文学

三島由紀夫の総合研究

創立35年の老舗「三島由紀夫研究会」の会報を兼ねた、あらゆる角度からの総合研究メルマガ

全て表示する >

三島由紀夫研究会メルマガ(連載完結編)

2010/03/26


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 
  『三島由紀夫の総合研究』(三島由紀夫研究会 メルマガ会報)
      平成22年(2010)3月27日(土曜日)
          通巻第393号
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
(完結編)

   ♪
<三島由紀夫没後四十年>
『三島由紀夫と田母神俊雄――国体と日本国憲法を巡って』(下)
                          秋山大輔

 △
 杉山氏と田母神氏のインタビューには一種パラドックス的な要素、二項目に及ぶ三島由紀夫の情念が存在する。簡単に書けば、昔の武士は藩に不満があれば諌死した。だからこそ自衛隊のトップである防衛大臣の命令に背くとは何事かという論。
もう一つはこのインタビューには具体的に書かれていないが自衛隊は憲法違反であり、覚醒せよという三島の念願が潜んでいることも忘却してはならない。ここからは三島が自衛隊への覚醒を望んでいた姿を明確化する。

三島由紀夫は東京大学法学部卒業である為に明確な法意識が存在した。昭和四十五年に当時の官房長官保利茂の求めで、口述したものを内閣用箋にタイプした原稿で『武士道と軍国主義』(『決定版三島由紀夫三十六巻』所収)である。特に正式な発表を意図されたものではなく、これが閣僚会議に提出され、「国防の基本方針」に採用される事を期待したが叶わなかった。

石原慎太郎は著書『わが人生の時の人々』にて当時の様子と思われる光景を評論家村松剛に話をした時にこう述べている。
「実は先日保利官房長官に呼ばれて、もうじきに始まる定例国会での佐藤内閣のために何か建言してくれというので、僕と三島さんと今日出海さんとがホテルニューオータニで話したんですよ。そこで三島さんが最後に時間を三十分間一人で滔々と喋ったのは、政府が自衛隊を駆使しての反クーデタ論でしたよ。それもどこそこに何師団、空挺部隊はどこへ、戦車軍団はどこにといった具体的実働計画でしたよ」
と皮肉まじりに語っている。


▲三島の『武士道と軍国主義』

そして三島が帰った後に「おい、三島君は一体どんなつもりであんなことをいったんだね」と石原に尋ねたそうである。
石原は小説のプロットと誤魔化したそうだが、三島の論理は先進的であり当時の面々には理解出来なかったに違いない。現代においては、地下鉄サリン事件、アメリカの同時多発テロ、様々な猟奇的な事件が多発し規制の憲法、法律では加護出来ない事柄が世間を覆っている。三島は高度成長化において平和惚けした日本の惨憺たる数十年後の姿を脳裏に仮想していたに違いない。

 さて前記した『武士道と軍国主義』である。最終的には当時の陸上自衛隊調査学校の教官で交流があった山本舜勝に八月十日の速達便で三島が逗留していた下田東急ホテルから送付され、昭和五十三年に雑誌『プレイボーイ』誌上に発表されるまで眠る事になる。この封印されてきた三島の意見は当時としては先進的である。三島は石原に「憲法改正、九条改正は無論である」と述べていたそうである。
憲法改正議論や核保持議論さえもタブーであったこの時代に、祖国防衛隊構想など矢継ぎ早に発表しているが、三島の意見は四十年早かったと慨嘆する他ない。

三島は『武士道と軍国主義』の冒頭に「私は戦後の国際戦略の中心にあるものはいふまでもなく核だと思ひます」と核心を最初に突いてくる。そして三島は後の事件のキーワードとなる発言をする。
「私がこれから申し上げる防衛問題の前提としてこれを申し上げるのは、我々はヒューマニズムを乗り越えて人命より価値があるもの、人間の命よりももつと尊いものがあるといふ理念を国家の中に内包しなければ国家たり得ないからであります。これは種々利用されて欠点はありますが、我々は天皇といふものを持つている。我々がごく自然な形で団結心が生ずる時の天皇、それから、人命尊重以上の天皇と、この二つのものを持つてゐながら、これを常にタブーにして手をふれることが出来ないままに戦後体制を維持してきた。ここに私は共産圏、敵方に対する最大の理論的困難があるにもかかがらず、結局この根本的な問題を是正することなしに、ずるずると動いてきてゐることに非常に危機感を持たざるを得ないのです」
 と象徴天皇制に切り込む議論を展開している。

