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三島由紀夫の総合研究

創立35年の老舗「三島由紀夫研究会」の会報を兼ねた、あらゆる角度からの総合研究メルマガ

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三島由紀夫研究会メルマガ

2009/02/26


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  『三島由紀夫の総合研究』(三島由紀夫研究会 メルマガ会報)
       平成21年(2009)2月27日(金曜日)貳
            通巻第307号  (2月26日発行)
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「川端康成を囲んで」(III)

川端の執心と三島
                                                  西 法太郎


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本編は、平成21年1月13日付け通巻295号、2月15日付け300号掲載の小論に続くものです。
本編では、川端康成についての秘められたエピソードを添えて、三島と川端の関係に迫ってみたいと思います。
秘められたエピソードとは、晩年の川端が、川端だけでなく夫人も一緒になって、大願成就を期して「或ること」に猛烈な執念を燃やしていたことです。


▲鎌倉に川端康成が最初に住んだ家

 昨年(平成20年)3月朔日鎌倉で、小林秀雄の命日に合わせて同氏をテーマとした文学講演会がありました。筆者は、小林秀雄忌として集いたいとの主宰者Y女史の心持ちに打たれ、気鋭の論客S氏の講演に耳を傾けようと、鎌倉へ出掛けることにしました。

その数日前、出会った評論家のM氏も講演会に赴き、あわせて林房雄の墓参りをされるというので、その中に加えてもらうことにしました。
筆者が田舎の父に鎌倉に行くことを話すと、それなら或る本に書かれている、川端夫人と思われる人の行動ついて、鎌倉の寺を訪ね調べてきて欲しいと言うのです。梵語をある程度は解し仏典の研究に余念が無い父からの依頼は、それに関連したものでした。
この一日の筆者の行動は、何かに計られたように相関したものとなりました。というのは、林房雄と川端はたいへん親しく、終生仲を違えず付き合っていたのです。
我々の墓参りに合わせて菩提寺に現れた林房雄の子息からそのことを現地で聞き、これも川端について調べることを促してくれました。

川端夫人が書き残したエセーを取り寄せて開くと、林と川端の交遊が詳しく書かれていました。そのエセーとは川端秀子著 『川端康成とともに』で、新潮社から発刊となった川端康成全集の月報に「未亡人の思いで」として昭和55年から連載したものを昭和58年一冊にまとめて上梓したものです。
高円寺、大森、谷中と都内を転々としていた川端が鎌倉に移り住んだのは、「林房雄さんの強引なおすすめによるもの」と次のように書いています。

家探しはずっとやっていましたが、鎌倉に移っていた林房雄さんが、鎌倉に来い来い、来なけりゃ火をつけるぞ、なんて例の調子で言いますので、実際にその家を見ないで林さんの隣り、鎌倉浄妙寺宅間ヶ谷の家を借りました。(昭和十年)十一月のことです。今テレビの司会者をしている小泉博さんのお父さんにあたる小泉三申さんの持家が三軒ならんでありまして、その一軒に長田幹彦さんが、もう一軒に林さんが住んでいて、一軒空家になっていたのです。・・・鎌倉へ引っ越したのは健康のためですし、林房雄さんの強引なおすすめによるものです。

この家はまだ現存していて、林房雄の墓参りの後、浄妙寺の門前に立った子息は、「あそこに見えるのが鎌倉で最初に川端氏が住まわれていた家です」と指さしながら説明してくれました。
秀子夫人のエセーに林氏はたびたび登場します。しかし三島は、文学と関係のない雑事のやり取りでたった一回次のように登場するだけです。

話は大分飛びますが、戦後(昭和三十二、三年でしょうか)三島由紀夫さんから、お願いしたいことがありますので、鹿島さんの次女の方(平泉渉さんの奥様になっています)を連れて行きます、という電話がありました。鹿島家で私たちの土地をぜひ譲ってほしい(鹿島の森ロッジを建てるためでしょう)ということでした。それなら電話で話はわかりましたから、別に御挨拶にいらっしゃらなくても結構ですと、三島さんに御返事しました。

