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三島由紀夫の総合研究

創立35年の老舗「三島由紀夫研究会」の会報を兼ねた、あらゆる角度からの総合研究メルマガ

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三島由紀夫研究会メルマガ 「潮騒」の島 神島紀行

2018/06/01

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『三島由紀夫の総合研究』(三島由紀夫研究会 メルマガ会報)
    平成30年(2018)6月1日(金曜日)
         通巻第1253号   
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「潮騒」の島 神島紀行
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                         浅野正美

5月17日から19日にかけて、潮騒の舞台となった三重県の神島を訪れた。作品が刊行されたのは昭和29年6月、今から64年前のことだ。
 
『歌島は人口千四百、周囲一里に充たない小島である。』

 こんな書き出しで始まる神島の現在の人口は、男性161人・女性193人、合計354人、世帯数は158である。また、65歳以上の人口が173人と島民のほぼ半数を占める。鳥羽市のホームページでは、安政四年(1857)からの神島の人口推移を知ることができる。
それによると、島の人口が一番多かったのは、昭和30年の1362人、奇しくも潮騒が書かれた時期とほぼ合致する。人口が千人を割ったのが昭和50年で、ここに至るまでの45年からの5年間がこの島で一番人口を減らし、1200人から959人になった。
45年には三島氏が没し、この間のわが国を巡る環境としては、日本列島改造論が発表されて田中内閣が発足、オイルショックに見舞われて高度経済成長が終焉するという歴史の節目に当たる時代である。

潮騒という美しい言葉は、万葉集の和歌から取られている。詠み人は柿本人麻呂で、持統天皇五年(691)のことである。

潮騒(しほさゐ)に 伊良虞(いらご)の島辺(しまへ) 漕ぐ舟に 妹(いも)乗るらむか 荒き島廻(しまみ)を(原文)潮左為二 五十等兒乃嶋邊 榜船荷 妹乗良六鹿 荒嶋廻乎

潮が激しく流れる伊良虞の島のあたりを漕ぐ舟に、愛しいあの人も乗っているのだろうか、あの波の荒い島のまわりを持統天皇が伊勢に行幸された折、都(飛鳥浄御原宮)に留まっていた人麻呂は、愛しい人への慕情に思いを募らせてこの歌を詠んだ。その愛しい人とは、天皇に従った宮廷の女性であったようだ。

三島氏が、古典主義の極致の秘庫(文化防衛論)ともいうべき万葉集から潮騒という言葉を発掘してこなかったなら、この言葉は今のように人口に膾炙(かいしゃ)する言葉とはならなかったのではないだろうか。

私は愛知県の伊良湖から乗船して神島に向かった。
帰りの予定日を告げると、その日は波が高くなる予報なので、欠航になる確率が高いという。その場合は宿に連絡を入れるので承知しておいてほしいと言われた。
伊良湖と神島を結ぶ海域は、日本三大潮流と呼ばれ、先に引用した和歌にも詠まれているとおり、潮の流れが激しいことでも知られている。他の三大潮流とは、山口県の大畠瀬戸と長崎県・熊本県の早崎瀬戸である。
伊良湖から神島までは、ほんの十数分の距離である。船が島に近付くと上空に無数のカモメが飛び交っていた。我々の乗る船を漁船と勘違いして、あわよくばおこぼれに与ろうとでも思ったのだろうか。

 ▲「潮騒公園」になっていた

島に降り立った旅人を真っ先に出迎えてくれるのは、「三島文学 潮騒の地」と書かれた大きな文学碑である。
この周辺は「潮騒公園」と名付けられ、作品のあらましを解説したボードが、名場面の舞台となった風景写真とともに、何枚も掲示されていた。
目を左に転ずれば、そこは船揚場である。新治と初江が初めて出会った場所であり、新治が支給されたばかりの給料袋を落としたのもここである。給料袋を拾った初江は、新治の家にそれを届けると再び浜に戻り新治と会う。そして、初めての接吻を交わした。

