文学

三島由紀夫の総合研究

創立35年の老舗「三島由紀夫研究会」の会報を兼ねた、あらゆる角度からの総合研究メルマガ

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三島由紀夫研究会メルマガ(連載 三島と陽明学<完結編>)

2014/02/05

三島由紀夫研究会 HP URL http://mishima.xii.jp/
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 『三島由紀夫の総合研究』(三島由紀夫研究会 メルマガ会報)
    平成26年(2014)2月5日(水曜日) 貳
         通巻第790号  
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短期集中連載(その3 完結編)
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三島由紀夫と陽明学
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                   三島由紀夫研究会会員  藤野 博

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(4)三島由紀夫と交差する陽明学研究者たち
     ――安岡正篤・宇野精一・吉田公平・溝口雄三

ここで三島と接点のある陽明学者や陽明学研究者にも触れておきたい。真先に挙げられるのは陽明学者・安岡正篤(まさひろ)である。自決の二年前に三島は安岡正篤の著書を読んでいた。昭和四十三年五月に、伊沢甲子麿を通じて手に入れた安岡正篤の著書に対する礼状を安岡に送っていたからである。この書状で三島は、先ず安岡の著書入手を〈望外の賜物と欣喜雀躍〉し、〈永く家宝として保存〉すると述べたあと、次のようにしたためている。

「……どうせ朱子学は江藤のやうな書斎派の哲学に適当であらうと見切りをつけ、小生のはうは、先生のご著書を手はじめとして、ゆつくり時間をかけて勉強いたし、ずつと先になつて、知行合一の陽明学の何たるかを証明したい、などと大それた野心を抱いてをります。左翼学者でも、丸山眞男の如き、自ら荻生徂徠を気取つて、徂徠学ばかり祖述し、近世日本の政治思想の中でも、陽明学は半頁のcommentaryで片附けてゐるかの如きは、もつとも『非科学的』態度と存じます。(中略)東洋思想に盲目の近代インテリが今なほ横行闊歩してゐる現下日本で、先生のやうな真の学問に学ぶことのできる倖せを忝く(かたじけな)存じます」

三島は、日本精神による政教の維新を唱えた安岡に共鳴したのであろう。ただこの手紙の中には注目すべき言葉がある。三島は、江藤淳の朱子学への傾斜や、丸山眞男の陽明学軽視を批判していただけではなく、重大なことを漏らしていた。すなわち、〈ずつと先になつて、知行合一の陽明学の何たるかを証明したい〉という、大それた野心とは、知行合一を証明した、あの市ヶ谷台上での「切腹」を暗に告知していたと推量できるのである――ただし知行合一の証明を遂行したのは、〈ずつと先〉ではなく、この二年半後であったのだが。 

それでは安岡は三島の自決にどのように反応したのだろうか。探索した範囲では、昭和四十六年の講演で、要旨次のように語っていた(『現代活学講話選集7王陽明』)。
昨今、陽明学が話題に上るようになったきっかけの一つは、おそらく三島由紀夫氏の自決であろう。大新聞の論説が、「三島氏の自決には陽明学が大いに影響を与えている」「動機の純真を重んじて結果の如何を問わない陽明学の影響の一例である」と書いているが、これは最も間違った、最も浅薄な文章である。動機の純真を尊んで、結果の如何を問わないものは学問でも真理でもない。

人間が本来持っている、真実なるものを知るのが「良知」であり、これを「致す」、すなわち完成し発揮するのが「致良知」である。これを実践するのが「知行合一」である。陽明学とは単なる知識の学問ではなく、われわれの身、われわれの心をいかに修めるかという根本の学「身心の学」である。

その暴動のゆえをもって危険人物とされた大塩中斎は、陽明学の敬虔な求道者であった。民衆の困窮に対して義挙せざるを得なかったのが真相であり、この異例をもって陽明学を反体制の危険行動理論と考えるのは間違っている。陽明学を危険な学問と見なして三島由紀夫を結びつけるのは、まったく浅見誤解である。

以上の安岡の所見を見ると、三島の自決に対する感想や、三島と陽明学との関連を直接明らかにしてはいない。三島と陽明学を結びつけて、陽明学を悪い意味で危険な哲学と見なし、陽明学を批判する見方に異を唱えているのである。大塩の反乱を、陽明学の〈異例〉と断じているのは、陽明学の本質はこのような危険な行動理論ではないことを強調したかったと受け取ることもできよう。