それは『英霊の声』、『二・二六事件と私』から貫く三島文学とコミットする主題である。そして日本国憲法が国連憲章の上で成立しているにもかかわらず、国連軍に参加出来ない矛盾を突き、「自主防衛を完全に放棄したといふことで、自主防衛は全く成り立たない、我々は国連軍である、我々にはなんら自分の軍隊は無いのである。そのかはり、国連軍に参加して、国連警察隊として海外派遣もやらう、あるひは、核兵器をつまり国連の管理下に置きながら、これも利用することもあらう、かういう形で国防理念を完全に国連憲章と一致させることであります」と論理を展開するが核アレルギーの強い日本政府に三島の意見は通じる筈も無かった。

三島は終止「核兵器」を国防のファクターとして何度も連呼しているが、現在の北朝鮮による核開発が日本の安全圏を脅かしているように非核三原則から脱出出来ない三島の苛立と義憤が伝わるようである。
三島は傷心状態で山本にこの論文を投函したのではないだろうか?
 さてここで時系列を整理してみたい。三島事件裁判時に事件に対する時系列が明らかにされた。昭和四十五年三月一日から二十八日までの間に三島は「楯の会」第五期生三十名と共に富士御殿場陸上自衛隊滝ヶ原分とん地に体験入隊し、この時期に学生長森田必勝と決起の相談をされていたとされる。そして体験入隊後の四月に小賀正義、小川正洋に決起への参加をそれとなく呼びかける。


▲密談のプロセス

三島は五月中旬、自宅に森田、小賀、小川を招き「楯の会と自衛隊が共に国会を占拠し、憲法改正を訴える」計画をにおわせるが、模索中。そして六月十三日に遂に赤坂ホテル・オークラ八二一号室にて三島、小賀、小川が集合し、「自衛隊は期待できない、独自決行の方法を質疑の上、総監拘束案を実行する具体案を各自が研究すること」が決定される。

 そして同二十一日には駿河台山の上ホテル二○六号室の打ち合わせで、遂に日本刀使用が確認される。そこから三島は非合法の方法で「自衛隊は非合法、そして憲法改正」を訴え、自決を視野に入れる。三島は様々な手段で自身の理念を訴えていたのである。小説家として最後の長編である『豊饒の海』の完成、「楯の会」の活動、様々な雑務に追われながら三島は最後の決起に向い布石を打って行く。それが講演活動や政府から受け入れる事の無い意見書をしたため未来の人間に理解されるべく活動を進めていったのだ。前記した『武士道と軍国主義』を山本に送付したのも死地に赴く為のアリバイの一つであった。

平成十九年の憂国忌で井尻千男氏が「最後の特攻としての三島由紀夫」と題して講演されたが、「祖国の未来における危機」という戦地への遺言を様々な手段でしたためていたのである。

 そしてこの有名な一文にも着目せねばなるまい。
昭和四十五年七月七日のサンケイ新聞夕刊に掲載され、安倍元首相や様々な著名人が引用する三島が市井の人たちに向けて発表した虚無感溢れる「果たし得てない約束ム私の中の二十五年」である。

二十五年とは終戦後から昭和四十五年までの時間だが書き出しから悲壮感溢れているのだ。そしてメッセージの如く三島事件当日に三島の書斎の机の上にこの記事がひっそりと置かれていた。 
 「私の中の二十五年間を考えると、その空虚に今さらびっくりする。私はほとんど「生きた」とはいえない。鼻をつまみながら通りすぎたのだ。
 二十五年前に私が憎んだものは、多少形を変えはしたが、今もあいかわらずしぶとく生き永らえている。生き永らえているどころか、おどろくべき繁殖力で日本中に完全に浸透してしまった。それは戦後民主主義とそこから生ずる偽善というおそるべきバチルス(つきまとって害するもの)である。

 こんな偽善と詐術は、アメリカの占領と共に終わるだろう、と考えていた私はずいぶん甘かった。おどろくべきことには、日本人は自ら進んで、それを自分の体質とすることを選んだのである。政治も、経済も、社会も、文化ですら。」

