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三島由紀夫の総合研究

創立35年の老舗「三島由紀夫研究会」の会報を兼ねた、あらゆる角度からの総合研究メルマガ

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三島由紀夫研究会メルマガ

2010/03/10


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  『三島由紀夫の総合研究』(三島由紀夫研究会 メルマガ会報)
      平成22年(2010)3月10日(水曜日)貳
          通巻第385号
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(連載 最終回 <三回連載>) 
蓮田善明と三島由紀夫
                         西 法太郎
 
   △
 蓮田善明は「文芸文化」昭和17年2月号の「後記」に伊東静雄の詩「大詔」を引いて「あの日の歌として冠絶であろう。私はこの詩を誦して又涙をとどめ得なかった」と感激しています。
「コギト一月号に伊東静雄氏の次の短い詩がある。
 
大詔
昭和十六年十二月八日
何という日であったろう
清しさのおもい極まれり
宮城を遥拝すれば
われら儘く
― 誰か涙をとどめ得たろう
 
 あの日の歌として冠絶であろう。私はこの詩を誦して又涙をとどめ得なかった。この詩の言葉ことごとく目に吸いこまれるように覚えた」

 三島は小高根二郎への昭和34年8月7日付け葉書に「伊東氏の「稲妻」の詩は何という美しさでしょう! 戦後誰一人伊東氏に比肩する詩人を私は知りません」と書き送っています。
「稲妻」は伊東静雄が「文芸文化」創刊号(昭和13年7月)に寄せた詩です。
 
暗い、暗い地平を、一瞬にして閃かし
蒼白な稲妻が、水田の面を走る
・・・
征矢よりも疾く蒼白な稲妻が
ひっきりなしに水田の面を奔る
・・・
一時にはっとするほど瞳の底に閃いては
後は、一層暗い闇。
その小気味よい光と闇の鬼遊び!
 
 三島は昭和41年11月号の「新潮」に、編集部から愛誦詩をひとつ挙げて書いてほしいと依頼されて、伊東静雄の詩を選びますが、彼の詩才は「ひどくいらいらさせる」「やりきれない」ものだと屈曲した思いを述べています。
「「新潮」から愛誦詩を一つ挙げよ、と言ってきた。そこで伊東静雄と答えた。
・・・
俺にとってあの人の詩句は、着物の中に縫い忘れた針のように、どこかわからぬが、突然、過去から針先をつき出して、肌を刺してくる感じがする。
・・・
伊東静雄の詩は、俺の心の中で、ひどくいらいらさせる美しさを保っている。
・・・
その抒情の冷たい澄んだ響きが、俺のもっとも荒んだ心情と記憶とに触れるのだ。それが俺にはやりきれない」
 
 阿部孝子は「三島由紀夫「蘭陵王」の「蛇」―二種類の時間と蓮田善明」(「解釈と鑑賞」平成20年7・8月号)で、三島最期の短編小説と蓮田善明が稲妻で結びついていることを指摘しています。
三島が企画して編まれた一冊『蘭陵王』(昭和46年5月)には、「蘭陵王」と『蓮田善明とその死』に三島が寄せた「序」が一緒に収められていて、この二つにあらわれる象徴が「稲妻」であることに着目しています。
「「蘭陵王」は昭和44年11月、「群像」に発表された。三島由紀夫が書いた最後の短編である。富士山裾野で私設軍隊「楯の会」の訓練をしている夏のある夜、三島自身とおもわれる人物が数人の隊員とともに、横笛の演奏で雅楽「蘭陵王」を聞く物語である。
当時の三島にあっては「雷」とは蓮田を連想させる景物であり「雷」「野」「花々」には、表現と理解の問題が重ねられていると考えてよいであろう。
「稲妻」とは理解困難な死者の表現であり、「野の花々」とは後世にあってその死者を理解する者たちの比喩である。要するに作中にさりげなく織り込まれた「雷」というモチーフもまた辿ってみると<表層と深層>という問題に結びつく景物だったのである。そしてそれは長い時を超えて表現を理解するという営みを暗示したものなのである。
・・・
前掲引用文(注『蓮田善明とその死』の「序」)で三島は、表現者と理解者との関係について述べている。ある表現がなされた後に、時を隔てて理解されることを「稲妻の光」より遅れて「雷鳴が轟くとたとえるのである。
・・・
<表層と深層>が食い違う独特の構造は蓮田だけの問題ではなく、当の三島自身の特徴であるといえよう。三島の場合、派手な筋立てで耳目を欹てる作風ではあるが、その作品はじつは奥深い問題を真摯に追求している。それは三島の行動の面でもいえることであろう。
・・・
表現されたものが時間を超えて理解されるという問題は、三島の作品や行動について未来への展望を暗示している可能性がある。そしてまた、時を超えて成立する表現と理解の連鎖とは日本の伝統文化継承の問題そのものなのである」
 
