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三島由紀夫の総合研究

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三島由紀夫研究会メルマガ

2010/03/09


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  『三島由紀夫の総合研究』(三島由紀夫研究会 メルマガ会報)
      平成22年(2010)3月9日(火曜日)
          通巻第383号
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 (連載 第一回<三回連載>) 
 蓮田善明と三島由紀夫
                         西 法太郎
 
(以下は小論「三島由紀夫と神風連」(三島由紀夫の総合研究 合本第4号、平成19年5月7日付メルマガ会報第143号、同年6月23日付同会報第151号掲載の小論)の続編です)。
 
   △
 三島は昭和41年(1966年)夏、『奔馬』の取材のため単身、西南の役の前年に「神風連」が決起した熊本の地を訪れました。
 同年8月27日夕刻、急行有明から熊本駅に降り立った満面微笑の快活な三島をその駅頭に出迎えたのは、熊本出身の恩師清水文雄から紹介された郷土史家で雑誌「日本談義」を主宰する荒木精之と三島の旧知でした。清水が荒木を知ったのは蓮田善明を介してでした。
 
蓮田善明は「神風連のこころ」と題した一文を昭和17年11月の「文芸文化」に書いていますが、これは蓮田にとって熊本済々黌の数年先輩にあたる森本忠が書いた『神風連のこころ』の書評で、同号には三島の「伊勢物語のこと」も載っていました。
三島は蓮田善明の「神風連のこころ」を読んで「神風連」が何ものかを知りそれを心の内に刻んだことでしょう。

三島はこのとき、熊本商科大学の教授をしていた森本に引き合わせられます。荒木は「森本氏は神風連の宇気比についてはかねてから、一家言をもっていた。それは傾聴すべきものであり、私はぜひ三島氏の耳にも入れておきたかったのである」と森本を三島に紹介した事情を『初霜の記』に記しています。
荒木が蓮田善明の遺志に動かされて、三島と森本の出合いをセッティングしたかのようでした。
 
三島が入熊した翌日の夜「料亭おく村で三島氏の招待で蓮田善明未亡人の敏子さんと、森本忠氏とを加えて清談のひとときを過ごした。森本忠氏との間には宇気比について質疑などが交わされた」(『初霜の記』)のです。
三島は蓮田夫人をいざないその席で初めて面晤しました。
三島はその夜、四半世紀前に蓮田が「文芸文化」に書いた「神風連のこころ」を話題にして回顧談にふけったことでしょう。
蓮田が自決した翌年、三島が列席した蓮田善明を偲ぶ会の話もしたことでしょう。それは昭和21年11月17日蓮田が奉職していた成城学園素心寮で行われ、その折り、作成した蓮田善明の追悼雑誌『おもかげ』に三島は獻詩を染書しています。
 
古代の雲を愛でし
君はその身に古代
を現じて雲隠れ玉
ひしに われ近代
に遺されて空しく
靉靆の雲を慕ひ
その身は漠々たる
塵土に埋もれんとす 
三島由紀夫
 
 参会者は、三島と清水文雄、池田勉、栗山理一、桜井忠温、中河与一、阿部六郎、今田哲夫の8名でした。三島は偲ぶ会の翌日、清水文雄に宛てた絵葉書に「黄菊のかおる集まりで、蓮田さんの霊も共に席をならべていらっしゃるように感じられ、昔文芸文化同人の集いを神集いにたとえた頃のことを懐かしく思い返しました」と書き送っています。
敗戦直後は三島にとって、妹を亡くし、恋が成就せず、文学上も行き惑う「漠々たる」時期でした。行動メモを兼ねた小遣い帳の『会計日記』によると、この偲ぶ会の翌月三島は矢代静一に誘われて出掛けた会合で太宰治と出会い、後世に残るやり取りをしています。

池田勉は「蓮田善明<現代作家における神話的世界>」(「解釈と鑑賞」昭和47年1月号)に善明の『神韻の文学』から「雲」のところを引いています。
「雲−この形定まらず、あくまで定型や定律を否定しつづける雲も、ただ形式以前のつかみどころのない茫漠でなく、生命の根元の非常に美しいものをあらわしていると私には信じられてならなかった。・・・
蓮田の魂が想い描き、やがて昇り還っていった、雲の意匠による神話的世界を、三島もはやくから悲願として、心通わせるところのあったことが明らかであろう」
 