秀子夫人が川端との思い出を綴っている時期は、なぜか戦前から終戦頃までの時代が中心でほとんどそこに限定されています。だから川端との交際が昭和20年にスタートした三島が、不思議なくらいエセーに登場しないのは当然とも思えます。
それに三島が川端と親しくしていても、奥方とはそれほどでもなかったということはあり得ます。しかし夫唱婦随を絵に描いたような秀子夫人の三島への言及の無さは、川端の三島への“愛情”の濃淡を物語っていると思われます。
それが障子戸の裏側に離されて置かれたろうそくの炎のように、淡いものだったように感じられるのです。
淡いというより、あまりに冷淡な「三島」の扱い方です。「三島」の名はエセーの終わりの方にもう一回登場します。そこには昭和21年の川端の手帳からスケジュールを引き写した中に「三月二十五日(月)− 田中英光 三島由起夫原稿文芸春秋へ 三月三十日(土)二時文芸春秋株式総会(解散・・)」とあるだけです。
川端夫妻最大のイベントはやはりノーベル賞受賞で、「私たちの戦後で一番大きな事件ということになりますと、やはりノーベル賞受賞でしょうか」とエセーの中で触れ読者を期待させますが、最後のたった一ページをそれに割いただけで、筆を擱いてしまいます。日本文壇の大御所として持て囃された夫川端の華やかな後半生、日本ペンクラブ会長、国際ペンクラブ副会長として世界を駆け巡った誉れある活躍など、それらにまつわる楽しい思い出が戦後も山とあったはずです。書きたくないこと、書いては不都合なことが川端の後半生に少なからずあったのでしょうか。秀子夫人は川端の死の原因について、次のように簡略に記しているだけです。

本当の絶筆は、『新潮』に連載していた「志賀直哉」で、このときも志賀さんの岩波の小型本全集を丹念に読んでいました。おまけに太宰さんの死についてのところで原稿がきれていまして、死んだ人にぐんぐん引きつけられるという主人の不思議な性質は、この時にもはっきり表れていたと思います。そこに、従兄の死、自分の盲腸の手術ということがあって、本当に気がめいっていたのでしょう。


▲触れられなかったこと

川端の不眠症やその治療で使った薬物中毒についてはまったく触れていません。まことに奇異なエセーとの観が拭えません。
『日本の有名一族』(小谷野敦)には、川端一族について次のように書かれています。

川端の妻秀子が、いつ結婚したのか、長いこと謎だったが1980年から出た最新の全集に秀子夫人が文章を連載し、『川端康成とともに』として上梓されて、ようやく概略は分かったが、未だ謎はある。たとえば秀子の妹が若い時同居していたというが、その名や結婚先が分からない。川端夫妻には、子ができてもすぐ死んだり流産したりして成長したものがなかったため、親しくしていた従兄黒田秀孝の三女政子を養女としたが、なぜかそれが文献では「麻紗子」とされ、「戸籍名・政子」となっているのだが、一般人でしかないのになぜ変名が必要なのかも謎だし、その生年は1933年ごろと推定されるが、明記されていない。麻紗子もまた、川端の死後、養父を語ろうとしていない。麻紗子と結婚して川端家を継いだのが、・・・川端香男里で、現在は東大名誉教授、川村学園女子大副学長である。・・・また山本政喜(香男里の実父)についても、香男里、みどり(若桑みどり、 香男里の実妹)ともに語ろうとしない。謎の多い一族である。

秀子夫人の回顧エセーに書かれていて当然と思われる一族の主要人物の生年や、嫁ぎ先などの姻戚関係、戦後川端に生起した重要な事ごとが、巧妙かと思えるほど省かれています。しかしそれが川端の「心」だったのでしょう。タイトル『川端康成とともに』が示すように、泉下の川端の「心」に寄り添って、それを忠実に汲んで、秀子夫人は川端が「許した」ことだけを書いたのです。