小高根二郎は『蓮田善明とその死』で、善明の「初雷の夜」(昭和12年「伝統」4月号)と伊東静雄の「稲妻」が酷似していることを指摘しています。
三島は小高根に、彼から送られてくる同誌を毎号熟読していると謝す手紙を出していますから、「蘭陵王」を書く以前に、「果樹園」にあったこの指摘を読んでいます。それより前から三島は伊東のこの詩を心に刻んでいました。
「蘭陵王」に詩「稲妻」の作者も秘かに埋め込まれていることはあきらかです。少年時代から伊東の詩に傾倒していた三島は、彼の作品「稲妻」から蓮田を「雷」の象徴であらわしたのです。そうすることである種屈折した想いを抱く伊東をも「蘭陵王」に塗りこめているのです。
 
 栗山理一は復刻版「文芸文化」別冊付録に「蓮田のこと 三島のこと」と題する一文を寄せて、古今集をよしとする三島が林富士馬と「はげしく論争したこと」を思い返し、「一貫して変わらぬ三島美学の条理」を再認識しています。
「そのころ(注 昭和19年)三島は林富士馬君らを誘って私の家に遊びにくるようになった。あるとき、三島は林君とはげしく論争したことがある。林君は「万葉集」を推賞し、三島は「古今集」をよしとした。
・・・
後年になって清水が広島大学を停年で退官した折り、大学の機関誌「国文学攷」が記念特集号を編み、三島が「古今集と新古今集」と題する一文を寄稿している。四十二年一月一日執筆と付記されており、論旨は「古今集」の特質を闡明した卓説である。作家としての出発の頃から一貫して変わらぬ三島美学の条理を改めて再認識したことであった」
 

三島は昭和42年「広島大学国文学攷」に寄せた「古今集と新古今集」の中で行動と言葉について深長なことを述べています。これは和歌論に仮託して「日本への回帰」を果たして変容した自らの思想を三島が語っていると思えるのです。以下に読み解いてみます。
 
 三島はその少年時代を大東亜戦争の「行動の時代の只中」で過ごしました。しかしそれは「行動の適性を与えられなかった」若者にとって身の置き所がない時代でした。ゆえに「文学に携わろうとする少年」となったのですが、「「言葉」とは何か、ということを考えるときには」「力をも入れずして天地を動かし」という古今集の序を蓮田善明の『詩と批評―古今和歌集について』(「文芸文化」昭和14年11・12月号)で教えられ、それが「言葉の明証として立ち現れ」、「それこそは福音だった」という想いを抱くまったき至福を三島にもたらしていました。そしてその古今集は「私の心の中で、「詩学」の位置を占め」るバイブルとなり、「戦後の一時期に」「一度もひもとく」必要のないほど血肉化したのでした。
それゆえ「最近(注 昭和42年ごろ)、村松剛氏が浅野晃氏の「天と海」を論ずる文章を書くに当って」「大東亜戦争末期についに神風が吹かなかったということ、情念が天を動かしえなかったということは、詩にとって大きな問題だが、そういう考えの根源はどこにあるのだろうか、と問われて「それは古今集の紀貫之の序の「力をも入れずして天地を動かし」だ、と」「直ちに答え」得たのでした。
それは「私と古今集との二十年以上の結縁」のなせるワザで、「二十年の歳月は、私に直ちにそう答えさせたほどに、行動の理念と詩の理念を縫合させていたのだった」と説きます。
「私と古今集との二十年以上の結縁」とは「私と蓮田善明との二十年以上の結縁」の謂いでしょう。

