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三島由紀夫の総合研究

創立35年の老舗「三島由紀夫研究会」の会報を兼ねた、あらゆる角度からの総合研究メルマガ

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三島由紀夫研究会メルマガ

2018/07/03

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『三島由紀夫の総合研究』(三島由紀夫研究会 メルマガ会報)
    平成30年(2018)7月3日(火曜日)
         通巻第1260号   
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「三島由紀夫と歌舞伎」
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                       織田紘二

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 本日は「三島由紀夫と歌舞伎」というテーマを与えられました。
短い経験ではありましたが、三島先生と歌舞伎の制作をともにすることで得たその経験をもとにお話しをしたいと思います。戦後歌舞伎における三島由紀夫という戯曲作家の歌舞伎と他の劇作家たちの歌舞伎はどう違っていたのかということにつきまして、自分自身の体験を通してどのように感じていたのかをお話ししたいと思います。

三島由紀夫は四十五歳で亡くなりになりましたが、昭和二十年生まれの私は、その当時まだ若い二十四・二十五歳の時に、足かけ二年にわたり歌舞伎を通して三島さんと触れ合うことになりました。

私は、『三島由紀夫 芝居日記』(中央公論社・平成三年)という本の校訂をいたしました。昭和十三年秋、学習院中等科一年生になった十三歳の三島少年は、歌舞伎座で始めて歌舞伎を観ました。
その後、昭和十七年から二十一年にかけて克明な芝居日記を記述していました。二冊のノートに残されていたものを、三島夫人の瑤子さんからお預かりして一冊の本にまとめたのが芝居日記です。
ノートは現在、山中湖の三島由紀夫文学館に保管されています。制作の仕事を通して、三島歌舞伎について、経験させていただいたことを申し上げたいと思います。

ところで、本日の三島歌舞伎というテーマですが、昭和三十二年の演劇界五月号において、「共同研究 三島由紀夫の実験歌舞伎」という、三島歌舞伎をテーマにした座談会が開かれていす。
この頃、三島歌舞伎という言葉が一般化したのでないでしょうか。同時代に、北條秀司という劇作家がいましたが、『源氏物語』の脚本について北條源氏とは言われても北條作品を北條歌舞伎という言い方はされませんでした。
他の作者も同様です。昭和三十二年時点ですでに、三島由紀夫の歌舞伎が特異な存在だったということです。それは、自分の体験からも感じられたことでした。

▲『椿説姫弓張月』で、三島さんの助手を務めた

昭和四十四年十一月に上演された『椿説姫弓張月』で、私は三島さんの助手を務めました。あの事件の一年前の作品ですが、あの頃の三島さんは何か常に急いでおり、あるいはまたイライラとしているようにも感じられました。その辺りのこともお話ししてみたいと思います。

私は大学を卒業してすぐに国立劇場に勤めました。初期の頃、国立劇場には非常勤理事として、三島由紀夫、大佛次郎、評議員には川口松太郎、北條条秀司、舟橋聖一等がいました。
お話しに入る前に、国立劇場で実際に上演された三島歌舞伎の映像をご覧ください。
(会場で上映されたのは、以下三作品の抜粋)
? 椿説弓張月(昭和四十四年)
? 熊野(ゆや)熊野(ゆや) (平成元年)
? むすめごのみ帯取池(平成十年)

 三島歌舞伎といわれる一群がありますが、昭和二十八年十二月、歌舞伎座で上演された「地獄変」が第一作目となります。
芥川龍之介の原作を翻案し歌舞伎に仕立てた作品です。久保田万太郎演出、松本幸四郎(八代目・後の白鸚(はくおう)白鸚(はくおう))、中村勘三郎(十七代目)、中村歌右衛門(六代目)の出演です。次に昭和二十九年十一月には、「鰯売恋曳網(いわしうりこいのひきあみ)鰯売恋曳網(いわしうりこいのひきあみ)」が、勘三郎と歌右衛門の顔合わせで上演されました(歌舞伎座)。

