちとともに』(ミネルヴァ書房〈日本評伝選〉)『西郷隆盛 滅びの美学』(幻冬舎新書)その他多数
会場分担金 会員・学生1千円(一般2千円)
           ◎◎◎◎
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
  三島由紀夫研究会 http://mishima.xii.jp/contents/index.html
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
(C)三島由紀夫研究会 2018  ◎転送自由
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

規約に同意してこのメルマガに登録/解除する

メルマガ情報

創刊日:2006-01-12  
最終発行日:  
発行周期:半月刊  
Score!: 98 点   

コメント一覧コメントを書く

この記事にコメントを書く

上の画像で表示されている文字を半角英数で入力してください。

※コメントの内容はこのページに公開されます。発行者さんだけが閲覧できるものではありません。 コメントの投稿時は投稿者規約への同意が必要です。

  • コメントはありません。