文学

三島由紀夫の総合研究

創立35年の老舗「三島由紀夫研究会」の会報を兼ねた、あらゆる角度からの総合研究メルマガ

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三島由紀夫研究会メルマガ(市川雷蔵とミシマ)

2010/06/30


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『三島由紀夫の総合研究』(三島由紀夫研究会 メルマガ会報)
      平成22年(2010)7月1日(木曜日)
          通巻第411号 
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市川雷蔵と三島由紀夫
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                            秋山大輔

 市川雷蔵は昭和六年生まれだから三島由紀夫と六歳違う事になる。私は二十代後半に三島の『炎上』をビデオで観てから、『大菩薩峠』等の色気のある剣士姿に魅了されて雷蔵のファンになった。
 今でも多くの女性ファンを獲得している雷蔵だが来年の八月で生誕八十年を迎えると知り、ある種の衝撃を受けた。
何故ならば三島文学を愛する者ならば感じる事であるが、三島は四十五歳で没しているので当たり前ながら「若い作家」というイメージがある。川端先生の様な老齢で作家然とした雰囲気はない。三島由紀夫は事件により世間から「若い」印象を獲得したが、雷蔵も肝臓癌で三十六歳の死で永遠に「美剣士」である権利を獲得したと言えるだろう。
それ故に老境に達した雷蔵を想像するのはなんとも困難である。

 雷蔵が三島の『金閣寺』を原作とした、市川崑監督の『炎上』に出演したのは昭和三十三年、雷蔵二十七歳の時である。雷蔵が「美剣士」のイメージから脱皮する為の好機だったといえる。雷蔵は映画公開の翌年こういう感慨を「私の愛と生活の条件」のなかでこう述べている。
「『炎上』を認めていただいたことは、私の野心が認められたことで、これよりも嬉しいことはありませんが、原作を読んだ時に演りたいと思い、監督の市川崑さんと二人で一年ネバリました。高い山を、休むことなく登っていくつもりで・・・・・・このネバリが役に立ったのでしょう」(『若い女性』昭和三十四年三月所収)。

 雷蔵は学生僧を演じるにあたり断髪式も行っているほどの気合いの入れようであった。
「『炎上』出演から・・・・・・」では「私が『炎上』で丸坊主になってまであの主人公の宗教学生をあえてやる気になったのはもとより、三島由紀夫氏の原作『金閣寺』の内容、市川崑監督をはじめとする一流スタッフの顔ぶれにほれ込んだことも大きな原因ですが、それと同時に私はこの作品を契機として俳優市川雷蔵を大成させる一つの跳躍台としたかったからにほかなりません」(『よ志哉』昭和三十三年七月(市川雷蔵後援会会誌)所収)と述べている。
若き文学者と三十歳を前にした歌舞伎の流れを汲むアイドル的存在であった俳優のエネルギーが混ざり合い、『炎上』と言う半世紀経ても色褪せぬ名作が生まれたのである。三島も『裸体と衣装』にて『炎上』、雷蔵の演技に最大の賛辞を贈っている。

『炎上』撮影時には「頭を五分刈にした雷蔵君は、私が前から主張していたとほり、映画界を見渡して、この人以上の適り役はいない」と書き、完成時には「俳優も、雷蔵の主人公といひ、鴈治郎の住職といひ、これ以上は望めないほどだ」と絶賛した。その後雷蔵は三島原作の『剣』(昭和三十九年)にも出演している。
三島自身は自作の映画化に基本的に関与せず、無関心であったと言われている。しかし雷蔵は三島にとって自作の主人公を体現化した唯一の存在ではなかったのではないだろうか。

