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三島由紀夫の総合研究

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三島由紀夫研究会メルマガ

2007/05/07


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『三島由紀夫の総合研究』 
(三島由紀夫研究会 メルマガ会報)
       平成19(2007)年5月7日(月曜日) 
            通巻 第143号  
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<< 力作論文一挙掲載 >>

三島由紀夫と神風連 (壱)
西法太郎

それにしても三島氏はいつこの書を手にいれたのであろうか。 四十一年八月、熊本に来た時は、私は自分の秘蔵する大田黒、加屋らの遺墨を見せたことはある。ちかごろ神風連関係の遺墨などほとんど売りに出ることはない。 ・・・ それにしてもこのような現代ばなれの、くすんだような、特殊な史家や漢詩人、骨董屋でもない限り何の魅力も関心もありそうにない、このような地味なカバーをえらんだところに三島氏の心がしのばれた。 



 ▽ 三島由紀夫「神風連」取材の異様さ

三島由紀夫は昭和41年夏『奔馬』で取り上げる神風連(しんぷうれん)の取材で熊本を訪れた。
三島から案内を依頼された荒木精之(あらきせいし)は、『初霜の記 三島由紀夫と神風連』(昭和46年)にそう記している。
いわゆる「神風連の乱」は、明治9年(1876年)熊本で起こった。 神風連は地元熊本では敬神党とも呼ばれていた。その中心者が“大田黒、加屋ら”であった。
荒木が云う“この書”とは、加屋霽堅(かやはるかた)の詠んだ次の詩句である。

致力中原   
自習労此生 
何惜附鴻毛 
破除雲霧豈
無日磨励霜 
深偃月刀

この文字が『豊饒の海』の第二巻『奔馬』のカバーに古寂びた襖に書かれたデザインで使われている。
「デザインで使われ」というのは、実際は半切の紙に書かれたものだからである。 行の字数が不揃いなのは、加屋が紙に書きつけたそのままをカバー用に転写しているからである。意味をとると七言の詩句であることが解る。

力を中原に致し、自ら習労す
此生、何ぞ惜しまん、鴻毛に附するを
雲霧を破除する、豈、日無からんや
磨励、霜は深し、偃月刀
 
詩の内容は、それから四年後の自決の心情にまっすぐ繋がっている。 そしてこの遺墨とともに神風連の行動そのものが三島の自決への道標となっている。

それにしても荒木が訝るように、神風連烈士の数多の遺墨から、三島はなぜ加屋霽堅のものを選んで、『奔馬』のカバーに使ったのだろう。
『奔馬』のモチーフとして神風連を取り上げた三島の心根はどんなであっただろう。その神風連とはどんな人々であったろう。いくつもの疑問が謎となって湧いてくる。

三島が熊本を訪れた昭和41年当時、荒木は同地で月刊文芸誌『日本談義』を主宰しており、神風連研究の第一人者でもあった。その荒木の許に、三島の恩師清水文雄と親友の伊沢甲子麿から三島の紹介状が届いていた。
学習院在学中の三島の国文の教師であった清水からは、「今後一層三島文学に期待するところ大きいし、ことにこんどは神風連を書かれるのでぜひ協力してほしい」とあり、終戦間際から三島と昵懇の間柄の伊沢からは、「当代日本人のなかで最も尊敬している人物です、きっと荒木さんとは心情が通ずる方だと思います」とあった。
荒木は、「この二人からの紹介状である以上、三島氏が来熊(らいゆう)については、私もとくに念入りに相対し、取材についても全面的に協力してあげようと思っていた」のである。
しかしその時点で荒木は三島の来熊を単なる取材としか考えていなかった。

三島が当時まだ急行列車であった“有明”で熊本駅頭に立ったのは、昭和41年8月27日の夕方であった。
満面微笑の快活な三島を、おっとりとしたふくみ笑みで出迎えた荒木は、自己紹介をかねた初対面の挨拶を交わし、宿泊先のホテルに入ったのだが、ロビーでの閑談は荒木を驚倒させた。  
三島の神風連への打ち込み方はそれまで荒木が接遇した来訪者たちと大いに異なり、三島はすでに木村邦舟の『神風連・血史』、小早川秀雄の『血史 熊本敬神党』、石原醜男の『神風連血涙史』など神風連に関する資料のほとんどに目を通していた。
前掲の加屋の書は、『血史 熊本敬神党』(明治43年出版)に写真図版として載っているのだ。
 
