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花岡信昭メールマガジン

政治ジャーナリスト・花岡信昭が独自の視点で激動の政治を分析・考察します。ときにあちこち飛びます。

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花岡信昭メールマガジン242号

2006/05/08

★★花岡信昭メールマガジン★★ NO.242号<2006・5・8>

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<<2002年長野の暑い夏>>

 4年前の長野県知事選での筆者の「失態」の続きである。なぜ、いま、このことに触れるのか。それは、三つほどの理由がある。

1)いまなおバッシングを引きずっており、当メルマガ・ブログで、当時の事情をはっきりさせておく必要がある。
2)あの当時、相当の方々にご迷惑をおかけしたが、釈明、お詫びが完全にはすんでいないということが最近、いくつかの事例で判明した。前号でも書いたように、千通近い手紙を出した記憶があるのだが、それでもなお徹底しきれなかったようなのだ。
3)8月6日投票の長野県知事選に向けての攻防がそろそろ佳境に入りつつあり、4年前のことを総括しておかないと、自在には書けないことになってしまう。


 込み入った話なので、まずどういうことが起きたか、時系列で示しておきたい。

 7月24日  出馬表明の記者会見
 8月8日深夜 母親倒れ、緊急入院
   12日  「励ます会」開催(東京・九段会館)
   13日夜 14日未明まで、夜を徹して一本化の要請
   14日  出馬断念、一本化の記者会見
   15日  告示
 9月 1日  投開票

 以下は浅野健一・同志社大教授(新聞学専攻)がホームページに書いた一文である。実は、最近これを知った。出馬断念の記者会見に関する記述である。

<長谷川知事が実現した際に、政策ブレーンに就任するということも会見で明らかにされたが、ポストを約束されて辞退するのは、公職選挙法に違反しているのではないか。
 花岡氏の突然の辞退劇は、「反田中票の分散」を懸念した鷲沢正一・長野市長らの仲介だった過程も明らかになった。
 首長や県議などが支援する長谷川氏を批判していた花岡氏が、なぜ辞退したのか。これこそ明らかな談合ではないか。全く説明責任に欠ける行動だった。メディアは長谷川氏の裏で動いている政官財について調査報道すべきだ>

 浅野氏は共同通信出身。メディア論を講義する記者出身の学者としては、伝聞でこういうことを書き連ねていていいものかどうか。浅野氏から筆者への「取材」はいっさいなかった。電話の1本でもくれれば、懇切丁寧に説明したのだが、なんらの接触もなかった。その後、浅野氏が求める「調査報道」も行われていない。筆者にはいかようにも対応する用意はあった。

 前号で紹介した石井英夫さんの「産経抄」にも「一本化の動き」が触れられていた。「反田中」で何人も立ったのでは、票が分散してしまう。「反田中」の一点で一本化をはかることを「談合」としてしまうのは、政治のなんたるかを知らない者の言うことである。

 前号コラムで、「私」の事情が「公」の立場を貫くことを許さなかった、と書いた。「私」を優先させることは政治の世界では認められない。「私」を隠しながら、いかに「公」優先の姿勢を取るか、そこに、筆者のぎりぎりの状況に追い込まれた判断があった。


 出馬表明後、高校の同期生や町内会の人たちがわっと集まってくれた。東京から仲間のフリーライターや学生らが駆けつけた。思いがけず、長野駅近くに格好の選挙事務所を確保でき、手づくりの選挙戦が試行錯誤を重ねながらスタートした。母親が1人暮らしの実家は、そう大きな家でもないが、夏場でもあり若者たちが寝泊まりする合宿所としては十分だった。ホテル代を浮かせるためである。地元の信濃毎日新聞やNHKは「3強」の戦いとして扱ってくれた。

 事態が急変したのは、告示1週間前に母親が倒れたことだ。深夜、帰宅すると手伝いに来てくれていた姪たちが大騒ぎしている。大量の吐血、下血が止まらないという。その昼、母親は選挙事務所で倒れ、救急車で長野市民病院に運ばれたが、一時的な失神として帰されていた。再び救急車で市民病院へ。肝硬変による食道内静脈瘤破裂であった。医師によれば、体内の血液の半分が出た、救命率50%とのことで、緊急処置は朝まで続いた。幸いに内視鏡専門の医師が当直で、なんとか一命は取りとめたが、その後の経過は不透明とされ、これにより筆者は精神的にズタズタになった。