臼井吉見が川端の自殺をテーマにして書いた実録小説『事故のてんまつ』は、雑誌「展望」(1977年5月号)に掲載され単行本として出版されたのですが、川端家から販売差止めの民事訴訟を受けました。『事故のてんまつ』は、川端の孤独な生い立ちから自殺までの背景を描いた作品で、その中で川端家の家系が、被差 別階級であるかのような記述をしたことに秀子夫人が抗議し、販売差止めの訴訟沙汰になったのです。訴訟では臼井が謝罪して和解が成立し、『事故のてんまつ』は絶版となりました。
『事故のてんまつ』の「先生」は、川端康成その人です。単行本『事故のてんまつ』に付された「あとがき」で臼井は、「川端さんの自殺のひきがねになったと思われる(原因ではない)資料を入手した」ことが川端について書く動機になったと記しています。
資料の由来や内容を明らかにしませんが、本編を読むと見当はつきます。本編の中で先生以外の作家名、先生の作品は実名で登場します。

あらすじは、先生(川端)同様両親を幼くして失くし、庭師の養女になった縫子という年若い娘が、庭木を買いに来た先生に見初められてその家のお手伝いになり、先生の死から数年後そのことを嫌な思い出として回想するというものです。縫子は先生に気に入られて、「半年でいいから来てくれないか、と一度先生の電話があってからは、連日、猛烈な電話攻めだった。奥さまからも、かかって来た」と、強引に口説かれます。
根負けした縫子は、先生の家のお手伝い兼お抱え運転手の役目をするようになるのですが、数人いるお手伝いの中で自分だけが方々に同伴させられる事や、姪であるという嘘の経歴で紹介される事に苦痛を感じ、早く辞めたいと思うようになります。先生は縫子にセクシャルな関係を求める事はないのですが、約束の期限の半年が過ぎてもお手伝いを辞めずに先生の家に留まっていて欲しいと夫人も一緒になって縫子に切願します。先生夫妻は、縫子の実家に次々に高価な庭木を注文することと引き換えに、今ならパワー・ハラスメントと呼べる行為を重ねます。縫子への異常といも言える執着ぶりから、先生の深い孤独が窺われ、そんな先生の望みを叶えようとする先生の「奥さま」の異様さが見てとれます。

ところで伊藤整はノーベル賞受賞直後のTVの座談番組で、川端に鞠躬如と対応していますが、臼井は『事故のてんまつ』で、その伊藤の本心を次のように推し測っています。

伊藤整という小説家が、先生を語った批評文の一節だった。・・・文芸評論家が、もしこの人の存在を否定でもしようものなら、そのこと自体がその評論家の存在を否定してしまう働きをする。・・・・読みようによっては、あの人の文学は、凡らく批評家なんかには、手のとどきそうもない高さ、深さをもってでもいるかのように受けとられかねない。また、そこをねらった伊藤整という人の、用心に用心をかさねたもの言いなんだ。このたった数行に、伊藤整は千万の思いをこめているんだよ。文壇随一の温厚で、賢者の誉れ高い伊藤整が、ありったけのワサビをきかせた、こわい、すごい批評なんだよ。僕ァ、それがわかるんだ。

この「僕」というのは、伊藤整の大学の後輩で、縫子が学んだ高校の教師です。縫子がこの教師から聞いた話として、臼井は次のようにも書いています。


▲目玉ぎょろりの裏に

要するに、先生は、日ごろ雲の上を歩いてるみたいな風貌姿勢に似合わず、あの目玉をぎょろつかせて、絶えず文壇の形勢をうかがいながら、必要な手を打つことにぬかりがない。恐るべき文壇政治家だ。だから、先生の作品をまともに批評する勇気ある批評家は一人もいない。こわくて手が出ないのだ。先生が、徐々に文壇的地歩をかためて、いつのまにか鬱然たる大家になった秘密はそこにある、というのだ。・・・伊藤整がそんなことを話したとすれば、彼こそこわい批評家ではないかしら? 何が何やら、わたし(縫子)には見当もつかないことだった。