しかし三島は、安岡が〈異例〉と判断した大塩から深甚なる影響を受けた。三島の行為を大塩と同列に論じていないにせよ、安岡は三島の自決行動を陽明学の〈異例〉と見なしたと、行間から読みとることは可能であろう。

三島は陽明学を〈危険な行動哲学〉と断言していた。安岡が三島の「革命哲学としての陽明学」を読んでいたかどうかはわからない。したがって、陽明学は〈危険な行動理論〉ではないと主張した安岡が、ここで三島を間接的に批判したのかどうかも不明である。ただ、伊沢甲子麿によれば、安岡が三島とヒットラーの共通点を指摘し、二人が似ていると伊沢に言ったので、「そんなことありません。三島はヒットラーが大嫌いです」と説明すると、安岡が驚いていた、と証言している(前掲「対話編・歴史への証言」)。このエピソードは、安岡が三島を恐らく批判的に見ていたであろうこと、また三島を誤解していたことを窺わせるものかもしれない。

安岡の三島観を知る手がかりがもう一つある。安岡は伊沢甲子麿への電話で『文化防衛論』をこう批評したという(「対話編・歴史への証言」)。
「『中央公論』で『文化防衛論』を読んだ。非常に立派なものだけど、三島さんの日頃の純日本風の文章が、あそこでは、哲学的、西欧的な、ドイツ観念哲学的な文章によって書かれているので、三島さんの日頃の文章が死んでしまっている。私の拝見したところでは剣道の達人三島紀夫が、西洋のサーベルをふりまわしたような感じになっているので、その辺が残念である」

ここには、内容は立派だと言いながらも、三島の文章表現に対する違和感が率直に表明されている。しかし、純日本風の文章が死んでいることを残念がるのは必ずしも妥当ではない。
なぜなら、三島は文学作品と思想的論文を截然と区別していたからである。三島は日本の古典文学に通暁し、文学作品においては伝統的日本語の駆使に徹底的にこだわった。しかし、西欧思想にも精通していた三島は、思想的論文に関しては西欧的な思考や用語で表現した。これは、日本的精神を西欧的な言語手段を用いて表現するという、三島特有の表現方式に立脚しており、この点に関して三島は意図的であり、自覚的であった。したがって、三島の思想的論文を、文学作品を読むように読んではならないのである。純日本風の文章ではないという理由でそれを低く評価するのは、敢えて言えば〈的外れ〉ではないだろうか。

ところで三島は「革命哲学としての陽明学」で、陽明学の現状をこのように見ていた。 
「日本では陽明学の家といはれる二、三の学者の家に伝承されるばかりで、政治家や現実的な行動家のよつて立つべき基本的な哲学としてのメリットは、おおよそ失はれたといってよい」

しかしここには三島の認識不足があるように思われる。なぜなら安岡は、吉田茂、岸信介、佐藤栄作、大平正芳など戦後の歴代宰相の指南役を果たしていたからである。安岡は、政治家は内面的に独立していなければならず、堕弱な利己的打算から発した政治ではなく、真に優れた哲学と信念を持った、時代を創造するような国家指導者の出現を切望する、と語っている(前掲書)。この信念に基づいて、彼は現実政治に深く関わったと推察できる。

安岡の教えが実際に歴代首相にどのような影響を与え、どのような効果をもたらしたのかについての評価は、おそらく様々であろう。例えば、戦後政治の欺瞞を告発した三島からすれば、戦後政治を担った歴代首相は批判の対象となるかもしれない。しかしながら、陽明学がある時期政治家のよって立つ基本的な哲学になっていたとすれば、政治家の基本的な哲学としてのメリットは決して失われたわけではなかったのである。安岡は、研究のための研究ではなく、現実政治に生かす努力を惜しまなかった。そしてそれは、安岡が研究と現実的行動との一致、すなわち「知行合一」を実践していたことを証明するものであろう。

