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三島由紀夫の総合研究

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三島由紀夫研究会メルマガ 「影山正治と維新文学」(前篇) 

2018/07/05

「影山正治と維新文学」(前篇) 
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『三島由紀夫の総合研究』(三島由紀夫研究会 メルマガ会報)
    平成30年(2018)7月5日(木曜日)
         通巻第1260号   
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荒岩宏奨(株式会社展転社取締役編集長)
「影山正治と維新文学」(前篇)
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                三島由紀夫研究会会員例会 (平成30年6月29日)
 
 ▲影山正治の略歴

 まづは影山正治の略歴を紹介する。
 明治四十三年、影山庄平と歌の長男として愛知県豊橋に生まれる。
 大正十三年、豊橋中学を受験して入学。
 昭和四年、國學院大學に入学して上京。弁論部に入部して日本主義者・松永材(もとき)の指導を受ける。昭和五年には同人雑誌『豊橋文学』を創刊するなど文学をしながら、政治活動も行ふ。
 昭和六年、全国大日本主義同盟を結成。そして、その代表として大日本生産党の第一回大会に出席。翌昭和七年に大日本生産党に入党。
 昭和八年、神兵隊事件に連座して逮捕。二年半を獄中で過ごすことになつた。
 昭和十年に仮出所。昭和十一年には獄中作を集めた歌集『悲願集』を出版。この年に維新寮を開設してゐる。昭和十二年には日本主義文化同盟を結成して、機関誌『怒濤』を創刊。この機関誌が日本浪曼派系の文学者たちと関はるきつかけとなる。
 昭和十四年、大東塾を創立。昭和十五年には七・五事件で逮捕。
 昭和十六年には短歌維新の会を結成し『ひむがし』を創刊。同年、大東塾出版部を設置、顧問には尾崎士郎、保田與重郎、浅野晃、林房雄など日本浪曼派系の文学者が就任してゐる。
 昭和十九年には応召となり、北支に出征。これは東條英機を批判したことに対する懲罰出征と言はれてゐる。
 昭和二十年八月二十五日、影山が復員する前に影山庄平ら大東塾十四人が代々木練兵場(現在の代々木公園)で集団自決。共同遺書は「清く捧ぐる吾等十四柱の皇魂誓つて無窮に皇城を守らむ」である。この十四人は大東塾十四烈士と呼ばれてゐる。
 昭和二十一年一月、大東塾はGHQにより解散させられた。同年五月、影山が復員すると『ひむがし』の後継誌として『不二』を創刊。このときの発行は不二出版社だつた。昭和二十二年には宮中勤労奉仕を実施。このときから毎年勤労奉仕を行つてゐるので、おそらく継続してゐるなかでは一番古い奉仕団ではないかと思ふ。
 昭和二十三年には『一つの戦史』を非合法出版。この本の本格的な出版は昭和三十二年である。

 昭和二十四年、不二出版社を不二歌道会と改称。昭和二十九年には大東塾を再建した。その後も精力的に出版活動をしながら、紀元節復活運動などの政治運動も展開。昭和四十四年には、『日本民族派の運動』を出版。これが、戦後初の商業出版となつた。さらに『増補版 維新者の信條』も出版し、この本は今でも民族派の必読書として読み継がれてゐる。また、青梅に大東農場を開き、大東神社の創建なども行つてゐる。

 そして昭和五十四年、元号法の法制化を祈り、大東農場内で自決。辞世は「民族の本ついのちのふるさとへはやはやかへれ戦後日本よ」と「身一つをみづ玉串とささげまつり御代を祈らむみたまらとともに」であつた。

 このやうに、影山正治は昭和維新運動に挺身した。また、歌人としても有名で、文学面においては林房雄や保田與重郎など日本浪曼派の文学者たちとは深い交流がある。「詩(うた)と剣(つるぎ)」を兼ね備へた人物である。

