政治・経済

甦れ美しい日本

日本再生のための政治・経済・文化などの発展・再構築を目的とし、メールマガジンの配信を行う

全て表示する >

甦れ美しい日本 第1657号

2018/03/16

□□■平河総合戦略研究所メルマガ■□□(2018年3月16日 第1657号 )

              
  ☆☆甦れ美しい日本☆☆


☆☆怒 り を も っ て 自 分 の 目 標 に 向 か っ て い る 人 間 は し つ こ く て 強 い。☆☆
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
☆☆ 偽 善 と 欺 瞞 を 憎 む 私 た ち は 書 き た い か ら 書 く の で す。☆☆
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
☆☆☆日 本 人 の、 日 本 人 に よ る、 日 本 人 の た め の 政 治 を 取 り 戻 せ!☆☆☆
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

━…━…━…━…━…━…━…━…━…━…━…━…━…━…━…━…━…━

====================
目次
◎佐藤守 「大東亜戦争の真実を求めて 647」
________________________________________
◎佐藤守   「大東亜戦争の真実を求めて 647」

------------------------------------------------------------------------

≪(承前)「木口小平は死んでも口からラッパを放しませんでした」という愛国美談を生んだのはこの戦闘である。

 日本側は、すでに六千人以上の優勢な兵力を朝鮮に派遣してはいたが、王宮や民心の向背も分からない京城を空にするわけにもいかず、戦線には三千名しか派遣できなかった。

 一方、清国側は、聶士成が日本軍の南下を迎え撃とうとして、街道を押さえる要衝・成歓に進出して防衛線を築き、葉志超は千名を率いて後詰の形で天安にいたので、迎え撃つ兵力は三千名だった。したがって、成歓の戦いは、日清双方歩兵三千名、砲八門ずつというほぼ同勢力で戦っている。

 その後の戦いでは、清兵は、重なる敗戦に怖気づいて、ろくに本格的な抵抗らしい抵抗もしないで敗走を重ねるが、成歓の戦いだけは、日清戦争の初めての衝突でもあり、その十年前の甲申事変では、清国兵が日本兵に圧勝していることもあって、ここでは比較的まともな戦いぶりをしている。

 しかし、戦闘開始前日、高陞号撃沈の報が伝わり、清国側に大きな心理的衝撃を与えたという≫

兵力に制限がある陸軍としては、敵の戦力が増強されるのか、それともされないのかは、士気に大きく影響する。勿論清国兵にとっても同様である。従って、東郷平八郎の英断によって、高陞号撃沈が撃沈され、増援の道が断たれたことは、日本陸軍にとっては大いに士気が高揚する出来事であった半面、清国軍にとっては士気が低下するのは当然であった。大東亜戦争におけるガダルカナル攻防戦は、陸揚げされた陸軍にとっては、海軍航空隊の決死の攻撃と、戦艦群の砲撃がどれほど力強かったか察せられる。しかしそれを許せば、上陸した米軍は窮地に陥る。そこで米軍は猛反撃に出るのだが、日本海軍には作戦を継続できる戦力がなかった。ガダルカナルに上陸した(させられた)陸兵の無念は計り知れない。

≪成歓の戦いに際して、清国側の戦略は、南部では陣地を築いて防衛し、持久している間に平城に集まった大軍が南下して、ソウルの日本軍を挟撃することにあった。

 兵力と砲は互角だったが、守る方は地形を利用して待ち、日本軍は行軍三昼夜で消耗して戦場に着くというハンディキャップがあったので、持久戦が目的ならば清国側に相当な勝算もあるケースだった。

 しかも、朝鮮一般の民衆には、勝負の帰趨も分からないのに日本側に協力する意思は皆無で、徴集した人夫や馬は逃亡するし、悪天候と満潮が重なって、水路は氾濫し、行軍困難で、日本側には溺死者もでる悪条件であった。

 しかし、日本軍が接近して砲火を集中し突撃すると、清国軍は敗走した。清国軍は、まだこの戦闘では士気も高く、場所によってはよく抵抗したケースもあったが、結局は何度目かの突撃に耐えきれず敗走した。敗兵は最早、組織的抵抗は試みず、バラバラになって平壌まで逃げたので、日本軍はソウルに凱旋して北方に進撃することができた。

 この突撃――「突貫」とも「吶喊」ともいう――戦術は、第二次世界大戦の敗戦まで、数限りない武勲をたてた日本軍得意の戦術であったが、これが近代戦に最初に使われ成功したのが、成歓の戦いであった≫

戦術の巧拙の差もあったろうが、その根底には将兵の「愛国心」に差があったともいえる。日本側は、万一負ければ国が亡びる恐れもあるのに対し、清国側は国自体が混乱していた上に“遠征”だから「愛国心」が維持できるはずはなかった。

ガダルカナルの将兵らには強烈な愛国心があったが、補給無くしては如何ともなし難かった。さぞかし無念だったであろう。

≪豊島沖海戦、成歓の戦いの直後の明治二十七年八月一日に宣戦が布告された。その後、日本軍は九月十六日にはもう平壌を陥し、翌十七日には黄海海戦に勝っている。そして陸軍は、平壌から鴨緑江を渡り、十月十六日には清国領内の九連城を占領した。

 他方、黄海海戦で制海権を得た日本軍は、遼東半島に兵員輸送して、十一月八日、大連湾、同月二十一日、旅順囗を占領している。

 そして、満洲を北上した第一軍は、十二月三日に海城を占領し、他方、遼東半島から山東半島に転戦した第二軍は、二月十二日に威海衛の北洋水師を降伏させた。そして、講和談判が始まってからの三月二十六日に台湾の澎湖島を占領している。

 こうした日本軍緒戦の勝利を、諸外国はどのように報じたのだろうか。

 陸奥は、『蹇蹇録』で以下のように、緒戦勝利後の内外事情を、いきいきとした文章で説明している。

【口語訳=日清戦争の初めのころは、冷やかに軽んじていた国々も、日本の勝利に驚きやがて勝者に嫉妬心を抱くようになった。在英の内田臨時代理公使は、以下のような電報を打ってきた。

 「本官は、この国の上流社会の人々から、日本の戦勝に対して称賛を受けました。『ロンドン・タイムズ』は、日本は、勝者たるの栄誉を受けるに十分な軍功を挙げた。今後、日本は極東の一勢力になったと認めざるを得ず、今後、早かれ遅かれ付き合っていくことになるこの島国に対して、英国はこれを嫉視してはならない、と書き……」

英国民が、牙山の戦い以前に懐いていたわが国に対する感情が、ここに至って如何に豹変したかが分かる。

 また、フランスの世論を描写したある新聞は、こう書いている。

 「花の咲く木のある家の門前は、人が集まる。今や日本は、清国に対してよりも、一層大きな勝利をヨーロッパに対して得た」≫ (元空将)

━…━…━…━…━…━…━…━…━…━…━…━…━…━…━…━…━…━
 ┗ http://melma.com/contents/taikai/?

規約に同意してこのメルマガに登録/解除する

メルマガ情報

創刊日:2005-02-04  
最終発行日:  
発行周期:週間  
Score!: 98 点   

コメント一覧コメントを書く

この記事にコメントを書く

上の画像で表示されている文字を半角英数で入力してください。

※コメントの内容はこのページに公開されます。発行者さんだけが閲覧できるものではありません。 コメントの投稿時は投稿者規約への同意が必要です。

  • コメントはありません。