文学

三島由紀夫の総合研究

創立35年の老舗「三島由紀夫研究会」の会報を兼ねた、あらゆる角度からの総合研究メルマガ

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三島由紀夫研究会メルマガ(三島由紀夫外伝 その2)

2015/03/09

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 『三島由紀夫の総合研究』(三島由紀夫研究会 メルマガ会報)
    平成27年(2015)3月10日(火曜日) 
          通巻第862号  
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 (力作 完結編)

「三島由紀夫外伝」(その2)
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                                   岡山 典弘

(承前)

五 ビクトリア朝コロニアル様式の家

昭和三十四年五月十日、三島はトラックに上乗りして新居に移った。
 大田区馬込の土地は、文学座の長岡輝子が紹介した。清水建設の設計者・鉾之原捷夫は、活字嫌いで三島がどのような作家であるのか、全く知らなかった。三島は、海外旅行で眼にして気に入った、ビクトリア朝コロニアル様式の家を希望した。
「よく西部劇に出てくる成り上がり者のコールマン髭をはやした悪者が住んでいる、アレですか?」
 皮肉屋の鉾之原が訊いた。
「ええ悪者の家がいいね」
 三島が即座に応えた。
 三島の一家で「鉾天(鉾之原天皇)」と綽名されたほどプライドの高い鉾之原は、この答えに敗北して、本気で設計に取り組んだ。三島の家を「ロココ調」と書いてある本は、誤りである。

車を降りずに三島邸をながめた私は、(以外に小さいんだな……)と思った。写真で見ていた門から玄関へのアプローチの、幅も距離も小さく見えたのだ。(村松友?『夢の始末書』)

  実際に行ってみると、それらが、実は映画セットのように組み立てられた虚構の家だったことがわかった。写真写りはいいが、全体に小ぶりなのである。(嵐山光三郎『口笛の歌が聴こえる』)

 筆者は、大田区南馬込四の二の八の家を見に行った。堂々たる白亜の邸宅である。確かに貴族の館と比較すれば?小さい?かもしれないが、三島は筆一本で稼いだ文士であったことを忘れてはならない。

門を入るとアポロンの像が闇の中に白く立っている。昔、見上げるマリアの上に威厳をもって君臨した羅馬の白い神々の一人。伊太利の冷たい石と、熱い陽、運河、白い空の影、遠くなったり、近くなったりする鐘の音。それらの記憶の中にあった、マリアの白い夢が、東京の闇の中にあるということが信じ得ない。(森茉莉「降誕祭パアティー」)

 昭和四十年二月、三島邸では、三階の増築工事にとりかかった。設計は大場昌弘であった。工事の間、三島の家族は、赤坂のリキ・アパートに滞在した。仕事場として、ホテル・ニュージャパンの九〇九号室を利用した。
 五月末に完成した三階のサンルームは、UFOを横に二つ並べたような不思議な形をしていた。事実、三島はこの部屋からUFOを観測した。三階の平面図は、女性の乳房のような形をしていた。この部屋で、三島が寛ぐこともあれば、懇意な編集者と打合せをすることもあった。ビクトリア朝コロニアル様式ではなく、ロココ調でもなかった。シンプルな意匠で、不思議な未来感覚に溢れていた。三階は眺望がよく、昔の馬込村や遠く本門寺の大屋根を望むことができた。
この部屋を、三島は「ブラジャールーム」「おっぱいルーム」と呼んだ。

六 越路吹雪とのロマンスの行方

 一時期、三島と越路吹雪は大変親密であった。
 二人は結婚するのではないか、とも噂されていた。大正十三年生まれの越路は、三島より一つ年上になるが、「宝塚出身の大スタア」「シャンソンの女王」と「文壇の鬼才」「文学界の貴公子」とは悪くない取合せである。「越路吹雪は三島由紀夫と渡米結婚か」という見出しで、憶測混じりの週刊誌記事までが出ていた。
 三島が結婚したとき、越路は海外旅行中であった。報道関係者から、彼女が宿泊するホテルに国際電話がかかってきて、三島の結婚を知らせた。帰国してから越路は、冗談めかして三島に?被害?を訴えている。