 ▲三島由紀夫との交流

 次に、影山正治と三島由紀夫の交流について触れておく。
 古林尚(たかし)との対談である「三島由紀夫 最後の言葉」で三島由紀夫が次のやうに述べてゐる。

 このあいだ真継伸彦さんが、三島は戦争中に影山正治(国粋的な歌人で神兵隊事件に参加)と会っている、と何かに書いておられたのを読みました。だが、あれは間違いで、影山さんにはこれまでたった一度しか会っていないのです。ある人の結婚式の仲人を影山さんがなさったときに、ちょっと挨拶をしただけなんです。批判はよいけど、そういう誤伝をいろいろ言われると困りますよ。(『三島由紀夫全集40』「三島由紀夫 最後の言葉」)
 この対談が行はれたのは昭和四十五年十一月十八日。三島由紀夫が自決する一週間前であり、まさに最後の対談である。この対談は活字だけでなく音声としても発表されてゐる。

 いつ、誰の結婚式で会つたのか調べてみると、影山正治が次のやうに述べてゐた。

 問 三島由紀夫氏とは一度だけ會はれたんださうですなー。

答 昭和二十九年の三月末、大東塾が再建宣言を發するすぐ前に終戰直後、學徒出陣から歸つて、再び國學院大學に復學した頃から、ずうつと地下時代の大東塾へ出入りして、中堅同志の一人になつてゐた伊澤甲子麿君が結婚式をあげ、無理々々に懇請されて僕が仲人になつたのですが、その時、友人代表の一人として出席してゐた三島君と初めて會つて色々話したのです。僕はすつかり忘れてしまつてゐますが、先年或る人に「あの時の影山さんの仲人挨拶は大したものだつた」などと語つてゐたさうです。この時一囘だけです。その後は、主として伊澤君を通じて、雙方が雙方の状況を知り、心を通はせ合つてゐたと云へるでせう。『林房雄論』の頃から、急に、ぐうつと近づいて來る感じでした。それ以前は、どちらかと云ふと、避けてゐたのではないかと思はれます。あの『日本民族派の運動』に對する推薦文も、出版屋さんが是非といふので、伊澤君に頼んで話してもらい、直ちに快諾して書いてくれたものです。(『影山正治全集 第十九巻』「昭和の?風連」)

  影山も、三島に会つたのは昭和二十九年の一度だけと発言してゐるので、両者の発言が一致してゐる。
真継が何を根拠に影山と三島が戦争中に会つてゐると書いたのかわからないが、それは間違ひだらう。ちなみに伊澤甲子(きね)麿(まろ)とは、伊澤修二の孫である。

 実際に両者が会つたのは一度だけなので、あとは書簡などでの交流が少しあつた程度だと思はれる。
 『三島由紀夫全集』には、三島から影山に宛てた葉書が一通だけ収録されてゐる。昭和四十二年三月二十三日、三島が影山宛に宛てたその一通の葉書には次のやうに書かれてゐる。

 御高著「明治の尊攘派」有難く拝読いたしました。不勉強にて増田宋太郎のことよく存じませんでしたので、御高著で目をひらかれ、反福沢的思想の清冽なる源流として、感銘深く拝読しました。御高著の史観に諸手(もろて)をあげて賛成いたします。何やら、このごろ、現在の日本が明治維新直前のやうな気がしてなりません。(『三島由紀夫全集38』)

 葉書には昭和四十二年二月に影山が出版した『明治の尊攘派』の簡単な感想が書かれてゐる。

 昭和四十四年に影山正治の『日本民族派の運動』(光風社書店)が出版された。この本は、昭和十四年の大東塾創建から昭和二十年の大東塾十四烈士の自決までの大東塾の歴史がまとめられてゐる。

 この本に三島由紀夫が「一貫不惑」といふ推薦のことばを寄せてをり、影山正治の人物像についても書いてあるのでその部分を紹介しておく。

   影山正治氏が昨今ますます輝いてきたのは、その一貫不惑のゆゑであり、人々に怖れられてゐるのも、その一貫不惑のゆゑである。私は必要あつて數年前から、?風連の研究をはじめ、影山氏がその思想的源泉とするこの事件が、西歐に對する日本の最後の果敢な抵抗として、文明史的意義を有することを知つた。これを知ると共に、影山氏の運動が、凡そ文化の本質に觸れてゐることを確認するにゐたつたのである。

