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JOG-mel No.778 なぜ料理カウンターは日本にしかないのか

2012/12/16

■■ Japan On the Globe(778) ■■ 国際派日本人養成講座 ■■

    国柄探訪 : なぜ料理カウンターは日本にしかないのか

 その理由を探っていくと、日本の奥深い「料理人道」が見えてくる。

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■1.なぜ料理カウンターは、日本にしかないのか

 寿司屋や小料理屋、そば屋などでのカウンター席は、わが国ではどこにでもある、ありふれた形式である。しかし、伊藤洋一氏の『カウンターから日本が見える』によると、酒を飲ませるバーカウンターは世界のあちこちにあるが、カウンターで料理を食べさせる形式は日本にしかないという。

 たしかに筆者も、欧州、北米、南米、北アフリカ、東南アジア、インド、中国、韓国などでレストランに入ったが、カウンター形式の店は一度も見たことがない。すべて、料理は別室のキッチンで作られ、客のいるテーブルに運ばれてくるという形式である。

 ハンバーガーショップなどにはカウンターがあるが、それは商品を手渡すところであって、客はテーブルに座ったり、壁に面したカウンター席で食べたりする。どうせカウンター席に座るなら日本の立ち食いそば屋のように、対面のカウンター形式にしても良いと思うが、絶対にそうはしない。

 なぜ料理カウンターは、日本にしかないのか。その理由を探っていくと、日本の奥深い文化的特質が見えてくる。


■2.カウンターに挑戦する「20世紀最高の料理人」

「なぜ料理カウンターは日本にしかないのか」、この疑問をひもとく鍵になるのが、「20世紀最高の料理人」と呼ばれるフランスのジョエル・ロブション氏である。

 ロブション氏は1996(平成8)年、パリの3つ星レストランをたたみ、2003(平成15)年4月に開いた東京・六本木の店ではカウンター形式を取り入れた。なぜロブション氏はカウンター形式のレストランを始めたのか、その理由をこう語っている。

__________
 1人数万円相当を払って、かしこまって食べる。そんな店にどこか飽き足らなかった。私自身がくつろげる店を作りたかった。盛り付けなどに注いでいた神経を、お客さんと楽しく過ごすことに使いたい。

新店のテーマは懇親性。約50のカウンター席では、客と料理人が食材を挟んで向かい合い、気軽に語り合える。このタイプの店を世界展開する考えだ。

 ヒントは寿司屋にあった。15年ほど前、東京・銀座の老舗(しにせ)「すきやばし次郎」に、友人の料理評論家・山本益博氏に連れられて行った。驚いた。魚の生臭さが漂わない。清潔。

客と会話しながら、目の前の食材をメーンディッシュとして供する。すべてが新鮮だった。来日のたびに通った。[1,p144]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

■3.料理人が「お客さんと楽しく過ごす」

 ロブション氏の言う「客と料理人が食材を夾んで向かい合い、気軽に語り合える」のは、カウンターならではの特徴だろう。

 フランス料理や中華料理などテーブル形式のレストランでは、料理人はキッチンに籠もり、客とは断絶されている。料理人がどれほど腕を振るっておいしい料理を作ったとしても、客の喜ぶ顔を直接見る機会はほとんどないのだ。

 有名なシェフがテーブルを回って挨拶をすることはあるが、それも短時間のことで、客が自分の料理をどう食べるかを観察することはできない。

 カウンターなら自分の包丁さばきにお客さんが見とれたり、そうして作った料理を、目の前でお客さんがおいしそうに食べる様子を目の当たりにできる。客がお世辞など一言も言わなくとも、料理人名利に尽きるであろう。

 またお客と話を咲かせるのも、カウンターならではのことである。料理人が食材や調理法の蘊蓄を語り、お客が「へえー」などと聞き入る事も多いだろう。キッチンで、黙々と料理を作っているのに比べれば、料理人にとっては至福の一時に違いない。