三島は、博捜した資料・書籍の中の同書の図版から加屋の手になるこの「長刀賦」の存在を知ったのであろう。
三島は神風連事件だけでなく、「そのよってきたる歴史的諸条件も、支柱となった思想的内容も、乃至はかれらが信条とした“神事は本”ということについても、そのおおよそを学びとって」いたのである。


▽熊本の前に大三輪神社で禊ぎ

荒木をことに感動させたのは、三島が熊本に入る前に三日間奈良の大神(おおみわ)神社に参篭し、そこの滝にうたれ、宮司から「古神道」の話を聞いていて、それを当たり前のように淡々と話したことだ。

翌日28日の午後、荒木邸に現れた三島は、荒木が前夜書店に手配させた「櫻園先生遺稿」をその夜のうちに書店に赴き購入し既に読み了えていた。
この櫻園先生、林櫻園は私塾「原道館」を開き、維新前は宮部鼎蔵(みやべていぞう、池田屋事件で新撰組に討たれた勤王家)・河上彦斎(かわかみげんさい、佐久間象山を斬った尊攘派)、維新後は神風連と呼び馴(な)らされた志士たちを門人に抱えた教育者・思想家、そしてなによりも熱心な神道家であった。

周囲から“櫻園の大人(おうえんのうし)”と尊称され、門人の先生への敬慕の念は「この翁あれば御国安く、この翁なければ御代危うし」という切実で真摯なものであった。
「先生のひととなりは内剛外柔、きわめて気が強いわりには意固地でなく、絶倫の頭脳力をもちながら、やたらと智にはたらいて角がたつようなこともなかった。 その眼はぎょろりとして眼光鋭く、鼻すぢは通って高く巨大で、下唇はだらりと垂れ下がり、下あごをおおうほどであった。容貌怪異、その独特の迫力にうたれ、人は一見して先生が只者ではないことを知るのであった」。(木村邦舟『神風連・血史』)

林櫻園のすぐれたところは、宋学(朱子学)一辺倒の藩風に異を唱え、藩校を辞して私塾「原道館」を開き、そこに有志の若者を集めて、独自の教学を広めたことである。

藩校の雰囲気は重圧的で、その学問内容は「大全に白髪、語類に死す」、つまり四書大全を読み終わる頃には白髪頭の耄碌(もうろく)となり、朱子語類を読むうちに死んでしまい、結局一生役立たずに終わると揶揄されたほど非創造的で非実用なものであった。
櫻園の机には、儒書のほか、仏典、兵学書、歌書、医書、天文地理歴史、ありとあらゆる書籍が積まれていた。 

櫻園の目は外にも向いていた。将来の外国との交渉のため防御のためにまず外国の事情を知ろうと自ら蘭学を積極的に摂取し、門生に講じ、その習得も督励した。神風連の変で戦死した高弟の一人齊藤求三郎(さいとうきゅうさぶろう)は幾冊もの蘭字のノートを残している。

研究・探求の本領である神の道については、縣居(賀茂真淵)、鈴屋(本居宣長)を精密に考証し、確実に論定した。 
そして櫻園の学問の究極的な目的はこの古学の「実行」にあった。(『神風連・血史』) 
維新の二大先覚者として横井小楠が挙げられるが(もう一人は佐久間象山)、地元熊本で第一等の人物は誰かというと、それは林櫻園であった。(『神風連実記』)

三島は熊本での二日目、28日の晩、熊本市内の老舗料亭に荒木と蓮田善明未亡人を招待した。他に地元研究者と三島の知り合いもいた。
三島は、「熊本」を学習院高等科時代に交流を持った蓮田善明の故郷として刻印していた。
蓮田は小文『三島由紀夫と保田與重郎』で触れた、三島の恩師清水文雄を通じて知遇を得た『文藝文化』の主要な同人であった。
蓮田は学習院時代の三島を「われわれ自身の年少者にして悠久な歴史の申し子」と絶賛した。
蓮田は地元の中学校済々黌(せいせいこう)に通い、そこの教師で『神風連血涙史』の著者の石原醜男(しこお)に学んだ。醜男の父石原運四郎(うんしろう)は神風連の変で自刃し、母は殉死して果てた。 蓮田は終戦直後南方のジョホールバルで敵と内通した上官を射殺し自ら命を絶った。 
恩顧ある蓮田の未亡人との再会であった。三島は蓮田から可愛がられたひとときを回想し、未亡人の近況を聞いたりした。