さてしかし「行動の理念と詩の理念の縫合」は自分の思想の変質だと思い観ています。
三島は「もし当時を綿密にふり返ってみれば、私は決してそう答えなかっただろう」といいます。「正確に想起すれば、十七、八歳の私の中で、「力をも入れずして天地を動かし」という一句は、ただちに明月記の「紅旗征戎は吾事にあらず」という一句につながっていた」と顧みるのです。
「古今集序のその一句は、少年の私の中では、行動の世界に対する明白な対抗原理として捕えられていた筈であり、特攻隊の攻撃によって神風が吹くであろうという翹望と「力をも入れずして天地を動かし」という宣言とは、まさに反対のものを意味していたはずであるから」です。
つまり二十年余前の三島にとって、行動をともなう現実世界は言葉の構築する詩的虚構の世界とはっきり分離弁別され、現実世界はわが事では無く、それに関知していなかったのです。
三島は現実と言葉の世界を精妙に分離して、ひたすら後者の内部で生きていたのです。
「ではなぜ、このような縫合が行われ、正反対のものがひとつの観念に融合し、ああして私の口から自明の即答が出て来たのであろう」と自問します。
「それはついに神風が吹かなかったからである。人間の至純の魂が、およそ人間として考えられるかぎりの至上の行動の精華を示したのにもかかわらず、神風は吹かなかったからである」と自答します。
この自問自答を経て、行動と言葉、つまり現実と言葉で築いた虚構界は「ついに同じことだったのではないか」、「力をつくして天地が動かせなかったのなら、天地を動かすという比喩的表現の究極的形式としては、「力をも入れずして天地を動かし」という詩の宣言のほうが、むしろその源泉をなしているのではないか」と思い至り、「このときから私の心の中で、特攻隊は一篇の詩と化した。それはもっとも清冽な詩ではあるが、行動ではなくて言葉になったのだ」と論展します。
この文学的修辞の内に、思想変容に襲われて受けた内心の衝撃がうかがえるのです。その苦渋が伝わってくるのです。
この時三島にとって、それだけで閉じて自己完結していた言葉の世界、詩的秩序の世界に裂け目が生じ、言葉が現実世界に滲出し、両者の分離弁別ができなくなり、言葉だけの世界、行動を伴わない詩的秩序の世界の内だけにとどまれなくなってしまったのです。
特攻隊という「至上の行動の精華」に対して神風は吹かず、それは何の天佑神助ももたらさなかった。それは二十年近くも前に走った稲妻だったのです。ようやく今になってその雷鳴が三島を襲ったのです。そのとき三島は翻然と内なる「蓮田善明」を観じたことでしょう。
 
 三島はつづけて自嘲気味に述べます
「私はこの二十年間、文学からいろんなものを一つ一つそぎ落として、今は、言葉だけしか信じられない境界へ来たような心地がしている。言葉だけしか信じられなくなった私が、世間の目からは逆に、いよいよ政治的に過激化したように見られているのは面白い皮肉である」
 
しかしこのとき三島の心の裡で、それぞれ別々だった、行動で成り立つ現実世界と言葉で成り立つ作品世界が結びつき、絡み合い、入り繰りし、目まぐるしい相互反転を遂げているさまがうかがえるのです。
ついに三島のなかで、言葉は行動と「縫合」され、作品世界は現実世界と交叉し結びつき、そのいずれかを選択する自由を奪われてしまったのです。三島は言葉だけの虚構界に安住することを許されなくなったのです。
「言葉だけしか信じられなくなった私」とは、じつは遥か昔、蓮田に「悠久な日本の歴史の請し子」と呼ばれ「古今の季節」を書いていた十代の頃の三島です。
清水文雄は「花ざかりの森」が「文芸文化」に掲載されて、その同人たちの始めた古今集の輪読会に参加するようになった三島を「激論の輪の中で終始目を輝やかしながら、一人一人の発言に聴き入っていた三島少年の顔も鮮やかに浮かんでくる」(「古今の季節」「三島由紀夫研究」)と回想しています。
三島は『日本文学小史』に古今集は「詩的秩序」の支配する「知的王土」だと記しています。
「全自然(歌の対象であると同時に主体)に対する厳密な再点検が古今集編纂に際して、行われたとしか考えようがない。それは地上の『王土』の再点検であると共に、その王土と正確に照応し重複して存在すべき、詩の、精神の、知的王土の領域の確定であった。地名も、名も、花も、鶯も、蛙も、あらゆる物名が、このきびしい点検によってあるべき 場所に置かれた。無限へ向かって飛翔しようとするバロック的衝動は抑えられ、事物は事物の秩序のなかに整然と配列されることによってのみ、『あめつちをうごか』す能力を得ると考えられたのである。これは力による領略ではなくて、詩的秩序の領略であった」
 