 職人としての誇りある料理人ほど、そうした達成感を求めるだろう。「20世紀最高の料理人」が新しくカウンター形式の店を作ったのも、そうした職人としての誇りと満足のためだとすれば、よく理解できる。


■4.「仕事に対する厳しさとは、仕事に敬意を払うこと」

 しかし、いくら料理人がカウンターを望んでも、客の方でそれを受け入れる土壌がなければ、店は流行らない。たとえば客が、料理人などは下の階級だと見下し、近寄りたくもない、と考えたら、「客と料理人が気軽に語り合える」世界は実現しない。

 料理人と客が対等に親しく話す、というのは日本人には当たり前だが、世界のほとんどの国では当たり前ではないのである。

 ロブション氏がカウンター形式の店を東京に作った事に関して、「なぜ東京に」という質問に、「日本人は仕事に対する厳しさがあります」と答えて、こう説明している。

__________
 76年に初めて来日した時、空港でエスカレーターの手すりをふいている人を見て驚きました。他国では絶対に見られない光景です。タクシーに乗ってもとてもきれいだし、街並みも、道行くトラックもピカピカ。

突撃隊みたいな料理人も知っています。やけどだらけなのですが、そんなこといわずに料理に突進して、またやけどする。そんな例は、挙げたらきりがありません。

仕事に対する厳しさとは、仕事に敬意を払うこと。それは自分の将来にも敬意を払うことです。15歳で料理の世界に入って以来、ずっと、仕事への厳しさを教えられてきました。日本人も同じような考え方であることを知った時は、うれしく思いました。[1,p146]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 厳しい道を歩んできた職人を尊敬する文化がなければ、職人が客と対等に話せる料理カウンターは成立しない。


■5.職人を育て、認める仕組み

 ロブション氏自身が歩んできた職人の道を、朝日新聞はこう紹介している。

__________
 フランス中西部、ポワティエ市の小さな食料品店に生まれた。貧しいが、信仰心の厚い親の影響で、神父になりたいと思い、12歳で神学校に入った。厳しい修道院生活では、料理をする修道女を手伝う時だけ、心が休まった。15歳の時、経済的事情で神学校をやめると、迷わずパリの大ホテルで料理人見習いになった。

 レストランを渡り歩き、28歳でパリの大ホテルの総料理長に就いた。31歳で「フランス最優秀職人賞」を受賞。36歳で自ら開いた「ジャマン」は3年後、レストランガイド「ミシェラン」の三つ星に輝いた。[1,p149]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 料理一筋の職人の世界で、人を育て、認める仕組みがある事が、フランス料理界の強味なのだろう。しかし、料理人を厳しく鍛える伝統においては、わが国も負けてはいない。

 一人前の「板前」、すなわちカウンターの向こうで料理する職人になるには、次の仕事をそれぞれ数年かけてマスターしていかねばならない。[1,p148]

「洗い場、追い回し」(料理の仕込みと鍋洗い)
「盛り付け」(料理を盛り付ける役割)
「焼き場」(炭火で魚を焼く。ここからが料理人)
「向こう板、花板、回し」(仲居がとってきた注文を調理場にとりつぐ)
「煮方」(蒸し物、揚げ物などすべてやる。これを卒業したら、店を持って良い。)

 こうした長年の厳しい修行を積んできた料理人が、人間的にも深みを持つのは当然だろう。

 ちなみにミシェランガイドでは星付きの店が、パリの74軒に対して東京は2倍以上の150軒[a]。料理人道の厳しさと、その結果としての実力、地位の高さはパリの上を行くのではないか。


■6.トップスター料理人が始めた料理カウンター

 料理人の地位は、昔はさらに高かったらしい。日本で料理カウンターを広めた料理人は塩見安三である。明治28(1895)年に生まれ、昭和46(1971)年まで生きた。当時の一流の料理人は二人一組で全国の有名な店を渡り歩いて、仕事をしていたらしい。