▽ 熊本三日目の出来事

来熊三日目、29日の朝、三島は一人で熊本市内から十キロ余り郊外の、今なお「青田の只中の杜にそびえる茅葺屋根の簡素なお社」(『奔馬』)である新開皇大神宮へ徒歩で出掛け、その午後会った荒木を驚かせる。
三島は神風連の人が通った道をひとりで歩き、神風連の人が見た肥後の自然を見たいのですと云った。
新開皇大神宮は、林櫻園の尊崇するところ深く、そこの祠官大田黒(おおたぐろ)家の養子となった伴雄(ともお)は神風連の実質的な首領であった。

神風連の決起の時は宇気比(うけひ)という神事で決められた。櫻園の著書は、『昇天秘説』、『答或問書』そして53歳で著した『宇気比考』がある。宇気比は神事のなかでも最も奇霊(くすび)な神事で、これをよく窺知して行えば天下のことに不可為のことはないと信ぜられてきたものである。
新開皇大神宮で太田黒が神慮(うけひ)に諮って10月24日(1876年の陰暦9月初8日)決行と定まった。 
部隊の人選も うけひ で決められた。
加屋霽堅は、別途自分が神官を勤める錦山加藤神社に、人を遣わせ奉伺すると、これも進戦許可と出た。

神風連は、火器・砲を備えた熊本鎮台に、古来の刀と槍で向かうのみであった。彼らに、ことの成果・成否の求めはなく、ただ死ぬことより外はなかった。神慮があればそれだけでよかった。
 因みに神話の世界で、天つ神も占いをして、己のさかしらな判断を用いないで、上の神の教えを受けている。 本居宣長は『古事記伝』で、古事記冒頭の国生み神話の個所で、「卜(うらへ)はたゞ神事(かみわざ)にのみ用いることになれれど、上つ代には、萬の政(みわざ)にも、己(おの)がさかしらを用いず、定めがたきことをば皆卜(うらへ)て、神の御教えを受て、行ひ賜しこと、記中書紀其の外にも多く見えたり、今天つ神すら如此(かくのごと)くなるをや」と述べている。(西尾幹二『江戸のダイナミズム』第十二章 宣長とニーチェにおける「自然」 P281)

来訪してきた三島を、荒木はまず桜山神社に案内した。 
「三島氏は桜山神社に参拝をすますと、それらの墓地の中を感慨ぶかくふみしめるように歩いていった」と荒木は『初霜の記』に残している。

そこには林櫻園の真墓があり、その手前に左右二列に整然と62基ずつ神風連戦士の石の墓標が配され、その御霊が合祀されている。
 最奥の鉄柵で囲まれた櫻園の墓は不定形な濃灰色の石ででき、表に「櫻園大人」と彫ってある。その右後ろに『誠忠碑』と書かれた木柱が立ち、柵外手前左に『立義献吾身』、右に『儘忠報君国』と書かれた対の石柱が立つ。 
その手前に宮部鼎蔵ら肥後勤王党の石墓が並ぶ。更にその手前に「神風連」殉死者の石墓がある。まず別格の大きな石柱の戦死した加屋のものが左に、自刃した太田黒のものが右に対に配されている。 その手前左側に自刃した者の墓61基が、右側に自刃と戦死その他の者の墓61基が並ぶ。 

それぞれの墓石の表に俗名、裏に享年と死因が彫られている。上は69才、下は16才で、過半の64名が20代である。十代は8名である。右列の61基のうちに獄死と処刑が3基ずつ、憤死が1基ある。 
三島が訪れた後、桜山神社の敷地内に設けられた「神風連資料館」の方は、筆者(西)に「“憤死”とは絶食して果てということです」と説明してくれた。追っ手を逃れ神社境内に潜んだ一人が、表に出て捕縛されるを潔よしとせず、そのままの死を選んだというのだ。

