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JOG-mel No.588 オペラ歌手・中丸三千繪の挑戦

2009/03/08

■■ Japan On the Globe(588)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■

         人物探訪: オペラ歌手・中丸三千繪の挑戦
    
                 「イタリアの伝統と様式美を21世紀の世界に
                 伝えてくれ」と審査員たちは言った。
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■1.「イタリア人以外からは優勝者は出ない」■

     1990(平成2)年3月3日、中丸三千繪さんはヴェネツィアの
    フェニーチェ劇場で開かれたマリア・カラス・コンクールの本
    選への出番を待っていた。

     オペラ歌手のコンクールとしては最も権威のあるもので、入
    選しただけで、世界中の劇場で歌えるようになるという。
    400人もの挑戦者が参加した第一次予選から、第2次選考を
    経て、最終の本選に進んだのは中丸さんを含め12人だけだっ
    た。

     マリア・カラス・コンクールは過去3回開催されているが、
    1回目、2回目の優勝者はイタリア人、3回目は該当なしだっ
    た。審査員からも「このコンクールはいちおう国際コンクール
    となっているけど、イタリア人のためにあるから、イタリア人
    以外からは優勝者は出ない」という声が出ていた。

     また、時々、中丸さんの伴奏をしてくれる人もこう言ってい
    た。

         マリア・カラス・コンクールといえば、日本でいったら、
        美空ひばりコンクールというようなものだよ。そこにたと
        えばイタリアから外人がきていくら演歌をうまく歌ったっ
        て、美空ひばり賞をそのイタリア人にやるかな。日本人が
        マリア・カラス・コンクールで優勝するなんて、世界がひっ
        くり返ってもありえないよ。[1,p56]

     そんな大舞台に中丸さんは挑戦したのである。
        
■2.「このコンクールに優勝できなかったら歌をやめる」■

     中丸さんの出番となった。後年、この時のことを中丸さんは
    こう回想している。

         いまでもよく覚えています。舞台の中央に歩きながら、
        私、このコンクールに優勝できなかったら歌をやめる。こ
        れが最後の花道、最後のステージだと思って、死ぬ気で歌っ
        たんです。

         最近になって本選の時の映像が手に入ったのですが、歌
        い終わった瞬間、ウワーッと雷鳴のような拍手が鳴り響く
        中、「すべて出し尽くした」という感じで、呆然と映って
        いるんですよ、私(笑)。[2]

     中丸さんが本格的にオペラ歌手を志したのは20歳の頃だっ
    たが、何事も10年やって芽が出なかったら才能がないという
    ことだから、やめたほうがいい。だから30歳までに芽が出な
    かったらオペラをやめると決めていた。

     マリア・カラス・コンクールも30歳という年齢制限があっ
    た。あと半年ほどで30歳となる中丸さんにとっては最後のチャ
    ンスだったのである。

     本選の結果、中丸さんが優勝者に選ばれた。審査員はみな、
    にこにこと表情を崩して、次々に中丸さんの頬に欧州式のキス
    をした。選に洩れた他の歌手たちも、舞台に現れ、一人ひとり
    が中丸さんを熱い抱擁とキスで祝福してくれた。客席からは怒
    濤のような歓声と拍手が押し寄せていた。どうしてこんなに喜
    んでくれるのか、と中丸さんは不思議にすら思えた。

■3.街角でも「ミチエ・ナカマル----」■
    
     ようやく劇場を出て、知人友人たちとレストランに向かった。
    夜中の2時を回っていたが、この日はコンクールのため、ヴェ
    ネツィアの街全体がお祭り騒ぎになっていた。

     レストランに入るなり、誰かが何か叫ぶと、みなが総立ちで
    中丸さんを迎えた。結局、中丸さんは各テーブルを挨拶してま
    わり、急ごしらえの祝賀会のようになった。

     ホテルに戻り、午前6時頃に眠りについたが、8時には電話
    で叩き起こされた。昨晩のコンクールをテレビで見た有名な指
    揮者からじきじきに、ポルトガルのリスボンでコンサートに出
    演してくれないか、という依頼だった。その後も、ヨーロッパ
    中から次々と仕事が舞い込んだ。

     それからは街を歩いていても、「あなたはマリア・カラス・
    コンクールで優勝した日本人か」と何人もの人から声をかけら
    れた。

     レストランで食事をしていると花を売っていた男性が、中丸
    さんの顔を見るなり、「ミチエ・ナカマル----」と呟き、その
    まま絶句した。「あらっ、よくご存じですね」と応じると、彼
    は『リゴレット』の「女心の唄」を口ずさみながら、私に真紅
    のバラを差し出し、「頑張って下さい」と言って立ち去った。