 塩見安三の孫で、その流れを汲む「銀座浜作」を経営している塩見彰英さんは、こう書いている。

__________
 うちの安三おじいさんと(相棒の)出井豊三郎さんは広島の料亭へ出かけて行った時など、トップスター並みの人気ぶりで、それこそ街をあげての大評判。店には客が殺到して大変だったといいます。
給料は百円とれれば一人前の板前と言われた大正当時、安三おじいさんは500円もらっていたと聞きました。[1,p17]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 大正半ばの国立大学教授の月給は70円というから、今の感覚で教授が月給70万円としたら、一人前の板前が100万円、塩見安三は500万円という所か。まさにトップスターである。

 この塩見が大正13(1924)年にカウンター形式の店「浜作」を大阪で始めた。客の目の前で、当時のトップスター料理人が腕を振るうのを見られる、という事もあって、たちまち大評判となったようだ。値段も当時の一流お座敷料理屋を時には上回ったという。しかし塩見自身は無愛想だったというのだから、面白い。

 後に「浜作」は東京に進出し、白洲次郎[b,c]や谷崎潤一郎、菊池寛、岩波茂雄など、文化人、財界人に贔屓にされた。来日したチャップリンやマリリン・モンローまで来たという。

 客が料理人の腕を振るう様を喜んで見たり、料理人と話を楽しめるというのは、客の方にそれだけ職人に対する敬意がなければ成り立たない話である。カウンター形式が日本において広まったのは、厳しい料理人道と、そこから生まれる料理人への敬意が社会にあったからであろう。


■7.カウンターでは包丁の使い方も変わってくる

 ロブション氏と同様、日本人でも一流の料亭で働いていた料理人が、自分で店を持つときにはカウンター形式を取り入れる例がある。「吉兆」で料理長までしていた穴見秀生さんは、大阪で「本湖月」というカウンター中心の割烹料理屋を開いた。穴見さんは言う。

__________
 大きなキッチンで働いているときは、要するに最後の仕上がりが綺麗であるかどうかが勝負でした。多少切り身の切り方がおかしくても、仕上がりがよければ良かったのです。[1,p134]
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__________
 お客さんの目の前にある料理カウンターでは、また板も常に綺麗にしています。水を打って。しかし調理場では、そんなことまでは必要なかった。鯛の頭を落とすにしても、料理カウンターでは、お客さんに何か飛ぶようなことがあってはいけないと、包丁の使い方が調理場とは違ってきます。[1,p135]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 このように、調理のプロセスがすべて客の目の前で行われること、そして客が食べるときに満足しているかどうかを、調理人が目の当たりに出来ること。要はそれだけカウンターは、キッチンに比べて真剣勝負なのだ。料理人道を歩む職人であれば、カウンターに挑戦したくなるのも当然であろう。


■8.「僕はまだここで働き始めて半年」

 本稿では、料理人道の最先端を行く達人たちの話が中心となったが、わが国の「道」とは初心者にも容易に入っていける広い入り口を持っている。

 大阪のホルモン屋でアルバイトをしている20代の青年は次のように書いている。[2]

__________
 僕がアルバイトしているホルモン屋はとにかく熱い! 情熱を持ってお客様へ最高のおもてなしを心がけています。

 僕はまだここで働き始めて半年。仕事の流れも徐々に把握できて今はいかにお客様にどう接するかを考えながら働いています。

 先日男女2人組のお客様が来店されました。店内をキョロキョロしているところを見ると初めてのご来店だなと思い、「はじめてのご来店ですか?」とお尋ねすると「噂には聞いていますが来るのは初めてで」というようにワクワクされていました。

 お席に通した後もそのお2人が楽しく美味しく召し上がっておられるか気になって気になって、時より声をかけると「おいしいです!」と超笑顔で言って下さいました。

 それならお返しに「おいしいいただきましたーーーー!!!!」と僕が言い、「ありがとうございます!」とスタッフ全員で店内に響き渡る声で言うと、すごく喜んでくださいました!