中世室町時代のおとぎ草子を根本(ねほん)とし、初演時にも大当たりしましたが、その後何度も上演される人気作品となりました。

 昭和三十年二月には、「熊野」が上演されました(歌舞伎座)。能の熊野を題材として劇化された作品で、メルヘンチックな美しい舞台ということで、今日でも脚光を浴びている作品です。出演は、幸四郎、歌右衛門、市川団蔵(八代目)です。近年、玉三郎による上演もありました。

昭和三十年十一月には、これも歌舞伎座で「芙蓉(ふようの)芙蓉(ふようの)露(つゆ)露(つゆ)大内実記(おおうちじっき)大内実記(おおうちじっき)」が上演されました。ギリシヤ悲劇から題材を取った、ラシーヌのフランス古典悲劇フェードルの竹本劇化です。市川猿之助(二代目 後の猿翁)、歌右衛門、実川延二郎(後の延若)等の出演により上演されましたが、この作品は残念ながらこの時以降再演されていません。

昭和三十三年十一月、「むすめごのみ帯取池」は、猿之助、歌右衛門、中村時蔵(三代目)、延二郎等が出演しています。
そして昭和四十四年十一月に国立劇場開場三周年記念公演として、『椿説(ちんせつ)椿説(ちんせつ)弓張月(ゆみはりづき)弓張月(ゆみはりづき)』が上演されました。松本幸四郎、坂東玉三郎、市川猿之助、市川中車、市川段四郎、中村鴈治郎ほかの出演です。

▲三島歌舞伎の特色は擬古典

三島歌舞伎が一つの特異なジャンルを形成している特色は何かといいますと、ひと言でいうと擬古典(ぎこてん)ということになります。
芝居日記を見て分かる通り、三島さんが最も好きだった役者は七代目澤村宗十郎という人でした。昭和十三年に初めて見た歌舞伎は「仮名手本忠臣蔵」でしたが、その時の思い出をその後も度々書いたり語ったりしています。

宗十郎は決して美男役者ではありませんでした。少なくとも美しいタイプの俳優ではありませんでした。それは時代にもよりましょうが、六十代の頃の宗十郎を見ています。歌舞伎では美しい女方は大成しないと言われます。
美しさにかまけるというか、自分の美しさにうぬぼれて芸の修行をおろそかにするからというふうに言われています。宗十郎は怪々たる俳優と形容してもいい役者でした。今日に見る美形女方というタイプの人ではありませんでした。この方は、六代目菊五郎と同じく昭和二十四年に七十四才で亡くなっています。

先ほど、擬古典というお話しをしましたが、三島さんは古典歌舞伎に対して深い愛情をお持ちでした。
それも特に義太夫狂言がお好きでした。義太夫歌舞伎あるいは丸本歌舞伎といわれる作品群に非常に強い愛情を持っていた方でした。戦後六世歌右衛門との共同作業のようにして歌舞伎を書きました。

そんな中で誰よりも大きな影響を三島さんに与えたのは、六世藤間勘十郎(後に勘祖)という人でした。勘十郎は、六代目菊五郎の弟子として、元は俳優でしたが、この人は最後まで六代目の言い付けを守って、舞踊家としては素踊りしか踊りませんでした。共演の歌右衛門は衣裳を着けて踊りましたが、勘十郎は素で踊っていた人でした。

この人が三島歌舞伎のほぼ全般において振付を担当しました。弓張月以外の全ての作品に関わったのは、勘十郎という踊りの名人だったのです。この人の影響が非常に大きかったと思います。

歌右衛門も勘十郎のことは非常に尊敬していました。三島作品の多くの演出を担当した久保田万太郎は俳人としても名の通った人でしたが、この時代には久保田万太郎を前面に出しておくと楽だった時代でもありました。それだけ劇界に力のある方でした。
三島さん自身は、演出に対する興味は、実はあまりなかったような気がします。たくさんの新劇の作品もありますが、