これは先に引いた、蓮田善明が昭和14年「文芸文化」に寄せた「詩と批評 古今和歌集」で「自然に芸術的秩序を命課する絶対世界」と述べた古今観と同一です。
  古今集は、三島にとって少年期以来長らく「詩的秩序」が現実世界を領略している「知的王土」でした。三島は「今私は、自分の帰ってゆくところは古今集しかないような気がしている」と述べます。
しかし古今集に帰ってゆくことはもはや叶わなかったのです。三島は「無限に向かって飛翔しようとするバロック的衝動」が抑えられた古今集の「知的王土」にとどまれなくなっていたのです。
「言葉の有効性には何ら関わらない別次元の志を述べて」いる古今集序の「力をも入れずして天地を動か」す詩的世界、「言語による秩序形成のヴァイタルな力として働く」、「鬼神をもあわれと思わせ」る詩的感動に浸れた少年の至福の時はもう戻らなかったのです。
 
三島は言葉を継ぎます。
「その「みやび」の裡に、文学固有のもっとも無力なものを要素とした力があり、私が言葉を信じるとは、ふたたび古今集を信じることであり、「力をも入れずして天地を動かし」、以て詩的な神風の到来を信じることなのだろう」
しかしそのときの三島に「ふたたび古今集を信じる」ことは不可となっていて、どんなに翹望しても「詩的な神風の到来」はありえなかったのです。それを三島は直覚していたことでしょう。

 言葉だけを信じる古今集の詩句世界に浸ることはもはや叶わず、三島は「詩的な神風の到来」がない世界に自身が立ち至ったことを知ったのです。その苦渋は想像するに痛ましいものです。
  三島は、古今集において「詩の言葉が、天地を動かす」とは「人心を動かして社会変革に寄与するように働く」ことではない、もしそうしようとするなら「古今集が抱擁している詩的宇宙の秩序は崩壊するの他はない」といいます。
これは「人心を動かして社会変革に寄与するように働く」ことのない詩的宇宙にとどまれなくなり、「そうしようとする」三島の崩壊をさし示しています。
「人間の至純の魂」が「至上の行動の精華を示し」ても「神風」は吹かなかったのです。古今集の詩的宇宙だけを信じてはいられない情動がこの時の三島を烈しく突きあげています。

三島は自身と作品世界と現実世界の関わりについて『小説とは何か』(「波」昭和43年5月〜昭和45年11月)の中で詳述しています。
「世間で考える簡単な名人肌の芸術家像は、この作品内の現実にのめり込み、作品外の現実を離脱する芸術家の姿であり、前述のバルザックの逸話(注バルザックが病床で自分の作中の医者を呼べと叫んだこと)などはその美談になるのである。しかし、その二種の現実のいづれにも最終的に与せず、その二種の現実の対立・緊張にのみ創作衝動の泉を見出す、私のような作家にとっては、書くことは、非現実の霊感にとらわれつづけることではなく、逆に、一瞬一瞬自分の自由の根拠を確認する行為に他ならない。その自由とはいわゆる作家の自由ではない。私が二種の現実のいづれかを、いついかなる時点においても、決然と選択しうるという自由である。この自由の感覚なしには私は書きつづけることができない。選択とは、簡単に言えば、文学を捨てるか、現実を捨てるか、ということであり、その際どい選択の保留においてのみ私は書きつづけているのであり、ある瞬間における自由の確認によって、はじめて「保留」が決定され、その保留がすなわち「書くこと」になるのである。この自由抜き選択抜きの保留には、私は到底耐えられない。
「暁の寺」を脱稿したときの私のいいしれぬ不快は、すべてこの私の心理に基づくものであった。
何を大袈裟なと言われるだろうが、人は自分の感覚的現実を否定することはできない。すなわち、「暁の寺」の完成によって、それまで浮遊していた二種の現実は確定され、一つの作品世界が完結し閉じられると共に、それまでの作品外の現実はすべてこの瞬間に紙屑になったのである。私は本当のところ、それを紙屑にしたくなかった。それはわたしにとっての貴重な現実であり人生であった筈だ。しかしこの第三巻に携わっていた一年八カ月は、小休止と共に、二種の現実の対立・緊張の関係を失い、一方は作品に、一方は紙屑になったのだった。それは私の自由でもなければ、私の選択でもない。
・・・
しかしまだ一巻が残っている。最終巻が残っている。「この小説がすんだら」という言葉は、今の私にとって最大のタブーだ。この小説が終ったあとの世界を、私は考えることができないからであり、その世界を想像することがイヤでもあり怖ろしいのである。それでこそ決定的に、この浮遊する二種の現実が袂を分ち、一方が廃棄され、一方が作品の中へ閉じ込められるとしたら、私の自由はどうなるのであろうか。
・・・
私の不快はこの怖ろしい予感から生まれたものであった。作品外の現実が拉致してくれない限り、(そのための準備は十分にしてあるのに)、私はいつかは深い絶望に陥ることであろう。
・・・
吉田松陰は高杉晋作に宛てたその獄中書簡で、「身亡びて魂存する者あり、心死すれば生くるも益なし、魂存すれば亡ぶるも損なきなり」と書いている。
・・・作家の人生は、生きていても死んでいても、吉田松陰のように透明な行動家の人生とは比較にならないのである。生きながら魂の死を、その死の経過を、存分に味わうことが作家の宿命であるとすれば、これほど呪われた人生もあるまい」
 