 最後に帰り際、「本当にありがとう!楽しかったし、美味しかったです。料理は味だけじゃないね。その店の雰囲気も重要だよ!」と言って下さいました。そんなお言葉をもらったのは初めてだったのですごく嬉しかったです!
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 料理人道はわが国社会のあちこちに入り口を開けて、待っている。その道に入るのは簡単である。自分でいかにお客様におもてなしをするかを考えていけば良い。ひとたび、その世界に入れば、その中には豊穣な世界が広がっているのである。
(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(757) なぜ日本食は世界で人気があるのか
 数世代、数百年かけて伝えられる技術と伝統がその原動力。
http://blog.jog-net.jp/201207/article_5.html

b. JOG(541) 白洲次郎(上)〜 占領軍総司令部との戦い
「勝ち目がないとわかっていても、男には戦わなければならない時がある」
http://www2s.biglobe.ne.jp/%257Enippon/jogdb_h20/jog541.html

c. JOG(542) 白洲次郎(下)〜 日本復興への責任と義務
「吾々が招いたこの失敗を、何分の一でも取り返して吾々の子供、吾々の孫に引き継ぐべき責任と義務を私は感じる」
http://www2s.biglobe.ne.jp/%257Enippon/jogdb_h20/jog542.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1.  伊藤洋一『カウンターから日本が見える 板前文化論の冒険』★★、新潮新書、H18
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4106101831/japanontheg01-22/
稲田朋美の国会論戦真剣勝負
2. ワクラボ@タウン、アルバイトちょっとイイ話
 投稿者 ちゅん さん
http://www.waku-labo.com/story/story_03.php


■前号「稲田朋美の国会論戦真剣勝負」に寄せられたおたより

■純夫さんより

 昨年,3月11日の震災直後,第17回統一地方選挙が震災の影響で選挙日を延期した自治体を除き,4月10日と4月24日の2回に分けて行われたことは記憶に新しい所です。この時,各政党のウェブページを見比べて,私は大変驚いたことがあります。

 各政党,当然のようにホームページの目立つ所に統一地方選についての記述を掲載していたのですが,ある政党だけ目立つ所には東日本大震災についての写真と記述のみ,ページの下のほうの目立たない所にたった1行「統一地方選」と記述されたリンクがあるのみで,そこをクリックして初めて統一地方選のページが開くという構成になっていました。他の政党とは全く異なったページ構成でした。

これ,自民党なんです。

自民党は当時,統一地方選は二の次,被災者の支援第一を明確に打ち出して活動していたことがありありとわかりました。

■編集長・伊勢雅臣より

 まさに政治家としての矜持ですね。

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  • 名無しさん2012/12/22

    これの一体どこが日本の侵略なのか? 



    歴史認識問題についてー

     ●◎日韓併合の経緯!)ー

     実は当時の日本では併合について反対の声の方が強かった。ー 日韓併合論というのは、ずっと以前から日韓双方で議論されていたことだった。日本側にも賛成派と反対派がいたし、同じように韓国側にも賛成派と反対派がいた。日本側においては、陸奥宗光、曽祢荒助、竹越興三郎などは明確に反対していたし、伊藤博文もかなり消極的だった事は有名だし、井上馨や原敬も伊藤と同じだったようだ。一方、長州閥の桂太郎、山縣有朋、寺内正毅などは、併合推進派だった。対する韓国側においても、賛成派と反対派は割れていた。李用九などが率いる文明開化派の最大政治組織「一進会」が強く併合を推進したし、総理大臣の李完用を始めとする閣僚の約半数が推進容認派だった。一方、それまで朝鮮民衆に塗炭の苦しみを与え私利私欲を貪っていた皇帝高宗や両班や儒者達は反対していた。1909年に日本で併合が閣議決定したものの、併合の時期について、曽祢荒助は「就任時、伊藤、桂と三者会談にて、5,6年様子を見て」と合意していた。ところがその一年以内に韓国側の方で大きな変化があった。本音(あまり気が進まない)を隠したままの日本側に対し、まず合邦を打診したのは朝鮮側だった。総理大臣の李完用の側近である、新小説「血の涙」で知られる李人植が密使として動いたのだ〔ー2001.08.27.中央日報〕また、一進会は1909年12月4日「韓日合邦を要求する声明書」を作成し、上奏文と請願書をそれぞれ李完用総理、皇帝純宗、曽祢荒助統監に提出した。しかし、日本側の併合反対派であった曽祢荒助統監は、この合邦案を時期尚早との理由で却下すると共に、新聞社、通信社に働きかけ反対の論調をとらせた。それでも韓国側の併合推進派である一進会は上奏書を却下されてもまた提出し、これを繰り返すこと四回目に桂首相の指示により遂に受け取られた。… これが、日韓併合の歴史的経緯です。…