当人の演出はほとんどありません。ある意味、演出に対する興味はなかったのではないかと思います。あるいは、近寄らなかったのではないかという気がしています。三島さんが七代目澤村宗十郎に憧れていたように、宗十郎をある歌舞伎の理想型になぞらえたというところにも、三島歌舞伎といわれた背景があるような気がします。最後の『弓張月』まで、擬古典という古典になぞらえる形式でなければ歌舞伎ではないという強い思いがあったのではないでしょうか。

▲幕末から明治を時代背景として

昭和四十四年に、『椿説弓張月』という作品がどうして生まれたのか、どのような経緯で生まれたのかをお話ししたいと思います。

振り返りますと今からちょうど五十年前になりますが、昭和四十三年の十一月、大佛次郎さんの「三姉妹」という芝居が明治百年記念として国立劇場で上演されました。その前年にNHKの大河ドラマで放送された作品の舞台化です。幕末から明治を時代背景にして、旗本の三人の姉妹が、あの時代をどのように生きたのかを描いた作品でした。

その年昭和四十三年の十二月に、当時国立劇場の会長を務めていた高橋誠一郎(慶應義塾大学名誉教授・日本藝術院院長・国立劇場会長・第一次吉田内閣文部大臣)が招待して、劇場裏手にある天ぷら屋で年末恒例の会が開かれました。
その席で三島さんが大佛さんの三姉妹について、「あれは歌舞伎ではない」と言ったそうです。

それに対して高橋さんから、「ならば君が書いてご覧」ということになって、昭和四十四年秋の弓張月が生まれるきっかけとなったそうです。
古典主義といってもいい三島さんの歌舞伎観というものは、いろんなところで三島さん自身も書いています。昭和四十五年七月三日、国立劇場歌舞伎俳優研修生のための特別講義を三島さんが行いました。

私もその席にいて、三島さんの講義を聞いています。その後、この講義の内容は、昭和六十三年正月号の新潮に「悪の華−歌舞伎」という題で掲載されました。人生の最後の最後に、本心であろう歌舞伎に対する思い、歌舞伎に関わる三島さん御自身の経験から来る感想、第三者的な鑑賞者としての三島さん自身の考えや知見が、若い歌舞伎役者の玉子たちを相手に語られています。
歌舞伎というものを、十三歳で始めて見たその時に抱いた得も言われぬ感じを、「くさや」のような匂いというか、味があるのではないかと表現しています。

十三歳で学習院の中等科に入って一年生の時ですから、その時そう感じたのかどうかはわかりませんが、当人は感じたと言っています。とにかく不思議なものを観たというか、不思議なものに出会ったということだっただろうと思います。それから以降長く歌舞伎に関わりました。

今にして思いますのは、昭和三十三年十一月の「帯取池」から、四十四年十一月の「弓張月」まで十一年間、三島さんはなぜ歌舞伎を書かなかったのかということであります。三島歌舞伎は全部で六作と申し上げましたが、その他、舞踊劇をいくつか書いています。柳橋の花柳界にみどり会という舞踊会がありました。
かつて二橋(にきょう)と呼ばれた新橋と柳橋は、どちらにも人気と実力のある芸者衆がいっぱいいた時代でした。これが昭和二十六年十月の「艶(はで)艶(はで)競(くらべ)競(くらべ)近松娘(ちかまつむすめ)近松娘(ちかまつむすめ)」と二十八年の「室町(むろまち)室町(むろまち)反魂(はんごん)反魂(はんごん)香(こう)香(こう)」です。

さらに、三十三年にはみどり会に、自身の短編小説の「橋づくし」を舞踊劇化した作品を書いています。なぜ三島さんは、長いこと歌舞伎を書かなかったのか、これが一つの疑問として残ります。冒頭に申し上げました昭和三十二年の演劇界における座談会で、三島さんがもう歌舞伎はいいというような、もう分かってしまったというようなことを話しています。

「大内実記」の稽古時に、三島さんは一時間ほどの間に台本の書き直しをしています。実情としては、書き直しをさせられました。

台本について猿之助から注文があり、それで書き直しをしたのではないかと思います。我々の稽古場でも、稽古の途中で本を書き直すことはあるわけですが、プライドの高い三島さんには大きなプレッシャーがあったのではないでしょうか。