三島の中で行動と言葉は「縫合」されて切り離せなくなり、神意のままに宇気比に従って散った神風連のように、「手段イコール目的、目的イコール手段」となり、『暁の寺』の完成とともに、「作品世界」は「現実世界」を領略し、後者は「紙屑」になって「廃棄」されたのです。
 
二者の「際どい選択の保留においてのみ私は書きつづけているのであり、ある瞬間における自由の確認によって、はじめて「保留」が決定され、その保留がすなわち「書くこと」になる」三島は「この自由抜き選択抜きの保留に」「到底耐えられな」くなり、さらに、その二者を行き来する自由が奪われたうえは、「生きながら魂の死を、その死の経過を、存分に味わう」「作家の宿命」にいたたまれなくなり、ついに、「吉田松陰のように透明な行動家の人生」に乗り移ったのです。つまり自裁するかしてわが身を滅却するの他はなくなったのです。
 
ふたつの作用として働いている荒魂と和魂を善悪、正邪という対立概念としてではなく、一つの作用は他の作用を否定したり、超克したりするものでもなく、つねに共存すべきものだという本居宣長の思想に心酔していた蓮田善明に通底するものが三島の思想にも見られます。

 どんなに純粋性のある行動でも現実世界では無効であり、言葉の世界はしょせん虚構に過ぎない。ではどうするか。両者と相渉り、単独では無効なものどうしを掛け合わせる挙に出るしかなかったのです。それではたして天地を動かせるのか。
 
 三島は認識と行動について、死の数か月前に口述した『革命哲学としての陽明学』(「諸君!」昭和45年9月号)で論じています。
西洋の哲学政治思想、中国の儒教朱子学思想、そしてその両者を摂取した近世以降日本の思想潮流を説き、明治維新後の近代化の中で朱子学的伝統とマルキシズムや大正教養主義の間に陥没した陽明学の存在を指摘し、昭和45年当時の時代状況を犀利に腑分けし、「彌縫的な平和にたぶらかされ」、「心の死、魂の死を恐れない」大衆社会とそのなかで停滞堕落している政治状況を摘出し、それらを打ち破るために必要なのは、「日本人の行動様式のメンタリティに潜流」している「精神の最終的な無効性にしか、精神の尊厳を認めまいとする」陽明学の顕在化であると説くさまは、単騎で敵陣に飛び込み手挟んだ偃月刀を縦横無尽に揮う猛将のようです。

結局、このなかで三島が吾々に伝えたかった思いは次のくだりの中に尽きているように思うのです。
「大塩平八郎はその『洗心洞劄記』にもいうように、「身の死するを恨まず、心の死するを恨む」ということをつねに主張していた。この主張から大塩の過激な行動が一直線に出たと思われるのである」
 
