国際情勢

Japan on the Globe 国際派日本人養成講座

日本に元気と良識を。歴史・文化・政治・外交など、多方面の教養を毎週一話完結型でお届けします。3万8千部突破!

全て表示する >

Japan on the Globe(148) by melma!

2000/07/22

---------------Japan On the Globe(148)  国際派日本人養成講座
        _/_/        
         _/         人物探訪:フジモリ大統領とその母 
        _/                〜ペルーを救った「もっこす」魂
  _/   _/    日系人独特の「正直・勤勉・技術」の精神を掲げて
   _/_/      フジモリ大統領はペルー再建に挑んだ。
-----------------------------------------H12.07.23  26,424部

■1.自分は死ぬ気でこの選挙に立った■

     「ペルーを建設していきたい」、アルベルト(日本名、謙
    也)・フジモリがそう決心したのは、1989年頃、ラ・モリナ国
    立農科大学学長の任期を終える時期であった。
    
     当時のペルーは、年率7500%というハイパーインフレに襲わ
    れ、さらに国土の三分の一をテロリスト組織センデロ・ルミノ
    ソが支配し、数万人もの国民がテロの犠牲になるという、まさ
    に国家崩壊の瀬戸際にあった。
    
     アルベルトの決心に、母ムツエは大反対し、泣いて頼んだ。
    「お前が大統領になったら、(テロリスタに)殺されてしまう」
    
    「ママ、自分は死ぬ気でこの選挙に立った。だれも止めること
    はできないよ。」 
    
     思いこんだらどこまでもやり通す、その気性はまさにムツエ
    の故郷の熊本弁で言う「もっこす」そのものだった。ついにム
    ツエはあきらめて、選挙の手伝いをするようになる。
    
■2.正直・勤勉・技術■

     アルベルトが奇跡的な当選を果たしたときも、ムツエは喜ば
    なかった。お祝いにかけつけた人に言った。
    
         私はちっともうれしゅうない。考えてもみなさい。今の
        ペルーがどうなっとるか。このペルーのすさんだところを
        今からどう立ち上げるか。私はそればっかり考えてる。そ
        れを考えたら、おめでとうなどと気軽に何べんも言わん方
        がいい。
    
     ムツエが「少しうれしい」という気になったのは、それから
    1年あまりも経ってからであった。「フジモリは真っすぐな人
    間で盗っ人をしない」と言う大衆の声が聞えてくるようになっ
    た。ムツエが子どもたちをしつける時に、もっとも大事にした
    のが、この事だった。
    
     「正直・勤勉・技術」、これがアルベルトの選挙スローガン
    だった。それはムツエのしつけの根本であり、また日系移民た
    ちの精神でもあった。これに「もっこす魂」を加えて、アルベ
    ルトはペルーの再建に向かっていった。

■3.どうでんこうでん親には迷惑をかけん■

     ムツエは大正2(1913)年、熊本県河内町白浜に生まれた。
    女8人の後に男3人が生まれ、その6女である。小学校から帰
    ると、幼い弟たちの世話や家事の手伝いに明け暮れる毎日だっ
    た。卒業の時に、先生から上の学校に行くことを勧められたが、
    「弟が小さいけん、私がおらんならんとどうします」と言って、
    親にも相談せずに断ってしまった。
    
     昭和9(1934)年、21歳になっていたムツエに縁談話が持ち
    上がった。ペルーで仕立物屋をしていた藤森直一が、嫁探しに
    帰国した。ムツエは後にこの時の決心をこう語っている。
    
         ママたちが従兄弟同士で、(嫁に)いかんかいうて。白
        浜は貧乏だけ。(姉たちは)嫁に行ってから貧乏ばかりし
        て親泣かせだったから。ヨー(私)は行く。どうでんこう
        でん親には迷惑をかけん。私は外国に行くと。ペルーに行
        ったら、自分たちは貧乏したって親には泣きつきゃせんか
        らと言ったの
        
     親の苦労を考えて進学をあきらめたムツエは、今度も父母の
    負担を軽くしようと、見知らぬ外国に行く決心を固めた。ムツ
    エもまた「もっこす」であった。

■4.相次ぐ苦難■

     しかし、新天地ペルーでも、日系移民は歓迎されざる客であ
    った。1940年5月13日、日系人たちの経済進出に怒った反日
    暴動がリマ市全域で起こった。暴徒達は日系人の店を襲い、商
    品を奪い、家財道具を略奪した。警察は見て見ぬふりをしてい
    た。ムツエ達は、古タイヤの修繕屋をしていたが、小さい店だ
    ったので助かった。
    
     暴動の直後5月24日には、チョリヨス沖大地震が襲う。当
    時2歳だったアルベルトは、ちょうどトイレに入っていた。ム
    ツエが飛んできて、アルベルトをそのままも格好で抱きかかえ
    ると外に飛び出した。この後、壁のレンガが崩れ、トイレはつ
    ぶれてしまった。アルベルトはあやうく命拾いをした。