 勿論以前から、終戰時に於る大東塾の集團自決が、一體何を意味するかといふことは、私の念頭を離れなかつた。?風連は攻撃であり、大東塾は身をつつしんだ自決である。しかしこの二つの事件の背景の相違を考へると、いづれも同じ重さを持ち、同じ思想の根から生れ、日本人の心性にもつとも深く根ざし、同じ文化の本質的な問題に觸れた行動であることが理解されたのであつた。

 影山氏の『日本民族派の運動』を讀む人は、かういふ氏の思想の根を知ることによつて、更に興趣を増すことと思はれる。氏はおそろしいほど實證的であり、歴史を正す一念に於て、博引旁證、及ばざるところがない。忘れつぽい日本人から見ると、その點、却つて日本人離れがしてゐる。(三島由紀夫「一貫不惑」)

 ▲三島の影山評価、『奔馬』のモデルか?

 三島は、影山の運動が「本質に觸れてゐる」とか、影山を「おそろしいほど實證的であり、歴史を正す一念に於て、博引旁證、及ばざるところがない」と評価してゐる。

 この「一貫不惑」で三島は、数年前から神風連の研究をはじめてゐると書いてゐる。これは、小説・豊饒の海第二巻『奔馬』を書くためだと思はれる。

 その『奔馬』の主人公・飯沼勲のモデルになつたのが影山正治だと言はれてゐる。「春の雪」創作ノートでは、第二巻の構想として「北一輝のモチーフ、神兵隊のモチーフ」と書かれてをり、さらに「神兵隊事件訴訟記録」とか「血盟団事件の忠実な再現」とも書かれてゐる。したがつて、第二巻は血盟団事件や神兵隊事件を参考にしたやうである。

 ただし、影山正治に直接取材した形跡はない。影山正治の國學院大學の後輩である毛呂清輝に取材してゐる。毛呂清輝は、影山と同じく学生時代に大日本生産党に入党し、活動してゐた。そして、影山とともに神兵隊事件に連座した。三島はこの毛呂清輝から学生時代の政治運動や神兵隊事件に関することを聞いてゐる。おそらく、毛呂への取材から影山正治の名前が何度か出てきたのだと思はれるが、創作ノートには影山の名前が何度も記されてあつた。したがつて、飯沼勲のモデルの一人が影山正治であることは間違ひないだらう。

 ▲三島事件に対する評価

 次に、三島事件に対する影山の評価を見てみる。
事件直後、大東塾・不二歌道会の機関誌『不二』で、「三島事件に対する所見」を発表した。

  一、今囘の三島事件に就いて所見を表明する前に當り、何よりもまづ我等は、三島由紀夫、森田必勝兩士の忠死に對し深甚なる敬追の意を表し、その英靈に向つて至心に低頭合掌して止まないものである。(『影山正治全集 第十九巻』「三島事件に対する所見」)

 このやうな文章から始まる。

 その後、事件の様子などが記され、三島事件に対する中曽根長官などの「狂気の沙汰」発言を批判し、三島に対しては次のやうな評価をしてゐる。

  一、何よりも武人であるべき自衞隊高級幹部が、その居城の本丸天守閣内に於て、終始非武人的態度を以て右往左往して居る間に、文人である三島由紀夫氏の方が、終始武人・武士として行動し、武人・武士として最期をとげたのである。武士として扱ふべきである。(同)