「伊藤からこの教師が直接聞いた話に基づくものであることは、明らかだった」と、臼井は断定しています。
川端に対する鞠窮如とした仕草の底に、このような怜悧で剣呑な伊藤の感情が流れていたのです。伊藤はTVでの座談の一年あまり後、三島、川端より先に没しました。先生の自殺の方法について、第一発見者の縫子の思いを、臼井は次のように記します。

沢野久雄の「小説 川端康成」に、ガス管を口にくわえていたことについての作者の不審の思いが書かれているくだりがある。当然だと思う。 ・・・ 普通のガス自殺ではなくて、むしろ睡眠薬の方にかなりのウエイトのおかれた自殺ではなかったかと思うという沢野氏の考え方は、疑う余地はないと、私(縫子)は思う。 

話を昨年の3月朔日に戻します。父が筆者に託した調べごとは、村岡空著『愛の神仏』(昭和50年 大蔵出版)の掉尾の件にある「H寺」についてでした。少し長いのですが重要なところです。

おしまいに、これも私が直接取材した話だが、鎌倉のH寺には近来稀な因縁譚がある。
或る日の夕刻、未知の女性からの電話で、聖天さんを祀ってくれないかと聞く。
それで、目下のところ浴油供(よくゆく)などは休んでいるが、確かに本堂に秘仏として安置していると答えた。相手は大いに驚き、早速、女中を同道して中年の婦人が参詣に来た。 彼女の言うには、自分は若い頃からの聖天信者だけれど、先年来、さる行者の予言によると、どうもこの方角に霊験いやちこな聖天さんがおわすはずだ。それを尋ね当てて供養すれば大願成就すると言われた。 だから、どうかお姿を拝ませて欲しい、などと熱心に物語ったという。
しかし、同寺では厳格な秘仏なので開帳はできず、しかも今は前立の十一面観音が居られないので、正式の修法が困難である旨を告げた。 にもかかわらず婦人は日参して、とうとう十一面観音は自分が寄進するからと言い出した。住職も流石にそれではと気持ちが動き始めた頃、仏縁なのか、近くの古刹S寺へ住職の子息が入山した。そこには何と十一面観音が数体安置されている。うち二体は重文である。 
かくして、十一面観音菩薩を譲り受け、略式ながらH寺では聖天供が再び修せられるようになった。そして程無く、当の婦人のご主人は世界的な文学賞を受賞した。
けれど、その後、天下周知のごとく同氏は、突然悲劇的な死を遂げてしまった。未亡人が、今なお聖天信仰を続けておられるかどうか、私は知らない。

「当の婦人のご主人は世界的な文学賞を受賞した。けれど、その後、天下周知のごとく同氏は、突然悲劇的な死を遂げてしまった。」とあるので、呪法を懇願した婦人が秀子夫人だろうと筆者の父は言うのです。その確認を筆者は託されたのです。

聖天さまとは歓喜天のことで、「聖天さんは怖い。 子孫七代までの福を一代に取る」と言い伝えられ、また歓喜天の尊像は、「直接拝むと眼がつぶれる」と怖れられます。
その像形は「夫婦二身を相抱き立たしむ」もので、「象頭人身に」造られます。
動物のゾウの頭をした人間の男女が「愛惜の相」、つまり性の恍惚の境地の表情を浮かべて抱き合っているのが歓喜天です。
もともと単身の聖天さんが、いつ、なぜ双身になったのか? インドではリンガ(男根)とヨーニ(女陰)、チベットでは歓喜仏をヤブ・ユムと称して、ヤブ(父、男性)とユム(母、女性)の二大原理が和合することによって物事が成就すると考えられ、そのような性力信仰からだと説かれています。像頭にしたのは、大胆奔放な裸形彫刻で名高い古代のインド人も、あまりにリアルな交接する姿を避けたようです。