安岡正篤は在野の陽明学者であったが、アカデミックな研究者は三島由紀夫と陽明学との関わりをどう受けとめたのであろうか。

中国哲学の泰斗であり、東京大学教授であった宇野精一は、昭和四十八年五月の三島由紀夫研究会・公開講座において、「陽明学と三島由紀夫」の題で講演をしていた(前掲『「憂国忌」の四十年』)。
アカデミズムの碩学の見解を是非とも知りたいところであるが、この講演の記録は現在確認することができず、残念ながらその内容はわからない。
ただ前掲書によれば、宇野は「三島由紀夫氏追悼の夕べ」以来「憂国忌」の発起人になっており、「憂国忌」に五回参列している。そして「追悼十年祭 憂国忌」に回想文を寄せていた(「三島由紀夫の回想」『宇野精一著作集第五巻』)。

この中で宇野は、東大で開催された、教科書検定訴訟をテーマとしたティーチ・インの際に、三島の意向を無視した学生の過誤を陳謝する手紙を出したところ、三島から釈明を諒とする返事があり、その義理堅さに感服したと回想したあと、次のように書いている。

「私には三島文学について論ずる資格はない。しかし私は彼の憂国の精神と彼の人物に対して深甚の敬意を表すると共に、我々は彼の精神を継承して、わが皇国の弥栄を祈念し努力しなければならぬ」

宇野が三島の〈死〉に真摯に呼応し、その精神に敬服しているところを見るならば、公開講座の講演においても、陽明学との関連を学問的に洞察することによって、三島の精神の本質を見極めようとしたであろうと推察できるのである。

ほかの研究者については、私が調べた限りでは、三島の死から十八年後の昭和六十三年に、広島大学教授で陽明学の専門家であった吉田公平が三島を論じていた。

三島由紀夫は井上哲次郎の『日本陽明学派之哲学』に基づき陽明学を「行動の哲学」と理解しているが、これは王陽明の思想の真髄からはるかに遠い、と指摘した上で、次のように批評している(「伝習録の窓」『鑑賞中国の古典第10巻 伝習録』)。
「三島は反近代反西欧の政治行動の原理として陽明学を位置づけているが、もし陽明学に現代的意義があるとするならば、『万人は完全なる本質を普遍的に固有する』と我々に問いかけ、その発現をもくろんだ、その人間理解の方法的視角であって、政治哲学ではあるまい」

陽明学を学問的に論じることは私の能力を超えている。しかし、浅学の素人ではあっても、私の三島理解に基づいた論評をすることは許されるだろう。
先ず、三島の陽明学の位置付けは陽明学の本質と異なると吉田は言うが、三島が指摘しているように、日本に移入された陽明学は王陽明の哲学を摂取しつつ、濾過されて発展したものである。三島が影響されたのは、大塩、松陰、西郷の行動基盤となった陽明学であり、政治と深く関わっていた。したがって、変容し日本化した陽明学を王陽明の哲学と異なると批判するのは、日本的陽明学の特徴を視野に入れていない、偏狭な所見と言わざるを得ない。

次に、吉田の言う〈人間理解の方法的視角〉を、三島はすでに「致良知説」で説明しており、「良知」にとどまるのではなく、「良知」を行動に移さなければ完成しない、と主張した。すなわち〈人間理解の方法的視角〉のみで終わってはならないと強調したのである。王陽明は、「知は行の始(もと)、行は知の成(じつげん)である」と語り、知行合一を説いた(溝口雄三訳『王陽明伝習録』)。したがって三島は王陽明を正しく理解していたと言えよう。

さらに付言するなら、三島は、陽明学は政治的有効性を必ずしも保障するものではなく、〈精神の尊厳〉の発現とも説いていた。「政治」よりも「精神」を優位に置いた三島の「知行合一」は、単純な政治哲学で終わるものではないと読み取るべきである。吉田公平は三島を誤解していると言わねばならない。

吉田のように、三島の陽明学理解に正当性があるかどうかを検証する作業が全く無意味だとは思わない。しかしながら、そのようなアカデミックな解釈学で終わってはならないのである。

先に述べたように、三島にとって陽明学は学問的な研究対象ではなく、みずからの行動と固く結びついていた。そうであれば、解釈の妥当性の考察に終始するのではなく、三島が陽明学を〈みずからの死〉の確固たる根拠に据えた事実に重大な意味を見出すべきであろう。百歩譲って仮に三島の陽明学理解が独断的であったとしても、〈生命以上の価値〉の所在を訴え、「高貴なる死」を敢行したという重々しい事実を消し去ることはできないのである。