  当時はほとんどが三島事件を「狂気の沙汰」と見てゐたのだが、影山は三島を武士として扱ふべきであるとしてゐる。

 また、次の影山の見方は、独特な見解だと思ふ。

 一、自衞隊としては、相手が三島由紀夫であれ、誰であれ、あの場合、斷乎として侵入者、占領者を撃ち殺すべきであつたのである。この場合、相手が誰れであるか、相手の思想がどうであるかなど問題にならない。そのためには總監が殺されても止むを得ないのである。そんなところに一點の躊躇逡巡もあつてはならないのである。それは憲法問題とか何とかのずつと以前の問題である。「軍」といふものの基本的な在り方の問題である。即ち撃ち殺すことによつて三島側も眞に生き、自衞隊側も眞に生きることができたのである。(同)

  三島事件を論ずる場合、三島や楯の会の視点からのみ語られることが多いのだが、影山は三島事件を評価しながら、自衛隊の視点から論じることも忘れてはゐない。
どのやうな思想を持つてゐたとしても、侵入者、占領者を撃ち殺すべきであつたと述べてゐる。三島の檄文では、機動隊が治安出動して学生紛争を封じ込めたことに絶望したことが書かれてゐるので、自衛隊に侵入、占領した三島が射殺されることにより、三島が真に生きることができるといふ評価は私もその通りだと思ふ。

 そして、少し省略して、次のやうに続く。

 一、今囘の三島事件の場合にも、「何より總監の生命を助けることが第一」といふ低俗ヒューマニズムの介入が、自衞隊をして無力化せしめ、全世界に恥をさらさせた重大要因となつたのではないか。自衞隊は實質的な軍隊である。軍隊が警察に守られて居るやうでは問題にならないし、緊急事態に當つて敵を撃ち殺し得ないやうな軍隊は軍隊ではないのである。(同)

 自衛隊が警察に守られてゐといふ問題点を指摘してゐる。

 この事件のとき、自衛隊は警察に守られる存在だつたのだが、現在の防衛省の前を守つてゐるのは民間の警備会社である。軍隊たりえないどころか、自衛隊の自衛もできないのかと思つてしまふ。この問題点は、憲法改正を待たずにすぐにでも改善してもらひたい。三島事件がまつたく活かされてゐないとしか思へない。

 ▲近世国学の起こり

 それでは本題に移る。

 影山正治は自身の文学運動を「新国学」と位置づけてゐる。柳田国男も自らの学問を「新国学」と名づけてゐるのだが、柳田国男や折口信夫らの新国学とは異なる。

 影山正治は、「国学」を「国体の学び」だとしてゐる。そして、新国学は江戸時代の国学の延長上にあると捉へてゐるのである。影山は江戸時代の国学を「先代国学」とか「近世国学」と呼ぶ。その「近世国学」の前には「中世国学」があり、その代表として北畠親房の『神皇正統記』を挙げる。さらにその前には「上代国学」があり、『古事記』編纂を挙げてゐる。しかし、さすがに『古事記』などの「上代国学」にまでさかのぼると、本題である影山正治までたどり着けないので、新国学の一つ前の近世国学からの流れを確認していく。

 国学の祖は真言宗僧侶の契沖である。影山正治は国学が発したのは契沖であるとしながらも、その出発点は水戸光圀であるとして、光圀を非常に重要視する。

 元禄五年、水戸光圀は現在は湊川神社となつてゐる場所に「嗚呼忠臣楠子之墓」といふ碑を建立した。この碑の建立は、国学だけでなく日本の思想史においても重大であり、影山はこのことにより「維新の種」がまかれたといふ捉へ方をしてゐる。

 それまで、楠木正成は朝敵とか逆賊とされてきた。しかし、「嗚呼忠臣楠子之墓」といふ碑を建てたといふことは、それまでの楠木正成に対する評価と真逆の評価をするといふことになる。光圀は楠木正成に対する評価を、朝敵から忠臣へと、百八十度転換させたのだ。影山正治は、ここに維新の芽生えを感じ、契沖よりも水戸光圀を重要視するのではないだらうか。