 三島の虚無感とともに諦めに似た境地と自身の心情の吐露を感じる事が出来る。最近私は書棚の前で『檄文』とこの文を読んで涙を一人流した。それは日本人としてのアイデンティティーを喪失したまま占領状態から脱却出来ぬ、祖国の姿への明らかな絶望感を体感したに他ならない。アメリカの占領という呪縛が解かれてもなお、自国の憲法さえ満足にいじれぬ憲法改正論議さえ禁句であった当時の状況を嘆く、作家ではない「人間」平岡公威(三島由紀夫の本名)がこの文には横溢している。

 今こそ、国粋的な発言をしてもそれほどの嫌悪感を示される事は少なくなったが、昭和三十、四十年代は日教組や革マル派等左翼勢力が全盛の頃で、楯の会結成の頃は「三島は頭が狂った」、「楯の会はおもちゃの兵隊だ」と揶揄され、思想的言動は黙殺され罵詈雑言を浴びせられた。この頃の三島は四面楚歌の状態であった。

評論家の宮崎正弘が、三島と共に殉じた森田必勝とともに東大に乗り込んだ時に、「右翼は帰れ」と言われたそうである。
ノーベル賞候補とも言われた国際的な作家の右傾化した行動に眉を顰め、離れて行った人物も三島の死後に三島を利用した。三島は四面楚歌となった己の状況を嘆くのである。
「私はこの二十五年間に多くの友を得、多くの友を失った。原因はすべて私のわがままに拠る。私には寛厚という徳が欠けており、果ては上田秋成や平賀源内のようになるのがオチであろう。」


▲檄文と「わたしのなかの二十五年」のあいだ

檄文と「私の中の二十五年」が発表されてから三十九年もの月日は流れたが、誰がこの発言に真摯に耳を傾けただろうか。我々は普段の生活で精神を摩耗し、日本の歴史や文化をないがしろにして来たのではないだろうか。祖国への裏切りというよりか、「日本」、国体を忘却する状態に甘んじてしまったのは揺るぎない事実だ。時間の少しでもいいから日本に思いを馳せる瞬間を有してもいいのではないのだろうか? 愛国は危険な用語か?
結論は否である。
 
福田前首相は、「他国がいやがる事(靖国参拝)はしないほうがいい」と内政干渉を是認したとも取れる亡国的発言を行っていた。国の為に殉じた方々を慰霊する事が他国の心情を害すると言う荒唐無稽な発言を一国の総理が述べるとは許し難い。民主党の鳩山幹事長は小泉元総理の靖国参拝を「愚行」と述べた。

どれだけ死者を愚弄すれば気が済むのであろうか。今だからこそ、三島氏の発言に耳を傾ける時代が到来したのではないかと思う。それが氏への弔いであり、祖国の糧になるのではないか。
「二十五年間に希望を一つ一つ失って、もはや行き着く先が見えてしまったような今日では、その幾多の希望がいかに空疎で、いかに俗悪で、しかも希望に要したエネルギーがいかに厖大(ぼうだい)であったかに唖然とする。これだけのエネルギーを絶望に使っていたら、もう少しどうにかなっていたのではないか。
 私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである。」

ここまで達観した心境にいた三島由紀夫は空疎な精神状態に身を置いたに違いない。新聞という事もあるだろうが、極力難しい事柄は排他し、自身の無力感と、空疎な心境と未来への絶望を書ききったのである。自決の当日に机の上に置かれていたこの記事こそ一般の方々への三島由紀夫からの嘘偽らざる遺書であり、「自決」への決意表明のように私は思えてならないのである。そして弛緩して行く日本人への警告であった。
 そして三島は最後の講演を死の二ヶ月前に行っていた。当時の防衛庁長官は三島自決時と同じで中曽根康弘であったが因縁といえばいいのか判然としないが、昭和四十三年に中曽根派の「新政同志会」が結成され、その会において夏に政治家を志す若者を全国から募り、宿泊してセミナーを開催してきた。そこで講演したのである。


▲事件の貳ヶ月前に三島は中曽根の研究会で講演していた

 昭和四十五年九月三日、午後四時二十分、東京代々木国立オリンピック記念青少年総合センターでの第三回研修会の初日に「我が国の自主防衛について」と題して講演している。
 三島はこの講演でも淡々とした話し方でありながら日本国憲法が持つ矛盾を正鵠に射抜いているのに驚かされる。前記したが既にこの頃には三島事件の概要はほぼメンバーの間で構築されていたにも関わらず、である。そして昭和四十四年四月に『二十世紀』発表された『自衛隊二分論』における「国土防衛軍と国連警察予備隊とに分けよ」という考えを踏襲している。