次に、中国思想専門で東京大学教授であった溝口雄三の論考を紹介する。溝口は、先に引用した、王陽明哲学の原典『伝習録』の全訳『王陽明 伝習録』の冒頭で、三島由紀夫を取り上げ、特別に稿を起こしていた(「二つの陽明学」)。「革命哲学としての陽明学」の文章を引用しつつ、溝口はこう論じている。

三島は井上哲次郎の『日本陽明学派之哲学』に触発されてこの文章を書いている。井上自身が陽明学に対してある思い入れがあり、その思い入れにしたがって大塩平八郎の「帰太虚」の説や、松陰の死生観などを陽明の哲学として紹介している。そして三島は、井上の思い入れによる平八郎や松陰の上にさらに自分の思い入れを加えて、自分の陽明学像をデッサンしている。その意味で三島の理解する陽明学は、中国の陽明学の側から言えば、全く別種の思想というほかない。

ここまでは吉田公平の見解と類似している。しかしこのあとが溝口独自の所論となる。 

先ず中国陽明学の特質を詳細に解説し、孝悌慈を内容とした、人の道徳的本性(良知、心の本体)の発揮を説いたことによって、「儒教の民衆化」がなされた点を大きな特徴と見なす。日本陽明学については、熊沢蕃山、山鹿素行、井上哲次郎、中江兆民、大隈重信、内村鑑三など、二十名以上の思想家の陽明学観を列挙し、?内面自立・進取,?変革、?生死超脱、?神仏、?日本的、?宇宙的、と日本陽明学の多彩な変容ぶりを詳述している。

このように中国陽明学と日本陽明学の違いを学問的に精察した上で、三島由紀夫をこう描き出す。

「私が思うに、全く異なる日中の陽明学であるが、その二つの思想を一括する活力が三島の陽明像には具わっている。つまり、三島が取り出した陽明像は、日本の王陽明にも中国の王陽明にもどちらにも感得できるある本質的な部分を湛えている」
「おそらく三島は自らの有限の生を絶つことによって永遠の生を獲得する道を選んだ。それが彼にとって、行動家の哲学としての陽明学の道であった」

溝口は、三島の陽明学理解を学問的に解明するだけでなく、三島の情念に感応しようとする心性が際立っている。研究者の域を超え出て、三島の精神的本源をつかみ取ろうとした溝口雄三に対して、学者としてだけでなく一人の〈人間〉として尊敬の念を抱かずにいられない。アカデミズムの世界にも明哲な理解者がいることを知ったなら、三島由紀夫の魂魄は絶対の安息感に満たされることであろう。


(5)「革命哲学としての陽明学」――暗喩に彩られた遺書



「革命哲学としての陽明学」発表の約十カ月前に行われた村上一郎との対談で、三島は次のように語っていた(「尚武の心と憤怒の抒情」)。

「……言葉が軽視されたということがすべての間違いのもとだというふうに思うのですけれども、政治の基本は、言葉で『おれはあした羽田から発つ』というと、羽田から発たなければならないというのが政治のルールと基本であつて、(中略)こっちも『あした首相官邸を占領する』といったら、その言葉は文学の言葉と本質的に同じ重さを持つべきだ」

「ぼくら小説を書くときはそういう言葉を書くつもりで書いているのだから、そうしたらやらなければならない。そりゃ死んでもやらなければならない。だから『十一月に死ぬぞ』といったら絶対死ななければいけない。政治の言葉が文学の言葉と拮抗するのはその一点を措いてないのですよ。(中略)一度言葉をばかにしたら、あと永遠にこれをばかにしなければならない」
この発言は、言葉と行動が乖離し言葉が重みを失っている現状を痛烈に批判しており、まさしく陽明学の「知行合一」の必要性を説いていたのである。しかも〈十一月に死ぬぞ〉の言葉どおりに、三島は〈死〉を断行し、「知行合一」をみずから実践したのである。

そして「革命哲学としての陽明学」が収録された『行動学入門』の「あとがき」で、こう述懐した。
「注意深い読者は、これらの中に、(私の小説よりもより直接に)、私自身の体験や吐息や胸中の悶々の情や告白や予言をきいてくれるであらう。いつか又時を経て、『あいつはあんな形で、こういふことを言いたかつたんだな』といふ、暗喩をさとつてくれるかもしれない」