「二人の頬は大へん近くなつた。お互ひの匂ひが潮の香りのやうに強く嗅がれ、お互いの熱さがわかつた。ひびわれた乾いた唇が触れ合つた。それは少し塩辛かつた。」

三島氏は神島を三度訪れている。その最後の訪問(昭和29年8月)のことが短いエッセイに残されている。

「その日の夕焼は壮麗をきはめ、黛氏と私は組合長の二階の窓から、伊勢海の空いちめんの夕焼を、最後の一点の朱色が燃えつきるまで眺め飽かした。」
(「潮騒」ロケ随行記・昭和29年11月・婦人公論)
「少女の目は西の海の空をじつと見つめてゐる。そこには黒ずんだ雲の堆積のあひだに、夕日の一点の紅ひが沈んでゐる。」

私が今回の旅程を立てる上で、島に二泊しようと思ったのも、三島氏が見たような伊勢海に沈む壮麗な夕陽と、太平洋から昇る朝日を見たいと思ったからだった。

島に着いたときはすでに夕方だったので、宿に荷物を置くと夕食までのあまった時間を周辺の散策にあてた。港の廻りには野良猫が多い。魚市場や釣り人から小魚をもらっているのだろうか、警戒心もなく人なれている。
岸にはドーム型の大きなテントがいくつも並び、その中では漁師が網の手繕いに余念がない。人家は島の北に口を開けた港の周辺と、そこから山に向かって駆け上がる狭い急斜面(扇状地だろうか)に集中し、島を覆う森はそのほとんどが自然のままにたたずんでいる。海岸線からは、切り立った山が垂直に近く立ち上がっており、大規模な造成でもしない限り、人の住める平地というものがこの島にはほとんどないということがわかる。

夕食は、まことに結構なものであった。伊勢エビが丸ごと一匹刺身で出され、さらに舟盛りには、鯛の姿作りと神島名物のタコ、そして天ぷらとしのぎの小皿が数皿、鯛出汁のアオサ汁がついた。実は、宿泊予約をする際に料理のグレードを聞かれ、下から二番目くらいの金額をお願いしてこの内容である。これは旅費を節約するというよりも、食べ残して失礼のないようにと思ったからだった。

伊勢エビをいただきながら、晩年の三島氏が夏を過ごした伊豆の下田で、訪れるお客さんに盛んに伊勢エビを振る舞っていたことを思い浮かべた。自身も伊勢エビは好物だったそうだが、その嗜好の原点は、潮騒の取材で訪れたときに食べた神島の伊勢エビにあるのではないか、などと思った。

この日見た夕陽は、三島氏が見たほどの美しさではなかったかもしれないが、伊勢海の水平線に、空と海を紅いに染めながら、静かに沈んでいった。

 ▲伊勢エビ

翌朝は四時に起床して、日の出を見るために海岸に向かった。まだ薄暗い港から、電灯を灯した漁船が出漁して行った。北向きの船揚場の先で、海岸線は、右(東)に回り込んでいる。道なりに進むと、目の前にもやに霞んだ渥美半島が横たわり、太平洋の大海原を大小様々な船が、ひっきりなしに横切って行く。空は晴れているが、この時点での予報は、午前中から雲が出て、明け方にかけて風雨が強くなるというものだった。

神島は、潮騒の書き出しにもあるように、周囲一里に充たない。観光パンフレットにも、二時間で一周できると書いてあるが、そこを半日かけてじっくりと回るつもりである。小説に描かれているところは、可能な限りすべてこの目で見ておきたい。

狭い一画に人家が集中している神島の家並みは、お互いの軒がくっつくほどに密集しており、通路もやっと人がすれ違うことができるほどに狭い。
よそ者には、こうした道が公道なのか私有地なのか区別がつかないのだ。こんなに狭い道を、カメラをぶら下げた観光客がうろうろしていたら、地元の方にご迷惑ではないだろうか、などと思いながら歩いた。

最初に向かったのは、洗濯場である。かつては島の生活に必要な水の供給源でもあった細い流れに作られたそれは、川底の石に二個所の窪みがつけられていて、そこに洗濯物を置いて、足で踏んで洗った場所である。
物語の終盤では、灯台長夫人が一人娘の千代子が進学先の東京から送って来た、懇願とも脅迫とも取れる手紙に書かれていた、新治と初江を添い遂げさせてほしいという願いをかなえるために、宮田照吉の自宅に直談判に行くときに、島の海女さんと意気投合する場所でもある。

