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三島由紀夫の総合研究

創立35年の老舗「三島由紀夫研究会」の会報を兼ねた、あらゆる角度からの総合研究メルマガ

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三島由紀夫研究会メルマガ(三島、石原そして田母神 その1)

2010/03/26


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  『三島由紀夫の総合研究』(三島由紀夫研究会 メルマガ会報)
      平成22年(2010)3月26日(金曜日)
          通巻第392号
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(下記を上下二回にわけて連載します)

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<三島由紀夫没後四十年>
『三島由紀夫と田母神俊雄――国体と日本国憲法を巡って』(上)
                          秋山大輔


「いつの間にか貴兄もずいぶん遠いとこころへ行ってしまわれたような気がします」この一文を突然冒頭に出されて戸惑われる方もいらっしゃるかもしれない。
これは昭和四十三年頃にマルキ・ド・サド研究の第一人者であり、三島由紀夫の名戯曲『サド公爵夫人』のモチーフとなる作品を手がけた澁澤龍彦が三島に当てた手紙の一節である。
 昭和四十三年三島由紀夫は三月、七月と自衛隊富士学校に体験入隊、九月に「楯の会」を結成。一橋大学や早稲田大学でティーチイン、そして五月三日から五日まで日本学生同盟セミナー全国合宿研修会に参加し、十二月には日学同結成二周年中央集会、関東学協結成大会で講演を行うなど、学生とコミットしながら「文学者・三島由紀夫」ではなく、バッジを保有しない政治家、いや「活動家」と表記した方がしっくりくるかもしれないほど、政治活動が目立っていた時期だった。

三島の「原点回帰」が明確化された時期である。
澁澤は『サド公爵夫人』等の執筆を通じて文学者として交流してきた三島が、自分の磁場ではない世界に飛躍している姿に一抹の寂寥感、不安を感じたのだろうか。
澁澤は出口裕弘との対談において三島が冗談まじりに、「僕もとうとう澁澤塾を破門されたか」と返信してきたと述べているが、この時期の三島の孤高な立場を象徴するエピソードである。澁澤は三島の活動にコミットすることはなかったが、その死の意味を漠然と問い続けることになる。


▲三島をめぐるシンポ、講演会はどこも満員

 そして澁澤も亡くなり、三島の死後四十年もの歳月を経て、その思想が理解される土壌が構築されつつあるのも事実である。
 平成二十一年十一月二十一日、三島由紀夫文学館のある山中湖畔にて文学館『開館十周年記念フォーラム』として横尾忠則氏、日本文学研究家のドナルド・キーン氏を招いて三島由紀夫の人間性から、文学論まで多岐に渡って議論されたが山中湖という交通の便がいいとは言えない場所で会場は大入り満員であり、未だに衰えぬ「人気」を再確認する事が出来た。

それから四日後の憂国忌でも会場の星陵会館は大入り満員で、富岡幸一郎、西部邁、西村幸祐、杉原志啓各氏が、文学をこえて政治的観念を超越して三島由紀夫が多様な角度から論じられたことはエポックメイキング的な出来事であった。
 三島文学、思想にとって幸いと言えるのは時間の経過を経て三島由紀夫の人間性が中和されたことにある。  
 現代は右派的な思想を述べることも自然となりつつあるが、そのような人々は現在においても世間からの偏見や視線と戦っているのも事実だ。しかし平和惚けしてニュートラルな日常を送る我々に覚醒するチャンスを与えたのが例の「田母神論文」であった。 
  
 私は非常に衝撃を受けた。前記したように澁澤や様々な方々が体験した三島事件と田母神論文を巡る報道機関の争乱ぶりと政治家の見苦しい対応が余りに酷似している事だった。三島事件当時の佐藤栄作総理や、中曽根康弘防衛庁長官の狼狽ぶりと田母神論文騒動における、麻生前総理と浜田前防衛大臣の対応に政治家は時を経ても変わらぬものだと慨嘆してしまった。
 三島事件の勃発時、佐藤栄作首相は第六十四臨時国会の開会式後に官邸で昼食中にテレビ速報で事件を知り、記者団にコメントを求められてこう答えている。
「気が狂ったとしか思えない。常軌を逸している。まだ何が原因なにかわからないが・・・・・」と述べた。
 中曽根康弘防衛庁長官は、事件当日の市ヶ谷で「なんでこんなことをしてくれたんだ」と怒り、そして事件の三日後に講演で「天才的な作家を失ったことは非常に惜しいと思うが、公的場所に侵入して権限なく自衛隊を動かそうとし、刺傷沙汰に及んだことは許せることではない」とあくまで原則論を述べるに留まった。この考えは現在に至るまで変化していない。