     オペラはフレンツェで生まれ、ローマに伝わり、そして17
    世紀にヴェネツィアで民衆の楽しみとして開花した。イタリア
    の伝統文化として今も民衆の中に生きている。マリア・カラス
    ・コンクール優勝とは、その伝統文化のトップ・スターとして
    認められたということであった。
    
■4.「こんなところで本当にやっていけるのかしら」■

     中丸さんがイタリアにやって来たのは、1986(昭和61)年
    12月だった。前年に桐朋学年大学声楽科とその研究科を卒業
    し、この年9月に小澤征爾指揮のオペラに主役のピンチヒッタ
    ーとしデビューした。そして小澤から「一日でも早くイタリア
    に行った方がいい」と勧められて、決心したのである。

     異常な寒波のなか、雪で覆い尽くされたミラノの街のホテル
    に着いた。ホテルの食事はまずいし、部屋は寒いし、「こんな
    ところで本当にやっていけるのかしら」と心細いスタートだっ
    た。

     まずは良い師を見つけなければならないが、イタリアの音楽
    界にまったく知り合いがない。ようやく6月になって、マリア
    ・カラスともっとも多く共演したメゾ・ソプラノのジュリエッ
    タ・シミオナートが、スカラ座の研修所でレッスンをしている
    という噂を耳にした。

     中丸さんはスカラ座の入り口でそれらしき人物が出てくるの
    を待った。待つこと3日、真っ赤な小さな帽子と緑のマントの
    派手で素敵なおばさんが出てきた。きっとこの方だと直感した。

     彼女が車に乗り込み、運転手がエンジンをかけた所を、中丸
    さんは慌てて車の窓を叩いた。「なあに?」と微笑んで聞くお
    ばさんに、しどろもどろながら、イタリア語で話しかけた。

         私はあなたのファンで、日本からあなたに会いに来たん
        です。レコードも聴いています。

■5.「声も、音楽性もあるけど・・・」■

     そして、必死の思いで、住所と電話番号を教えて欲しい、と
    頼み込んだ。シミオナートはにこにこ顔で連絡先を教えてくれ、
    「あした朝9時たったら、家にいますよ。チャオ」と言ってく
    れた。

     中丸さんはシミオナートの家に電話をかけ、弟子入りを希望
    していることを伝えた。オーディションをしてくれることにな
    り、翌日、シミオナートのレッスン場で中丸さんは2、3曲歌っ
    た。伴奏のピアニストは冷ややかな表情で中丸さんを見ている。

     冷や汗をかきながら歌い終えると、シミオナートは「声も、
    音楽性もあるけど・・・」 「ああ、やっぱり私はダメなんだ」
    と絶望的な気持ちに襲われたところ、

         才能はあるけどテクニックがまったくダメ、なにも身に
        ついてない。あなたはまっさらだわ、驚いた。日本人がよ
        く来て歌うんだけど、みんな変なテクニックを覚えてしまっ
        ているの。おもしろいわね、あなたの声はぜんぜん教育さ
        れていない自然な声だわ。

     週に2回、レッスンをしてあげましょう、というシミオナー
    トの思いがけない言葉に、中丸さんは一転して、飛び上がらん
    ばかりに喜んだ。
    
     それからほどなく、世界三大テノールの一人と呼ばれるルチ
    アーノ・パヴァロッティの師だったアリーゴ・ポーラのオーディ
    ションにも合格して、こちらのレッスンも受けることになった。

     アリーゴ・ポーラは、モデナに住んでいる。中丸さんはミラ
    ノ中央駅を8時に出る列車に乗って、毎日、モデナに通い、
    10時半からレッスンを受ける。夕方、また2時間半かけてミ
    ラノに戻り、晩にシミオナートやそのピアニストのレッスンを
    受ける、という毎日を送るようになった。
    
■6.「ミチエは歌うために生まれてきた」■

     本格的なレッスンを初めて一ヶ月経った頃、ポーラ先生が中
    丸さんにパヴァロッティ・コンクールの予選を受けてみないか、
    と勧めてくれた。3、4年に一度、アメリカのフィラデルフィ
    アで開かれ、優勝者はパヴァロッティと共演できるというご褒
    美つきのコンクールだった。

     イタリア予選はモデナで開かれ、約3百人が挑戦した。その
    他、スイス、イギリス、アメリカ、カナダ、メキシコ、ブラジ
    ルなど、世界各地で行われる1次予選に2600人が参加して
    いるとのことだった。