この小川に沿ってしばらく登ると、道の左手に赤い屋根の一際大きな家が目に入る。
ここが、三島氏が神島滞在の度にお世話になっていた、漁業組合長寺田宗一氏の邸宅である。
現在は無人となっているが、私が宿泊した宿(山海荘)の女将さんのお話によると、今でも室内には、三島氏が構想を練り、取材ノートを書いた赤い座卓や、寺田氏に贈呈した署名入り潮騒初版本が大切に保管されているそうだ。

潮騒に思いを馳せて神島を訪れる人の多くが、ここを訪ねることだろう。
そんな人のことを慮ってか、玄関前には丁寧に手入れのされた鉢植えの植物がきれいな花を咲かせていた。玄関は山の方を向いているが、三島氏と黛氏が夕焼けを見たという二階の窓は、玄関とは反対向きの、真っすぐに海を見下ろす方向に開かれていた。

次ぎに向かったのは、初江が深夜、川本安夫に襲われた水汲み場である。
小説では、小学校の斜め上となっているが、現在の小学校はすでに移転してそこにはない。Netで40年前の神島の地図を見付けることができ、おおよその場所が特定できた。それは、組合長宅から続く坂道を登り詰めた水路の先である。そこからは、人家も途切れ山林になっている。安夫が蜂に襲われて慌てふためいたと思われる山中に足を踏み入れると、いきなり蜘蛛の巣の洗礼を受けた。

次は、宮田照吉宅である。新治の母とみは、勇気を出して息子の無実を訴えるために直談判におよんだものの、応対に出た初江の取り次ぎで、けんもほろろに玄関払いにあった家である。
ただしこの家は、小説の中で場所が特定されているわけではないので、映画のロケで使われた家を目指した。それは、八代神社の一の鳥居の前で、神社へと続く石段を登らずに鳥居の手前を左に曲がり、右手の空き地の奥にある神社の宝物庫から少し行ったところにある。この家は今でも人が生活しておられるため、少し離れたところから見学させていただいた。唐破風造りの玄関が威風を放っている。とみはこの家の玄関前に立って、鬢を直していたのだった。

 いよいよ、八代神社を目指す。白く立派な鳥居の前で一礼し、あとはまっすぐに伸びる階段を登っていけばよい。二百数十段の石段はビルの15・6階に相当する。古い写真には見えない手すりが今はついており、それをたよりにゆっくりと登る。石段の途中、ところどころで振り返ってみる。
すると、「歌島に眺めのもっとも美しい場所」と書かれているそのままの、伊勢の海が一望の下に見渡せる。

 ▲「歌島に眺めのもっとも美しい場所」

 二の鳥居の両脇には、石の台座に乗った狛犬がいる。
「二百段の石段を昇つて、一双の石の唐獅子に戍られた鳥居のところで見返ると、かういふ遠景にかこまれた古代さながらの伊勢の海が眺められた。」現在の狛犬は三島氏が見て書いたものとは違い、新しく奉納されたものである。古い狛犬は、そのさらに先の参道脇の地面に、まるでにらみ合うかのように顔を近づけて、並んでいた。三の鳥居の先にある十数段の階段を登れば、そこが八代神社拝殿である。新治と初江が祈りを捧げた、潮騒の中でも特に重要な場所である。
ここは、作品から引用しよう。

「十円玉を賽銭箱に投げ入れた。思ひ切つて、もう一つ十円玉を投げ入れた。庭にひびきわたる柏手の音と共に、新治が心に祈つたことはかうである。
『神様どうか海が平穏で、漁獲はゆたかに、村はますます栄えてゆきますやうに!わたくしはまだ少年ですが、いつか一人前の漁師になつて、海のこと、魚のこと、舟のこと、天候のこと、何事をも熟知し何事にも熟達した優れた者になれますやうに! やさしい母とまだ幼い弟の上を護つてくださいますやうに!海女の季節には、海中の母の体を、どうかさまざまな危険からお護り下さいますよやうに! ……それから筋違ひのお願いのやうですが、いつかわたしのやうな者にも、気立てのよい、美しい花嫁が授かりますように!……たとえば宮田照吉のところへかえつて来た娘のやうな……』

 私は拝殿で、この新治の祈りの言葉を朗読した。拝殿の左手に「こどもおみくじ」と書かれた箱が置いてあり、ご自由にお持ちくださいとある。一枚引き抜いて中を開けると、島のこどもが手書きで書いた言葉が連ねてあった。通常なら大吉とか凶とかいった運勢が書いてある欄には「おっとめでたい」と、これだけがマジックの太字で書いてある。私が引いたおみくじの全文を書き写してみる。