越路 三島さん、あなたが結婚したことでわたしは被害甚大なのよ。
三島 へーえ。
越路 そうよ、だから被害がたいへんだっていうのよ。帰る早々、新聞や雑誌なんかの人から、三島さんが結婚されましたがどうお感じになりましたかとか、ショックだったでしょうとかいわれるのよ。吹きだしちゃったわ。三島さんが結婚したって、わたしがショックをうけると思うの?
三島 受けるわけないやね。
越路 それを世の中ってうるさいのね。ヨーロッパまで、わざわざ知らせてくれた人もあるの。えらいショックでしょうが、お祝いはどこそこで買うといいでしょうなんて、おせっかいだわよ。
三島 コーちゃんと僕のこと、世間じゃそんな風に考えていたのかね。僕は仕事の上の友達だと思っていたのに……。昨年僕が外国にいたあいだにも、何かそんなことが新聞に出たね。それを切り抜いて、ニューヨークに送ってくれた人があった。(三島由紀夫vs越路吹雪「パリで目につくシミ・チョロ族」)

 三島は、『モルガンお雪』の越路に魅了された。
 『モルガンお雪』は、昭和二十六年二月に帝国劇場で幕を開けて、二ヵ月間のロングランとなった。ヒロインに宝塚在籍の越路を引っ張り出したのは、帝劇社長で独文学者・秦豊吉で、菊田一夫が脚本を書いた。日本ミュージカルの嚆矢といわれるこの作品は、京都祇園の芸者お雪が、アメリカの大富豪モルガンに見初められ、結婚して南仏ニースに渡り、モルガンの死後、日本に帰国するという物語である。
三島は、越路のもつ?スタア性?を高く評価した。
 レビューのフィナーレの大階段を裾を引いて堂々と下りてきて、観客に感じさせる「つきづきしさ」。西洋的豪華とお茶漬け哀愁と、豊麗な女性的魅力と、スッキリした男性的魅力と、……そういう相反するものを兼ね備えた資質。本来の畑のミュージカルはもとより、映画、新派、新劇、テレビ、シャンソン・リサイタルなど、活躍する領域の広さ。
 越路は、頭脳明晰なインテリで、少し癖のあるタイプの男性に惹かれた。わけても小林秀雄と三島の二人に対しては、好意を隠さなかった。越路の好意に対して、三島はただ単に「仕事の上の友達だと思っていた」のだろうか。実は、そうではなかったという証言がある。

産経ジムが廃止になるとき、ジムで別れの会を開いたと仲間の一人が私に話した。その会には三十人ぐらい集まり、酒を呑んで歌って、騒いだのだそうで、三島さんもその会に参加して、ぼくの昔の恋人の歌だと言って、越路吹雪の歌を歌った(今村靖『素顔の三島由紀夫』)

 三島は、越路のために戯曲を二つも書いている。
昭和二十九年の『溶けた天女』と、昭和三十四年の『女は占領されない』。『溶けた天女』の初出誌「新劇」のあとがきには、「本篇は越路吹雪の依頼により彼女にはめて書いた台本である」と綴られている。『溶けた天女』は、三島と越路の蜜月時代に執筆された音楽劇であるが、遂に上演されることはなかった。
『女は占領されない』の題の横には、「越路吹雪さんのために」とあり、ヒロインの伊津子は越路に当てた。舞台の時代背景は米軍占領下で、伊津子とGHQ政治局長のエヴァンスの恋に政治的陰謀を絡めた物語である。『蝶々夫人』や『モルガンお雪』の流れをくみ、日本人女性と?異人?との恋を描いた娯楽劇であるが、オペラでもミュージカルでもなく、ストレイトプレイであった。これは、ジャン・コクトーがエディット・ピアフにモノローグ劇『美男薄情』を捧げたことと好一対である。
 『女は占領されない』は、昭和三十四年九月に芸術座で公演された。
 演出は長岡輝子、ヒロインはむろん越路で、エヴァンス役には神山繁が扮した。ウイットやエスプリに富んだ台詞と、神山の好演が話題をよんだ。

伊津子 私たちはもう夢を見る年ぢやないわ。
エヴァンス 君の判断は尊重する。(三島由紀夫『女は占領されない』)

 エヴァンスは、伊津子と別れて帰国の途につき、二人の恋は終わりをつげる。三島が越路に捧げた『女は占領されない』は、二人のロマンスの決算であったように思われる。
 昭和三十四年十一月、越路は一高出身の作曲家・内藤法美と結婚した。二人が婚約を発表したとき、抱えきれないほどの大きな薔薇の花束をもって、真っ先に越路のもとへ祝福に駆けつけたのは、三島であった。