     1941年12月8日(日本時間では9日)、真珠湾攻撃の翌日、
    ペルー政府はいち早く在留邦人の資産凍結令を発布し、さらに
    邦字紙の発行停止や日本人小学校の閉鎖を命じ、日系人が5人
    以上集まることも禁止した。
    
     不思議なことにアルベルトは3歳の時に、店が接収された時
    の記憶をはっきり持っているという。タイヤが持ち出されたり、
    機械が運ばれていく様子が、まぶたにはっきり焼き付いている
    と語る。幼心にそれだけ大きな衝撃だったのだろう。
    
■5.アメリカの強制収容所に送られた人々■

     アメリカは国内の日系人を強制収容所に入れるだけでなく、
    南米のおもだった日系人まで、強制収容の手を伸ばした。当初
    は「西半球の安全に危険を及ぼす敵性外人」という基準で、日
    系人の私信をペルー警察がアメリカ大使館にこっそり持ち込み、
    内容を検査したが、危険な活動計画の痕跡すら見つからなかっ
    た。
    
     そこで日系社会での指導力や影響力という観点からリストが
    作成され、合計1,771人の日系人がアメリカでの強制収容所に
    送られた。直一の所にも、名簿を抱えた警官があらわれ、警察
    まで出頭せよと命じた。直一は自分のような小さなタイヤ修繕
    屋にまで収容の手が及ぶのか、と不審に思い、その名簿を見せ
    て欲しいと要求した。果たして、そこには直一の名はなく、ム
    ツエは、「名前がないのだから、うちの主人が行くわけにはい
    きません」と抵抗すると、警官はあきらめて帰っていった。袖
    の下が目的だったのかもしれない。
    
     アメリカに連行されたペルーの日系人達は、戦争後も帰国す
    る術もなく、そのまま何年もアメリカにとどまった人も多い。
    またアメリカの日系人とは違って、賠償もまだ行われていない。

■6.躾と教育■

     日本の敗戦で、ペルーの日系人社会にも、この第二の祖国に
    骨を埋めようという覚悟が生まれた。ムツエも子どもたちをペ
    ルー人の学校に入れ直した。授業は100%スペイン語で行わ
    れるが、まだ幼いアルベルトはすぐに追いついていった。1951
    年、リマで1,2を争う国立の名門アルフォンソ・ウガルテ中
    学校に首席で進学した。
    
     ムツエは、アルベルトたちに「勉強をしなさい」とは言わな
    かったが、躾には厳しかった。うそをついてはいけない、物は
    節約しないといけない、人に迷惑をかけてはいけない、あまり
    寝てはいけない、朝は早く起きなければいけない、、、今もム
    ツエの言葉が子どもたちの耳には残っている。この時の躾が、
    後に大統領選でのスローガン「正直・勤勉・技術」となった。
    
     また直一は、「自分は商売が下手だからお前たちに財産は残
    してやれない。だから学校だけは行きなさい。学校さえ出てお
    けば間違いない」と口癖のように言っていた。
    
     これを受けて、アルベルトも弟や妹たちの勉強をよく見た。
    「これからはみんな大学を出なければだめだ。ボクが勉強を見
    て試験の準備もさせる。」 スペイン語がよくできない直一や
    ムツエに代わって、アルベルトは兄弟の世話をよく見た。互い
    によく助け合う一家であった。

■7.青年アルベルト■

     1956年、18歳となったアルベルトは中学を首席で卒業し、
    ラ・モリナ国立農科大学にこれまたトップの成績で進んだ。
    アルベルトの成績なら、南米最古の名門リマ・サン・マルコス
    筆頭国立大学にも進めたろうが、ここが長い間、学生運動の舞
    台となり、また過激派センドロ・ルミノソの温床となったこと
    も、アルベルトの肌に合わなかったのだろう。
    
     61年、大学を首席で卒業し、翌年から教壇に立って、数学を
    教え始めた。アルベルトの講義は分かりやすいと学生たちの評
    判は良かった。点数には厳しく赤点を貰う学生も少なくなかっ
    たが、学生達の人気は下がらなかった。学生の努力はきちんと
    評価し、きびしいが公平で誠実な先生だとの評判を得ていたか
    らだ。
    
     70年9月から奨学金を得て、アメリカ中西部のウィスコンシ
    ン州立大学ミルウォーキー校に留学。翌71年6月に日本訪問を
    計画していた頃、父直一が倒れた。「兄さんに知らなきゃ」と
    いう娘の言葉に、ムツエはきっぱりと言った。
    