 元雑誌編集者の方から三島由紀夫研究会事務局に届いた手紙に次のようにありました。
「昭和50年(1975年)秋、私自身の企画した特集のために京都の身余堂を訪れ、保田與重郎とのインタヴューを試みました。保田は「とにかく三島はいい、何ともいえずいい・・・」と、かなり熱のこもった口調で三島を絶賛しました。しかし、十数時間にわたる超長時間のインタヴューで、私が三島との個人的な関係や三島文学の評価をしつこくたずねたにもかかわらず、彼はそれらについて具体的なことをほとんど口にしませんでした。三島は日本敗戦直後、中国戦線から帰還して故郷桜井で病身を養っていた保田を一度見舞っただけで、その後二人は全く(または、ほとんど)対面と文通の機会をもたなかったそうですから、保田は答えようもなかったのでしょう」

 三島が戦後すぐに、病身で帰還した保田を奈良の桜井まで出掛けて見舞った証しはないのですが、もし三島が奈良にいる保田に会いに行っていたなら、それは昭和21年11月の「蓮田善明を偲ぶ会」のあとだったでしょう。
棟方志功の「悲しき飛天」で装丁された追悼冊子『おもかげ』をたずさえ、「漠々たる塵土に埋もれんと」する身を引きずって、「賜死の旅へ旅立」ち「靉靆の雲」となった蓮田善明を偲ぶ旅をしたことでしょう。

小高根二郎は『蓮田善明とその死』に、蓮田の「神風連のこころ」から恩師石原先生の印象深いエピソードを引いています。
「私ども中学の子どもであった時、神風連一党の墓地桜山に参拝したことがある。おぼろげな記憶で、何か特に祭式でも執り行われた時であったような気がする。それは学校として参拝したのであるが、石原先生の何か異常な慷慨に引きずられて其処に行って拝ませられたというような、妙な印象がある。
・・・
『電線の下ば通る時や、こう扇ばぱっと頭の上に広げて―』と話されたのも石原先生ではなかったろうか。
・・・
私の記憶には他の誰とも思いつけないので、うろ覚えとして記しておくだけだが、私にはこの話がずっと、非常に清らかな、そして絶対動かせない或るものを、今日まで私に指し示すものとなっている。神風連の精神的中核をなす国学者林桜園も決して門戸の狭い学者ではなかったし、首領太田黒伴雄や長老斎藤求三郎の如きそれを証しているから、此の電線の話は伝説かも知れないが、精神としてはそんなことをやる者が多かったと思われる。今一つは廃刀令の話である。日本刀を腰から離しては大和魂がすたるのだ、と憤激したという、それが彼等を蜂起せしめた直接動機であったと聞いたように思う。・・・これもうろ覚えである。私は、興奮すると少年のように頬を紅くされて何か歯がみするように急ぎつつ話された先生の表情さえ思い浮かんでくるようである」
 
 蓮田は懐旧の情をこめて「非常に清らかな、そして絶対動かせない或るもの」を示してくれた恩師のことを語っています。
「石原先生」とは神風連の幹部石原運四郎の遺児醜男(しこお)のことで、善明が済々黌に在籍している当時そこで教鞭をとっていました。後に醜男は父運四郎の加わっていた神風連の事跡を『神風連血涙史』として著しています。

昭和15年末から18年10月まで、三島と百通以上の書簡を交わし、一緒に同人誌「赤絵」を編んだ東文彦の祖父石光真清も蓮田と同じ熊本市内の生まれでした。
真清が亡くなってから文彦ら遺族はその回顧録を『城下の人』として昭和18年夏出版します。そこには神風連の中心人物加屋霽堅と幼少期の真清が交流している件があります。
三島は結核を患っていて会えない文彦の母から託された『城下の人』を手にして自分の周りにめぐらされている熊本神風連との連関にハッとしたことでしょう。その結縁を想ったことでしょう。

 真清の回顧録が『城下の人』に続いて『諜報記』(後『廣野の記』と改題)、『続諜報記』(後『誰のために』と改題)というタイトルで出されたことから明らかなように、彼は満洲・シベリア地方での諜報活動に従事したキャリアの持ち主でした。
 日清・日露戦役の時代に対ロシア諜報活動をしていた福島安正、明石元二郎、広瀬武夫らは軍人でした。
しかし「彼(真清)はいったん軍籍を離れて特殊任務に就いていますから、密偵になる。ロシア語でシュピネーン、つまりスパイというと、見つけたら殺してもいい」(「文芸春秋」平成21年12月臨時増刊号)と佐藤優は語っています。真清の任務は相当危険だったのでしょう。