 そして文学的友人である石原慎太郎は事件直後に自衛隊市ヶ谷駐屯地に赴いている。先に川端康成が現場を訪れている事を聞いた石原は事件現場を見なかったが、マイクを突きつけられ「現代の狂気」と述べた。(後にこの言葉は取り消されている)

 佐藤総理の夫人寛子と三島の母は友人であり、佐藤総理自身も三島を政界進出に口説こうとした事もあり心中複雑だったと思うが(自民党は昭和四十四年に三島に都知事選出馬を依頼していた事実もある)、三島の精神を理解出来ない事と、公な場所では心情を発言出来ないのか、三島が政治家に慣れない理由が彼らの発言にも横溢している。この争乱状態とレベルは違うかもしれないが、田母神論文騒動な似た空気を抱いているのは事実だ。

 私の持論を述べさせていただければ、田母神氏の論文の内容は日本人として至極当然な意見あり、現在検証中の事柄も含まれているが、自虐史観からの脱出を希求する我々としては歓迎すべき論であったので麻生総理や浜田防衛大臣が行った一連の騒動は笑止である。
そして平成十九年十月三十一日に日本政府は田母神俊雄航空幕僚長の正当な歴史認識を封印し解任した。そして一番検証されるべき、村山談話を踏襲する姿勢を崩していない。田母神氏の意見こそ進歩的、当然な論であり「村山談話」なる過去の呪縛から解き放たれぬ政府をあざ笑うかのように田母神前航空幕僚長の講演には常に大勢の人が訪れるのだ。

田母神氏はフジテレビの『笑っていいとも』に石原慎太郎・都知事の紹介で登場するなど、現在でも各種メディアに登場し続けている人気者だ。
 私は、平成二十年十二月二十五日に「国防問題研究会」主催、「三島由紀夫研究会」共催の千代田区内幸町ホールにて、田母神氏の講演に参加したが氏のキャラクターと巧みな話術に引き込まれてしまい、二時間余の時間の経過をすっかり忘れてしまうほどであった。正に「時代の寵児」である。
 田母神氏はこの時代だからこそ必要とされる人物なのだと痛感した。
航空幕僚長の職を賭してまで貫いた己の言論にある人物を重ね合わせる。様々な方々の論文にも登場するが、三島由紀夫である。よく田母神論文の衝撃と三島事件を重ねる論者も多くいるが、共通しているのは二人とも行動がぶれずに、初志貫徹している点であろう。


 ▲田母神論文の登場

私は三島由紀夫の憲法、国防論と共に文学も交えながら論を展開して行きたいと思う。その前に私が大変共感した田母神氏の発言を挙げたいと思う。
氏が月刊『WILL』平成二十年一月号に掲載した独占手記での靖国神社を巡る一節である。
「私は平成十四年に統合幕僚学校長になって以降、靖国神社の春、秋の例大祭に制服姿で参拝してきた。靖国神社からの招待状は東京周辺にいる陸海空の将官に発送されるようであるが、ほとんどの場合総務課長などが、代理で出席している。しかし私は時間と状況が許す限り私自身が出席するようにしてきた」

 正に垂直の情念と呼べばよいのだろうか。警察予備隊時代からアメリカの御都合主義により設立された自衛隊は、戦前の日本軍と隔絶するように考えたれていた。
 しかし「国体護持」という理念で、戦前の軍も自衛隊も共通するのを田母神氏は鑑みて戊辰戦争以来の英霊に、参拝をしてきた氏の姿勢に背筋が伸びる思いであった。自虐史観に拘束され、まともに靖国神社に参拝する事を恐れる日本政府の態度に一石を投じる発言ではないだろうか。