『神島の大晦日。子どもたちが「モローモー」と言って家々をまわります。だれかに「モローモー」と言ってもらいましょう。「おっとめでたい」と言い返すと、めでたいことがおこるでしょう。』

 島のこどもたちの話題に関連して、話しは横道に逸れるが、島で知った彼らの活躍を紹介したいと思う。神島の人家は、急な斜面に軒を寄せ合うように建っている。そして、冒頭にも触れたように、この島でも高齢化が進んでいる。お年寄りが重たい荷物を自宅まで運び上げるのは一苦労だ。

そのため島の中学生が自主的にお年寄りの家まで灯油を運ぶ活動を何年も続けているのだそうだ。こどもの人数よりもお年寄りの方が圧倒的に多いため、日に何往復もすることもあるという。
お年寄りは空になったポリタンクを給油所まで降ろし、灯油を入れて名前を書いておくと、学校を終えた中学生がそれぞれ分担して家まで届けてくれるのだそうだ。

 ▲神社にて

 拝殿の奥に斉庭を挟んで本殿がある。
このお社も平成十六年に造営されたもので、三島氏が描いた建物ではない。上空にトンビが二羽、円を描くように舞っていた。境内には、元旦の未明に行われるゲーター祭りに使われるグミの木を束ね合わせた輪が置かれてあった。県指定無形民俗文化財にもなっているこの祭りだが、今年は祭りの担い手の減少から中止のやむなきいたったという。

「天に二つの日輪なく、地に二皇あるときは世に災いを招く」との言い伝えから、太陽に見立てたこの輪を女竹(めだけ)で突き上げて、地に落とす祭りである。
 このお祭りの復活を願い、今年の三月二日に神島の小学生22人が参加して、こどもゲーター祭りが、古式通りに開催されたという。
本来、男性だけで奉仕されてきたこの祭りだが、「子どもたちの記憶にゲーター祭りが残るのなら」と島民たちの合意を得て、女子児童も参加したという。

 神島灯台への道は、なだらかな上り坂が続く。神社の裏手の山道を歩いていると、黒いアゲハチョウと出会った。
潮騒にもこの蝶が出てくる。息子の悪い噂をなんとかして打ち消して、身の潔白を証明してやりたいと悩む母が、海岸に出て海に相談している場面だ。

「一羽の蝶が、ひろげてある網のはうから、気まぐれに突堤にむかつてとんでくるのを見た。大きな美しい黒揚羽である。」
 私の前に現れた蝶は、私の前後を行き来するように舞い、またある時は道端のあざみの花から蜜を吸ったりしながら、道案内でもするかのように、ずっと一緒に付いてきた。そして、いよいよ灯台に着いたときには、まるでさよならをするかのように空高く舞い上がり、そこで何度か旋回して下に降りて行った。
三島氏は、「椿説弓張月」のなかでも黒揚羽を描いている。それは、為朝の前に現れる崇徳上皇の御霊である。ひょっとしたらこの蝶も、三島氏の霊魂だったのだろうか。

灯台からの眺めはまことに素晴らしい。天気予報は見事に外れ、青空の下、潮騒に描写された通りの景色が眼前に拡がっている。
今は無人の灯台には、小説に描かれた台長夫妻の暮らしていた官舎はすでにない。ほぼ同じ位置に一軒の小屋があり、窓から中を覗くと潮騒の映画ポスターが何枚か壁に貼ってあるが、ここには鍵がかかっており、中には入れない。記念写真を撮り、思う存分絶景を堪能し、監的哨への上り道を歩く。すでに時刻は正午を回っており、出発してから三時間以上が経過している。パンフレットに一周二時間と書かれている島を半周するだけで、すでにコースタイムをはるかに上回る時間を要してしまったが、今夜も神島泊まりなので、夕食までに宿に戻れば良く、急ぐ理由はなにもない。

▲哨は老朽化、補修工事がされていた

ここから先もしばらくは登り坂が続く。登り坂の終点で道は左右の分岐を見る。右に行けば島の最高峰燈明山の頂上(標高171メートル)だが、ここからは木々にさえぎられて眺望は効かないと聞いていたので、左に折れて監的哨を目指す。ここからは下り道だ。