資料館には、神風連と戦った官軍側から事変を捉えた、厚手の資料集が一冊あった。 
タイトルは『史実を探る 神風党の変 M9.10.24 −そのとき警察はー』で平成11年に、地元警察学校OBが中心となって授業の参考書として作成したものである。
巡査報告書、口述書、県・軍関係記録、電文記録、新聞記事などが収められ、鎮台・警察側から見た戦況・被害・検死結果、中央政府への事変の報告ぶり、報道の模様などが詳細に記されていてる。 

敵方の神風連を貶める記述はなく、崛起の意に配慮した内容である。 鎮台・警察側の死者の明細や追悼場所の所在地の記載がある一方、神風連の真墓については、一つひとつその写真、町名地番、地図が載っていて、全墓所巡りができる詳細さである。

荒木は桜山神社から三島を誘って、加屋霽堅の真墓他がある小峯墓地に廻った。
加屋霽堅の人となりについて、石光真清(いしみつまきよ)が回顧録『城下の人』の中で加屋と実際に会ったことに触れている箇所がある。
石光が八才の頃、熊本城近くで従兄たちと水遊びをしていたら、「紋付の羽織袴に大刀を差した、高髷の堂々たる武士」と遭遇しそれが従兄によると加屋であった。加屋から冗談っぽく立会いをしかけられ、花岡山の上に連れられて話をしてもらったと印象深く述懐している。

さらに三島たちは小峰墓地から、小篠四兄弟(いずれも自刃)と義犬の墓がある本妙寺、決起の夜結集地となった藤崎八幡宮の跡地、干戈が交えられた主戦場である熊本城内の太田黒伴雄の果てた地点・歩兵営跡・砲兵営跡、変の後遷された現在の藤崎宮にも参拝した。


▽尊皇義勇軍

藤崎宮といえば、当時熊本を代表する郷土史家におさまっていた荒木が、終戦時進駐軍を迎え撃つべく同志を募り、尊皇義勇軍を結成し遺書を書き、日本刀を落し差しにして熊本城を闊歩し、徹底抗戦を叫んで立てこもった場所である。
そして太田黒伴雄と同様に神意に諮ったら、抗戦は神意に反し、宸襟(天皇)を悩まし奉ることだから控えるようにとの託宣が下り未遂に終わった。

石光真清は、神風連事件の様子を『城下の人』の中で「半鐘がじゃんじゃん寒空に鳴り響いて」、「森の中から空高く噴火のように火の粉が吹き上がって」、「火事場のほうから騒々しい車の音と一緒に大勢の人が何か叫びながら雪崩れて来る足音が聞こえ」、「胴を着た者や烏帽子直垂を着た者が、抜刀を閃かし或いは長槍を小脇に抱えて、火の粉を浴びながら走り回っている」、「火焔の中から胴を着た人が大刀を閃かせながら出て来て、また闇に消える」、「少なくとも五、六ヶ所から火の手が上がって、城下の闇空を赫々と彩り、火におびえる犬の遠吠えがしきりに聞こえる」、「胸の鼓動が激しく打って納まらない」と綴っている。

神風連の変に9才で遭遇し、後に高名な作家になった人がいる。 徳富蘆花である。
蘆花の兄、徳富蘇峰は京都の同志社に通っていて乱を実見していないが、蘆花は変の起きた熊本市内に母や姉たちと一緒に住んでいた。
住んでいた家からわずか70メートルのところに種田司令長官邸があった。蘆花は母から「おまえも男ではないか来てご覧」と云われ二階にあがって雨戸を開け、種田邸の襲撃を目撃した。蘆花は19年後、その時を思い起こして「恐ろしき一夜」という短編にしている。 