 光圀は、下河辺長流に万葉集の注釈を依頼した。ところが、下河辺は病のためにこの依頼を果たせなくなつてしまつた。そこで、この仕事を契沖に託した。仕事を引き継いだ契沖が完成させたのが『万葉代匠記』である。

 契沖は『和字正濫抄』を書いた人物である。この本によつて、それまで使はれてゐた定家かなづかひの間違ひを指摘し、古典でのかなの使はれ方から、正しいかなづかひを明らかにした。その後、本居宣長らが修正を加へ、歴史的かなづかひが整理されたのである。

 国学の流れは、契沖から荷田春満、賀茂眞淵、本居宣長へと受け継がれていつた。宣長から平田篤胤は直接の教へではないのだが、篤胤は宣長の歿後の門人として国学を受け継いだ。春満、眞淵、宣長の三人は国学三大人と呼ばれてゐる。この三人に平田篤胤を加へて国学四大人と呼ぶこともある。この四人の国学は非常に重要なのだが、この四人を確認していく時間がないので、本日は名前だけにとどめておく。

 幕末になると、国学、水戸学、崎門学などを基盤として、尊皇思想が高まり、尊皇攘夷、尊皇討幕の運動が起こつてくる。契沖、春満、眞淵、宣長の国学はあくまでも学問であり、実践的行動によつて世の中を変革するといふ思想が強かつたわけではない。篤胤は多くの門人ネットワークを駆使して情報の受信や発信をしてゐたので、その点では実践的といへるかもしれない。現在でいふところのインテリジェンスみたいなものだ。

 国学が学問の域にとどまらず、実践活動へと踏み出したのは幕末である。国学を基盤とする尊皇攘夷思想、尊皇討幕思想を、勤皇の志士たちが実践したのだ。学問をする人と実践行動をする人は別々であるといふ場合がほとんどだが、なかには実践活動へと乗り出す国学者も現はれた。

 その代表者の一人として、伴林光平を挙げておく。光平は明治維新のさきがけである天忠組に参画した国学者である。国学は伴信友に学んだ。もともとは教恩寺といふ寺の住職で、門人に国学や歌を教へてゐたのだが、住職を辞めて寺を棄てる。寺を去る日、次の七言絶句の漢詩を壁に書いた。

 本是神州清潔民 もと是れ神州清潔の民
  誤為仏奴説同塵 誤って仏奴となり同塵を説く
 如今棄仏仏休咎 今にして仏を棄つとも、仏咎むるを休めよ
  本是神州清潔民 もと是れ神州清潔の民

  還俗した光平は、勤皇の志士たちとの交流を深めた。そして、天忠組の挙兵を聞くと現場に駆けつけて、記録の役割を担当するかたちで参画した。天忠組が敗れると、光平は大阪へ逃れようとしたのだが、途中で捕まつてしまふ。そして、獄中で『南山踏雲録』を執筆して天忠組の戦跡を遺し、京都で斬首された。
『南山踏雲録』は明治維新のさきがけを記録した著作であり、まさしく維新を記録した文学、維新文学に当たるだらう。

 昭和の御代になると、保田與重郎がこの『南山踏雲録』を重視し、注釈をつけた本を出版してゐる。そして、影山は『天忠組への道』を大東塾出版部から出してゐる。

 影山は自身の『天忠組への道と』保田の『南山踏雲録』について、次のやうな評価をしてゐる。

  この二册は、「先代國學」と「新國學」、「明治維新」と「昭和維新」の、根柢に於けるつながりと、それぞれに於ける特色とを明らかにする上の大切な文獻と云つてよいのでせうが、『南山踏雲録』は、明らかに『天忠組への道』に收録された二著作の影響を受けて居るわけで、『南山踏雲録』の例言の中には、特に「史料や談話や文書や」に於て「直接間接に援助をうけた人々」として六名を舉げ、懇切な謝辭を述べて居るのですが、その筆頭に僕の名前が舉げられて居るわけです。(『影山正治全集 第二十七巻』「昭和維新と新國學」)