監的哨は老朽化による危険からしばらく立ち入り禁止となっており、取り壊しも検討されたが、地元の要望を容れる形で、平成25年に補修とあわせて耐震補強工事が施され、手すりもつけられて、自由に出入りできるようになった。

潮騒のクライマックスとされる焚き火の跡も、一階部分に炉が切って再現されている。ご丁寧にも、燃えて炭化した小枝も添えられている。潮騒が書かれなければ、廃墟として朽ち果てていたことだろう。この工事には、離島振興法の予算が適用されたそうだ。
灯台で出会った若い一人旅の女性と、ここでも一緒になった。私が焚き火跡の写真を撮っていると、「その囲炉裏みたいなものは何ですか?」と訊かれた。
ここまで来る人なら例外なく潮騒の文学逍遙だと勝手に決めつけていたが、彼女はそうではなかったらしい。潮騒は本も映画も見たことがなく、当然新治と初江の抱擁場面も知らない。私がかいつまんで物語の筋を説明したものの、あまり興味を示した様子もなかった。

この建物は、対岸の伊良湖から打ち出された大砲の着弾点を観測するために建てられただけあって、海に向けて大きく取った窓からは、さえぎるものなく太平洋の海原が見える。照明がなく薄暗い室内と、明るい陽光が降り注ぐ太平洋の明暗差は大きい。窓越しに景色を眺めれば、大きな窓枠がちょうど額縁のような効果を発揮して、まるでプロセニアム・アーチの劇場に身を置いているような気分になる。

 たわむれに、焚き火の跡を飛び越えてみる。
今までにも、実に多くの人たちが、この場所で同じ行為をしてきたことだろう。仰向きに倒れて新治に抱きすくめられた初江が漏らすことばは、清純なこの小説の中にあって、数少ない官能的なせりふである。少し長いが、その前段から書き写そう。(ここはあえて、漢字も原文通りの正漢字とする)

『「その火を飛び越して來い。その火を飛び越してきたら」
少女は息せいてはゐるが、?らな彈んだ聲で言つた。裸の若者は躊躇しなかつた。爪先に彈みをつけて、彼の炎に映えた體は、火のなかへまつしぐらに飛び込んだ。次の刹那にその體は少女のすぐ前にあつた。彼の胸は乳房に輕く觸れた。『この彈力だ。前に赤いセエタアの下に俺が想像したのはこの彈力だ』と若者は感動して思つた。二人は抱き合った。少女が先に柔らかく倒れた。
「松葉が痛うて」
と少女が言つた。手をのばして白い肌着をとつた若者はそれを少女の背に敷かうとしたが、少女は拒んだ。』
 
この後、新治は浜で拾った美しい貝を初江に贈る。
「けふ浜で美(え)え貝ひろて、汝(んの)にやらうと思うて、もつて来たぢえ」
「珊瑚みたいやなあ。かんざしにでもならんかしら」

この先の道も、ぐんぐんと高度を下げてゆく。樹林帯を抜けると一気に視界がひらけ、右手に小中学校の校舎が、左手にはニワの浜と、カルスト地形の白い偉容が見えた。この浜は、海女さんたちの根拠地で、潮騒でも焚き火を囲んだ海女の他愛のないお喋りや、行商人・近江屋の提案で鮑取り競争が行われる様子などが描かれている。

鮑取り競争に勝った初江が、賞品のハンドバッグを新治の母に譲るシーンもこの浜が舞台だ。驚く母親に初江は言う。
「お父さんがいつか、をばさんにすまんこと言うたから、あやまらんならんといつも思ふとつた。」

この行為によって、初江は海女のこころをいっきに引き寄せる。
浜に降りて素足になってみると、思いの外足裏が痛い。砂浜というよりは、極めて細かい小石が浜を敷き詰めているのだ。新治が初江に贈ったような美しい貝殻はないかと探したが、貝殻そのものがほとんど見当たらない。代わりに、縞模様の入った、なめらかな小石をいくつか拾い旅の土産にした。ここで昼食を取り、心ゆくまで「潮騒」の波音に身を任せた。

弟の宏が同級生たちと遊んだ洞窟は場所がわからなかった。南に張り出した弁天岬の辺りだろうかとも思ったが、足場が悪くて岬には取り付くことができない。それともう一つ、デキ王子の塚もわからなかった。島の南と書かれてあるから、この浜の周辺だろうが、少なくとも遊歩道の両脇にはそれらしい遺跡は見つからなかった。
いくつか、何かをお祀りしてあるらしい、石を積み上げたり、石碑のようなもので作ったりした、塚とも墓ともわからないものを目にしたが、そのどれにも、デキ王子の塚にあると潮騒には書かれている鳥居がなかったのである。