七 西にコクトー、東に三島『からっ風野郎』

 昭和三十四年十一月十四日、大映の永田雅一社長が高らかに?喇叭?を鳴らした。
「作家の三島由紀夫君を大映の俳優として迎える!」
帝国ホテル新館に報道陣を集めて、永田社長がこう切り出した。
「私がいっただけでは、また例のラッパがはじまった、といわれても困るから、三島君に来てもらった」
 この言葉と同時に、三島が登場した。
「新人の三島由紀夫でございます」
 三島の自己紹介で、記者の間からどっと笑い声があがった。
「西にコクトー、東に三島、東西軌を一にしてだな……」
 永田ラッパは、快調に鳴った。
 少年期から三島は、「変身願望」にとり憑かれていた。
 「聖セバスチャン」が理想であった。「聖セバスチャン」になれないまでも、?肉体?を持った存在であれば、自衛隊員でも、騎手でも、ヤクザでも何でもよかった。
「作家三島由紀夫の妻として参りましたが、俳優の妻になるつもりはありません」
 三島の映画出演には、瑤子夫人が猛反対した。
 永田社長が、瑤子夫人の父・杉山寧画伯を動かして、彼女を説得したという。
 作品は、白坂依志夫のオリジナル脚本を予定していた。
 ボディビルで鍛えた三島の肉体を、ベッド・シーンで見せようということになった。『カルメン』の日本版で、三島は自衛隊くずれのドン・ホセ。エスカミリオはプロ野球選手役の川口浩。三島は、娼婦のカルメンに裏切られて死ぬという役回りだった。ところがオットー・ブレミンジャー監督の映画『カルメン』が日本で公開されるという話があって、この企画は流れた。
 次の企画は、『肉体の旗』であった。腕のいい騎手の三島が、弾みで落馬してレースに大穴を生む。ファンから「八百長だ!」と吊しあげられ、愛人の女馬主にも棄てられる。ついにはサンドイッチマンに転落するという競馬界のインサイドストーリーだった。これには、馬主になるほどの競馬愛好家・永田社長が「待った!」をかけた。
 クランク・インは間近に迫っていた。藤井浩明プロデューサーの頭に閃いたのは、以前に読んだシナリオだった。確かトップは、刑務所のシーンで、ラストは、ヤクザの死体を載せて動くデパートのエスカレーター。藤井は、作者の菊島隆三のもとに飛んだ。シナリオ『からっ風野郎』は、石原裕次郎の主演作となるはずであった。ところが、「裕ちゃんが死ぬのはまずい」と日活が尻込みをして、日の目を見なかった作品である。菊島は、裕次郎に当てたシナリオを、三島のイメージにあわせて修正した。

 三島の俳優宣言は、大きな反響を呼んだ。
 三島のもとには、「お前が映画俳優になれる顔かどうか、鏡をのぞいて見るがいい!」という手紙がとどいた。大岡昇平は、「フランキー堺が、映画俳優三島由紀夫に猛烈なライバル意識を燃やしている。これでお前が三枚目だってことが確認できた」と大喜びした。十返肇は、「あんな長い顔でクローズアップにしたらどうなるだろう? ドン・ホセじゃなくてドン・キホーテじゃないのかい」と皮肉った。石原慎太郎は、「リクリエーションには快適でしょうね。だけど、三島さんの俳優としての才能はどうかな。演技は、結局、運動神経なんだし、彼みたいな自意識過剰なのは向くのかな。三島さんの剣道やボディビルも痛々しかったけど、今度もやっぱりそうだ」と評した。
瑤子夫人は、「キチガイに刃物と書きそえて下さいね」と取材に水をさした。

こっちは小学校出の小学士さまだからな、親に教わったこの稼業でしか食っていけねえんだ。(菊島隆三・安藤日出男『からっ風野郎』)

「なってないぞ、君は素人中の素人だ!」
 増村保造監督は、容赦なく三島に罵声をあびせた。ワンカットにNGを十五回も出したという。増村の三島に対する姿勢は、演技指導ではなく度を越した?いびり?だった。今日では、?パワハラ?に該当する。共演した若尾文子は、「増村さんてそういう人ですけど、私の見た範囲ではあんなのはちょっとないですね。私はほんとに、もう嫌でしたね。陰で祈ってたわ。普通の人だったら、並みの俳優だったら、もう辞めてますね」と回想した。
 