単行本の『奔馬』のカバーには神風連の副首領加屋霽堅の墨書が使われています。荒木精之でさえその所在を知らない加屋の遺墨「長刀賦」を三島がどうやって入手したかは今なお謎です。
原文は漢詩で、その読み下し文を掲げます。
 
力を中原に致し、自ら習労す
此生、何ぞ惜しまん、鴻毛に附するを
雲霧を破除する、豈、日無からんや
磨励、霜は深し、偃月刀
 
三島の辞世の二首のうちの一首「益荒男がたばさむ太刀の鞘鳴りに幾とせ耐へて今日の初霜」は加屋のこの漢詩の最終行をふまえていることが見てとれます。

荒木精之は三島から贈られた『奔馬』を受け取りそのカバーを見て、「おやとおどろ」きました。
「それにしてもこのような現代ばなれの、くすんだような、特殊な史家や漢詩人、骨董屋でもないかぎり何の魅力も関心もありそうにない、このような地味なカバーをえらんだところに三島氏の心がしのばれた。書店の店頭でみたら、これだけで若い人たちに敬遠されるような、そういう感じのこのカバーを用いたところに著者がこの書にうちこむあつい心にふれるような気がした。売れる、売れない、ではない、そういうことはどうでもよい、そうした真剣な態度がこのカバーから見られ、それだけに三島氏が神風連にいかに傾倒しているか、ということが私にはつたわってくるように感じられた」(『初霜の記』)

 「奔馬」連載当時、雑誌「新潮」の三島担当をしていた小島喜久江(筆名 千加子)は、加屋の墨書についての三島の発言を綴っています。
「のちに『暁の寺』が本になってからのことだが、「君(小島)は三巻までの装幀のうちでどれが一番好きかい? どれもいいね。・・・ だけど僕は二巻が好きだねえ・・・」。その装幀も、自分で見出した、神風連加屋霽堅の書を基としたものである」(『三島由紀夫と檀一雄』「作中人物への傾斜」〜『奔馬』の頃)。
三島は神風連の志士が数多のこした書のなかから加屋のものを選びその遺墨を捜し出しました。これに非常に執着していたことがうかがえます。
  三島は熊本を訪れるまえに林房雄と対談し、「神風連はひとつの芸術理念」と熱く語っています。
「僕はこの熊本敬神党、世間では神風連といっていますが、これは実際行動にあらわれた一つの芸術理念でね、もし芸術理念が実際行動にあらわれれば、ここまでいくのがほんとうで、ここまでいかないのは、全部現実政治の問題だと思いますよ。
それでは彼らがやろうとしたことはいったいなにか、といえば、結局やせても枯れても、純日本以外のものはなんにもやらないということ。それもあの時代だからできたので、いまならできないが、食うものから着物からなんからかんまでいっさい西洋的なものはうけつけない。それが失敗したら死ぬだけなんです。失敗するに決まってるのですがね。僕は一定数の人間が、そういうことを考えて行動したということに、非常に感動するのです。
・・・
思想の徹底性ということ、思想がひとつの行動にあらわれた場合には、必ず不純なものが入ってくる。必ず戦術が入ってきて、そこに人間の裏切りが入ってくる。それがイデオロギーというものでしょうが、そうして必ず目的のために手段を選ばないことになっちゃう。だけれども神風連というものは目的のために手段を選ばないのではなくて、手段イコール目的、目的イコール手段、みんな神意のままだから、あらゆる政治運動における目的、手段のあいだのかい離というものはあり得ない。それは芸術における内容と形式と同じですね。僕は日本精神というもののいちばん原質的な、ある意味でいちばんファナティックな純粋実験はここだと思うのです。もう二度とこういう純粋実験はできないですよ。」
 
「もう二度とこういう純粋実験はできないですよ」といいながら、すでにこのとき、三島の心のうちに「純粋実験」へのやむにやまない気持ちが鬱勃と突き上げていたのです。
三島はさまざまなルートを使って自衛隊幹部にアプローチし、障害や周囲の反対を乗りこえて、この林房雄との対談の翌年、45日間の体験入隊を実現しました。
 