 あのむし暑い夜、明け方まで薄暗い待合室でまんじりともせず過ごしたのだが、その光景はいまだに夢を見る。待っている間、葬式をどういうかたちでやれば選挙に有利になるか、と必死に考えている自分に気付いて愕然としたのである。選挙というのは人間を変えてしまう。母親の死を前提として、それを利用しようとしていたのだ。そういう自分自身に対する侮蔑感。その後、筆者はこれにさいなまれることになる。

 母親が生命の危機と戦っているのに選挙どころの話ではない。選挙で借金をつくり、さらに母親の長期入院もとなると、経済的にも破綻しかねない。政治的にはそういう個人的事情は許されないのだが、悶々とした1週間がすぎ、告示3日前の励ます会に至る。

 東京に残ったスタッフが企画していたので、どういう規模になるか知らなかったのだが、森前首相をはじめ政治家や評論家、ジャーナリスト、編集者、タレントなど400人以上が駆けつけてくださった。スタッフたちは小生が置いていったあらゆる名簿類を駆使したのであった。この日に会を設定したのは、後援会長の日程がこの日しかあいていなかったためだ。このパーティーに、筆者は長野から肉体的にも精神的にもフラフラの状態で出席、最終の新幹線で長野へ戻った。

 パーティーの盛り上がりを見て、長谷川敬子陣営に動揺が走った。その翌日の夕刻から夜を徹しての波状的な一本化への説得が展開された。仲間と相談して決断したのは夜も白々と明けるころだった。これによって、母親のことを表面的には隠したまま、「反田中票の分散回避という政治的大義」を理由に撤退することが可能になったのである。「私」を隠して「公」を優先させることができるのだ。

 撤退記者会見のあと、各社の若い記者たちが「理由はやはりお母さんのことでしょう」と言ってきたのだが、「これだけの大きな選挙で母親のことを理由にはできない。武士の情けとして伏せてほしい」と頼み込んだ。その結果、母親のことはほとんど報道されていない。このことには、長野の若い記者のみなさんに感謝している。

 改めていうまでもないが、ポストの約束だの、むろん、金銭のやりとりなどいっさいない。カネで降りていたら、こんな苦労はしていない。告示後、一本化に沿って長谷川氏の応援のため、指示通りに県内を走りまわった。いまごろいうのもおかしいが、事務所へ行くタクシー代すら受け取っていない。母親が持ち直していったん退院したのは投票日の翌日であった。

 パーティーの会費(1人1万円)を計画的に持ち逃げしたかのような週刊誌報道も出回った。これは苦笑する以外にない。産経に残っていれば、それなりの「高給」を得ていたのである(局長級だったので、55歳で昇給停止という措置も適用されない)。会場費や飲食代もかかっているし、大量の案内状の印刷、送料などを考えると、半分残ったかどうか。これは、その後の撤退費用などで露と消えた。

 励ます会の翌々日の撤退となったものだから、「計画的にやった」という声が飛び交ったのだが、計画的にやるほどの額なのかどうか、簡単な計算で分かるはずだ。励ます会の出席者の立場になってみれば、せっかく出かけたのに直後に撤退とはなにごとか、という怒りにかられることは痛いほど分かる。だが、励ます会の盛り上がりに驚いた長谷川陣営が一気に一本化工作を本格化させ、これに乗ることで「公」的理由の撤退が可能になった、という経緯である。そこをなんとかご理解いただきたい。

 こういう経過説明は、パーティー出席者を中心に長文の釈明文書を出した。出席された方全員に会費をそっくりお返しするという案も出たが、「出席者の中で1万円を惜しいと思う人はいない」「かえって失礼だ」という声もあって、最終的にはNPO法人全国介護者支援協会に応分の寄付をした。もちろん、「会費を返せ」といってこられた方も相当数にのぼり(つい最近まで、あった)、そういう方には個別に返却した。大口のカンパをいただいた評論家などに対しては、著書を大量購入して学生らに配布するなどの対応をはかった。


