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三島由紀夫の総合研究

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2018/03/24

「追悼 西部邁先生 ─西洋的知性と日本人」
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『三島由紀夫の総合研究』(三島由紀夫研究会 メルマガ会報)
    平成30年(2018)3月24日(土曜日)
         通巻第1242号   
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西部邁先生追悼講演会(平成30年3月8日)
「追悼 西部邁先生 ─西洋的知性と日本人」
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            富岡幸一郎氏(関東学院大学教授・鎌倉文学館館長)

   ▲
 西部先生は共著も含め、200冊以上の著書がある。著書『国民の道徳』(扶桑社、2000年)の最後では生命至上主義が道徳を腐らせるという、ラディカルな主張が述べられている。
ある意味で西部自裁論と言うべき内容である。先生は昨年春の段階で隔月雑誌『表現者』への執筆や、同誌の顧問をやめるという意向を示していた。また、MXテレビの「西部ゼミナール」の収録も昨年10月で終えていた。

すでに予感していたとはいえ、私が1月21日午後に訃報に接したとき、深い驚きと悲しみを得た次第である。
 西部先生は北海道出身であり、一浪して1958(昭和33)年に東京大学に入学している。60年安保闘争を目前に控えた時代であったことから、全学連主流派幹部として学生運動に参加している。

『六〇年安保センチメンタル・ジャーニー』(文藝春秋、1986年)は60年安保闘争がどのようなものであったか、遠近法的に描いた著作である。唐牛健太郎など、当時60年安保闘争に関わった人々との関係や役割が列伝風に描かれている。
 先生は同書の冒頭で60年安保闘争を「空虚な祭り」と表現している。すなわち、闘争参加者のほとんどは新安保条約が国際政治及び国際軍事にもたらす影響について無知、無関心であり、戦後思潮の抱えてきた矛盾が赤裸々に示された観念劇と述べている。のちに先生は当時、新安保条約の中身は知らず、マルクス、レーニン、毛沢東の著作も読んでいなかったと言っている。

では、なぜ安保闘争は拡大したのか。同書によれば、その背景には、「もはや戦後ではない」(昭和31年度『経済白書』)という経済の領域で確認されてきたことを政治の領域で確認すべき段階に来ていたこと、最強国である米国との関係が戦後思潮そのものの脅威になっていたことの二点を挙げている。

 ▲「平和」と「民主主義」は魔語だったのだ

そして、この観念劇はいくつかの言葉、すなわち魔語(マジックワード)によって演じられたと述べている。一つは「平和」であり、この言葉は世界の戦争や軍事について冷静に観察することを妨げることになったとある。
安保法制、集団的自衛権、憲法改正に関する論議を見ていると、平和とは何か、という具体的な議論が欠けており、この現状は当時とまったく同じであると思う。「平和」という魔語が登場した象徴的な時代こそ、60年安保闘争だったのである。

もう一つは「民主主義」である。衆議院本会議で新安保条約が強行採決されて以降、安保闘争の争点は民主主義に移行し、戦争の記憶のある年配者を中心にして民主主義擁護の闘争という色彩を帯びていったという。
そもそも民主主義はギリシャ語のデモクラティアに由来し、本来は民衆政治と訳すべきである。プラトンも述べているように、政治制度としての民主政治は衆愚政治に陥る危険を有している。

しかし、戦後日本では民衆政治ではなく民主主義と訳したため、そうした問題点が認識されず、何か特別なものとして受け止めるようになった。こうしたことを踏まえ、西部先生は60年安保闘争を「空虚な祭り」として捉えたのである。そう考えると、60年安保闘争は安保条約の中身が争点だったのではなく、戦後日本において「平和」や「民主主義」という魔語が観念劇として高く舞ったものだったと思う。

さらに西部先生は60年安保闘争の中には米国に対する複合感情、コンプレックスがあったと述べている。戦後の日本人は米国を占領軍であるとともに解放軍であると認定した。そのこと自体に大きな矛盾をはらんでいるが、さらにソ連や社会主義に対する親近感も流れ込み、その矛盾を複雑にした。

また、「平和」や「民主主義」は米国によってつくられた魔語でありながら、その米国を討つべき対象とするアンビバレンツな感情を生み出した。こうした複合感情が安保闘争を成立させることになったのである。