 島では、できるだけ地元の方の迷惑にならないように気をつけようというのが、この旅で決めた自分への戒めだった。
小説のせいで、何十年と過ぎた今でも多くの観光客が押し寄せ、路地を歩き、写真を撮り、いろいろ訊ねられる、そんなことに地元の方は正直迷惑しているのではないかという不安があった。

だから、事前に調べられることは調べ、それでもわからないことは、現地に行って行き当たりばったりになったとしても、それはそれで仕方がないのではないかと覚悟していた。島にいくら人が来ようとも、宿泊施設以外には島にお金を落とすところはないのだ。だから、我々が来ることによる恩恵など、地元の方には何もないのではないか。

『映画館もパチンコ屋も、呑屋も、喫茶店も、すべて「よごれた」ものは何もありません。』と三島氏が、川端康成氏に手紙(昭和28年3月10日付)で書いたままの島が今もそこにはあった。正確に言えば今は喫茶店だけがあった。宮田照吉が娘と新治との悪い噂を聞いて、その噂話をしていた二人の若者をたたきのめした銭湯がずいぶん前に廃業し、その地が「喫茶 スエヒロ」となっていた。

三島氏はエッセイの中で神島についてこんなことを書いている。

「私とて、島の人たちの生活に利便がもたらされ、物質文明の恩沢が婦女子の労働を幾分でも軽減することをのぞみます。しかしもう一方の、感傷的な私は、島があの素朴な美しさを失ふことを、惜しまずにはゐられません。もし賢明な政治が、物質的利便だけを提供して、島の野趣を残すことができたとしても、その野趣は、すでに観光的な、自分の美しさを意識した女のやうになつてしまふだらう、と惧れます。」(神島の思ひ出 昭和30年4月 初出「しま」)

 三島氏の不安は半ばは外れたのかもしれない。ただしそれが、島の過疎化と高齢化という現象の副作用だとしたら痛ましい。しかしこんなことも、都会から遊びに来た旅人の身勝手な感傷でしかないだろう。

 浜辺で無為の時間を過ごしているうちに、時刻はすでに夕刻となっていた。あとはほぼ平坦な舗装道路を港に向かって歩くだけである。港の近くで、釜茹でしたばかりの大量のシラスを天日に干しにしていた。
作業をしていたご主人が、茹で上がったばかりのシラスを食べてゆくようにといって、箸でつまんでどっさりと、両手にこぼれるほどに盛ってくれた。まだ熱い。さらに、干し台の中からごく小さいイカを何杯も選りだして勧めてくれた。「シラスよりもこっちの方がもっと旨いんだ」

▲島民は誰もが親切だった

 このご主人に限らず、島で出会った人たちは、すれ違えば必ず挨拶を返してくれ、私が迷っているように見えるときは、先方から「どちらに行きたいのですか」と言葉をかけてくれた。道端に駐めてあるバイクは、キーが差しっぱなしだった。
 
宿に帰ると女将さんが、「かみしま丸」の船長から明日の伊良湖行きが欠航になったという電話があったと伝えてくれた。そして迂回路の取り方を教えてくれた。

教えてもらった航路は、神島から市営の連絡船で鳥羽に行き、鳥羽からフェリーに乗り換えて伊良湖に戻るというコースである。風が強くなるといけないから、明朝はできるだけ早い船で出た方がよいとも心配してくれた。

 出発の朝、お世話になった御礼とともに、三島由紀夫研究会の者であることを告げると、「どうしてそれを最初に教えてくれなかった。わかっていれば寺田さんの家の鍵を開けて、中を見せて差し上げたのに」という言葉が返ってきた。
こちらもこれを聞いて、大魚を逃したような気分になったのだが、女将さんはそれが叶わなかった私以上に残念がってくれたのだった。

 昨夜から降り出した雨は早朝には上がったが、強風が吹いている。外海に出た船は盛大に揺れた。雲は去って空は青い。ここから往復二時間の、予定外の船旅を楽しむこととなった。帰路のフェリーは神島の北側を通過する。