話を本筋に戻そう。
 私は平成二十一年一月九日号の『週刊ポスト』に掲載された田母神前航空幕僚長とジャーナリスト杉山隆男氏の対談を興味深く拝読した。この対談の歴史的意義は大きい。何故ならば三十八年の時空を超えて三島由紀夫の問いが我々に対して突きつけられたからである。
杉山氏は自衛隊三部作を上梓している。『兵士を追え』、『兵士に告ぐ』そして最後に書き上げたのは『「兵士」になれなかった三島由紀夫』であった。杉山氏が自衛隊を実地に入り込み研究するようになったのは三島由紀夫の影響が強い。
杉山氏の最初で最後の三島体験は昭和四十三年秋。自衛隊の閲覧式であった。「生身の三島」と特別な人物を凝視する事が出来た貴重な体験として著書の後書きで記しているくらい三島に対する思い入れは深い。
そして昭和四十五年十一月二十五日の三島事件の時に十八歳であった杉山氏は都立日比谷高校の教室を飛び出し、三島が自決した市ヶ谷駐屯地の門の前で佇んでいた。上空を旋回するヘリ、周辺にいる機動隊や制服警官がいる中で尊敬する作家の死に思いを馳せていた。


▲杉山記者はずばり聞いた

 この対談で興味深いのは、杉山氏が田母神氏にまるで真剣で切り込む様に「その日」について問いただしている点だ。「昭和四十五年十一月二十五日、市ヶ谷駐屯地に三島由紀夫が乱入して、自決しました。あの時、田母神さんは防衛大の4年生でしたね。」と最初に語りかける。田母神氏は自身の生い立ちと防衛大学に進学した経緯について述べている。

「私は福島郡山の農村地帯の生まれである。農協に勤務していた父親の「防衛大に行け」のひとことで、昭和四十二年(一九六七)に防衛大学に入学した。
 防大生のころはヘルメットにゲバ棒を持った左翼の学生運動が活発化していたが、私は休日には横須賀の防衛大から東京・渋谷の寄席に行くのが楽しみという、どちらかというとノンポリの学生だった」
と月刊WILL一月号の独占手記に寄せている。

ここで意外に感じるのは田母神氏が学生時代は政治的には特に思想的にも、何も形成されておらず心情的にはまっさらであった点は注目に値するであろう。杉山氏のインタビューでも学生時代の田母神氏についてあぶり出す様な質問をしている。田母神氏が三島由紀夫の自決を耳にしたのは事件の当日、午前中の訓練を終えて昼に学生舎に戻った時だった。
 そして杉山氏が「自衛隊の駐屯地での出来事だけに、衝撃は大きかったでしょうね」と当たり前の様に質問すると意外な答えを口にする。

「いや、ほとんど何も感じませんでした。僕はノンポリの体育会系で、フィールドホッケーにのめりこんでいた。思想的に感度が鈍かったのでしょうね」と素っ気なく答えているのだ。無論杉山氏は落胆したに違いあるまい。このインタビューにおいての田母神氏の回答は嘘偽らざるものだと私は確信している。

この回答で一番喜んだのは誰であろうか? 
私は冥界にいる三島由紀夫だと思う。評論家、宮崎正弘は著書『三島由紀夫『以後』』において次の様な興味深い証言を書いている。
 三島は昭和四十二年に四月十二日から五月二十七日まで、本名の平岡公威で単身自衛隊の前川原駐とん地に体験入隊をしている。そしてこの頃宮崎は後に「楯の会」に入隊し三島と運命を共にする森田必勝と共に早稲田大学に「早大国防部」を創設している。この事実と関連して三島を訪問した学生にこう得意げに語っていた。

「オレが早稲田の国防部にコミットしていることを石原(慎太郎)は知らないんだよ」と、私たちを前に愉しそうに高笑いをした。「オレの本なんてまるで読んだことのない連中なんだよ」。同じ台詞を村松剛や佐伯彰一の前で吐いたという。そういう学生とつき合うことのなかから、青年嫌いだった三島は大きく変わっていった」
 