    歴史認識問題についてー

     ●これが断っている日本に対して、“どうか併合して下さい”と泣きついてきた嘆願書の文面です!

     ●◎日韓併合の経緯!)ー

     一進会が1909.12.4.“韓日合邦を要求する声明書”を作成し、上奏文と請願書をそれぞれ李完用総理、皇帝純宗、曽祢荒助統監に提出したとされるその声明書の文面。ー《韓日合邦を要求する声明書ー 日本は日清戦争を通じて韓国を独立させ、日露戦争でロシアに食われかけていた韓国を救ってくれた。それでも韓国は、これを有り難く思うどころか、あの国にくっつき、この国にくっつきし、結局は外交権を奪われることになったが、これは我々が自ら招いたことである。丁未条約を締結されることになったのも、やはりハーグ事件を起こした我々に責任がある。伊藤博文公が韓国国民を見守ってくれ、太子を導いて我々韓国のために御苦労されたことは忘れられない。にもかかわらずハルビンの事件が起きてしまった以上、今後いかなる危険が到来するのかわからない。これもまた韓国人自らそうしてしまったのである。ー中略ーそれゆえ劣等国民として保護されるよりは、いっそ日本と合邦し大帝国を作って世界の一等国民として日本人とまったく同じ待遇をうけながら暮らしてみよう…ー1909年12月4日.一進会(百万の朝鮮人会員)》http://sora1975.blog88.fc2.com/?mode=m&no=45&cr=de816fb10627eee2f925595d530ef48f しかし、これを受けた日本側は、清露を追っ払ってまだ日も浅く糞だらけの原始社会を日本の一地方とするには莫大な負担がかかるばかりで何の旨味もないと“時期尚早”と言って却下した。ところが韓国側は、却下されたのにしつこくも四回もこの種の提出を繰り返したのである。

     …これの一体どこが日本の侵略なのか?



  • 名無しさん2012/12/22

    1947年10月の臣籍降下は、GHQその他による強制措置であって、旧・皇族の皇族復帰を決断しないことは、このGHQ等の非理非道を自虐的に認めることである。すなわち、旧・皇族の皇族復帰こそは、日本の国家としての精神の再生である。(中川八洋『皇統断絶』)



  • 名無しさん2012/12/22

    大事な事だから何度も言います。橋下や石原は、維新ではなく「反維新」です。彼らは、幕末の維新志士たちが血みどろになって作り上げた中央集権国家を、極端な地方分権で八つ裂きにするのが目的なのですから。外患を招くような、江戸末期の分裂した幕藩体制国家に逆戻りです。

  • 名無しさん2012/12/22

    風邪に効く薬はない。風邪薬の犠牲が増えるだけ 「インフルエンザ脳炎」がみられるのは、世界中で日本列島と台湾の一部だけ。かつては、世界七不思議の一つだったが、欧米の医師が日本列島に特有な「総合感冒薬」が原因と看破。http://blog.livedoor.jp/leeshounann/archives/51411948.html