     中丸さんの予選での舞台を見たポーラ先生は、こう言った。

         私はパヴァロッティを育ててきたし、バリトンやバスも
        たくさん世に送り出してきた。ただ、ソプラノのスターは
        まだ育てたことがない。でも、何年か先には絶対にソプラ
        ノのスターが出る。

     第二次のヨーロッパ予選は、再びモデナで開かれ、280名
    が集まった。パバロッティ本人も審査員として加わった。中丸
    さんが歌うと、パヴァロッティが拍手をし、「ブラヴァ!(素
    晴らしい)」とまで言ってくれた。後で、パヴァロッティは師
    のポーラ先生に「ミチエは歌うために生まれてきた」と言った。

         こういう出来事が、私にはずっと心の支えになりました。
        外国でたったひとり勉強していくというのは、想像以上に
        苦しく辛いことです。生活習慣も違う土地で、私がこれま
        で頑張ってこられたのは、そんなふうな夢のような言葉を
        自分に信じ込ませてきたからかもしれません。[1,p172]

     翌1988年9月、フィラデルフィアで行われた最終選考が行わ
    れ、中丸さんは70人の中の数人の優勝者に選ばれた。翌年3
    月には、同地でパヴァロッティとの共演を果たした。

■7.「外国で日本人が歌っていくのはむずかしいわよ」■

     パヴァロッティ・コンクールのすぐ後にイタリアのスルモナ
    で開かれたマリア・カリニア・コンクールにも出場し、ここで
    も優勝を飾ることができた。

     その後、フランスのカルカッソンヌに呼ばれ、プッチーニの
    『ラ・ボエーム』で主役のピンチヒッターとしてヨーロッパ・
    デビューを果たした。

     しかし、イタリアでの舞台のチャンスはなかなか回ってこな
    かった。イタリアの小都市の劇場で外国人が歌うときには、劇
    場側が外国人労働者受入費用として何百万円かを支払わねばな
    らないので、外国人歌手にはほとんどチャンスはない。いくつ
    かの大劇場では、一年に何パーセントかは外国人を雇えるが、
    そこに食い込むためには現代のトップスターたちと枠を争わね
    ばならない。

     1989年6月、シチリア島でコンクールがあるという情報を得
    た。毎日の生活はカツカツだったので、優勝すれば生活費の足
    しにもできるし、憧れのシチリア島見物もできると、早速、応
    募した。

■8.「どうして、そこをそんなふうに歌うのですか!」■

     本選の朝、劇場の近くの古城の一室で中丸さんが練習してい
    ると、散歩で通りかかった審査員の一人マグダ・オリヴェーロ
    が血相を変えて、部屋に入ってきた。往年の大プリマ・ドンナ
    で今は80歳の老婦人である。「どうして、そこをそんなふう
    に歌うのですか!」とオリヴェーロは中丸さんに詰め寄った。

     中丸さんはポカンとして答えられず、オリヴェーロも言葉で
    は説明できないので、自ら歌い始めた。お針子をしている娘ル
    イーズが一人の男性と知り合い、初めて愛を交わした日のこと
    を忘れないと歌う「その日から」という愛の賛歌だった。

     中丸さんは、ごく当たり前の17、8歳の女の子の単純な喜
    びを表現しようと思っていたのだが、マグダ・オリヴェーロの
    歌には、人を愛することの喜び、そしてそれと裏表の愛を失う
    ことへの恐れからくる切なさまで込められていた。

         この歌は清潔に歌わなければいけないという解釈が一般
        的ですが、彼女の歌は清潔感を通り越し、天国的な美しさ
        に満ちていました。彼女は、亡くなったご主人のことを思っ
        て歌っていたのかもしれません。

         私はまずその姿にあっけにとられ、そのうちに目頭が熱
        くなり、やがて涙があふれ、その場で泣き崩れるくらい感
        動しました。彼女の全存在を賭けた素晴らしいレッスンか
        ら学んだものは、その後の私の音楽生活に大きな影響を及
        ぼしました。[1,p218] 

■9.「イタリアの伝統と様式美を21世紀の世界に伝えてくれ」■

     このマグダ・オリヴェーロが、マリア・カラス・コンクール
    での審査委員長で、中丸さんの優勝を発表したのである。審査
    委員会からは次のような言葉があった。

         自分たちはそんなに長くないから、イタリアの伝統と様
        式美を21世紀の世界に伝えてくれ。その意味を託して全
        員一致であなたに決めた。[2]