そのうち、スタッフがみんな三島さんの側についちゃった。だから監督が怒ったりなんかすると、スタッフが「いい加減にしろ」っていい出しちゃった。(藤井浩明)

 増村保造は、大正十三年に山梨県甲府市で生まれた。春日小学校から甲府中学は首席で通し、水泳や剣道などのスポーツにも長けていた。一校から東大法学部へ進み、昭和二十二年に法学部を卒業。大映に入社するとともに、東大文学部哲学科へ学士入学した。助監督を続けながら、昭和二十七年に文学部を卒業する。同年秋に書いた英語の論文「フランスのリアリズムとイタリアのリアリズム」が認められて、昭和三十年二月までイタリア国立映画研究所に留学した。
 帰国後、溝口健二監督や市川崑監督に師事して、昭和三十二年に『くちづけ』で監督デビューを果たした。留学期間を除くと助監督生活は実質五年で、映画界では異例のスピード昇進をとげている。こうした経歴から、増村は無類の自信家で毒舌家であった。
さらに東大法学部では、三島と同期生であった。映画監督としての度を越した?いびり?は、三島に対する過剰なライバル意識のあらわれであり、増村の奇矯な性格と器量の乏しさを露呈した。
 昭和三十五年二月八日のクランク・インから、撮影中の怪我による三島の入院をはさみ、三月十四日、永田社長立会いのもと西銀座デパートの夜間ロケが行われて、映画はクランク・アップした。
予告篇の撮影には、川端康成まで引っ張り出された。このフィルムは、三島の申入れによって実際に使われることはなかったという。

川端 お前さんは、永田社長の?網にかかった魚?だよ。
三島 魚は魚でも、?腐っても鯛?になりたいですね。今の私は、?まな板の上の鯉?に似ています。
川端 ?まな板の上?でも、若尾さんみたいに綺麗な魚と一緒に料理されるんなら、幸福じゃないか。

『からっ風野郎』は、三島の動きが鈍く演技が固いとして、総じて映画評論家に不評だった。「毎日新聞」で草壁久四郎だけが、「三島文学流の演技」と褒めた。長崎で被爆体験のある草壁は、特異な映画観の持主であった。その後、三島は周囲にこう語った。
「映画評論家のなかでは、草壁が最高だ!」

八 岸田今日子の半裸の『サロメ』

 三島がはじめて手にした『サロメ』は、佐々木直次郎訳であった。
三島は、「瑰麗にして難解」な日夏耿之介訳の『サロメ』を好んだ。日夏の日本語訳は、格調の高さが際立っていた。

  サロメ女王の今夜美しく見える事はどうだ。(森鷗外訳)
  サロメ王女さまは今夜は何と美しいのだろう!(佐々木直次郎訳)
今宵のあの撒羅米公主の嬋娟さはなう!(日夏耿之介訳)
  いかにも美しい、今宵の王女サロメは!(福田恆存訳)

猶太の王・希律は、祝宴で義理の娘・撒羅米に舞を命じる。
 わが国では、大正時代の松井須磨子による芸術座公演『サロメ』を嚆矢として、川上貞双、下山京子、松旭斎天勝、水谷八重子などがサロメを演じてきた。しかし上演台本として難しさのある日夏訳の『サロメ』は、それまで舞台化されていなかった。昭和三十一年、岸田國士の一周忌の法要で、三島と日夏は顔をあわせた。
「いつか先生の御訳本で『サロメ』を上演したいと存じます」
 三島は、福田恆存に勧められて文学座に入座した。
福田と三島は、「鉢の木会」の盟友でもあった。気位の高い福田は、英文学者として訳業に絶対の自信を持っていた。福田は、自らの新訳をさしおいて、三島が?古い?日夏訳を選択したことが面白くなかった。面子をつぶされた、そう考えても不思議ではない。
福田は、『サロメ』の公演パンフレットに「サロメと三島さん」と題するシニカルな一文を寄せた。
 
客――三島さんがワイルドの「サロメ」を演出するさうですが、なぜ友人のあなたの名訳を使はないで、日夏耿之介氏の名訳を採用したのでせうかね?
主人――よく人からその質問を受けるので、この機会に一言、説明しておきませう。三島さんが「サロメ」を演出したいと思ったのは、私が訳にかかるずっと以前のことなのです。
客――しかし、あなたの訳はもう出来てゐるぢゃありませんか?
主人――さういうことをおっしゃるから、翻訳者は浮ばれませんよ。三島さんが演出してみたいと思ふほどに感動したのは、ワイルドの「サロメ」ではなく、日夏さんの「サロメ」なのです。(福田恆存「サロメと三島さん」)