その雷蔵が三十六年の生涯を閉じたのは昭和四十四年七月十七日であった。
私は三島全集を眺めたが雷蔵に対する具体的な追悼文は見当たらなかった。『金閣寺』の主人公、溝口を三島の願望通りに演じた雷蔵の死に際して、求められたか否か判らないが市川雷蔵追悼文という単独の作品が無いのは奇異に思われる。崩壊と消滅の三島美学を集約させた小説『金閣寺』の主人公を演じた雷蔵の死は三島にかなりの衝撃を与えていた事は想像に難くない。三島はテレビで「癌で死ぬのは恐ろしい」と述べていたが、映画という芸術に最後まで執念を燃やし、阿川弘之の『海軍兵学校』の映画化出演を望んでいたが、叶わなかった雷蔵に夭折の美学と聖セバスチャンを重ね合わせたに違いない。

三島は雷蔵存命時にこのまま追悼文として通用する文章を草していた。推測にしか過ぎないが三島は雷蔵の夭折を予期していたのではないか。
美的存在の崩壊は三島の願望であり、確信であったからである。昭和三十九年一月に日生劇場プログラムに三島が書いた「雷蔵丈のこと」は一種の予言であり、象徴的な人間評論であり映画と言う「過去」に込められた愛惜である。
「君の演技に、今まで映画でしか接することのなかつた私であるが、「炎上」の君には全く感心した。市川崑監督としても、すばらしい仕事であつたが、君の主役も、リアルな意味で、他の人のこの役は考へられぬところまで行つていた。ああいふ孤独感は、なかなか出せないものだが、君はあの役に、君の人生から汲み上げたあらゆるものを注ぎ込んだのであらう。私もあの原作に「金閣寺」の主人公に、やはり自分の人生から汲み上げたあらゆるものを注ぎ込んだ。さういうとき、作家の仕事も、俳優の仕事も、境地において、何ら変るところがない」
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■訃報

 中村粲(あきら)先生
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 元獨協大学教授。「大東亜戦争への道」が代表作。憂国忌発起人。
 享年76歳。NHK問題で「正論」に精魂込めた連載コラムもさりながら「昭和史研究会」を主宰され「時間がすくない。本来は国家がおこなうべき仕事です」と、地道に着実に大東亜戦争の真実を、中国の嘘宣伝を暴き続けた。
ご自分で死期を悟られたのか、昭和史研究所会報を155号(平成22年6月10日号)をもって、自ら閉幕され、すべての運動の整理を始められていた。
 近親者で密葬。しのぶ会が開かれる予定。

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(読者より)中村粲先生ご逝去の報に驚きました。先生はたしか昭和9年生まれだから今年で76歳。初めてお会いしたのは私が学生の頃で先生は独協大学の講師か助教授であったと思います。
中村先生は日本の学界では異端扱いであったが、極めて戦闘的な学者として常に旺盛な闘志を燃やしておられました。いつか重遠社の講演会で「怪傑ハリマオ」の歌(戦後の三橋美智也バ−ジョンではなく、戦時中の大映映画主題歌)を歌われたのが印象に残っています。
合掌。追悼会の日時が決まったらお教え下さい。
          (HT生、杉並区住人)
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MMMMMMM 三島 MMMMMMMMMMMM 三島 MMMMMMMMM
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(編集部から)小誌は「三島由紀夫研究会」(昭和四十六年創設)の会員だけに限定せずに、三島研究の論文、エッセイをつねに募集しております。比較文学論(たとえば「吉本隆明と三島」とか)、作品論(たとえば『仮面の告白』に新解釈)、読後感、政治論、芸術論。まるで分野を問いません。三島さん自身、古典から前衛まで、映画からシャンソンまで万能の人でしたから。
 「憂国忌」への御感想、御希望でも構いません。皆さんからの御投稿を広くお待ちします。原則として実名。簡単な肩書きをつけて下さい。ただし三島文学批判も構いませんが、明らかな誹謗中傷のたぐいの投稿は採用しません。ゲスト寄稿者コーナーも常設しております。一部の原稿は年二回以上発行のメルマガ合本に掲載することがあります。    
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      メール  yukokuki@hotmail.com
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創刊日:2006-01-12  
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