座談会では、もう自分にとっての歌舞伎は終わったと、もう歌舞伎は書かないというようなことを言っておられます。実際には、その後に「帯取池」を書いているのですが、「帯取池」は腹案としてはかなり前からあったのではないか、そして歌右衛門との約束があったのではないかと思います。

▲ほとんど直しがないきれいな原稿でした

私は昭和四十四年四月から、助手として三島さん付きになっています。国立劇場では、一つの上演作品について、四冊の本を作ります。
一冊目は白表紙本で三十部だけ作ります。二冊目は上演台本、スタッフ会議でもこれを基本にしてすべてが進行します。三冊目は売台本、ロビーで販売しますが著作権料を払いません。四冊目に演出台本を作ります。一頁ごとに平面図が入っており、図面には動きが書いてあります。さらに、所作事(舞踊)、立ち回り、だんまり等を文字にして演出台本を作成します。

三島さんの原稿はほとんど直しがないきれいな原稿でした。原稿はホテルニューオータニで書かれましたが、上・中・下三巻を三回に分けて、それぞれ二泊三日で書き上げました。
五月二十八日から上の巻、六月二十五日から中の巻、そして七月二十日からが下の巻です。ニューオータニに泊まる時の三島さんの持ち物は、岩波の古典文学大系本の曲亭馬琴の弓張月と国語辞典だけでした。

私が朝ホテルの部屋に原稿を取りに行くと、まず書き上がった原稿を読まされました。これが大変つらかったという思い出があります。読んでいる間、三島さんと、迎えに来た奥様は後ろでじっとしています。

そして読み終えると、「いかがですか」と聞かれます。いかがですかと言われても、当時の私には答えようがありませんでした。
「豊饒の海」の最後の原稿も、昭和四十五年の八月十二日に下田の東急ホテルで読まされていますが、この時も何も言えませんでした。作者というのは、原稿が完成しても不安なものなのでしょうか。

『弓張月』の原稿は五月から七月にかけて、三回に分けて書いていますが、私には四月頃には構想がまとまっていたのではないかと思っています。
馬琴が書いた弓張月の原作は、岩波の体系本で上下二巻の大長編小説です。この年(四十四年)の四月、私が国立劇場の監事室で三島さんとお目にかかったときに、作品の世界はなんですかと伺ったところ、弓張月だよと仰いました。

そこで私は慌てて弓張月を読みましが、なぜそうなのか、なぜこれを選んだのか、なぜそれをお書きになりたかったのか、あの時期の四月という段階ですでに弓張月に決めていたということが、長いこと私の疑問として残りました。

国立劇場というのは、一人の専属役者も持っていないという、不思議な劇場であります。現在に至るまでそうです。そのために、配役がどうも思い通りにいかないという問題を常に抱えています。

その配役についても、そのプロセスについても、かなり克明に記録をとっています。スタッフ会議の、あるいはまた、それ以前からの基本的な構想について書かれているノートが手元にありますが、一番の問題は思い通りの配役がなかなかできないということでした。
昭和三十年代、松竹には永山さん(永山武臣 三島の学習院初等科以来の友人)がいらっしゃいましたし、歌右衛門さんの発言力が非常に強かったですから、歌右衛門さんのこういう配役でどう、という意向や、永山さんの意向というものが社内でも歌舞伎界でも周知徹底できた時代でした。

ところが、『椿説弓張月』の時には、国立劇場で思ったような配役ができないということが、三島さんにとってはショックだったようです。
その時にいろいろな案が出ました。いろんな案が出て、それもだめか、またこれもだめか、またそれもだめかという紆余曲折がありました。

そのプロセスにおいて、とにかく三島さんはどんどん冷めていきました、三島さんの熱気が冷めていく。そういう感じがしました。

『弓張月』では、スタッフ会議を都合合わせて十二回開きましたが、制作の途中からはスタッフ会議に重点を置いていました。初日が開いたらもう芝居は作者の手を離れてしまうわけです。演出も作者もそうですが、初日の幕が開くと舞台は役者のものになります。ここから役者は二十五日間舞台で演じるのですから、もうその段階でスタッフからは離れてしまいます。