三島は昭和43年11月18日付けで小高根二郎に出した手紙で、自分を蓮田と引き比べて慨嘆しています。
「この御作品(註『蓮田善明とその死』)のおかげで、戦後二十数年を隔てて、蓮田氏と小生との結縁が確かめられ固められた気がいたしました。御文章を通じて蓮田氏の声が小生に語りかけて来ました。蓮田氏と同年にいたり、なおべんべんと生きているのが恥ずかしくなりました。
・・・
今では小生は、嘘もかくしもなく、蓮田氏の立派な最期を羨むほかに、なす術を知りません。
・・・しかし蓮田氏も現在の小生と同じ、苦いものを胸中に蓄えて生きていたとは思いたくありません。時代に憤っていても氏はもう一つ、信ずべき時代の像があったのでした。そしてその信ずべき像のほうへのめり込んで行けたのでした」
 
 この手紙の一月前、10月21日の新宿騒乱事件で自衛隊が出動しなかったことに三島は深く絶望していました。
 三島が自裁する一年前、昭和44年10月25日、荻窪の料理屋で蓮田善明の二十五回忌が開かれます。そこで三島は「私の唯一の心のよりどころは蓮田さんであって、いまは何ら迷うところもためらうこともない」という意味のことをいったと、栗山理一は「浪曼」の座談会で回想しています。
  神谷忠孝がその席で三島に「日本浪曼派を保田輿重郎中心だけで考察するのは片手落ちで、死の美学を説きながら生き延びた保田與重郎と死んだ蓮田善明の両方を視野に入れるべきだ」と話しかけると「きらりと光る眼で私を招き、盃に酒をついでくれながら、私の意見に賛成してくれた」のでした。(『蓮田善明全集』発刊時のパンフレット)

三島は自裁の年の3月、蓮田善明は自分に日本を託したと村松剛に語っています。
「蓮田善明は、おれに日本のあとをたのむといって出征したんだよ。三月に会った折に、三島はしんみりとした口調でそういっていた。・・・蓮田善明のはなしはそれ以前にもよく三島から聞いていたので、「日本のあとをたのむ」といったという彼のことばも、このときは深くは気にとめなかった」(『三島由紀夫の世界』)

 三島は同じ3月に上梓された小高根二郎の『蓮田善明とその死』に寄せた「序」のなかで、知識人へのはげしい憤怒をあらわにし、それは蓮田から享けた啓示だと気付いたと述べています。
「氏が二度目の応召で、事実上、小高根氏のいわゆる「賜死」の旅へ旅立ったとき、のこる私に何か大事なものを託して行ったはずだが、不明な私は永いこと何を託されたかがわからなかった。
・・・
それがわかってきたのは、四十歳に近く、氏の享年に徐々に近づくにつれてである。私はまず氏が何に対してあんなに怒っていたかがわかってきた。あれは日本の知識人に対する怒りだった。最大の「内部の敵」に対する怒りだった。
・・・
戦後自ら知識人の実態に触れるにつれ、徐々に蓮田氏の怒りは私のものとなった。そして氏の享年に近づくにつれ、氏の死が、その死の形が何を意味したかが、突然啓示のように私の久しい迷蒙を照らし出したのである」
 
小島喜久江は「原稿渡しの最後の日となった10月の締切日」の蓮田にまつわる三島とのエピソードを描いています。それは昼食を三島の自邸で一緒に摂ってから他の編集者と去ろうとした時でした。
「玄関から門に到る白い敷石の上に、三島さんと私の二人だけが佇むしばらくの間があった。そのわずかな時間をねらっていた、とでもいう風に、私の真正面に立ち、静かに、しかし、ひたと迫る口調で切り出した。
・・・
このごろになって、ようやく蓮田善明の気持ちが分かってきたよ。善明が何を言わんとしていたのかって。善明は、当時のインテリ、知識人に、本当に絶望していたんだ。
・・・
黒と白にはっきり分かたれた大きな強い目が、まともに私の方に向けられているかに見え、だが、私を通り越して天に注がれている。天にある善明の霊に訴えんとしているようでもある」(『三島由紀夫と檀一雄』「三島由紀夫 終りの日々」“日々の別れ−死の一里塚”)
 