 蓮田善明は「神風連のこころ」の中で、「森本氏は・・・日本のいで立つ情熱そのものを以て叙述している」と激賞しています。
「神風連の人びとは非常にふしぎな思想をもっていたのである。それは維新の後の他のあらゆる暴動と全く出づる所を別にしている、それ故同じ熊本の士族でも、神風連の挙は無意味とし、翌十年の西郷南洲の軍に投じた者が多かった。簡単にいえば後者のほうは政治的不平に出で、なんらか政治運動の一種であった。神風連はただ魂の裏だけを純粋に、非常に熱心に思いつづけたのである。日本人が信じ、大事にし守り伝えなければならないものだけを、この上なく考えつめたのである。
・・・
ひとつは神風連の思想の純正さが、明治維新の深部における真髄の精神であること、したがってそこから神武創業に復る維新が展開さるべきであったことであり、ひとつはしかるにそれが歪曲された発展の時勢の下で、神風連を一個奇狂なものたらしめた、その新思想がお手盛りに合理化した開化主義の過誤について森本氏は精細剴切に論明し、今日日本のいで立つ情熱そのものを以て叙述している」
 
 熊本での取材の翌年の昭和42年、三島は中村光夫と4回に分けて行った対談で蓮田善明の思想について熱意の発言をしています。
三島はこの年に、後で取り上げる『古今集と新古今集』もあらわして、そこで行動と言葉について蓮田の影響がうかがえる論展をしていて注目されます。
 
<三島>
「ぼくはこの間小高根二郎のやっている「果樹園」という雑誌を見たら、ぼくの知らないことが書いてあった。戦争中、丹羽文雄が「海戦」を書いた時に、ぼくを非常にかわいがってくれた先輩の蓮田善明が丹羽を攻撃した話が出ている。丹羽という男はいかに頑迷固陋な男か、海戦の最中、弾が飛んでくるなかでも一生懸命メモをとって海戦の描写をしている。これは報道班員として任務を遂行しているわけで、そのために丹羽は名誉の負傷までしている。ところが蓮田は丹羽を非難して、なぜそのときおまえ弾運びを手伝わないかといっておこっている。蓮田という人はああいう性格だから、じつにいやな印象を人に与えたかもしれないし、みな怒ったろうと思う。だけどそこにはかなり重要な思想が入っていて、本当に文学というものは客観主義に徹することができるだろうか、文学者はそういうときにキャメラであるのか、単なる「もの」を記録する技術者であるのか、あるいは文学とはそういうときにメモをとることをやめて弾を運ぶことであるか、という質問を蓮田がしているのじゃないかとぼくは思う」
 
中村は「そうは思わぬ」と発言しつつも、「だけど、あなたがそこへ出した設問は大事だと思う。蓮田さんのいっていることから一歩掘り下げた非常に大事な問題で、結局その問題というのは丹羽文雄にも「海戦」にも関係なくて、文学の本質論だね」と応じています。
 
三島はつづけて、蓮田の喚(おら)びには「文学の問題の比喩」が提示されていると説きます。
<三島>
「それは一種の極限状況として比喩は簡単になると思う。文学の問題のいちばん簡単な比喩がそこで提示されていると思う。
・・・
そこで感銘が深かった。なるほど、こういうところで突きつめたら文学がどういうものかわかるのじゃないかと思った。
・・・ 
あの戦争を考えれば、あれは総力戦だろう。総力戦というのは人間をあらゆるフィールドにおいて機能化してゆくものですね。大砲を撃つ人は大砲、報道班員は文章によって記録あるいは報道し、あるいは軍宣伝のために利用される。そういう近代的な総力戦では丹羽は正しい任務を果たしている。だけど文学というものは絶対そういう機能になりえないものだということを信じたい。
・・・
そうすると、文学が絶対に機能になり得ないということを証明するためにはどうすればいいかということになると、そのとき弾を運べばいいじゃないかという結論になっちゃう。いかに邪魔でも、どいてくれといわれても」
 
 蓮田善明は昭和18年「新潮」五月号に寄せた「文学古意」で、「丹羽は戦うべきだった。弾丸運びをすればよかったのである。弾丸運びをしたために戦闘の観察や文学が中絶してしまうと考えることも誤りである。弾丸運びをしたために或る場面を見失うだろう、しかしもし弾丸運びをしたとしたら、そこに見たものこそ、本当の戦争だったのである」と書いています。
 