けれども三島さんは、もっと前から、スタッフ会議の段階でどうも熱気が冷めてしまったという感じが非常にしました。それはひとつには、配役が上手くいかなかったということ、もう一つは八世松本幸四郎さんという人が、我々も知らなかったのですが、高所恐怖症であったということです。

そのため、幸四郎演ずる為朝の宙乗りができないというのです。『弓張月』では、人が乗れる大きさの白馬を作りました。
為朝を乗せた白馬が花道スッポンを迫(せ)り上がって、そのまま宙乗りをするという演出案でした。その当時、スタッフの皆さんが苦労して馬を作り上げました。実際の舞台で幸四郎さんが白馬に乗るわけですから、その大きさもなければならない、そしてその大きさで作ればどうしても重くなります。

そのまま馬と人間を宙乗りさせるというのは原作にも書かれております。大切で白馬が四国の高松に飛んで行き、そこにある崇徳上皇の陵の前で腹を切るというのが作品の最後のイメージですから、それをなんとしてもやりたかったのですが、どうしてもできませんでした。
当時の技術では危険もありました。危ないことは確かに危なかった。しかし、高所恐怖症で宙乗りができないということ。これはどうにもしょうがないことでありました。

▲国立劇場

その後、小栗判官で、猿之助が馬と一緒に、あるいは馬に二人乗って人馬一体になって宙乗りをするというのが当たり前になりました。
歌舞伎座の『弓張月』でも、猿之助が宙乗りをやりました。けれども、昭和四十四年当時はとてもそんなことは考えられなかった時代でもありました。
それでも、幸四郎が高所恐怖症であったというあたりで、どうも三島さんがどんどん滅入っていくという感じでした。私も近くにいてそういう感じがしたものでした

スタッフ会議が十二回開かれたといいましたが、十二回のスタッフ会議というものも多い数でありましたが、稽古の間も初日が開いてからも三島さんは一度も楽屋には行きませんでした。
一度も楽屋に入り込まないのです、あの方は。それはどうも、三十年に『大内実記』の演出を初めてやったときの書き直しの経験というのがトラウマになっているような気がします。

国立劇場の弓張月のときには、稽古の初日に、三島さん自らが吹き込んだ本読みの録音を俳優に聞かせました。稽古の本読みというのは役者が本を読むから本読みというのではなくて、元々は作者が本を読むことでした。作者が本を読んで、この芝居はこのようなストーリーで、あなたの役はこういう役なんだということをわからせる機会でありました。印刷台本のない時代の風習です。

国立劇場ができてから普通に台本を作るようになり、今では簡単に本ができるようになりましたので、ほとんど全員に本を配っていますが、『弓張月』の当時はまだ、台詞がない人には本は渡さないということがきまりでした。

スタッフ会議の時に聞く三島さんの本読みが実に上手いのです。それでついつい、これを録音しませんかと、私が申し上げたのですけれども、あんなふうにレコードにまでなるとは思いもしませんでした。
あのレコードは杉並公会堂で、八月二十六・二十七と二日間に渡って録りました。義太夫も下座もそれから附け打ちも柝も全部入っています。そしてあんなふうに本読みをするということは希有なことであります。それほど上手かったですね。

これは三島さんにしかできないことだと思います。他の人はやったことはありません。例えば、短いところなら、北條さんでも川口さんでも宇野信夫さんも本読みはやりましたけれども、大きな一場面というのを通してやったのは、国立劇場では三島さんが最初にして最後でした。

▲北斎の原画を借りて

稽古場にレコードの音源となったオープン・リールを据えて、みなさん後ろを見てくださいと言って、自分で吹き込んだ本読みを聞かせました。(LPレコードを掲げつつ)これは横尾忠則さんのデザインですね。ポスターも作られました。このデザインも三島さんがラフなデザインを書きました。