 楯の会創設時にも自身の文学ファンは省いていた。もしも、今三島が存命で田母神氏が「三島事件」に当時関心を持たない防衛大の学生でその後、自衛隊在籍時に自身の勉強、修練、体験の中で正しい歴史観を習得して論文を披露した事を聞いたら喜んでいたであろう。

 さて、話をインタビューに戻そう。そこで杉山氏は三島のあるエッセイを提示する。それは昭和四十五年の「毎日新聞」六月十一日に掲載された『石原慎太郎氏への公開状』である。石原氏は昭和四十三年、七月に参議院全国区で自由民主党か出馬し、未曾有の三百一万二千五百五十二票を獲得している。それから約二年後に三島からの公開状が石原の目に触れることになる。

 この公開状の原点が、当時京都大学法学部教授であった高坂正堯との石原の対談で「自民党ヌエ論」である。ヌエ(鵺)とは、伝説上の怪獣の事で正体がはっきりしない物事について示した言葉である。戦後五十五年体制のうやむや、魑魅魍魎の中で自由党と民主党が結合した様を皮肉っている。
 昭和四十五年『諸君!』七月号にて『自民党ははたして政党なのか』という題名で発表されている。ここで展開される議論は興味深く、当時からタカ派の論客として鳴らしていた石原らしく自民党批判と憲法改正論まで踏み込んでいる。
対談は高坂のこんな質問から始まる。
「石原さん、自民党を一言で定義すればどうなりますか」
石原は冗談まじりにこう答えている。「社会、民社、共産、公明そして無所属ならざる人間の集団ですよ。(笑)」と皮肉たっぷりの表現である。石原氏は「自民党に恥をしのんで入った」と述べている様に自身の票田である自民党に入党したのは自身の政治的立身出世の為の手段であると隠さずに語り是々非々の姿勢を貫徹している。

ここで現在では当然至極にマスメディアで議論されている問題である。しかし昭和四十五年という時代背景を慮ると非常に過激な発言を二つ引用する。高坂は現在の内閣は議員内閣制である為に自民党を主体にした政府だが、「政経不可分の原則」を確認し松村謙三、古井喜美等の貿易再開の尽力、そして日本国内の中国敵視の風潮の中で、昭和四十三年に「日中貿易会談コミュニケ」が発表される。しかし自民党員である岸信介元首相は(日韓国交回復に執着していた)が韓国にて改憲論を述べている事を「原則の問題について一致していない」と一刀両断に切り捨てる。そこで石原は自民党の原則について非難まじりに語り始める。私は現在に通ずる問題提起であると思うし、石原が自民党議員を勤続に二十五年表彰の時に元日本社会党党首であった土井たか子衆院議長(当時)の前で辞任表明した鍵となる提言であると考えている。

「自民党における原則とは何なのかな。自民党の綱領なるものの最初に「憲法をいずれの時期かにおいて改正する」という条項があるんですよ。ところが歴代の総裁は就任のたびに「自分の任期には憲法は変えない」という。では、何のために綱領があるか。有名無実の綱領なら、党大会なりを開いて検討すべきではないかという提言をする人間もいない。おそらくそういう申し出が出れば、「いや、いまのままでいい」ということになるでしょう。」(『酒盃と真剣』所収)。

 自己の所属する政党の矛盾を指摘し、戦後体制、GHQの元で成立した日本国憲法を改正出来ない苛立を率直に述べている。そして石原は日本の政治が現代において軽蔑を込めて語られる一番の理由は「防衛論議」であると定義している。
「日本の政治がこのような顰蹙を買ってきた一番の理由は、憲法の拘束の中での防衛論議だと思いますよ。自衛隊を違憲でないといいくるめてきたこと自体にすでに無理がある。歴代総裁は「憲法は変えない」というから、防衛論議については、苦しまぎれのいいわけをする。そういう嘘を国民は誰でも見抜いているわけでしょう」

 自由民主党は結党時から「憲法改正」を党是として掲げてきたが、その問題を先送りにしてきた。憲法九条第二項において、一切の軍備と共に交戦権が否定された。しかし昭和二十五年の朝鮮戦争の勃発により日本に駐留していた占領軍が動員された。そこで日本の警察力の補完として連合国総司令部の指示により七万五千名で構成された警察予備隊が創設。そして昭和二十七年には保安隊・警備隊と改称し、昭和二十九年には正式に自衛隊になる。