蓮田は、文学者ならば「本当の戦争」を戦わなくてはならないというのです。三島は「文学が絶対に機能になり得ないということを証明するために」丹羽は弾を運ぶべきだったと蓮田に賛同しています。
日本浪曼派同人の伊藤佐喜雄は昭和18年、軍人会館(現九段会館)で開かれた日本文学報国会で「以後、蓮田さんの名は、神がかりという冠称を付して呼ばれるようになった」と書き記しています。
「石川達三が登壇して、われわれ文学者も、おおいに国策協力の線に沿って、作品活動をしなければならない、という趣旨の発言をした。次いで、蓮田さんが登壇した。短躯ではあるが、きっちりと国民服に身を包んで、堂々と胸を張った姿は、国文学者というよりも、やはり精悍な軍人の印象が強かった。蓮田さんは、席に座っている石川氏をいきなり指さして、今の石川さんの発言には、自分は賛成できない、と大喝した。古事記にある須佐之男命のように「青山は枯山と哭き枯らす」ほどの壮大な文学を、われわれは創造しなければならない。喚(おら)び泣きの文学、慟哭の文学こそいま生まれなければならないのだ―と、蓮田さんは力説したのである。石川達三の発言は、戦争のその段階において、別に間違ったものではない、と私は思った。むしろごく妥当な発言であった。だから、石川氏は、いきなり自分を叱りつけて、おらび泣きの文学をなどと絶叫する蓮田善明を、ただ呆れて眺めていたに違いない。当の石川氏だけでなく、会場にあふれた日本文学報国会の、殆どすべてがそうであったろう。私はというと、お先つ走りにも、蓮田さんのスピーチが終わったとき、けんめいに拍手していたのだ。気がついてみると、拍手したのは会場で私ひとりだった。蓮田さんの名前は、文壇でまだ殆ど知られていなかった。私の席の近くには、人民文庫の作家や評論家たちがかたまって坐っていたが、『蓮田善明って何者かい?』というふうな囁きが聞かれた。以後、蓮田さんの名は、神がかりという冠称を付して呼ばれるようになったのである」(「日本浪曼派」)
 
 三島は「専ら蓮田氏に接した私の印象は、薩摩訛りの、やさしい目をした、しかし激越な慷慨家としての氏であった」「私は幸運にも蓮田氏のやさしさのみを享け、氏から激しい怒りを向けられたことはなく、ただその怒りが目の前で発現して、私にもよくわからぬ別の方向へ迸っている壮観を見るばかりであった」と小高根二郎の『蓮田善明とその死』の「序」に記していますが、その通りの行状を蓮田は軍人会館の壇上で呈しています。
しかし三島は蓮田の怒りの対象に関知するところでなかったのです。
なぜなら三島は21歳年上の蓮田をひたすら「古代から近代までの古典を潺湲として流れる抒情を、何ら偏見なく儒臭なく、直下にとらえて現代に齎しうる人と考えていたから」(同「序」)なのです。
 
 一方、蓮田と同年代の「文芸文化」の仲間たちは彼の激しやすい性格に手を焼いていました。栗山理一、池田勉は「浪曼」昭和50年新年号の「『雅を希求した壮烈な詩精神』 蓮田善明 その生涯の熱情」でそんな蓮田について語りあっています。
 
<栗山>
仕事の面では僕なんかある意味のジェラシーは感じました。それは一つの刺激なんでしょうから。ただ、蓮田の場合でいえば、晩年近くなってかなり烈しくなってきたでしょう。それに対して、僕は蓮田にブレーキをかけた方がいいんじゃないかと思って、危惧の念を洩らしたこともあるんです。それを、どの本かの後書のところに、蓮田が触れているところがあります。ちょっとついていけないなという感じを晩年の蓮田にはいだいていました。
 
<池田>
蓮田の宣長に対する心酔のしかたは、とにかく漢心を打ち払うということが非常に大きな問題になるんです。漢心というものをどのように蓮田がとらえているかということで、蓮田という人間がよく分かると思うんです。
・・・
結局、蓮田にとって文章を書くということが、自らの漢心を打ち払っているのだというんですよ。打ち払われた漢心が文章に出ているというんです。近代人ですから、意識する、しないにかかわらず、いろいろの合理主義的な漢心というものは心の中にあるわけです。それを書いて打ち払うことによって、自分の何かを絶えず新たにしていこうとか、見出していこうとか、そういうところが蓮田にはあったんじゃないかと思うんです。とにかく自分の文章はきたなくて、きたなくてと蓮田はいうんです。それはおそらく自分の合理主義的な漢心のようなものを、絶えず打ち払っていることばだったと私は思うんです。
・・・
蓮田の持っていた非常に近代的な、知的な分析力はすぐれたものです。しかし、その知的といわれるものが、自分にとっては近代の合理主義的な知性に過ぎないという直覚、したがってそういうものを打ち払わねばならないということが、いわゆる漢心を打ち払うことだ。そういうふうに宣長の漢心というものを解釈していたと思います。人の漢心を打つんじゃなくて、まず自らの漢心を打ち払う。だから、ときには人の漢心を見て、つい情勢にかられては、烈しくこれを面罵することにもなったのではないかと思います。
 