デッキに出ると、風に飛ばされそうになったが、手すりにしがみつきながら、右手に見える神島の姿をずっと眺めていた。そして、渥美半島でも伊良湖の海岸に降りて、もう一度神島を遠望した。ここでも新治の、八代神社に捧げた祈りの言葉を、今度は胸の中で繰り返した。
『神様どうか海が平穏で、漁獲はゆたかに、村はますます栄えてゆきますように。』

                          (あさのまさみ氏は弊会幹事)

写真は下記サイトからダウンロードできます
http://img.gg/HpNF7eE
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 三島文学館で「潮騒」展 ▲三島文学館で「潮騒」展 
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三島文学館で「潮騒」展
http://www.mishimayukio.jp/event_info.php?no=11

 『潮騒』のモデルとなった灯台長家族三島が贈った書簡やオルゴールなどの未発表資料初公開!!
 はじめから完成された作品として世に出た『潮騒』をその過程に遡って展開します。三島由紀夫29歳の若々しい創作活動をぜひお楽しみください。
5/15〜10/14まで開催中
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 今後の予定
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会員勉強会、六月は荒岩宏奨氏
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6月は下記の通り展転社の若き編集長・荒岩宏奨氏を講師にお迎えして、「影山正治と維新文学」のテーマで語って頂きます。これまで蓮田善明、保田與重郎,伊東静雄について論じて頂いた日本浪曼派シリーズ第四弾です。
影山正治氏(1910〜1979)は戦前より維新運動家として大東塾・不二歌道会を主宰するとともに、保田與重郎、浅野晃、林房雄など日本浪曼派の巨人達と親しく交際し、三島由紀夫先生を昭和の神風連と高く評価して憂国忌の発起人となり、昭和54年元号法案の成立を熱禱して自裁されました。
           記
◇日時 6月29日(金)午後6時半開演(午後6時開場)
◇会場 アルカディア市ヶ谷(私学会館)
     (JR・地下鉄「市ヶ谷」駅2分)
◇講師 荒岩宏奨氏(あらいわひろまさ、展転社編集長)
◇演題 「影山正治と維新文学」
◇講師略歴 昭和56年山口県生まれ。広島大学教育 学部卒、プログラマー、雑誌編集者を経て現在展転社編集長。著書『国風のみやびー国体の明徴と天業の恢弘』(展転社)
◇会場分担金 会員・学生千円(一般2千円)



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七月、憂国の空の将軍として知られる織田邦男元空将を迎えて国防講座を開催します。

日時  平成30年7月26日(木)18時半開演(18時開場)
場所  アルカディア市ヶ谷(私学会館)
講師  織田邦男(おりた くにお)空将(退役)、元航空支援集団司令官
   (略歴 昭和27年生れ。愛媛県出身。昭和49年防大卒(18期)同年航空自衛隊入隊。F4戦闘機パイロットを経て第6航空団司令、航空開発実験集団司令、航空支援集団司令官などを歴任。平成21年空自退官。現在は東洋学園大非常勤講師、一般社団法人日本戦略研究フォーラム政策提言委員をつとめる)
演題 アジアの軍事情勢と日本の国防(仮題)
参加費 2000円(会員千円)


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8月の公開講座は澤村修治氏
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日時   8月24日(金)18時半開演(18時開場)
場所   アルカディア市ヶ谷(私学会館)
講師   澤村修治先生(作家・文芸評論家)
演題  「西郷隆盛、日本浪曼派そして三島由紀夫」(仮題)
<講師略歴>昭和35年生れ。東京都出身。千葉大学人文学部人文学科卒。大手出版社勤務、新書や選書の編集長をつとめる傍ら、主に評論と評伝の執筆を行う。『表現者』にも寄稿。主な著作『悲傷の追想「コギト」編集発行人、肥下恒夫の生涯』(ライトハウス開港社)『敗戦日本と浪曼派の態度』(ライトハウス開港社)『唐木順三―あめつちとともに』(ミネルヴァ書房〈日本評伝選〉)『西郷隆盛 滅びの美学』(幻冬舎新書)その他多数
会場分担金 会員・学生1千円(一般2千円)
           ◎◎◎◎
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  三島由紀夫研究会 http://mishima.xii.jp/contents/index.html
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(C)三島由紀夫研究会 2018  ◎転送自由
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発行周期:半月刊  
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