熊本(花岡山)バンドの一員のプロテスタントで、実学党の流れを汲む蘆花の神風連への感慨は感慨として、一少年が直に感受した騒乱を長じて物した筆力で活写し、神風連が何ものかということがよく述べられている。少し長くなるが掻い摘んで以下に引用してみたい。
夜は寒くなりまさるなり唐衣  うつに心の急がるゝかな
      嗚呼是れ今をさる十九年、明治九年霜冴ゆる十月廿四日の夜、肥後銀杏城下に血の雨を降らせし神風党の巨魁大野鉄平(筆者註:太田黒伴雄のこと)が歌にあらずや。惜しむべし好漢、彼は支うべからざる時勢に抗せんとして、自ら倒れぬ。・・・
彼らは実に封建武士の好所短所を代表せる者なり。敬神は彼らの宗教なり。忠君は彼らの主義なり。攘夷は彼らの素志なり。武芸は彼らの日課なり。節操清粛は彼らが婦人の生命なり。・・・
滔滔たる維新大革新の風潮は、片端より旧習故俗を掃蕩し行けり。
彼らは次第に孤島の間に閉じ込めらるるを見出しぬ。反抗の精神は次第に燃え来たれり。
廃刀の令下れり、彼らは常に袋刀を提げて往来せり。断髪の令下れり。 彼らは依然髻(もとどり)を結んで往来せり。 電信架せられたり。 彼らは扇をかざしてその下を過ぎれり。・・・
城下の民は日に日に洋風に染み、軽薄になり行けり。彼らは悲憤の目をもって時勢の非なるを見、身は孤岩のごとく滔滔たる風潮の中に立つを見、憤りは胸に煮えたり。ああ夜は寒くなりまさるなり、唐衣、ああ唐衣うつに心の急がるゝかな。・・・
吾家は熊本の東郊にあり。十月廿四日の夜、吾らは晩くまで眠らでありき。 姉上病重く、危なかりしければ、母上をはじめ多くは枕辺にあり、医師も通夜し居たり。
川向こうの方にあたりて怪しき物音、姉君のうめきの声に交じりて聞こえぬ。
二階に上がりて、北の雨戸を一枚がらり引きあけたまへば、此はいかに、真黒き背戸の竹薮越しに空は一面朱のごとく焦がれたり。城の方を見れば彼処に火あり、此方にも火あり、火は一時に五ヶ所に燃え、焔は五ヶ所より別れて紅く空をあぶり、風なきにざわつく笹の葉の数も鮮やかに数え読まるるばかり。耳を澄ませば、何とも知れぬ物音騒がしう火焔の間に聞ゆ。
神風連! 神風連! 大戦争! 大戦争! 声は熊本の一端より一端を蔽うれり。
一夜火光に驚き、剣影に驚き、銃声に驚き、叫声に驚き、血に驚き、一夜戸を閉じて戦(おのの)きたる熊本は、夜明け戸開くるとともに蜂の巣の打ち散らされたる如く騒ぎ立ちぬ。
神風連は一夜に消えたり。「一つとやあ。 人々驚く大砲の、音に燃え立つ、五ヶ所の火・・・鎧直垂立て烏帽子、その華やかさ!」流行唄は彼らも歌いしも、彼らはやがて過去のものとなれり。
熊本の一名物と称えられし神風連も、此時においておおむね精華を殺し尽くされ、十年の戦争(筆者註:西南戦争のこと)において更にその残余を殺し尽くされ、果ては星の数よりも少なくなれり。
かの恐ろしく頑固なる恐ろしく真摯なる恐ろしく熱心なる神風連なるものは、旧時代の昔語りとなりぬ。・・・

荒木は来熊三日目の三島との市内巡りを、「ぢりぢりと焼きつける夏の日は三島氏も私も流るる汗をふく手をやすめ得ない有様であったことを覚えている」と述懐している。(『初霜の記』)

しかし三島は元気で、荒木の家に落ち着いてから、「ふと思い出したように、せっかく熊本にきたので、町道場を紹介してくださいませんかと笑いながら」いった。
これは入熊前からの三島の望みだったらしい。 
荒木は知り合いの範士、柴垣に連絡をとり、彼の主宰する水前寺の剣道場、龍驤館へ三島と向かった。三島はそこで更に汗を流した。
  

 ▽横井小南記念館で

 筆者が昨年(平成18年11月)、熊本市郊外沼津山の横井小楠記念館で出会った、市会議員の方は、東京での大学生時代、所属した剣道部の出稽古先の皇宮警察の道場で、三島の稽古風景をしばしば見掛けていた。竹刀を自分の脇から相手に向かって横に払う独特のスタイルだったという。 
この方は筆者を、せっかくここまで来たならと車で記念館近くにある小楠の髪塚に案内し、小楠が渡米する甥の佐平太と大平に書き贈った詩のレプリカを、記念にと分けてくれた。