 
 近世国学は明治維新の思想基盤となり、維新の志士たちに大きな影響をおよぼした。そして、明治維新後には、国家体制を整へるときにも多くの国学者が活躍したのである。

 ▲明治の第二維新運動

  新国学はこの近世国学の延長として発生する。影山は、新国学の出発点を明治の第二維新運動だとしてゐる。

 江戸幕府を倒して維新を成し遂げ、新たなる国家体制を構築することには成功した。ところが、政府は大雑把に分類して、日本派と西洋派に二つの派に分かれてしまふ。

 明治維新を成し遂げた日本は、西洋との不平等条約を解消するために、西洋的な近代国家にならなければならない。そのために、政府の指導者たちは文明開化が必要だと考へ、急速な西洋化をめざす。この路線が西洋派であり、大久保派である。

 これに対して、明治維新は漢(から)心(ごころ)を排撃して大和心を打ち立てるといふ国学の精神に基づいて行はれたのだから、政府が西洋化の路線を採るならもう一度維新が必要だといふことで、第二維新をめざした動きもあつた。この路線が日本派であり、西郷派である。

 そして、第二維新をめざす西郷派は、明治六年に征韓論で敗れて下野することになつた。この年に江藤新平らの佐賀の変、そして明治九年に前原一誠らの秋月の変、太田黒伴雄らの神風連の変、明治十年に西郷南洲らの西南の役と内戦が続いた。なほ、一般的にこれらの出来事は佐賀の乱、秋月の乱、神風連の乱など「乱」と呼ばれてゐるのだが、影山正治は「乱」ではなくて「変」と呼んでゐる。

 三島由紀夫はこの一連の出来事で、特に神風連に興味を持つたやうで、豊饒の海第二巻『奔馬』では、神風連について詳しく書いてゐる。

 西南の役での大西郷敗北によつて第二維新をめざす西郷派は軍事闘争で敗北し、大久保派、西洋派が政府を担ふことになつた。

 しかし、西郷南洲の敗北によつて第二維新運動が終はつたわけではない。大西郷の精神を受け継いだ頭山満の玄洋社などによつて、自由民権運動といふ形で継続されることになつたのだ。

 影山正治は、西郷南洲の思想のなかに新国学の芽生えがあるとしてゐる。一般的に西郷南洲は陽明学の系統だとされてゐるのだが、影山は西郷を平田篤胤の歿後の門人であり、国学派だと捉へてゐる。西郷が篤胤の門人になつたかどうかはよくわからない。しかし、西郷が篤胤宅である気吹舎(いぶきや)に薩摩藩士を送り出し、多くの薩摩藩士が門人となつてゐるといふことは事実である。また、西郷自身も何度か気吹舎を訪問してゐるといふ記録は残つてゐるやうである。

 西郷南洲の有名な言葉として「敬天愛人」がある。
これは儒教思想の言葉である。しかし影山は、この「敬天」とは儒教における敬天思想ではなく、国学的な「敬神尊皇」の意味がその根幹をなしてゐると見るべきであるとし、さらに「愛人」についても、儒教的な「愛民」思想ではなくて、大君が赤子、大御宝、御民としての同胞を敬愛するといふ意味が根底をなしてゐると見るべきであるとしてゐる。

 そして、『南洲遺訓』のなかの次の文章を特に重要視する。

   廣く各國の制度を採り、開明に進まんとならば、先づ我が國の本體を据ゑ、風教を張り、然して後、除(しづ)かに彼の長所を斟酌するものぞ。しからずして、みだりに彼に倣ひなば、國體は衰頽(すいたい)し、風教は萎靡(いび)して匡救(きやうきゆう)すべからず、終(つひ)に彼の制を受くるに至らんとす。(『南洲遺訓』)

  簡単に解釈すると、西洋の制度を取り入れるのであれば、まづはわが国の根本をしつかりと固めてから、西洋の長所を取り入れるべきである、みだりに西洋に倣つたならば、国体は衰頽して日本ではなくなつてしまふと述べてゐるのだ。影山は、この言葉こそが上代国学から現代の国学までを一貫する国学の根本信條であると捉へてゐる。

