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古代ニュース Vol.17

2006/03/19

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古代ニュース Vol.17
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★紀元前約450年の要塞都市、バングラデシュで発掘★
 バングラデシュの首都ダッカから約85キロ北東にあるワリで、紀元前4
50年ごろの要塞(ようさい)が発見された。古代の交易ルート上の関所だ
った可能性があるという。
 考古学者らはこれまでに、堀と古い道の一部を発掘した。
 ジャハンギールナガル大学考古学部の責任者、スフィ・モスタフィズール
・ラフマン氏は「この要塞と多数の人工物が、インドの歴史を再定義するの
に役立つかもしれない」と指摘。「マンホールも備え、巧みに計画された道
は、要塞が非常に有能な統治体制の下で運営されていたことを立証している」
と語った。
 オランダの大学の調査によれば、出土品は紀元前450年ごろのものと判
明した。
 600メートル四方の発掘現場から見つかったのは、硬貨や金属製ののみ、
陶器、石鎚、腕輪など。装飾品は、町の中心部で仏教が圧倒的な信仰を集め
ていたことを示唆しているという。
 モスタフィズール氏は、この要塞はハッラパー文明(インダス文明)の一
部とみられ、この地に重要な交易上の中心地が栄えていたかもしれないと指
摘。同時期に存在した南アジア文明とローマ文明の中継地だった可能性もあ
るとの見方を示した。
 ハラッパー文明は紀元前2700年から同700年ごろにかけて栄えたと
いわれている。
                            (ロイター)

★経塚遺跡:紙本経を発掘 新たに経筒、良好な状態で−−宇佐 /大分★
 宇佐市教委は14日、同市木内の妙楽寺にある経塚遺跡で新たに銅製経筒
1個と陶磁器製経筒2個を発掘したと発表した。3個は経塚に埋納されたま
ま良好な状態で見つかり、市教委は「貴重な資料」として19日と21日の
午前10時〜午後3時、現地説明会を開く。
 市教委によると、銅製経筒(縦27センチ、口径約7センチ)の内底部に
は、経典を書き写した紙本経(縦7センチ、横4センチ)が張り付くように
残っていた。紙本経を開くことは不可能で、文字は判読不能。筒に残ったま
ま発掘された紙本経は県内では杵築・東光寺遺跡に次ぎ2例目。
 経塚は末法思想が広まった9〜10世紀ごろ作られ始めた。釈迦の教えで
ある経典が失われるのを恐れて永久保存用に作られ、後に極楽往生を願い、
父母の供養などに使われるようになったという。
 妙楽寺は806(大同元)年開基で、その後、求菩提山(福岡県豊前市)
で山岳宗教の興隆に努めた頼厳(宇佐出身)が再建。寺には頼厳廟や供養塔
の板碑(県指定有形文化財)が現存する。今回発掘された陶磁器製経筒(縦
20センチ、口径10センチ)は12世紀前半の物とされ、外底部に「嚴」
の墨書があり、頼厳と妙楽寺を結ぶ具体的資料の一つになりそう。
 小田富士雄・福岡大名誉教授は「つぼ(四耳壷)の経筒は12世紀ごろの
中国産。筒は聖域の山中に埋められたり、盗掘されて発見は困難。これだけ
完全でまとまった経筒が出土したのは貴重」と話す。
               【大漉実知朗】3月15日朝刊(毎日新聞)

★縄文中期の掘立柱建物跡 関の大杉遺跡で発見★
 【岐阜県】弥生時代の土器などが出土する集落跡として知られる大杉遺跡
(関市大杉・西田原地区)の第16次調査で、関市教委は15日、縄文時代
中期の掘立柱建物跡を発見したと発表した。関市内では塚原、大杉西の両遺
跡に次いで3例目という。
 また古墳時代の竪穴住居跡8基と掘立柱建物跡に加え、古墳時代前期ごろ
の集落に関係があったと思われる銅鏡の一部(破鏡)も見つかった。破鏡の
出土は関市の砂行遺跡に次ぎ県内で2例目という。後漢時代(25−220
年)の中国製とみられ復元すると直径12センチの円形となる。
 これまで大杉遺跡では縄文、弥生時代の土器は出ていたが、遺構があった
というはっきりした手がかりがなく、どの時代に人が暮らしていたのか分か
らなかった。市教委では「縄文、古墳時代に集落が存在していたことが裏付
けられた」と成果を喜んでいる。
                      (田中 富隆)(中日新聞)

★奈良 飛鳥板蓋宮の遺構発見 「大化の改新」舞台か★
 古代史最大のクーデター「大化の改新」(六四五年)の舞台となった飛鳥
板蓋宮(いたぶきのみや)の一部とみられる石敷きなどの遺構が、奈良県明
日香村の飛鳥京跡で十七日までに、県立橿原考古学研究所の調査によって見
つかった。権勢をほしいままにした蘇我一族が滅び、古代の新体制がスター
トした歴史的な場所。飛鳥板蓋宮跡の遺構はこれまでほとんど確認されてお
らず、先ごろ見つかった飛鳥浄御原宮(きよみはらのみや)の正殿跡や飛鳥
岡本宮跡の柱跡などとともに謎の多い古代宮都の研究が大きく進みそうだ。
 新たな遺構が見つかったのは、先ごろ、飛鳥浄御原宮跡で発見された「北
正殿跡」の、さらに下層とその南側。続けて行われていた調査で、七世紀中
ごろのものとみられる長さ約八メートル、幅約七十センチにわたる石を敷き
詰めた溝のような遺構が南側から出土した。
 築造年代は、北正殿を建てる際に壊された痕跡があったことなどから、飛
鳥浄御原宮より以前のものと判明した。
 さらに、北正殿跡を数十センチ掘り下げたところ、柱を据えた一辺一・四
メートルの穴も検出。直径四十センチの柱の痕跡も確認された。赤く焼けた
土や炭が詰まっており、火災に遭ったことが分かった。
 この場所は、日本書紀の記述などから、数百メートル四方のほぼ同じ範囲
に、舒明天皇の「飛鳥岡本宮」、皇極天皇の「飛鳥板蓋宮」、天武天皇の「飛
鳥浄御原宮」が相次いで築かれたとされてきた。
 また、日本書紀には、「斉明元(六五五)年冬、飛鳥板蓋宮で火災があり、
斉明天皇が飛鳥川原宮に遷(うつ)った」と記述。今回見つかった柱穴にも
焼けた跡があることから飛鳥板蓋宮の火災との関連が高いとみられる。
 数ある飛鳥京の中でも飛鳥板蓋宮は、中大兄皇子や中臣(藤原)鎌足が蘇
我入鹿を暗殺し、新体制のスタートとなった場所。いわば古代史最大の政治
的舞台だ。
 飛鳥板蓋宮跡はこれまで、より新しく、その上層に築かれたとされてきた
飛鳥浄御原宮跡に阻まれて調査できなかった。
     ◇
◎大化の改新
 大化元(645)年6月の蘇我入鹿暗殺に始まり、中大兄皇子と中臣鎌足
が推し進めた政治改革。唐の律令制度にならった中央集権国家の樹立を目指
して、「改新の詔(みことのり)」を発布。皇族や豪族の私有地を廃止する
公地公民の制や、新たな租税制度などを実施した。中国の例に従い、公式に
年号をたてて「大化」としたため、「大化の改新」と呼ばれる。
                             (産経新聞)
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