国立劇場のすぐ裏手に平河天神という天満宮があって、当時その境内に横尾さんの事務所がありました。私は、横尾さんのところに三島さんが書いたデザイン画の案を届けに行った覚えがあります。鉛筆書きの簡単なデザイン画を持って行ったと思います。

「椿説弓張月」という字は勘亭流という書法ですが、三島さんはこの字体がことの外お好きで、ぜひこれを書いてくれということで、当時国立劇場の立作者だった竹柴蟹助さんに書いていただきました。

浪は北斎です。国会図書館に素晴らしい原画がありまして、そこから借りてきた絵です。
簓江(ささらえ)と、高間太郎が腹を切るところが描かれています。簓江は澤村籐十郎、高間太郎は猿之助ですが、高間太郎が腹を切る時にもの凄い血が出ました。ビニールの袋の中に血糊を一杯にして、

それをふところに持っていて割るのですが、どばっと割ると血が大量に飛ぶんですね。三島さん、それを非常にいやがっていまして、多すぎると云うのです。あの血の量は多いと、何度も何度も注意されました。私も猿之助さんに駄目出ししたことがありますが、だんだん増えるんです、あの血の量が。

それから、二人の上に幕が覆い被さりますが、あの波は絹の布でできています。羽二重(はぶたえ・通常の平織りが緯糸と同じ太さの経糸一本で織るのに対し、羽二重は経糸を細い二本にして織るため、やわらかく軽く光沢のある布となる)という非常に高価な織物で作られているために、一枚作るのにも大変なお金がかかりました。

それに大浪の絵が描いてあるわけです。それを頭上から被せるのですが、それを引き栓(ひきぜん)といいます。
ずーっと持ち上げていって、前に引きながら要するに高間太郎と簓江を隠すように前へ被せるように栓を抜くということをやります。
その竹の栓を抜くことから、引き栓と呼ばれています。この時、二人が乗っている岩と同時に迫り下がるということになっていましたが、被さる浪の幕がなかなか上手いキッカケで被らずに現場は苦労していました。その時に、浪布に血が付いてしまいますが、毎日これを作るわけにはもちろんいきません。血のりをふきとる現場の作業が大変だったようです。歌舞伎座あたりでやっても、羽二重で作ったことはありません。

弓張月の稽古の最初にテープを聞いていただくということになりましたが、上の巻だけでしたので、この場に出ていない人は問題ありませんでした。玉三郎さんもそうですし、下の巻に出ている鴈治郎さんもそうです。

その鴈治郎さんがテープを聞いて、三島さんの方をふり返って「上手いなあ」といいながら大変喜んでいました。
それに対して、苦虫を噛みつぶしたような顔をしていたのが幸四郎さんでした。このようにいろんなこともやれたというのも、実はスタッフ会議まででした。その時すでに、三島さんは実質的に終わっていました。

みなさんもご存知のように、昭和四十四年十一月三日に楯の会の一周年パレードが国立劇場の屋上で行われ、その後国立劇場内で、記念パーティーがありました。

▲屋上で楯の会のパレードが行われた

パレードに屋上を使うということは知りませんでした。ただ、屋上を見せてくれと言われて、何ヶ月か前に屋上を案内したことはありました。
三島さんは、舞台稽古をやっているときに、いなくなってしまいます。我々は舞台稽古をやっているわけですが、よろしくと言って出て行ってしまうのです。三島さん自身がどうも舞台稽古には気が入っていませんでした。舞台稽古で客席からいなくなってしまうわけですから。初日以前に燃え尽きたという感じが致しました。

千秋楽の前日、南馬込のお宅でスタッフだけの打ち上げの会をやりました(十一月二十六日)。そしてその当日も、スタッフのみんなに対する御礼、それからスタッフが非常に良くやってくれたという、そういう言葉はありましたが、およそ舞台についてのことは喋りませんでした。

どうも自分の思いと違っていた、あるいは少なくとも思い通りではなかったというところが『椿説弓張月』というものの結果だったんではないだろうかと思います。
三島歌舞伎全六作、歌右衛門さんと五作、そして最後の一作には成駒屋(歌右衛門)さんは出ておりませんが、六作の歌舞伎、三作の舞踊劇というものを残されて、それもすべていわゆる古典主義的(疑古典)な作風を守って作品を残されました。