歓喜天はふたりでひとつの神で、牙の折れた女神が主神で、十一面観音菩薩の化身とされています。片方は神でなく毘那夜迦(びなやか)王という魔王のような存在です。毘那夜迦王が疫病をはやらせているのを見た十一面観音が毘那夜迦王の前にそれと同じ姿に化けて現われ、自分に惚れさせて抱擁します。その合体している二体を仏法を守護する歓喜天としているのです。十一面観音は、毘那夜迦王のよこしまな欲望を自分との抱擁で鎮めて、仏法の信仰に導きます。
ところでなぜそんなセクシャルな「聖天さんは怖い」のでしょう。それは他の神様が見放すような無理な願いを聞き届けてくれるからです。 歓喜天の呪力がとても強力で、それで怖い神様なのです。
歓喜天は、日本に象がいなかったせいか、めずらしく神仏習合しておらず、呪法は空海が請来、つまり唐から持ち帰った『大聖天歓喜双身毘那夜迦法』以来、真言宗では秘法とされています。
霊験に富むことは「さてこの(歓喜)天に三品(さんぽん)の供養あり。世の人大願あらばこの供養をなすべし。『使呪法経』に曰く、上品(じょうほん)に我を持(たも)たん者は我れ人の中の王を与えん。 中品に我を持つ者は我帝師となすことを与えん。下品に我を持つ者は富貴無窮なり」(大木食大僧正以空上人著『窃誓伝』)とあります。『歓喜天使呪法経』が「上品に我を持たん者は我れ人の中の王たるを与えん」と説く上品の修法(供養法)が浴油供(よくゆく)法です。これは秘法とされ阿闍梨職の僧に願わなくてはなりません(『宝山寺』昭和53年)。 『愛の神仏』によると浴油供(よくゆく)法とは次のようなものです。
まずは、寺院に「聖天壇」を設ける。そして「白月一日」というから毎月十六日に、「多羅(たら)」と称する金属製(黄金が一番善いとするのは俗説)の鍋に、清浄な胡麻油を一升入れる。その中へ、白檀、丁子などの妙香を投じ、香油をつくって暖め、それに歓喜天像を立て、二股大根などを供養して、銅の杓で、真言「オンキリギャクウンソワカ」などを百八遍ずつ七日間唱えながら、「入我我入」の境地で尊像に油をそそぐ。実はこのときの油の温度が問題で、心願が成就するかどうかは一にかかって当の秘伝によるものという。

狂おしいほどノーベル賞がほしかった川端は、自分に忠実な秀子夫人を遣ってH寺の住職に、「どうか(聖天さまの)お姿を拝ませてほしい」と「日参して」熱心に頼み込ませ、大枚がかかるのに「十一面観音は自分が寄進するから」とまで言い出したのでしょう。川端夫妻は、縫子を自宅に引き連れ、連れてきたらいつまでも引き留めようとしたと同じ、しつこいアプローチを先代の住職にしたことがうかがえます。


▲仏教に詳しくなると死ぬのが近い?

三島由起夫は佐伯彰一、山本健吉との座談「原型と現代小説」(昭和43年12月『批評』)の中で仏教に詳しくなると、もう死ぬのが近いのだそうだ、とおどけながら、「やはり密教系統の歓喜天信仰なんかで、性欲だけが人間を救済するというあれは立川流まで残っている。 あれはヒンズーですね。カジュラホの彫刻ね、あれなどは、やはり一種の密儀で、エロスのみが人間を救済するというのがありますね。そのときだけ即身成仏するのですね。」と述べています。三島は川端が歓喜天信仰にのめり込んでいたことをどこからか聞いていたかも知れません。

昨年3月朔日朝早く鎌倉駅に着いた筆者は、父がH寺とにらんだ宝戒寺に向かいました。天台宗の宝戒寺は歓喜天像を秘仏として祀っている鎌倉唯一の寺です。
風の強い日で、境内に入ると季節柄この寺名物の枝垂れ梅が美しく咲き匂っていました。寺男から、「住職は土曜日で法事が立て込んでいて忙しく、これからすぐに外出してしまう。事前に電話で予約をして出直した方がいい」と言われ、残念ながら会うことはできませんでした。
仕方なく秘仏の蔵された歓喜天堂の前を巡って、林房雄の墓のある浄妙寺に足を向けました。川沿いの狭い金沢街道を歩いていると道の左側に長い急な階段が見えてきました。杉本寺という寺の参道でした。入口で拝観料を徴収している女性に聞くと、このお寺の住職は宝戒寺の住職を兼ねていて、本尊は十一面観音菩薩像だというのです。これは『愛の神仏』にある、「H寺」の近くにある十一面観音が安置された「古刹S寺」に間違いありません。『杉本寺縁起』によると、天平六年(七三四)僧行基が自刻の十一面観音を安置して開創された寺です。