福田としては、精一杯矜持を保とうと努めている。こうしたところから、三島と福田の関係に罅が入ったのかもしれない。
昭和三十五年一月七日に『サロメ』の配役が発表された。
サロメ・岸田今日子、ヨハネ・中谷昇、ヘロデ・中村伸郎、ヘロデヤ・文野朋子、ナラポト・笈田直彦。ヒロインに抜擢された岸田今日子は、文学座に入ってから八年目の三十歳であった。今日子が選ばれた理由の一つは、父・國士の一周忌の法要で、三島が日夏に上演を申し出たという機縁からであろう。かねてより三島と今日子には、プライベートな交流があった。一時期、三島は今日子に思し召しがあった。長岡輝子にわざわざ「仲谷昇と今日子の間柄は、どこまで進展しているのか?」と尋ねたことさえあった。
サロメを豊満な妖婦ではなく、我儘いっぱいな子供として登場させて、ヨハネが出てきてから女になってゆくというのが、三島の演出プランであった。線の細いサロメというイメージにあわせて、今日子は稽古の間、ほとんどサラダだけで頑張ったという。
『サロメ』の一番の見せ場は、「七つのヴェールの踊り」である。この踊りを、県洋二が振付けた。サロメの踊りは、三島の演出プランに基づいて、能の『道成寺』の乱拍子を思わせるものだったという。ビアズレーを模した藤野一友による白黒の舞台装置。黛敏郎が作曲したフルートとドラムとギターによる音楽……。今日子は、一枚ずつヴェールを脱いでいった。最後は、乳首に銀のスパンコールを貼っただけの半裸姿を観客に披露した。新劇の主演女優がここまでやった前例はなく、息をのむようなシーンであったという。
今日子とともに抜擢されたのは、笈田直彦である。
当時研究生だった笈田は、サロメの美しさに心を奪われて自刃する若き軍長・ナラポトの大役をつとめた。

  舞台稽古の日、ナラボトが剣で胸を刺すシーンになると、その血の量が少なすぎて迫力が出ないと三島さんは小道具に注文をつけた。「もっと血を出せ。血が少なすぎる」三島さんは僕にいった。「笈田、人間の最高の死は腹上死だ。その点サロメはとても幸せだった。最愛の男性ヨハネの首をもらって最高のエクスタシーに到達した瞬間、王に殺されたのだから」
それから十年たって三島さんの自決の報を聞いたとき、どうして僕があの大役についたのか理由がわかったような気がした。当時、僕は文学座の先輩から、三島さんに似ているといわれていた。そしてそのことは三島さんも知っていた。あの役に僕を選んだのは、自分に似た者を舞台に立たせ、自決する様を客観的に見てみたかったのではなかろうか。(笈田勝弘『俳優漂流』)

 笈田は、『仮面の告白』の?翻訳者?メレディス・ウェザビイの邸宅に出入りするなど、プライベートでも三島との親交が深かった。
 笈田は文学座から劇団四季を経て、昭和四十三年にピーター・ブルックと出会う。 昭和六十三年に、ブルック演出の『マハーバーラタ』で十八年ぶりに日本の舞台を踏み、いわば「凱旋公演」を果たした。平成二十五年には、北野武や坂東玉三郎に続いて、フランス芸術文化勲章の最高位コマンドゥールを受賞するなど、国際的な評価を得ている。
三島とブルックが育てた笈田は、八十歳を超えた今も?現役?の俳優である。