そこのところが大佛次郎あるいは北條、川口、船橋、宇野というような方達と違う行き方でありました。三島さんは、岡本綺堂という作家を評価していませんでした。「修善寺物語」や「半七捕り物帳」で有名な岡本の作風というものを好みませんでした。明治・大正のいわゆる新歌舞伎といわれるジャンルを引っ張ったのが岡本綺堂でした。

三島さんが劇作家でもっとも高く評価していたのは真山青果ではないかと思います。三島さんは森鴎外を評価していた人ですから、ああいう作品の構築力というのでしょうか、台詞の力というものを評価していました。それはまた、真山青果にも通じるものがあったのだろうと思います。

 三島さんがまだいらっしゃる頃に野坂昭如さんが、義太夫が書けるっていうのは天才だということを言ったところ、三島さんが、おかしいよね、義太夫を書くのが日本人にとっては当たり前なんだと、言ったことがありました。

義太夫や謡曲というものを書けなくなった今の似非知識人という言い方をしていましたが、野坂さんがどうこうということではなくて、そういう時代になったということがやっぱり嘆かわしいということを、仰っていました。

稽古場での稽古が終わって一緒に外に出るときに、「君、毎月こんなことやってるのかね」というんです。「ええ、そうです。これが仕事ですから」というと、「いやー」といって大変驚かれ、「稽古に入ってから、寝酒の量が増え、物書きになってから初めて一字も書けないんだよ」と、云って嘆いていました。

「悪の華−歌舞伎」というところに結局は結びついていったもの、またそういうものに染まらない限り歌舞伎はできないのだということではないでしょうか。
何度も何度もそれは聞かされました。だからそういう、歌舞伎というものは、非道徳的なものだということだと思います。

道徳的な、あるいは倫理的なというような世界というもので歌舞伎というものがあり得るならば、歌舞伎はもう結構だというところが三島さんの結論だったのではないかなという気が致します。

             (公開講座の速記録です。文責は編集部にあります)
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 事務局からおしらせ
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七月の公開講座は、憂国の空の将軍として知られる織田邦男元空将を迎えて国防講座を開催します。

日時  平成30年7月26日(木)18時半開演(18時開場)
場所  アルカディア市ヶ谷(私学会館)
講師  織田邦男(おりたくにお)空将(退役)、元航空支援集団司令官
演題  「混迷する東アジア情勢と日本の安全保障」
参加費 2000円(会員千円)
   (織田氏の略歴 昭和27年生れ。愛媛県出身。昭和49年防大卒(18期)同年航空自衛隊入隊。F4戦闘機パイロットを経て第6航空団司令、航空開発実験集団司令、航空支援集団司令官などを歴任。平成21年空自退官。現在は東洋学園大学客員教授。一般社団法人日本戦略研究フォーラム政策提言委員をつとめる)


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8月の公開講座は澤村修治氏
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日時   8月24日(金)18時半開演(18時開場)
場所   アルカディア市ヶ谷(私学会館)
講師   澤村修治先生(作家・文芸評論家)
演題  「西郷隆盛、日本浪曼派そして三島由紀夫」(仮題)
<講師略歴>昭和35年生れ。東京都出身。千葉大学人文学部人文学科卒。大手出版社勤務、新書や選書の編集長をつとめる傍ら、主に評論と評伝の執筆を行う。『表現者』にも寄稿。主な著作『悲傷の追想「コギト」編集発行人、肥下恒夫の生涯』(ライトハウス開港社)『敗戦日本と浪曼派の態度』(ライトハウス開港社)『唐木順三―あめつちとともに』(ミネルヴァ書房〈日本評伝選〉)『西郷隆盛 滅びの美学』(幻冬舎新書)その他多数
会場分担金 会員・学生1千円(一般2千円)
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  三島由紀夫研究会 http://mishima.xii.jp/contents/index.html
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