翌週、宝戒寺の住職に電話を入れて、川端夫妻に呪法を頼まれたか確認したところ、「確かにしました。しかしその時私は杉本寺に出ていて、先代の宝戒寺の住職だった父が川端さんとやり取りしていましたから、詳しいことは知らないのです」とだけ話してくれました。
「近くの古刹S寺へ住職の子息が入山した」という『愛の神仏』にある先代住職の話と一致します。このあと現住職に、手紙を出し電話をして面会を申し入れましたが、お彼岸のある3月は法事で忙しい、4月はお花まつりであわただしいと応じてはもらえませんでした。供養法は秘法ですから明かにされないでしょうし、川端夫妻が何を祈願したかは個人の秘密ですから、先代の住職である父から聞いていても、他人は教えてもらえないものでしょう。利生記(霊験譚)が少ないのは、聖天信仰こそ“愛の呪文”そのもので、個人の秘密に属する心願ばかりで、おのずと厳重に守られているのです。

二十年以上前のある年の大みそかも押し迫った頃、筆者は父を誘って奈良に遊んだことがあります。そのとき父は生駒山の宝山寺に詣でたいと、一緒に山の上まで登って境内に足をふみいれました。その偉観にびっくりしましたが、そこには「お聖天さま」と呼ばれる秘仏大聖歓喜自在天が安置されていたのです。父の宝山寺に参詣した目的は「お聖天さま」を求めてだったのです。
『愛の神仏』には、「未亡人が、今なお聖天信仰を続けておられるかどうか、私は知らない」とあります。
この本の著者は先代の住職から、川端が修法のお蔭でめでたくノーベル賞を受賞し大願成就した後、「自分は若い頃からの聖天信者だ」と言っていた秀子夫人が寺に来なくなったことを聞いていたのでしょう。秀子夫人が『川端康成とともに』で聖天信仰に触れている箇所はありません。ノーベル賞に魅入られた川端は、歓喜天の怒りに触れたかのように、受賞から2年後、愛弟子だった三島を失いました。さらにその1年5カ月後、命を落としました。


▲三島と川端との出会いは「室町文化」だった

終戦の年川端が三島に出し交遊の始まるきっかけとなった短い手紙の中で、川端は室町文化に関心を寄せていることを記していますが、昭和37年の「川端氏に聞く」と題された川端、三島、中村光夫の座談会で、次のような語らいがありました。

三島 – いつごろからそういう中世的なものに興味をおもちになりましたか。

川端 – 非常に興味が高まってきたのは戦争中ですね。戦争中に室町のものをずいぶん読んだのですね。

三島 – 僕はいまでも、川端さんと僕の接点は中世だと思うのです。日本の文学者の考えている中世と、川端さんが違うものを考えておられるというところで、僕が非常にこの親近感というか、そういうものを感じたわけです。あそこが接点で、川端さんというものをわかるようになったというと失礼で、わかってないかもしれませんが、それで接触したように思う。

この座談の中で中村光夫は、「あれ(三島の『中世』)は、僕なんか認めなかったが、川端さんは非常によくお認めになったですね」と揶揄しますが、川端は戦争中たくさん出回った「室町のもの」を読み漁り、室町文化に惹かれたことを明かし、それが三島と川端の「接点」になったことがうかがえます。