なお、同書によると、西部先生は大学入学後、授業には興味が持てなかったという。
このため、学生運動をしようと教養学部自治会室を訪ね、ガリ版でビラを刷るアルバイトを始めることになった。
当時、先生自身はマルクスも毛沢東も読んでいなかったが、とにかく何かしなければならないという思いから、思想の渦に飛び込んでいったのである。これは一種の直感であり、西部邁という評論家、思想家の特徴を示すものである。

おそらく先生はガリ版を刷りながら、すべてのビラの文章を読んでおり、大学1・2年生の時点でいかにそうした言葉が空虚であるかということも分かっていたと思う。そこから政治や社会に対する見方や直感が形成されていったのではないか。

西部先生は1971(昭和46)年に東大大学院経済学研究科修士課程を修了し、横浜国立大学助教授、東京大学教養部助教授を経て、1986(昭和61)年に同教授に就任している。宇沢弘文の弟子にあたり、大学教員としては社会経済学を専門とした。著書『ソシオ・エコノミクス』(中央公論社、1975年)は少壮の経済学者・西部邁の代表作であり、新古典派経済学の限界を述べている。

先生はこれまでの経済学が人間を「経済人」という一つのカテゴリーに当てはめていることを問題視し、社会経済学はもっと多様な領域と関わることで、人間や社会、世界を総合的に捉えるべきだと考えていた。
そのモチーフが『ソシオ・エコノミクス』のテーマになっていたのである。また、著書『経済倫理学序説』(中央公論社、1983年)ではケインズ経済学を評価しながらも、その限界や不十分性を指摘し、社会の広い部分に経済学を展開させようという立場が示されている。端的に言うならば、経済学という社会科学が言語障害に見舞われていることや、専門主義に入り込んでしまったことへの批判である。

 ▲東京大学での一悶着

こうした見地から、先生は東大の駒場で相関社会科学をつくろうとしたが、その試みはうまくいかなかった。文化人類学者の中沢新一氏を助教授に招聘しようとしたのは、それまでの悪しき専門性の縄張りを壊した上で、複雑化した現代社会を捉えるための学問をつくることが目標だった。

しかし中沢氏を招聘することはできず、1988(昭和63)年に東大を退職する。これは人事上の手続きへの反発ではなく、学問の場は日本共産党の場であるという壁を破れなかったことへの敗北感によるものだと思う。

この事情については、著書『学者 この喜劇なるもの』(草思社、1989年)に詳しい。同書ではアカデミズムの立て籠もっている学者こそ、大衆であることが東大辞任劇の中ではっきり見えたと述べている。

以後、先生はオルテガの著作などを通じて大衆社会状況への批判を強めていく。また、同書では、東大辞任劇は左翼知識人の腐敗を決定付けるものと述べ、戦後民主主義に引導を渡す絶好の機会になると述べている。

一般にソ連崩壊以降、古典的な左翼知識人は衰退したとされるが、先生はむしろ左翼主義(レフティズム)が社会のあらゆる部分に広がっていくであろうことを予見していたのである。現在、大学で経済学を教えている人たちはかつてマルクス経済学を学んだ人たちである。史的唯物論という名称の講義はできないものの、ポスト・コロニアリズムなどは薄められた左翼主義と言っていい。
先生にとって、「駒場村」からの脱出劇は保守の思想に道を開く契機になったのである。
その意味で、保守思想とは過去の歴史や伝統を踏まえ、現状や現実を正確に分析し、その先を予見することにつながるものなのである。たとえば、英国のエドマンド・バーグはフランス革命の失敗を予見し、トクヴィルは米国が今日のような金融グローバリズムに陥っていくことを予見していた。

このように西洋の保守思想家の系譜をたどると、保守思想こそ、予見的な性格を持っているというのが西部先生の考えだった。

▲米ソ冷戦の終結は憲法改正や日米安保条約廃棄のチャンスだった。

本来、日本にとって米ソ冷戦の終結は対米従属から脱却するチャンスだった。特に1990(平成2)年の東西ドイツの統一は奇跡的だった。歴史はある瞬間に間隙ができる。そこで為政者がその間隙をついてアクションを起こし、大きく歴史を変えることができる。東西ドイツ統一がそれだった。