ここで講演の一部を引用する。
「この自主防衛の問題は、例へば集団安全保障と自主防衛といふ、一つの矛盾した形が日本の防衛の基本になつておりますんで、非常に難しい。国内からは突き上げられ、国外からはともすると軍国主義の復活などと言はれる。ただ、日本人が日本に住んでて国を守るのに何の不思議があるんだ。憲法が一切、戦力を持つてはいかんと言ふならば、普段は戦力を持たないで自分の身体を武器にして身体を鍛へて、軍事的な教養を身体の中に蓄積したらいいぢやないか。こんなことを私は考へて来たわけであります」

 この言葉を体現したものが『楯の会』であり、三島由紀夫は予備自衛官を想定していたのではないだろうかと私は考える。普段は普通の生活をしているが、国防の時期が来たら国体護持の為に汗を流す純粋な「軍」の成立を三島は夢想していたのである。

 そしてこの講演において憲法改正を遡上に取り上げ、現段階の状況では憲法改正は難しいと慨嘆しているのである。その基本理念が自衛隊のアキレス腱となる・・・。この事情は現在でも変化は無い。テロ行為から身を守る為の術を日本は合法的ではなく、拡大解釈によってしか発動出来ぬ現状を既に見抜き、自決前から三島は政治家を志す若者に事実を説いたのである。

三島は直ぐに理解される事を望ますに未来に言霊を託したのである。
 三島は自決の計画を胸に秘めつつも未来の政治を司る若者を最後まで信じていたのだ。ある意味、三島は祖国を心から信じていたのである。この講演は未来の憲法改正、自身の肉体が消滅した後に繋ぐ言霊なのである。
 そしてその日に、友人のヘンリー・スコット=ストークス宅で夕食を食しながら、日本全体が呪いにかかっていると話しだす。
大塩平八郎の話をし、その後「日本は緑色の蛇の呪いにかかっている」、「日本の胸には、緑色の蛇が食いついている。この呪いから逃れる道はない」と悲観的に語っている。戦後日本に取り憑かれている何かが三島には見えたのだろうか。国防を語るその日に暗示的な発言をする三島に、日本への愛惜を感じずにはいられない。

そして三島由紀夫は檄文において自衛隊にこう訴えるのである。
「我慢に我慢を重ねても、守るべき最後の一線をこえれば、決然起ち上がるのが男であり、武士である。われわれはひたすら耳をすました。しかし、自衛隊のどこからも、「自らを否定する憲法を守れ」といふ屈辱的な命令に対する、男子の声はきこえては来なかつた。かくなる上は、自らの力を自覚して、国の論理の歪みを正すほかに道はないことがわかつてゐるのに、自衛隊は声を奪はれたカナリアのやうに黙つたままだつた。われわれは悲しみ、怒り、つひには憤激した。諸官は任務を与へられなければ何もできぬといふ。しかし諸官に与へられる任務は、悲しいかな、最終的には日本から来ないのだ」
 三島は自衛隊の存在意義、憲法的矛盾を突きつけ、未来に課題を投げかけたまま憤死したのである。


▲誰も理解できなかった四部作

 政治的活動に自決の間際まで邁進していた三島であったが決して文学を蔑ろにしたわけではない。昭和四十五年の五月一日頃に『豊饒の海』最終章である『天人五衰』を起稿するのである。何度も明記するがその頃には「死」は三島の脳裏に確実に存在していたのだ。 
 私は『豊饒の海』四部作の中でも『天人五衰』を愛してやまない。
何故なら三島由紀夫が己の命を賭して上梓した鎮魂の書だからだ。先ほどの時系列を考慮してみても、この作品について様々な評論家が三島の政治的行動と合わせて批判を展開した。

最初の三部作はよく練られて構成されているが、最後の作品は痩せこけている」というものや、ほとんどが批判な意見が横溢しているのが現状である。
 石原慎太郎はインタビューで「(第四部目を読んで)読み終わって泣いたね。僕は三島さんを好きだったから、本当に気の毒になった。あの人がこんなに駄目になってしまったのか、と。だってあの小説読んで、感動がありますか? 作品そのものが変にサンクチュアリ(聖域)みたいになっていて、誰も真面目に論じない。一番それをはっきり言ったのは野坂昭如だね。みんな妙に遠慮していると言うけれど、僕はあの小説はやっぱり冗漫で退屈で気の毒だったな。」
と感想を述べている。