佐伯彰一と川端香男里は『新潮』1997年10月号の対談で、三島と川端の往復書簡について、川端のノーベル賞受賞を境に、三島の対応が変じたことを指摘しています。

佐伯   – (川端は)四十四年にも『豊饒の海・第一巻 春の雪』の推セン文をお書きになっていますしね。

香男里 – 四十三年十月十六日付の手紙で「新潮社より百五十字の広告を書けとは無茶な注文」とこぼしています。この日は水曜日で翌日に実はノーベル賞の受賞通知があるんですよ。

佐伯   – なるほど。 

香男里 – これを最後に書簡の意味が、がらりと違ってくるんです。

佐伯   – 四十三年十月十六日付の川端さんの手紙の次は、十ヶ月おいて例の四十四年八月四日付の手紙になりますからね。

香男里 – しかも、川端康成のノーベル賞受賞以降、三島さんの手紙はたった二通だけ。

私見では、「たった二通」以外に、三島は川端に長文の訣別の書簡をしたためていたのです。それは先の編で取り上げた、「国文学」昭和45年2月号に発表された『「眠れる美女」論』です。昭和37年の座談会に、『眠れる美女』について次のような箇所があります。

川端 - サイデンスティッカーは「『眠れる美女』は、珍しく構想を立てていたのだろう。あれは終わるべきところで終わっている」というのです。僕は構想を別に立てていたわけではないのですが。

三島 - 僕もそう思います。「眠れる美女」については。

川端 - 一回、一夜きりで終わる短編のつもりだったのですよ。そうしたら、新潮の編集が一冊になるまで書いてくれというので、まだ本にならないのか、まだ足りないかと、編集に聞きながら書きのばしていましたから。(笑) 

ここで川端は『眠れる美女』の話題を自ら持ち出し、あれこれ述べています。
「『眠れる美女』は、珍しく構想を立てていたのだろう」というサイデンスティッカーの見立てを、川端は否定します。構想を立てて書いたかどうかは創作した本人だけが知っているものなのに、三島はあっさり「僕もそう思います」と川端に同意します。サイデンスティッカーは川端文学のよき理解者で、このときすでに『雪国』と『千羽鶴』の英訳版を上梓していました。サイデンスティッカーの見立てを、このときの三島はあっさり否定しますが、後年の『「眠れる美女」論』で「川端氏の作品では、『眠れる美女』は例外的にすこぶる構成的な作品である」と逆に肯定する立場をとります。この作品は川端らしくない構成的なもので、構想を立てて書いたのだろうと見る方が納得できます。作品が出版された直後の三島の態度は不可思議です。一方三島がこの作品の創作に関わっていて、川端が「構想を別に立てていたわけではない」可能性があります。創作過程の真相を知りうるのは、川端と三島、そして「新潮の編集」です。
 
終戦の年の三島と川端の結縁は、「中世」への熱い関心を共有していたことにありました。
こうして始まったうるわしい師弟関係に、後年ノーベル賞を競うことでしだいに罅が入り、それはついに大きな亀裂になってしまった。一般的にはそのように見られています。しかし『眠れる美女』という昭和36年の作品に関わる或る「いきさつ」が二人の間に長く伏在し、それも亀裂を穿っていた。そしてノーベル賞を巡る軋轢が相俟って、亀裂を深く暗い渠にしてしまった。そのようにも思えるのです。        
(完)
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(編集部から)小誌は「三島由紀夫研究会」(昭和四十六年創設)の会員だけに限定せずに、三島研究の論文、エッセイをつねに募集しております。
比較文学論(たとえば「吉本隆明と三島」とか)、作品論(たとえば『仮面の告白』に新解釈)、読後感、政治論、芸術論。まるで分野を問いません。三島さん自身、古典から前衛まで、映画からシャンソンまで万能の人でしたから。
 「憂国忌」への御感想、御希望でも構いません。皆さんからの御投稿を広くお待ちします。原則として実名。簡単な肩書きをつけて下さい。
ただし三島文学批判も構いませんが誹謗中傷のたぐいの投稿は採用しません。ゲスト寄稿者コーナーも常設しております。一部の原稿は年二回発行のメルマガ合本に掲載することがあります。    
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      メール  yukokuki@hotmail.com
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