「革命哲学としての陽明学」は、まさに三島の〈情念〉と〈告白〉と〈予言〉の論文であった。冒頭で指摘したように、三島は遺言めいた文章や書簡を数多く遺した。この「革命哲学としての陽明学」もまた、三島の〈暗喩に彩色された遺書〉と言っても過言ではない。

さらに、自決の一週間前に行なわれた古林尚との対談「三島由紀夫 最後の言葉」では、次のように激白していた。

「どろ臭い、暗い精神主義――ぼくはそれが好きでしやうがない。うんとファナティックな、蒙昧主義的な、さういふものがとても好きなんです。それがぼくの中のディオニソスなんです。ぼくのディオニソスは、神風連につながり、西南の役につながり、萩の乱その他、あのへんの暗い蒙昧ともいふべき破滅衝動につながつているんです」

パトスの最奥からほとばしり出たこれらの言葉もまた、自決の予告だったのである。ファナティックな精神主義と狂激なディオニソスが、陽明学の能動的ニヒリズムと固く結合して「切腹」を成就させたと見ることもできよう。

三島は、極度に自分に厳しい求道者であった。陽明学を精神的原理とした三島の「切腹」は、決して政治的有効性や人を動かすことを意図したものではなかった。それは純粋に「無償」の行為であった。「生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか」と絶叫したが、ただ言葉で訴えただけではなかった。みずからの言葉を壮絶な切腹行為によって明証したのである。

三島は「肉体の死」よりも「魂の生」を切願した。「自己否定」によって「自己再生」を図る。「死」によって「生」を得る。この逆転の構図を描き切った三島は、「人間の尊厳」を明示した。全身全霊を傾けた〈自分だけの行動〉が「純粋性」を帯びたとき、それは〈人を動かす〉ことを立証した。三島由紀夫の「荘厳なる死」は、たとえ本人が「無効性」を覚悟していたとしても、他者の心を根底から揺さぶり、他者を覚醒させる「有効性」を帰結させた。「無効性」が「有効性へ」と転成したのである。
三島由紀夫の凛冽な心魂は鮮烈な閃光となって、消滅することなく輝き続けるであろう。 
(終わり)

◇ 参考文献 ◇
・三島由紀夫『決定版 三島由紀夫全集』全四十二巻・補巻(新潮社、二000〜0五)
・林房雄、伊沢甲子麿『歴史への証言――三島由紀夫・鮮血の遺訓』(恒友出版、一九七一)
・伊沢甲子麿「三島由紀夫の精神」日本学生新聞編『回想の三島由紀夫』(行政通信社、一九七一)
・保田與重郎「天の時雨」『新潮臨時増刊 三島由紀夫読本』一九七一年一月臨時増刊号
・三島由紀夫研究会編『「憂国忌」の四十年』(並木書房、二0一0)
・遠藤周作『遠藤周作文学論集 宗教編』(加藤宗哉、富岡幸一郎編)(講談社、二00九)
・内村鑑三『代表的日本人』(鈴木俊郎訳)(岩波文庫、一九四一)
・新渡戸稲造『新渡戸稲造全集』第一巻(教文館、一九六九)
・安岡正篤『現代活学講話選集7 王陽明』(PHP文庫、二00六)
・宇野精一『宇野精一著作集』第五巻(明治書院、一九八九)
・吉田公平『鑑賞中国の古典第10巻 伝習録』(角川書店、一九八八)
・溝口雄三『王陽明 伝習録』(中公クラシックス、二00五) 
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  • H6aHEJNA8g2016/04/27

    I just got back from 5 months of living in Sweden (for study abroad) – and I really loved the way they eat there!  Granted there was a little more meat and dairy than I typically like, I thought their methods of serving and size of portions was fantastic.  I also noticed that th&ey#8217;re *big* on digestives and fiber – lots of cultured dairy, mostly dark bread and whole grains, etc.Oh, and the fish (especially salmon) in Scandinavia is like nothing you’ve ever tasted.

  • 名無しさん2014/02/08

    ズバリ説得力のある記事でした。筑後川の日本人