日本にとって、米ソ冷戦の終結は憲法改正や日米安保条約廃棄のチャンスだった。
ところが、90年代になって起きたのは1985(昭和60)年のプラザ合意以降の内需拡大傾向(バブル経済)の崩壊であり、細川非自民連立政権の成立による政治の混乱であった。『発言者』が創刊されたのは村山自社連立政権の時期であり、55年体制という戦後レジームが終わったと思っていたときに、新たな戦後レジームが始まったのである。

その後、日本経済は構造改革・規制緩和路線に進んでいく中、『発言者』はこうした路線に徹底的な批判を加えた。
 
そうした西部先生の保守思想にあって、名著とされるのが『思想の英雄たち』(文藝春秋、1996年)である。
同書はバーク、キルゲゴール、トクヴィル、ニーチェ、オルテガなど、西洋の保守主義の系譜、つまり、近代主義・理性主義への批判者たちを取り上げたものである。ただし、この本に出てこない人物が米国の哲学者パースであり、先生はパースのプラグマティズムをよく咀嚼していた。

奥様の看病を綴った著書『妻と僕』(飛鳥新社、2008年)には自らの思考の基本にはパースのプラグマティズムがあると述べている。日常や社会、家族、友人との間に起きる様々な出来事をどう解釈するか、その仮説の立て方にパースを役立てていたのである。

先生は自らと他者の仮説を確認するための手段として会話を重視した。仮説形成の重要性こそ、先生の生涯を貫くものだった。日本の西洋哲学は明治以降、ドイツ観念論(カント、ヘーゲルなど)が主流であったが、西部先生はドイツ観念論に騙されることなく、アメリカ哲学のパースに入っていたことには注目すべきである。
先生の仮説形成にあたり、パースのプラグマティズムの果たした役割は大きいと言えよう。

▲三島を論じた「明晰さの欠如」(初出、1988年11月『海燕』発表)

 西部先生が東大退職後、最初に刊行した評論集が『ニヒリズムを超えて』(日本文芸社、1989年)であり、その冒頭に所収されている論文が「明晰さの欠如」(初出、1988年11月『海燕』発表)である。

これは三島由紀夫の『太陽と鉄』、『文化防衛論』を中心に論じたものである。
これを読めば、先生が三島のことを深く理解していたことが分かる。ただし、自分は三島のように自決するわけにはいかないことや、三島における伝統の捉え方が自分と違うことを述べている。

社会経済学者として、これほど三島を理解した人物はいないのではないか。西部邁が評論家として最初にデビューしたのが三島由紀夫論であり、死に方が生き方であり、生き方が死に方である連関性の面では三島とつながっていたと思う。

また、この本には福田恆存論が収録されている。先生は晩年、病床にあった福田恆存を見舞い、死について対談している。当時、先生は55歳であり、著書『死生論』(日本文芸社、1994年)を執筆中だった。

▲予見に満ちた『保守の遺言』(平凡社、2018年)

医療が高度化して延命が進む中、先生は人間に自然死はありうるのか、病院死は人工死ではないのか、という問いを投げかけていたのではないかと思う。こうした文明の病理、文明の危機を先生は後半生に経験され、警鐘を鳴らしていたのである。

『保守の遺言』(平凡社、2018年)の最後の数章は予見に満ちており、そこで最も大事になるのが国家だと述べている。グローバリズムと帝国主義の時代にあって、国家というものの根拠、国家というものを論理的に推論する必要性を述べている。

どれだけグローバリズムが進もうとも、世界政府などできるわけがない。戦後日本は国家というものを最も度外視し、戦後民主主義は国家と国民を切り離してきた。日本国憲法前文がまさにそうである。

国家と政府は戦争の主体であり、国民は主権者として国家と政府に対峙することが憲法前文に示されている。しかし、こうした位置付けが誤りであることは明らかである。西部先生と吉本隆明の国家論の比較など、面白い論点である。
機会があれば、同書をもとに皆さんと議論したいと思う。               
 
                   (三島由紀夫研究会事務局速記)
 
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  ◎事務局よりお知らせ   ◎事務局よりお知らせ
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四月の「公開講座」講師は、元国立劇場理事の織田紘二氏
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 織田氏は昭和42年國學院大學卒業と同時に国立劇場芸能部に入られ、昭和44年から三島由紀夫先生の担当者として三島歌舞伎に携わられました。
 自決までのわずか2年足らずでしたが、最晩年の三島先生との濃密なお付き合いは初公開の秘話ばかりで、とくに三島演劇研究にとって貴重なお話しが聞けるものと思います。
 織田氏は国立劇場の芸能部長、理事を歴任され、現在は日本芸術文化振興会の顧問をされています。