<栗山>
これは前に書いたことがあるんですが、蓮田が死んで二十五回忌にあたるというので、知友が集まって会を開いたことがあるんです。三島が自決した一年ほど前のことですが、そのとき三島は少し遅れてやってきました。挨拶をしてくれといったら、かなり激した口調で、蓮田のことに触れて、「私の唯一の心のよりどころは蓮田さんであって、いまは何ら迷うところもためらうこともない」というような意味のことをいったんです。そのとき、僕はちょっと虚をつかれたようで、三島の真意がよく分からなかったんです。
 
<池田>
三島君が、蓮田の二十五回忌に出席したときに、いま栗山の話したようなことをいったのと同時に、私も蓮田さんのあのころの年齢に達したということをいってたな。蓮田は(かぞえの)四十二歳で亡くなっておりますがね。
 
<栗山>
蓮田に『忠誠心とみやび』という本があるんです。一般的にいって忠誠心と雅びとはなかなか結びつきにくいと思うんです。蓮田はある意味では職業軍人よりも純粋な武人だったと思います。それと雅びという文学世界との結びつき、これが蓮田を解く大きな鍵じゃないかと思うんです。蓮田には『本居宣長』という本もありますし、ずっと早い時期の『鴎外の方法』の中にも宣長のことを書いています。そこで私なりに宣長のことを考えてみますと、宣長は『古事記伝』や『鈴屋答問録』の中に荒魂(あらたま)と和魂(にぎたま)ということを書いていますが、これが忠誠心と雅びの問題に結び付くと思うんです。宣長の考え方によりますと荒魂と和魂は二つの作用として働いているんだけれども、これを善悪とか正邪とかいうふうに対立概念としてとらえてはいけない。つまり一つの作用は他の作用を否定したり、超克したりするものではなくて、かえってつねに共存すべきものだというのが、宣長の理解のしかたなんです。・・・
 蓮田の晩年、この両魂が均衡を破って荒魂のみが烈しく先行するような印象を与えたことは、あの戦況下においてはやむを得ない仕儀だったんじゃないかというように思います」
     (次号へつづく)
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 三島由紀夫研究会『公開講座』のお知らせ
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次回『公開講座』は3月24日
ジャーナリストの桜林美佐さんを招いて三島事件以後、不在の防衛問題を基軸に語って貰います。
http://www.geocities.jp/misakura2666
        記
とき     3月24日(水曜日) 午後六時半
ところ    市ヶ谷「アルカディア市ヶ谷」四階会議室
講師     桜林美佐さん 「ひとり語り『拉孟に散った花』」
会場分担金  おひとり2000円(会員&学生は1000円)
終わってから桜林さんを囲む懇親会あります(会費別途4000円)
 三島さんのいない日本を生きてきて、また、防衛問題に携わっての感想などからひとり語りに移ります。
<桜林美佐さんのプロフィール>
昭和45(1970)年、東京生まれ。日本大学芸術学部卒。フリーアナウンサー、ディレクターとしてテレビ番組を制作。その後、ジャーナリストに。著書に『奇跡の船「宗谷―昭和を走り続けた海の守り神』『海をひらく―知られざる掃海部隊―』(ともに並木書房)、『終わらないラブレター 祖父母たちが語る「もうひとつの戦争体験」』(PHP研究所)。
 現在、国防問題を中心に取材・執筆。 ニッポン放送『上柳昌彦のお早うGoodDay』「ザ・特集」にリポーターとして出演。
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(編集部から)小誌は「三島由紀夫研究会」(昭和四十六年創設)の会員だけに限定せずに、三島研究の論文、エッセイをつねに募集しております。比較文学論(たとえば「吉本隆明と三島」とか)、作品論(たとえば『仮面の告白』に新解釈)、読後感、政治論、芸術論。まるで分野を問いません。三島さん自身、古典から前衛まで、映画からシャンソンまで万能の人でしたから。
 「憂国忌」への御感想、御希望でも構いません。皆さんからの御投稿を広くお待ちします。原則として実名。簡単な肩書きをつけて下さい。ただし三島文学批判も構いませんが、明らかな誹謗中傷のたぐいの投稿は採用しません。ゲスト寄稿者コーナーも常設しております。一部の原稿は年二回以上発行のメルマガ合本に掲載することがあります。    
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