 石原は『三島由紀夫の日蝕』において、ボディビルで鍛錬された肉体の虚構と、晩年の衰弱について遠慮ない論説を展開しているが、それは生きた三島由紀夫の皮膚感覚を知る事が出来た人物の特権とも言えるかもしれない。
 私はこの様に考えた。簡単に述べれば、最初の三部作では華美な装飾を存分に使い、絢爛な文体で読者を魅了し心を鷲掴みにする。しかし最後の四部作目では装飾を廃し、原点に立ち返ったのではないか。全てを削ぎ落とし、必要最低限の手法で書き上げた先に『天人五衰』があるのではないかと・・・・。私は推測するのだ。

 三島が自決した昭和四十五年十一月二十五日に編集担当者である小島加代子氏にお手伝いさんの手から原稿は手渡された。しかもこの最終稿は三島由紀夫初の近未来小説になっているのだ。
始まりはこんな風だ。
「昭和四十九年のクリスマスを、透がどう過ごすかということを、本多に訊くさえ慶子は義憤にかられた」と戦後日本の空疎さへの怒りに満ちている。
 作品上で三島は未来も変らず、詰まらぬ、取るに足らぬ日常が展開される事を書きたかったのかもしれない。クリスマスを望み、正月を迎え、仕事をする日常の輪廻を三島は蔑んだのかもしれない。これまでクリスマス・パーティーや正月を自宅で盛大に祝った自身に対する恐ろしいまでの皮肉かもしれない。そして退屈な日常、弛緩した日本人の病んだ精神は今日まで継続しているのはいうまでもないだろう。そしてストーリーテラーである本多繋邦が聞いた世間の声は三島が描き出した欺瞞と平穏な日常を安穏と生きる現代人へのアイロニー(皮肉)であった。『行動学入門』等で示した今後の日本人への継承も気泡に期すことも理解した上での、憔悴間がこの最後の作品に漂うのだ。

最後の二ページに置ける描写の美しさはこれまでの三島文学で多分に取り入れられ読者を魅了した装飾がなく、月修寺の描写は全てを出発点であった終戦の日に見た三島自身の原点、インタビューやエッセイで何度も書いた鮮烈な「太陽」に帰結する様を清明で澄みきった文体に昇華されていく三島由紀夫の姿を俯瞰するように感じられてならない。
 再読して、流れる涙を抑えられなかった。
「これと云って奇巧のない、閑雅な、明るくひらいた御庭である。数珠を繰るような蝉の声がここを領している。そのほかには何一つ音とてなく、寂寞を極めている。この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。
 庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしている。・・・・・・
                 「豊饒の海」完。
                    昭和四十五年十一月二十五日」

三島は文学上でも、終戦の日の太陽のもとに帰結したのである。
様々な文章でも書き、テレビカメラの前でも語った終戦記念日。最後に己の原点である昭和二十年八月十五日に・・・・・・。日本を愛し憤死した「純」なる日本人の姿に文字上で私は出会ったのだ。


▲サイデンステッカーはかく分析した

最後に杉山氏と田母神氏の対談に戻ろう。杉山氏はこう田母神氏に語りかける。
「アメリカにとっては自衛隊の自立こそが脅威なのだと思います。しかし、今回の田母神さんの発言は「自衛隊は自立させると暴走しかねない。危険だ」という口実をいろいろな方面に与え、やはりアメリカの監視下に置いておいたほうが安全だという方向に利用されたとは思いませんか?」と痛烈な質問を浴びせているが、田母神氏は冷静に答える。
「短期的に見れば、その通りかもしれません。政治家やマスコミがこぞって批判を展開したせいで、自衛隊に対する監視や思想的な締め付けが強まりました。ただ、今までどおりの安全走行しかしないのでは、自衛隊の自立は遠ざかり、日本はまずい方向に進む一方。それでもやり方を変えてはいけないというのですか。

長期的には、私の論文や発言はプラスになるはずです。大多数の隊員は「よくぞいってくれた」と思っているでしょうし、実際、そういうメールもたくさんきました」と語っている。そして正攻法として空幕長という立場であれば、大臣に助言すべきだと述べる杉山氏に田母神氏は大臣がころころ替わり、どう助言すればいいのか・・・と首を擡げる。これぞ今の日本の現実なのだ。田母神氏は論文という手段で自らの歴史観を披瀝する手段を選んだのもさもありなんという感じである。