九 「風流夢譚」事件の余波

 「中央公論」誌の拡販のため、嶋中鵬二社長は思い切った手を打った。
新人賞の創設である。嶋中社長は、小林秀雄から「懸賞をやることだよ。懸賞をやって新人を募集することだよ。大家の尻を追っかけ廻してばかりいても駄目だ。何も出てきやしないよ」という助言を受けて、直ちに実行にうつしたのだという。
昭和三十一年の第一回新人賞には、千三百篇の原稿が集まった。OA機器のない時代で、生原稿を廻し読みした伊藤整、武田泰淳、三島の三人の選考委員が選んだのは、深沢七郎の『楢山節考』であった。その頃、石原慎太郎の『太陽の季節』が芥川賞を受賞して?太陽族?ブームにわいていた。中央公論社では、これに匹敵する話題作を求めていた。
三島は、『楢山節考』の読後感を編集者の京谷秀夫に語った。
「何か怖いというか『説教節』や『賽の河原』や『和讃』、ああいうものを読むと気分がずっと沈んでくる、それと同じ効果を感じる」
 深沢の前職は、日劇ミュージックホールのギター弾きであった。『楢山節考』の原稿も、ストリッパーの楽屋で書かれたものである。
新人賞の受賞パーティーは、嶋中社長の発案によって日劇ミュージックホールで開催された。蝶ネクタイをしめた深沢が、ギターを弾いた。それに合わせて、伊藤久雄が「楢山節」、島倉千代子が「つんぼゆすりの歌」を唄い、踊り子たちが乳房を揺らして乱舞した。ストリップ付きの出版記念会は、「前代未聞」(『中央公論社の八十年』)であった。
「驚いたねえ……全く驚いた!」
三島は、パーティーの一件を編集者の粉川宏に語った。
「あの深沢七郎ってのは、小説以上に変った奴だよ。なにしろね、『中央公論の社長様が面倒をみて下さるということで……』といって、涙を流すんだからねえ、涙だよ……」
三島は、『楢山節考』を気味悪く感じたが、深沢を忌避するような態度をとらなかった。昭和三十五年の映画『からっ風野郎』では、主題歌を三島本人が唄った。作詞は三島で、作曲は深沢だった。深沢の方から無理に頼み込んで、作曲を担当したという。
 
「三島由紀夫先生」と言っただけで私には雲の上の人のような高貴な人に思えていた。外国文学にも精通しているし、名刀のようにすぐれた頭脳の持主で貴公子のように思っていたからだった。私の「楢山節考」の審査委員だったかもしれない。(深沢七郎「三島由紀夫論」)

  深沢七郎の「風流夢譚」は、持込原稿であるという。
 その内容は、皇室を冒涜するような?毒?のある革命幻想譚であった。原稿はしばらく編集部で保留扱いにされていたが、「中央公論」昭和三十五年十二月号に発表された。「風流夢譚」は不敬であるとして、右翼の抗議がはじまった。抗議行動は、日ごとに厳しさを増して、京橋の中央公論社に集団で押しかけるなど、業務にも支障をきたすようになった。
昭和三十六年二月一日午後九時十五分頃、遂に事件が発生した。
嶋中社長の自宅が、右翼の少年に襲撃された。夫人が重傷を負い、手伝いの女性が刺殺された。三島は、直ちに嶋中邸に駆けつけて、血塗られた現場を目の当たりにした。

一日夜臨時ニュースがありすぐ、嶋中家へかけつけ、病院へも行きました。何ともいひやうのない事件で、涙も出ないくらゐです。一日夜は昂奮して、眠れませんでした。二日朝犯人が逮捕されました。十七歳の右翼少年です。日本もおそろしい国になりました。みんなおびえてゐます。日本へかへつて匆々の事件で、僕は茫然自失、なすところを知りません。(ドナルド・キーン宛て三島由紀夫の書簡)

深沢は、警護の刑事とともに一月間都内に身をひそめ、その後は京都、北海道、広島、静岡などで、二年余りの逃亡生活を余儀なくされた。
 センセーショナルな作品で世間の耳目を集めようとして、作者にも出版社にも焦りがあったのかもしてない。追い討ちをかけるように「三島が、『風流夢譚』を推薦した」という噂が流れた。右翼の脅迫状が、三島邸にも舞い込むようになった。

その夜、お宅にうかがって瑤子夫人から「お忙しいところをお呼び立てして済みませんでした。最近は物騒になって、三日前の夜にも家の前で右翼の人が抜刀して大声でわめいていたの。その時の主人ったら裏から二軒向こうのお宅に逃げてしまったのよ。私や子供のことをほっておいて」と話されるではないか。何と、私はその夜家族の方達のボディーガードを頼まれたのだった。嶋中邸事件があった直後でもあったので、三島さんも留守中の家族のことが心配だったのだろう。
  数日後、三島さんが真剣な顔つきで声を潜めて「キミ、何処かで拳銃が手に入らないだろうか?」イザというときの護身用に持つというのである。物騒な話であるが、一寸心当たりを当たってみますと答えておいた。(川瀬賢三『タテとヨコの関係 追想三島由紀夫さん』)