 西郷南洲はこのやうな考へだつたので、国体を無視してみだりに西洋に倣はうとする大久保派と対立することとなつたのである。
西郷を中心として決起した西南の役は、決して単なる不平武士の反乱などではなく、その思想的根底には国体護持があつたと私は考へてゐる。西南の役だけでなく、佐賀の変、秋月の変、神風連の変も、やはりその思想の根底にあるのは国体護持である。

 さらに、影山は次の文章にも新国学の芽生えを感じてゐる。

  正道を踏み、國を以つて斃(たふ)るるの??なくば外國交際は全かるべからず。彼の強大に畏縮し、圓滑を主として、曲げて彼の意に順從する時は輕侮を招き、好親却(かへ)つて破れ、終(つひ)に彼の制を受くるに至らん。(『南洲遺訓』)

  たとへ、倒れても正しい道を行くといふ精神で外交をしなければならない、外国の力に畏縮して、円滑な関係性を保つために、外国の意に従順してしまへば、軽侮されることになり、外国の意のままになつてしまふと述べてゐるのだ。現在の政府、特に外務省に聞かせたい言葉である。

 近世国学に比べて新国学は「剣の精神」が協調されることになり、影山はこの西郷の言葉にその芽生えを見てゐるやうである。

 もう一点、『南洲遺訓』を見ておく。

  政(まつりごと)の大體は文を興し、武を振ひ、農を勵ますの三つに在り。その他百般の事務は、皆此の三つのものを助くるの具なり。この三つのものの中において、時に從ひ勢ひに因り、施行先後の順序はあれど、この三つのものを後にして他を先にするは更になし。(『南洲遺訓』)

 政治は文武農が最重要だとしてゐる。

 これらの西郷南洲の思想を芽生えとして、第二維新運動のなかから新国学が生まれてきたのである。
                          (後編に続く)

              (公開講座の速記録です。文責は編集部にあります)
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 事務局からおしらせ
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七月の公開講座は、憂国の空の将軍として知られる織田邦男元空将を迎えて国防講座を開催します。

日時  平成30年7月26日(木)18時半開演(18時開場)
場所  アルカディア市ヶ谷(私学会館)
講師  織田邦男(おりたくにお)空将(退役)、元航空支援集団司令官
演題  「混迷する東アジア情勢と日本の安全保障」
参加費 2000円(会員千円)
   (織田氏の略歴 昭和27年生れ。愛媛県出身。昭和49年防大卒(18期)同年航空自衛隊入隊。F4戦闘機パイロットを経て第6航空団司令、航空開発実験集団司令、航空支援集団司令官などを歴任。平成21年空自退官。現在は東洋学園大学客員教授。一般社団法人日本戦略研究フォーラム政策提言委員をつとめる)


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8月の公開講座は澤村修治氏
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日時   8月24日(金)18時半開演(18時開場)
場所   アルカディア市ヶ谷(私学会館)
講師   澤村修治先生(作家・文芸評論家)
演題  「西郷隆盛、日本浪曼派そして三島由紀夫」(仮題)
<講師略歴>昭和35年生れ。東京都出身。千葉大学人文学部人文学科卒。大手出版社勤務、新書や選書の編集長をつとめる傍ら、主に評論と評伝の執筆を行う。『表現者』にも寄稿。主な著作『悲傷の追想「コギト」編集発行人、肥下恒夫の生涯』(ライトハウス開港社)『敗戦日本と浪曼派の態度』(ライトハウス開港社)『唐木順三―あめつちとともに』(ミネルヴァ書房〈日本評伝選〉)『西郷隆盛 滅びの美学』(幻冬舎新書)その他多数
会場分担金 会員・学生1千円(一般2千円)
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  三島由紀夫研究会 http://mishima.xii.jp/contents/index.html
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(C)三島由紀夫研究会 2018  ◎転送自由
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