 三島由紀夫の死は無駄ではないことがようやく現実的に、立証されたように思う。何故ならば、今回の田母神氏の出来事により自衛隊も覚醒されつつある事が証明されたからだ。
 三島は純粋に日本を愛し、その精神が後世に継承されることを希求していたのだ。三島事件の後に三島夫人の瑶子さんは「主人は『すぐに理解されなくてもいい、五十年後、百年後の日本人に判ってもらえればよい』と申しておりました」と語っていた。日本文学研究者の故サイデンステッカーは三島の人気について「西洋の読者、特に若い読者には日本のどんな現代作家より人気があるようだが、その人気のもとは文学より三島という人物にこそあるのではなかろうか。最後の行動がものをいっているのだと思える」と分析している。

無論、行動から三島研究の門を叩くのはよい。しかしマクロからミクロへ、三島の自衛隊、憲法観に触れてみる事がより今後求められ日本がより覚醒する一助になるのだと考えている。
 三島事件から三十八年もの時を経て、三島由紀夫を特別に意識していなかった田母神前航空幕僚長が日本人として正論を述べた。
田母神氏は「長期的に」と仰っているがその反応は様々な方面で、ダイレクトに現れている。三島が訴えた自衛隊の変革は徐々に始まっている。そして安倍元首相、日本国総理大臣が公然と「憲法改正」を訴えるようになった。
 そう、三島事件はまだ終わっていないのである。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 << 参考文献 >>

『五衰の人 三島由紀夫私記』 徳岡孝夫 文春文庫刊
『三島由紀夫 「日録」』安藤武 未知谷刊
『決定版 三島由紀夫全集』 新潮社刊
『三島由紀夫『以後』』 宮崎正弘 並木書房刊
月刊『WILL』平成二十一年 一月号 二月号 ワック・マガジンズ
『スタンダード 憲法』 古野豊秋 編 尚学社
『憲法 新版』芦部信喜  岩波書店
『評伝 三島由紀夫』 佐伯彰一 新潮社
『ペルソナ』猪瀬直樹 文春文庫
『三島由紀夫おぼえがき』中公文庫 澁澤龍彦
『三島由紀夫と楯の会事件』 保阪正康
『日本は「侵略国家」ではない!』海竜社 渡部昇一・田母神俊雄
『自らの身は顧みず』ワック出版 田母神俊雄
『酒盃と真剣 石原慎太郎対談集』参玄社 石原慎太郎
『果たし得ていない約束 三島由紀夫が遺せしもの』コスモの本 井上豊夫
『「兵士」になれなかった三島由紀夫』 小学館 杉山隆男
『週刊ポスト』平成二十一年 一月二・九日号 小学館
                       (終わり)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
MMMMMMM 三島 MMMMMMMMMMMM 三島 MMMMMMMMM
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
  ♪
(編集部から)小誌は「三島由紀夫研究会」(昭和四十六年創設)の会員だけに限定せずに、三島研究の論文、エッセイをつねに募集しております。比較文学論(たとえば「吉本隆明と三島」とか)、作品論(たとえば『仮面の告白』に新解釈)、読後感、政治論、芸術論。まるで分野を問いません。三島さん自身、古典から前衛まで、映画からシャンソンまで万能の人でしたから。
 「憂国忌」への御感想、御希望でも構いません。皆さんからの御投稿を広くお待ちします。原則として実名。簡単な肩書きをつけて下さい。ただし三島文学批判も構いませんが、明らかな誹謗中傷のたぐいの投稿は採用しません。ゲスト寄稿者コーナーも常設しております。一部の原稿は年二回以上発行のメルマガ合本に掲載することがあります。    
     ◎ ◎ ◎
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
  三島由紀夫研究会 HP URL http://mishima.xii.jp/
      メール  yukokuki@hotmail.com
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
(C)三島由紀夫研究会 2010  ◎転送自由
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

規約に同意してこのメルマガに登録/解除する

メルマガ情報

創刊日:2006-01-12  
最終発行日:  
発行周期:半月刊  
Score!: 98 点   

コメント一覧コメントを書く

この記事にコメントを書く

上の画像で表示されている文字を半角英数で入力してください。

※コメントの内容はこのページに公開されます。発行者さんだけが閲覧できるものではありません。 コメントの投稿時は投稿者規約への同意が必要です。

  • コメントはありません。