 三島から拳銃の入手を頼まれた川瀬は、アメ横に詳しい友人に相談した。数日後に友人から連絡があった。「弾なしで良かったら五万円だそうだ」この話を伝えると、三島は「弾がなければ仕方がないなぁ」と応じたという。しばらくすると三島の身辺警護のため、警視庁から護衛の警官が派遣された。拳銃の話は、うやむやに終わった。
 三島は、「『風流夢譚』の推薦者ではない」という声明を出すなど、誤解を払拭することに腐心した。二月二十四日には周囲の状況が落ち着いたのか、三島は瑤子夫人と仮装舞踏会に出かけている。瑤子夫人はインディアンに扮して、三島は?軍服姿?で左手に軍刀を携えた。三島が?軍服姿?を公開したのは、この日がはじめてである。二か月後には、大森高校で「剣道初段」の検定を受けて、三島はこれに合格した。「風流夢譚」事件後、三島の政治的?右旋回?があらわになり、軍事に対する興味と関心を高め、剣への傾斜を急速に強めた。

深沢さんを選んだあとで、「何だか、このひと気持が悪いなあ」とつぶやいた言葉は予言となり、「風流夢譚」事件の直後には「右翼にねらわれるといけないから」という理由で、警察署が保護役の警官を、君と僕の両方の自宅へ差し向けたことがあった。おぼえているでしょうね。ほかならぬあなたが「右翼にねらわれる」喜劇があったんですからね。ねらわれるくらいなら、ねらってやれ。おどかされる立場がいやだったら、おどかす立場になってやれ! 例のあなたの克己心がそう作用したと考えられないこともない。(武田泰淳「三島由紀夫氏の死ののちに」)

 深沢は、三島の推輓によってデビューした。新進作家時代は、「三島由紀夫先生!」と愛想笑いをうかべて三島にすり寄り、「風流夢譚」事件では、三島を窮地に追い込んでいる。その深沢が、三島の死後に「彼の作品なんてまったく、少年文学で私はにせものだと思います」としたり顔で語った。
 これを世間では、?恩を仇で返す?あるいは?忘恩の徒?という。

十 わが国初のプライバシー裁判『宴のあと』

 三島は、わが国初のプライバシー裁判の被告となった。
 昭和三十六年三月十五日、『宴のあと』がプライバシーを侵害したとして、元外務大臣の有田八郎は、三島と新潮社を相手どり、損害賠償百万円と謝罪広告を求める訴えをおこした。二月の『風流夢譚』事件から程ない訴訟沙汰で、三島にとっては?御難続き?となった。
このとき『宴のあと』は、三島と東宝との間で映画化の契約が結ばれていた。監督は成瀬巳喜男で、主演は山本富士子と森雅之という豪華な顔合せを予定していた。しかし山本富士子の『宴のあと』は、プライバシー裁判の影響で「幻の映画」となった。
『宴のあと』は、昭和三十四年の都知事選に立候補して落選した有田と、その妻で料亭「般若苑」の女将・畔上輝井をモデルにしていた。三島は?政治と恋愛との絡み合い?という主題に興味を持ち、都知事選に関する資料を収集するとともに、輝井などの関係者に取材をしたうえで、『宴のあと』を執筆した。
輝井は一代の女傑であり、有田は「馬鹿八」と呼ばれる政治家であった。

輝井女史が本格的に活躍しだしたのは、むしろ敗戦後の大きな混乱の渦中においてであった。敗戦のドサクサをしり目に、忽ちにして料亭「賀つら」を買いとり、さらに「般若苑」を手に入れるなど、まさに怪物的な女傑ぶりを示し、世間の度ぎもをうばった。この間、政財界との巨頭連とも交わりを深め、かれらを色じかけで手玉に取ったとの評判さえ生んだ。(和田ゆたか『般若苑マダム物語』)

  片山君がなぜ?グズ哲?であり、風見君がなぜ?ノロ章?であるのかは知らないが、私自身はたしかに?バカ?にも見えたであろう。それに、私には時として?あんな馬鹿なことをして?と思うことを平気でやる癖がある。私がもし損得だけで仕事をするような人間であったら、社会党などに入らないで、自民党を選んだであろう。しかし私にはそんなマネはできない。バカと呼ばれるゆえんである。都知事選挙に出馬したのも、そういう私なりの決意によることであった。(有田八郎『馬鹿八と人は言う』)