  • 名無しさん2012/12/21

    http://www.zakzak.co.jp/society/foreign/news/20121220/frn1212201305003-n1.htm



    「尖閣は日本の施政権下にある」米議会が特別声明 中国の軍事行動に対抗 2012.12.20

    【ワシントン=佐々木類】ジム・ウェッブ米上院議員は19日、米国による沖縄・尖閣諸島の防衛義務を明記した2013会計年度(12年10月〜13年9月)国防権限法案が上下両院で合意に達したことを受け、特別声明を発表した。



     声明は、尖閣条項について「日本の施政権を脅かすいかなる試みにも、米国が毅然(きぜん)として対抗する姿勢を示したものだ」と表明。その上で「過去数年間、中国は尖閣諸島の領有権を主張して東シナや(ベトナムとフィリピンなどと領有権問題のある)南シナ海で攻撃的な活動を強めてきた」と中国を名指しで批判した。



     また、「米議会は、米国が尖閣諸島が日本の施政権下にあることを認め、この立場が、いかなる恫喝(どうかつ)や強制、軍事行動によって代わるものではないことを明確にするものだ」とした。



     米政府も、尖閣諸島が日米安保条約の対象と明言しているが、公文書を含めて国防の大枠を決める重要法案に明文化されるのは初めて。日本にとっては、これまでで最も強い形で同盟国の後ろ盾を得た格好だ。



     ウェッブ氏は、オバマ大統領に近い上院の重鎮。



  • 名無しさん2012/12/20

    http://www.yaeyama-nippo.com/2012/11/05/%E6%B8%85%E5%9B%BD%E5%8F%B2%E6%96%99-%E3%81%BE%E3%81%9F-%E5%B0%96%E9%96%A3%E3%81%AF%E5%9B%BD%E5%A4%96-%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E7%B7%8F%E7%B5%B1-%E7%99%BA%E8%A6%8B-%E3%81%8C%E9%80%86%E8%A8%BC%E6%98%8E-%E4%B8%AD%E5%8F%B0%E3%81%AE%E9%A0%98%E6%9C%89%E4%B8%BB%E5%BC%B5%E5%B4%A9%E5%A3%8A/#permalink清国史料、また「尖閣は国外」 台湾総統「発見」が逆証明 中台の領有主張崩壊



  • 名無しさん2012/12/20

    ケルゼンは、人間の熟慮した法律だけを法として、古来からの法や伝統・慣習を法とすることを排除した。つまり、デカルト的明証性のある、ルソーの「独裁者=立法者」の法律のみを「純粋」だと美化して、「“法”の支配」の“法”を「不純」として排斥した。 中川八洋『悠仁天皇と皇室典範』p.175

  • 名無しさん2012/12/19

    日本の憲法学界は、英米のコモン・ロー思想の導入を拒絶し、十七世紀前半英國産の「法の支配」を、それと似て非なる十九世紀後半のドイツ産の「法治主義」と同じだと歪曲して憲法原理「法の支配」を抹殺し、・・・ 中川八洋『悠仁天皇と皇室典範』p.172

  • 名無しさん2012/12/19

    英國は、不正義の法律(=立法者の命令)が立法されないようにするために、この立法を、上位の「法」で制限・抑制する制度―「法の支配」―を確立した。 中川八洋『悠仁天皇と皇室典範』p.174



  • 名無しさん2012/12/16

    楽しく読ませていただきました。

  • 名無しさん2012/12/16

    朝鮮南部に日本式古墳がある、半島南部は古代から日本領地なのは世界の常識。



    三国史・・・・・・・・・・・朝鮮半島南「狗邪」は「倭国の北限」 



    宋書倭国伝・・・・・・・・・朝鮮半島は倭が支配している 



    広開土王碑・・・・・・・・・倭国が海を渡り百済と新羅を臣下にした。 



    日本書紀・・・・・・・・・「391年 神宮皇后が百済と新羅を日本領土とした。」 



    宋書・・・・・・・・・・・・倭国が朝鮮半島南部を領地にした。 



    随書・・・・・・・・・・・・倭国は産物も豊かで鉄の鏃で武装した軍隊を持つ。百済と新羅は倭国を大国として敬った。