とき    4月19日(木)午後6時半開演(午後6時開場)
ところ   アルカディア市ヶ谷(私学会館)
講師    織田紘二氏(おりた こうじ、日本芸術文化振興会顧問、元国立劇場理事)
演題    三島歌舞伎の世界
<講師略歴>昭和20年生。北海道出身。昭和42年國學院大學日本文学科卒、国立劇場芸能部に入り、以後三島由紀夫先生の担当として三島歌舞伎に携わる。国立劇場芸能部長、理事を歴任。日本芸術文化振興会顧問。著作に『芸と人 戦後歌舞伎の名優たち』(小学館)、『歌舞伎モノがたり』(淡交社)その他。
会場費   会員・学生1千円(一般2千円)
      

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三島由紀夫研究会「文学ツアー」のご案内
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           記
日時:平成30年5月13日(日)雨天中止
集合:13:00 JR横須賀線北鎌倉駅
作品:海と夕焼け(昭和30年刊・新潮文庫『花盛りの森・憂国』に所収)
場所:神奈川県北鎌倉 建長寺〜勝上献
行程(予定)北鎌倉駅−東慶寺−建長寺(勝上献往復)−鶴岡八幡宮−鎌倉宮(バス)−鎌倉駅 (鎌倉駅近隣で懇親会)

 (注)建長寺〜勝上献は、整備された上り坂を30分ほどかけて登ります。ゆっくりと進みますので、ご安心ください。昼食会の設定はございませんので、各自で早めのお昼を済ませてからご参加ください。
 東京から参加される方は、東京駅11:53発・横須賀線逗子行きに乗車します。(ホー
ムは地下4階にあり、他線からの乗換には10〜15分を要しますので、充分な余裕を持っての時間配分をお立てください)
  参加を希望される方は、下記メールアドレスまで、お名前、電話番号(できれば携帯)、懇親会の出欠を明記の上、お申し込みください。
yukokuki@mishima.xii.jp
         (三島由紀夫研究会 案内係 浅野正美)


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5月の「公開講座」は憂国忌発起人でもある井上隆史先生
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           記
日時 5月25日(金)午後6時開場、6時半開演
会場 アルカディア市ヶ谷(私学会館)
    (JR・地下鉄「市ヶ谷」駅徒歩2分)
講師 井上隆史先生(国文学者、白百合女子大教授)
演題  「もう一つの日本」を求めて、『豊饒の海』を読み直す」
    講師略歴 昭和38年生れ。横浜市出身。東京大学文学部国文科卒。文芸評論家。百合女子大学教授。専門は日本近代文学。著編書に『三島由紀夫幻の遺作を読む〜もう一つの『豊饒の海』』(光文社新書)、『混沌と抗戦〜三島由紀夫と日本、そして世界』(共著、水声社)など多数。最新著に『「もう一つの日本」を求めて〜三島由紀夫『豊饒の海』を読み直す』(現代書館)
会場費  会員・学生千円(一般2千円)



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会員勉強会、六月は荒岩氏
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6月は下記の通り展転社の若き編集長・荒岩宏奨氏を講師にお迎えして、「影山正治と維新文学」のテーマで語って頂きます。これまで蓮田善明、保田與重郎,伊東静雄について論じて頂いた日本浪曼派シリーズ第四弾です。
影山正治氏(1910〜1979)は戦前より維新運動家として大東塾・不二歌道会を主宰するとともに、保田與重郎、浅野晃、林房雄など日本浪曼派の巨人達と親しく交際し、三島由紀夫先生を昭和の神風連と高く評価して憂国忌の発起人となり、昭和54年元号法案の成立を熱禱して自裁されました。
           記
◇日時 6月29日(金)午後6時半開演(午後6時開場)
◇会場 アルカディア市ヶ谷(私学会館)
     (JR・地下鉄「市ヶ谷」駅2分)
◇講師 荒岩 宏奨氏(あらいわ ひろまさ、展転社編集長)
◇演題 「影山正治と維新文学」
◇講師略歴 昭和56年山口県生まれ。広島大学教育 学部卒、プログラマー、雑誌編集者を経て現在展転社編集長。著書『国風のみやびー国体の明徴と天業の恢弘』(展転社)
◇会場分担金 会員・学生千円(一般2千円)

    以上
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