蓮田夫人は、三島の死後三島夫人が「熊本の人は嫌いです」と言ったことを同郷人から聞いて深く傷ついたといいます。
大東亜戦争に敗れて大日本帝国は潰え、「(保田與重郎、浅野晃、影山正治などを)ミリタリストや国民の敵たちと一緒に宮城前の松の木の一本一本に吊し柿のように吊るしてやる」(杉浦明平『暗い夜の記念に』)という呪詛のことばを投げつけられた日本浪曼派の文学は行き場を失い、戦犯とされた保田與重郎は見向きされなくなり、蓮田善明は戦地で自決爆縮しブラックホールと化して「事象の地平線」の彼方に逝ってしまいました。
 
三島夫人には、自分の夫も「事象の地平線」を越えて、蓮田善明の魂魄が爆縮してできた光も吸い込む漆黒の彼岸へ、引き込まれて往ってしまったように思いなされたのでしょう。
蓮田のいるブラックホールに渡った三島は、此岸から「事象の地平線」上に今なおたゆたっているように見えます。
ブラックホールの超重力で三島の魄は引き延ばされているのでしょうが、魂はそこを通過して、まったく別の空間に抜け出しているかもしれません。それを確認する方法は境界線を乗りこえ、わが身をブラックホールに投じるしかありません。つまり日輪を瞼の裏に赫奕と昇らせるしかないのです。
昭和41年8月27日熊本に入った三島は、精力的に神風連ゆかりの新開皇大神宮、桜山神社、小峯墓地、藤崎宮、熊本城周辺をめぐり、金峯山に登り、柴垣正弘範士の龍驤館で存分に竹刀をふるって汗を流しもました。
蓮田善明の生まれた植木町は、神風連の決起した翌年起こった西南の役の激戦地、田原坂とは指呼の間にあります。乃木将軍が軍旗を奪われた千本桜はその町はずれです。
田原坂公園には、蓮田の少年期からの友で熊本商科大学学長をつとめた丸山学が中心となって建てた蓮田の歌碑があります。
歌は栗山理一が遺稿『おらびうた』からえらび、斎藤清衛が染筆しました。『おらびうた』は従軍作家としてジャワのスラバヤにきていた佐藤春夫に蓮田が託した一巻の歌稿です。
 
 ふるさとの駅に下たち
 眺めたる
 かのうす紅葉
 忘らえなくに
 
この取材行は三島に「日本人としての小生の故郷を発見したという思い」を抱かせる感銘を残しました。
「熊本を訪れ、神風連を調べる、ということ以上に、小生にとって予期せぬ効果は、日本人としての小生の故郷を発見したという思いでした。一族に熊本出身の人間がいないにもかかわらず、今度、ひたすら、神風連の遺風を慕って訪れた熊本の地は、小生の心の故郷になりました。日本及び日本人が、まだ生きている土地として感じられました」(昭和41年9月3日付け荒木精之宛書簡)
 
三島は4泊5日の熊本滞在中に買い集めた神風連関係の書籍のほか、旅の記念に古道具屋で購めた刀も携えて、8月31日、荒木、蓮田夫人、地元の旧知に見送られて、勇躍東京への帰路につきました。
『奔馬』の連載がスタートしたのは翌年2月のことでした。(了)
 
(追記 この小文を今年八十四歳の誕生日を迎える父に捧げます)
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MMMMMMM 三島 MMMMMMMMMMMM 三島 MMMMMMMMM
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(編集部から)小誌は「三島由紀夫研究会」(昭和四十六年創設)の会員だけに限定せずに、三島研究の論文、エッセイをつねに募集しております。比較文学論(たとえば「吉本隆明と三島」とか)、作品論(たとえば『仮面の告白』に新解釈)、読後感、政治論、芸術論。まるで分野を問いません。三島さん自身、古典から前衛まで、映画からシャンソンまで万能の人でしたから。
 「憂国忌」への御感想、御希望でも構いません。皆さんからの御投稿を広くお待ちします。原則として実名。簡単な肩書きをつけて下さい。ただし三島文学批判も構いませんが、明らかな誹謗中傷のたぐいの投稿は採用しません。ゲスト寄稿者コーナーも常設しております。一部の原稿は年二回以上発行のメルマガ合本に掲載することがあります。    
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創刊日:2006-01-12  
最終発行日:  
発行周期:半月刊  
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