     中丸さんはイタリアの誇る伝統文化の継承者として、未来を
    託されたのである。中丸さんはこう語っている。

         私がただひとつ誇れることは、私にはこれまでの人生の
        節々で出合うことになった素晴らしい方々がたくさんいらっ
        しゃるということです。この方々が支えてくださらなけれ
        ば、きょうの私はありませんでした。私がいまつくづく思
        うことは私の幸運とは、実は「マリア・カラス賞」を受賞
        したことではなく、この方々に出合えたこと、知り合えた
        ことこそが最大の幸運だったということです。[1,p297]
                                         (文責:伊勢雅臣)


■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 中丸三千繪『マリア・カラス・コンクール』★★、講談社文庫、H7
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062630826/japanontheg01-22%22
2. 中丸三千繪、インタビュー「歌うために私はいま、ここに生きる」、
   『致知』H19.03

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■前号「TBSの懲りない面々」に寄せられたおたより

                              「社内バリスタ1年目」さんより
     毎日新聞のWebサイトでヘンタイ記事を英語で配信していた
    件では、

        JOG Wing No.1465 毎日新聞の英語版サイトがひどすぎる
        http://www.melma.com/backnumber_256_4164506/

    電話突撃の意味で使われる「電凸」が、200社以上の広告主
    に対して行われ、多数の広告主が出稿を取りやめました。

    この件については、まとめサイトがあり、
    http://www8.atwiki.jp/mainichi-matome/

    「何をすればいいの?」には方法が説明されています。
    http://www8.atwiki.jp/mainichi-matome/pages/13.html

     当時の広告主の対応状況は今でも閲覧できます。
    http://www8.atwiki.jp/mainichi-matome/pages/12.html

     また、CNETの「毎日新聞社内で何が起きているのか(上)」
    では、電凸が引き起こしたすさまじい破壊力という小見出しで
    その実状が書かれています。
    http://japan.cnet.com/blog/sasaki/2008/08/05/entry_27012752/

     今後、テレビでおかしな報道をしたら、Youtubeやニコニコ
    動画等の動画サイトに投稿され、こうした電凸が起こり、広告
    主が広告の出稿を控える状況になると思います。

     特に不況の今、消費者の反感を買うくらいなら、経費削減を
    兼ねてさっさと出稿を取りやめる広告主が多く出てくる事でしょ
    う。

                                                 豊さんより
     最近気になったのは麻生総理の訪米についてアメリカ人にイ
    ンタビュー(と言うほど長いものではないが)して日本の総理
    の名前を知っているかと質問し、知らないと答えると如何に麻
    生総理のプレゼンスが低いかを得々と報道していました。これ
    は悪意のある報道と言うべきで報道機関としては慎むべき態度
    だと考えます。(小生は必ずしも麻生総理を支持している訳で
    はありませんが)

     考えてみれば、町の一般の人にインタビューした結果と称し
    て報道しているものもどのインタビューを放映するかは局の判
    断であり、仮に10人が賛成し2人が反対してもその2人のイ
    ンタビューだけを流せばあたかも世の中のみんなが反対してい
    るような誤った印象を耐えることが出来ます。世論は政治を左
    右する訳で、世論の形成に重要な役割を果たしているテレビが
    恣意的な情報操作をしていては大変なことになります。

     テレビ局は報道の自由だの公正だのと言いますが、テレビ局
    といえども一営利企業であり、しかもその報道内容については
    外部から審査することは出来ない仕組みになっています。仮に
    誤った報道や故意に捻じ曲げた報道をしてもその結果について
    の責任を問われることはありません。世の中にこれだけ大きな
    影響力を持ちながら誰からも掣肘されず、責任を負わないこと
    は良く考えでみると恐ろしいことです。

     かつてTBSの幹部が自民党政権を下野させたのは我々の報
    道のお陰だと言う意味の発言をして物議をかもしたことがあり
    ましが。このときのTBSの幹部には誤った全能感や使命感が
    あったように思われます。報道とは自らの信念とは異なった意
    見でも公平に報道する義務があり、世論を操作して政治に介入
    しようと言うような姿勢は持つべきではありません。                         

■ 編集長・伊勢雅臣より

     偏向した報道に対しては、世論が掣肘を加えるのが、自由民
    主主義社会の原則でしょう。

     読者からのご意見をお待ちします。以下の投稿欄または本誌
    への返信として、お送り下さい。
     掲載分には、薄謝として本誌総集編を差し上げます。
    http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jog/jog_res.htm

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