この「馬鹿八」本が、裁判で争点となった。
有田は、裁判で出鱈目な証言をしている。自著『馬鹿八と人は言う』を三島に贈呈しておきながら、そんな記憶はないと白を切ったのである。陪審員制度であれば、これだけで三島側の勝訴であろう。
  有田と輝井は、都知事選に敗れた後も、頻繁にマスコミに登場した。
 有田八郎の「敗戦記」(「週刊新潮」)、畔上輝井の「般若苑マダム破局の真相」(「婦人公論」)、畔上輝井の「私のすべてを選挙にかけた」(「サンデー毎日」)、畔上輝井の「有田八郎と別れた私」(「婦人倶楽部」)。二人とも世間体を気にして、他人から「偉い人だ」「立派な人だ」と思われようと腐心していた。
 『宴のあと』が、理想主義の政治家が反対陣営の金権選挙に敗れ去るというだけの?お話?であれば、訴訟に持ちこまれることはなかった。有田にしてみると、「私が先妻を踏んだり蹴ったり、その書き方が又えらい書き方で、玉の如くあっちへ蹴り、こっちへ蹴りして、実にひどい。しかも、私は憲法擁護のなにをして、重要なる地位を占めておるからして、ああいうふうなことをしたというふうに思われることは、非常に心外なんです」ということらしい。しかし有田が主張する「憲法擁護のなに」がなんであるのか、さっぱり分からない。「重要なる地位」が何を意味しているのか、これも分からない。

 山本俤二郎の『有田八郎の生涯』(考古堂書店)によると、有田という男は情けないことに「閑居生活は楽でなかったので、離婚後も輝井夫人が陰に陽に面倒を見ていた」という。
 昭和三十九年九月二十八日、裁判所の判決は、プライバシーの権利を認めて、被告に八十万円の支払いを命じたが、謝罪広告の請求は棄却した。この判決についての論評は差し控えるが、次の事実は揺るがない。『宴のあと』は日本文学史に残る作品で、今後とも「古典」として読み継がれてゆくことは間違いない。
 三島は、美しい真実を求めた人間を描くのであれば、モデルが誰であれ、かりにも名誉を傷つけるような結果にはならない、という確信をもっていた。それだけに有田と輝井の二人に対する憤りは激しかった。
 自衛隊体験入隊のとき、三島と学生たちの間で『宴のあと』が話題になった。
「あの料亭の女将はね、小説を連載していた最初の頃は手紙を寄越したんだ。それも何度も、しかも派手な便箋を使ってね。僕のことを褒めたり、お目にかかりたいとか、まあ、ラブレターのような内容だ。それが彼女の容貌をちょっと皮肉って書いた途端に裁判だ!」
 三島は腕組みをして、椅子にふんぞり返った。
「その人、美人なのですか?」
 田中健一が尋ねた。
「なあぁにがあぁ」
 三島は大きく口を開けて、ゆっくりと発音した。そして、「ふん」と鼻を鳴らして、左上を向いた。
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 会員例会のお知らせ
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3月23日に三島由紀夫研究会会員例会
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下記の通り「三島由紀夫研究会会員例会」が開催されますのでご案内いたします。
今回は近現代史研究家の片瀬裕氏による「三島由紀夫と北一輝」講演シリーズの最終回(完結編)です。
これまで片瀬講師は4回にわたって三島由紀夫と北一輝の思想的共通点を起点に、北一輝の国体論と革命論を論じてこられましたが、今回をその総括として北一輝と三島由紀夫が現在そして未来へどうつながってゆくのかを語られます。
是非ご参加ください。

とき   3月23日(月) 午後6時半
会場   ホテル・サンルート高田馬場(JR・西武新宿線・地下鉄東西線「高田馬場」)
講師   片瀬裕(かたせ ゆたか、近現代史研究家)
演題   三島由紀夫と北一輝 (最終回・完結編)
主催   三島由紀夫研究会
会費   会員1千円 一般2千円
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  三島由紀夫研究会   yukokuki@mishima.xii.jp
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(C)三島由紀夫研究会 2015  ◎転送自由
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創刊日:2006-01-12  
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  • 名無しさん2015/03/09

    いつもメルマガの配信ありがとうございます! 本日のエピソード集は本当に面白く拝読しました。