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甦れ美しい日本

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甦れ美しい日本 第1644号

2017/12/15

□□■平河総合戦略研究所メルマガ■□□(2017年12月15日 第1644号 )

              
  ☆☆甦れ美しい日本☆☆


☆☆怒 り を も っ て 自 分 の 目 標 に 向 か っ て い る 人 間 は し つ こ く て 強 い。☆☆
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☆☆ 偽 善 と 欺 瞞 を 憎 む 私 た ち は 書 き た い か ら 書 く の で す。☆☆
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☆☆☆日 本 人 の、 日 本 人 に よ る、 日 本 人 の た め の 政 治 を 取 り 戻 せ!☆☆☆
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目次
◎佐藤守   「大東亜戦争の真実を求めて 634」
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◎佐藤守   「大東亜戦争の真実を求めて 634」

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≪(承前) 重大な責任を負う、ということは、これから何が起こっても日本の責任だよ、ということで、ロシアのフリーハンドを維持するということであり、外交上、重大な脅迫である。これがのちのロシアの対日砲艦外交の準備と三国干渉に至る伏線になったといっていい。これを見て、陸奥は直ちに、事態は重大だと判断した。そしてまず、自分の考えをまとめたうえで、伊藤の判断を確かめようとして、すぐに伊皿子の伊藤邸に赴いた。伊藤との会談は、陸奥の筆を借りれば、以下のようなものだった。

【口語訳】

 自分からは、一言も意見を言わないで、まずロシアからの通告を示し、伊藤の意見を求めた。総理は一読して、しばらく沈思したうえで、おもむろに口を開き、「今になって、どうやって、ロシアの言いなりになって、わが軍を朝鮮から撤退できるだろうか」と明確に述べた。自分はこの一言を聞いて、「総理のご意見は私と同じです。今後の事態をどう乗り切るかは、われわれ二人の責任に属します。これ以上、多くを言うこともありますまい」と言って、早々に辞去した。

 そして直ちに、駐露日本公使・西徳二郎に、「まだロシアに対してどう回答するか閣議を経ていないが、われわれの意見は撤兵の時期ではないというものだ」と打電し、またロシアが日本より先に英国に話を持ち込まないうちにということで、英国に日本の意向を伝えておくことが肝要だと考えて、英国駐在・青木公使にも西公使と同様の打電をした≫

 国が対処している重大問題について、総理が常に心を砕いているのは“当然”なことであるが、外交を担当する陸奥と同じ考えだったということが、如何に当時のわが国が、ロシアに不信感と警戒感を抱いているかがよくわかる。

 昭和16年12月7日(現地時間)時点における、在ワシントン日本大使館の様相とはまるで違っている。当時の大使は元外務大臣であり、海軍大将であった野村吉三郎(のちに来栖三郎が出張と言う形で大使に加わる)、公使は若杉要、総領事(在ニューヨーク)は森嶋守人、参事官・井口貞夫、1等書記官は奥村、松平、寺崎、であったが、事態が重大な局面にあるにもかかわらず、全般状況を掌握していなかった。

そのことは連日米側との交渉で苦労していた野村大使が、ある時、海軍武官補佐官の寺井少佐に「大使館員の勤務ぶりが遺憾だ」と語っていることからも明白である。在スペインの須磨大使から届いた手紙に「先電で申し上げた通り」との一文があったが、野村大使は電報を見ていない。調査すると、電報はまだ翻訳されず放置してあったので、流石に温厚な野村大使もたまりかねて館員を集め、『国交緊張期のこの際、館員は一層緊張して勤務に励む様に』と訓示したと言う。(拙著・「ある駐米海軍武官の回想=青林堂刊」に詳述)

一説には、大使ポストを軍人に奪われた恨みがあったからだとか、若杉公使は松岡派でありドイツ派で反米だったから意図的にさぼったのだとか、不可思議な当時のワシントン大使館の人間関係が問題視されているが、戦後堂々と吉田首相に異見を述べたのは、森嶋守人当時総領事だけで、全てはうやむやで終わっている。陸奥の時代に」比べると恐るべき“怠慢”だが、いずれにせよ、国際情勢に疎かったことだけは確かだと言える。

≪ああ、今でも当時の事情を思い出すだけで、ゾッとして肌に粟が生ずる感じが

する。この時、私と伊藤の会談は、実に二人の一言ずつで決まった。それ以上は話さなくても意見が同じことが分かったのだ。しかし、もし仮に私と伊藤の意見が相異なるか、あるいは同じ意見としても、別の方向に決めていたならば、どうなっていたであろうか。現在、わが国が世界において誇る栄光は得られているであろうか。】

岡崎氏は「この場面こそ、伊藤、陸奥の開戦外交の最大の山場であった」と書き、「もし伊藤が、極めて常識的に、少し様子を見ようか。と言っただけで、事ごとに清国の機先を制した日本の外交は挫折した可能性があった。それだけでなく、日本がひるんだ所を示すだけで、ロシアはじめ列国はかさにかかって干渉を強化して来た可能性もある。伊藤も陸奥も、情勢をよく読んでいたのだと思う」と書いたが、現在の日本外交が、“弱小国”からさえ“かさにかかって”恫喝され、金をむしり取られているのはどうしたことか?。

≪三国干渉のときは、伊藤は、もう少しロシアの意図を読んでからという陸奥の異見に対して、ロシアの意図など読まなくても分かっている、と言っている。

 朝鮮半島に対する日本の大兵派遣は、清国、朝鮮をはじめすべての国の意表をついていた。伊藤と陸奥は、それを意図的に実行した人間として、誰よりもそれを知っていた。

 各国に、これに対応するいとまを与えず、迅速に事を処して行くのが得策である。

ロシアの戦備もまだ整っていない。この機会を逸しては、せっかく築きあげた優位な地位が崩れてしまう。それを伊藤も陸奥も、よくよく見ていたのである。

 後で振りかえって見ると、たしかに、ロシアの極東の戦備は、実力で介入するほどにはまた整っていなかった。また、後で分かったことであるが、この時点では、ロシアはまだ新興ドイツ帝国の西における脅威が心配で、東に力を割くことを好まなかった。

 伊藤と陸奥は、この“伸るか反るか”の賭けに勝った。それが、「蹇蹇録」に、右の様に表現されているのである≫

岡崎氏が言うように、戦後の我が国は“静観外交”が何かと多いが、それは決断できる勇気ある(知的に優れた)人物が欠如しているからか、それとも“軍事力を否定した”憲法の下では、政治家も外交官もすべてに“様子を伺う”ことしか手立てが無くなったからなのか?これが戦後の大きな謎である。(元空将) 

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