それは“尭舜孔子の道を明らかにして 西洋器械の術を尽さば 何ぞ富国に止まらん 何ぞ強兵に止まらん 大義を四海に布かんのみ ・・・”というもので、東洋の思想と西洋の技術を併せれば、日本の富国強兵だけでなく、世界へ大義を恢弘できるぞ、との檄である。
  数時間前、偶然にも熊本市立博物館で見たばかりのこの真書が、その隣りに陳列されていた神風連烈士の血染めの半纏とともに筆者の眼前に浮かんできた。

   三島が水前寺の道場で竹刀を振るっていると、これを聞きつけた地元の新聞社が取材に現れた。それが“日本人の神髄を考えたい”と題して掲載された。 その中で三島は、次のように語っている。
      
      ・・・僕はもともと南の方が好きなんです。 夏の熊本は最も熊本らしいと聞いていた 
      が、初めてきてみて、全くその通りだね。 緑は多いし、いいところですよ。
・・・いま「新潮」に「春の雪」を書いているが、その第二巻「奔馬」に昭和の神風
連ともいうべき青年が登場する。 そこで荒木精之さんをたよって調べにきたのです。
・・・「春の雪」の背景に神風連を出そうと考えたのは一年ぐらい前からです。ここで日本人の神髄は何かを考えてみたいのです。 いま日本に帰れとか、明治の日本人に帰れとかよく言われる。しかしどこに帰るか非常にあいまいだと思う。日本にはガンジーの糸車に象徴される抵抗の精神はなぜなかったのか、いろいろ考えているうち、神風連がガンジーの糸車にあたることに思い至ったわけです。「英霊の声」や二・二六事件の精神の純粋なものは神風連のそれに通じているとみてもらってよいでしょう。
      ・・・「春の雪」の第一巻は僕の以前の傾向と同じ作品だ。貴族のみやびやかな恋愛、そういうものが主題だが、第二巻では昭和七年の神風連ともいうべき青年が登場し、昭和七年と明治を行ったり戻ったりする。筋はつぶれてもこれだけは入れたいと思う。とにかくこの作品でいままでのものを集大成したいと考えています。
      ・・・八年くらい前、剣道を始めてから − いやそうだったから剣道をはじめたのかもしれないが、− ますらおぶりの文学に志すようになったようだ。 「剣」などもその一つと思う。 それが広がってきたものだ。

三島は、どうしても神風連をとり上げ、日本というものを見つめたいと云う。
二年後の昭和43年(1968年)が明治百年にあたっていた当時、明治時代を“懐思”し、維新の頃へ“懐帰”する風潮があった。 三島はそれを織り込んで巧みなレトリックで神風連を語っている。 神風連取材中の三島の心は、『奔馬』の次巻『暁の寺』の取材で翌年(昭和42年)訪れるインドにも向いていた。

三島はこの入熊直前、林房雄と対談している。 
神風連の変は「秕政(ひせい)を釐革(りかく) する(悪政を改革する)もの」と述べ、「これは実際行動にあらわれた一つの芸術理念でね、もし芸術理念が実際行動にあらわれれば、ここまでいくのがほんとう」、「神風連というものは目的のために手段を選ばないのではなくて、手段 = 目的、目的 = 手段、みんな神意のままだから、あらゆる政治運動における目的、手段のあいだの乖離というものはあり得ない。それは芸術における内容と形式と同じですね。僕は日本精神というもののいちばん原質的な、ある意味でファナティックな純粋実験はここだと思うのです。もう二度とこういう純粋実験はできないですよ」と、熱を入れて林房雄に語りかけている。 

神風連についてさまざまなことを語り書き残し、“二度とできない純粋実験”を敢行し完行し遂げた三島であるが、「三島」と「神風連」を繋ぐものは果たしてそういう理念的、思想的なものだけだったのだろうか・・・。

  水前寺の道場で汗を流した後、その板の間で柴垣や門人に囲まれての酒盛りとなった。 三島は出されたビールをうまそうに飲んだ。三島が宿泊先に戻ると書店の主人が加屋霽堅の「廃刀奏議書」を持参して待っていた。

 (以下次号。参考文献・引用資料は最終回掲載予定)
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(編集部から)小誌は「三島由紀夫研究会」(昭和四十六年創設)の会員だけに限定せずに、三島研究の論文、エッセイをつねに募集しております。
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