 結局、筆者は産経の退職金とたくわえを吐き出し、東京を撤退して、母親の介護のため一冬を長野で過ごした。筆者も弟も離婚経験者であるうえ、妹がすでに病死しており、筆者しか面倒を見るものがいなかった。半年ほどで母親の病状も回復、ヘルパーさんに世話を頼んで、再び上京した。当初は、ちょうど長男が大阪から東京に転勤してきたので、そこへ「居候」していたが、その後、ようやく、生活基盤を立て直すに至った。


 撤退後、共産党系の「市民」から、小生、長野市長、長谷川氏らが公選法違反で長野地検に告発された。筆者の公約を取り入れて、「長野臨調の設置」が政策協定の一番目に掲げられたのだが、その仕切り役をエサに立候補を辞退させた、という趣旨である。結論からいえば、1年半後、不起訴になった。

 冒頭に触れた浅野教授は「政策ブレーンに就任するということも会見で明らかにされたが、ポストを約束されて辞退するのは、公職選挙法に違反しているのではないか」と、いとも簡単に書いているが、記者出身らしからぬ乱暴な書き方である。それとも共同通信時代、このやり口が通用してきたのだろうか。

 いまだからいえるのだが、筆者はこの件で長野地検に3回、出向いた。担当検事はなかなか豪放な人で、のっけから「共産党と話をつけられませんか。こんな一件はやりたくない。しかし、現職市長や弁護士(長谷川氏)が告発対象なので、慎重にならざるを得ない」といった調子だった。

 この仕切り役というのは記者会見直前の長谷川氏サイドとの雑談の中で出た。その時点ですでに長野臨調の設置を取り入れた政策協定のペーパーは、先方の手によってできあがっていた。会談場所となったホテルのプリンターを借りて印刷している間に、先方から「長野臨調ができたら、仕切り役、アドバイザーをやってもらおうかなあ」などといった話が出て、こちらはあいまいに答えておいた。その時点では正直いって、それも厄介だなあ、ぐらいの思いであった。

 記者会見では長谷川氏が「父親の法事をやらなくてはいけないので」と短時間で退席し、そのあと、筆者が質問を一手に受けた。ほぼ出尽くしたころ、「長野臨調ができたら、花岡さんは何をやるのですか」という質問が出た。聞くこともなくなったからそんなことでも、という雰囲気であった。

 それに対して、こちらは一睡もしていない朦朧とした頭で、直前の雑談の話が浮かび、「仕切り役とかアドバイザーといったことかなあ」などと答えてしまった。あとで分かったのだが、赤旗の記者がいて、これにぱくっと食いついたのである。さすがといえばさすがだ。

 長野県庁では記者クラブが廃止されて、記者会見場は表現センターといった名称になり、基本的にだれでも参加できた。1人で対応していたため、サービス精神も働いて、そんなことを口走ってしまったのである。

 「長野臨調の仕切り役」という「ポスト」が用意されたから出馬を辞退した、などという流れではないことは、以上の経緯からお分かりかと思う。そこを強引にこじつける。これが共産党流である。名誉毀損で逆告訴する手もあったが、ばからしいから放っておこうという判断に至った。

 おおむね、以上が4年前の経緯である。筆者はその2年ほど前に離婚していて独り身だった気軽さもあって、こういう無謀な冒険に飛び込んでしまった。その結果、中途半端な撤退というぶざまな仕儀にあいなった。

 考えてみれば50代半ばからの5−6年の間に、離婚、退社、選挙出馬表明、撤退、バッシング、告発、不起訴、そして再婚と、人生にとってあまり経験できないことを一気にやってしまったことになる。

 母親はその後、入退院を繰り返していたが、今また入院中である。筆者は、ばたばたととんぼ帰りの帰省を繰り返している。そこへ、この一連の話を持ち込みたくはない。ネットに触れることなどない母親だが、どうか内密に願いたい。あえて経緯を明らかにした当方にとって、それが最後のお願いである。



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創刊日:2005-07-03  
最終発行日:  
発行周期:原則日刊  
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