憲法で規定されている戦力は近代戦争に役立つ程度の装備と言及されている。自衛隊創設時の政府見解としてはあくまで「外部の侵害からの国土保全を任務」であり、最低限度の自衛力を保持する事は憲法違反にならないという苦しいものだった。
警察予備隊違憲訴訟など憲法九条の解釈を巡り「自衛隊」の位置が曖昧模糊にされてきた現実を石原は自身の所属する政党に突きつけたのである。事実憲法改正を口にすれば「タカ派」の名称で括られ、満足に発言もできず、議論する事さえも憚られる世相の中で石原の発言は極めて進歩的であったと言える。自民党の存在意義を改めて明確化させた対談であった。


▲三島由紀夫、石原慎太郎へ諫言

 そしてこの対談への義憤を三島由紀夫が先に明記した公開状を毎日新聞に発表したのである。誤解してはならないのは、基本的なスタンスであるが、三島は石原の意見を否定する訳ではないことだ。本来は私信で意見すればよかったが、石原が参議議員という公的なたち何いるからだと説明しながら文はこう続く。「私はごく最近「諸君!」七月号で、貴兄と高坂正堯氏の対談『自民党ははたして政党なのか』を読みました。そして、はたと、これは士道にもとるのではないかという印象が私を搏ちました。

 私は何も自民党の一員ではありませんし、この政党には根本的疑問を抱いています。しかし社会党だろうと、民社党だろうと、士道という点では同じだというのが私の考えです。
 実はこの対談の内容、殊に貴兄の政治的意見については、自民党のあいまいな欺瞞的性格、フランス人がいみじくも言ったように「単独政権ではなくそれ自体が連立政権」に他ならない性格、又、核防条約に対する態度、等、ほとんど同感の意を表せざるをえないことです」(「石原慎太郎氏への公開状 武士道について」『蘭陵王』所収)。

 しかし三島は石原が行った自民党批判は反党的行為であると定義し、かつての武士は藩に不満があれば諌死を選んだとしている。
 ここの文章は様々な捉え方が出来るが三島自身は「武士」であり「政治家ではない」と明確に意思表示した事だ。佐藤栄作から政界進出を打診されていた三島が「純粋でいたい」という理由から固辞していた話は有名であるが、もし三島が政治家であったのならば市ヶ谷で切腹という道は選ばずにいたであろう。政治家の道を選択した石原に「喧嘩」を仕掛けたようにも解釈出来る公開状である。

しかし私の見解としては十一月二十五日を三島が迎えるにあたり、日本を憂慮する国士としての立場を公に確立するための公開状ではないかと解釈している。
死地へ赴くにあたり三島なりのアリバイの一つの文章ではないかと思う。

 杉山氏は田母神氏に対し、三島の公開状を遡上に挙げてこう述べている。「あなたは浜田(靖一)防衛大臣から「辞任せよ」といわれた時に、要求を拒否した。あえて「軍」という言葉を使いますが、軍という組織は命令を守る、すなわち秩序を守るということが大前提でなくてはならない。つまり「辞任せよ」という上官(浜田防衛相)の命令を拒んだのは秩序を乱す行為であり、あなたは三島さんのいう「武士」にはならないのでは」と述べているが次の田母神氏の応答が痛快である。

「防衛大臣が、私に辞めろというなら理由が必要です。なのに、「辞表を書け」としかいわなかった。国会に対して悪事を働いたわけではないのだから、「ごめんなさい」という必要はない。結局、浜田大臣は私を解任し、私はそれを受け入れた。それでいいじゃないですか」と述べており、自身の歴史観の正当性をはっきりと語り浜田大臣が過去の村山談話から連なる歴史認識に縛られ、きちんとした説明責任を果たす事なく田母神氏を解任した歪な構図が鮮明に浮かび上がるのである。     
                 (つづく)
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MMMMMMM 三島 MMMMMMMMMMMM 三島 MMMMMMMMM
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