         あれは学校をしとるのだから、親の病気を知らすことな
        どいらん。パパが死ぬならヨー(私)が葬式を出す。
        
     7月17日深夜、熊本の親類の家に泊まっていたアルベルト
    は「パパ、パパ」と大声をあげた。真っ白い服をきた父が、2、
    3mの高さの所に現れ、「謙也」とアルベルトの日本名を呼ん
    だという。直一の亡くなった日であった。

■8.半年で仮校舎再建■

     1974年7月、アルベルトはヒグチ・スサナと結婚した。その
    年、10月にカニエテ大地震が起こり、ラ・モリナ国立農科大
    学の建物もほとんど倒壊してしまった。復旧予算もなく、大学
    側はやむなく休講の措置をとったが、教養学部長になっていた
    アルベルトは「仮校舎を建てて、一刻も早く授業を再開しよ
    う」と立ち上がった。大学の建築科を出たスサナが図面を引き、
    アルベルトが大学の雇員を指揮して、工事を指揮した。
    
     こうして半年で仮校舎とは言え、研究棟と講義棟が完成した。
    アルベルトの思い立ったら何が何でもやり遂げる「もっこす」
    ぶりは、学生や教授、職員から絶大な信頼を得た。
    
     1977年の副学長選挙に立候補し、わずか2票差で敗れたアル
    ベルトは、あきらめずにさらにその上を狙い、84年には学長選
    挙に当選した。日系人第一号として入学した大学で、ついに初
    の学長にまで登り詰めたのである。

■9.投票箱の革命■

     80年代のペルーは、中国の文化大革命の影響を受けたゲリラ
    組織センドロ・ルミノソが武装闘争に入り、軍事政権の失政に
    よるハイパー・インフレーションとも相俟って、ペルー社会の
    生活水準は60年代前半にまで後退したと言われている。
    
     アルベルトは、ペルーの将来を担う子どもたちが、貧困や飢
    えの中で、最低限の教育すら受けられない現状に我慢ならなか
    った。厳しいしつけと教育を通じた「正直・勤勉・技術」こそ
    が未来を開くものとムツエにたたきこまれてきた自身の経験か
    ら見ればなおさらであったろう。
    
     88年の半ば頃、7,8人の教授達に呼びかけて、政治運動
    「カンビオ・ノベンタ(変革90)」を発足させた。そして自
    宅やトラクターまで抵当に入れて資金を作り、90年の大統領選
    を目指した。対立候補から「母親は満足にスペイン語すら話せ
    ない」などと誹謗中傷を受けながらも、庶民の中に入り込んで、
    遊説を続けた。そして圧倒的多数を占める貧しい大衆票を堀こ
    す「投票箱の革命」によって、大統領選に勝利した。
    
■10.非常措置で国家を救う■

     しかし、いざ政権運営を始めると、議会の非協力、司法の腐
    敗、行政の非効率、テロの横行、経済の破綻など、あまりにも
    多くの問題が山積して、改革のきっかけをつかめなかった。
    
     92年4月5日,アルベルトは「憲法停止、国会解散」という
    非常措置をとった。アメリカは直ちに新規援助を停止し、欧州
    諸国もそれにならった。しかし、ペルーの国民大衆の80%以
    上はこの措置を支持した。
    
     これまでテロの容疑者は逮捕されても、ほとんどが証拠不十
    分で釈放されていた。裁判官がテロリストの報復を恐れて有罪
    を下さなかったからだ。たとえ有罪を下しても、腐敗が蔓延し
    た刑務所からは容易に脱走できてしまう。これでは逮捕する警
    察の方も志気が上がらない。
    
     非常措置導入後は司法が強化され、センドロ・ルミノソの指
    導者アビマエル・グスマンの逮捕に成功するや、軍事法廷で終
    身刑に処した。グスマン逮捕をきっかけに、国内の治安は回復
    軌道に乗り、96年のもう一つの左翼テログループMRTAによ
    る日本大使公邸占拠事件を解決することによって、テロリスト
    勢力はほとんど一掃された。
    
     また強力な経済運営によって、かつては7500%だったインフ
    レも99年には0.7%、経済成長率3.8%、失業率は3.8%と健全な
    姿に戻った。
    
     本年4月、アルベルト・フジモリ大統領は、国民から10年
    の実績を認められて3選を果たした。持ち前の「もっこす」ぶ
    りでアメリカの言うことを聞かないので、クリントン大統領は
    選挙に不正があったなどと、あからさまな内政干渉を行ったが、
    その証拠も見つからず、選挙結果を受け入れたOAS(米州機
    構)諸国の中で米政府の反フジモリ姿勢が浮き上がってしまっ
    た。
    
     ゲリラにも、インフレにも、そしてアメリカの圧力にも負け
    ない「もっこす」魂で「正直・勤勉・技術」を貫くフジモリ大
    統領の姿勢は、母国日本が逆輸入すべきだろう。

■リンク■
a. JOG(054) 無言の誇り
   12万人の日系人が収容所に入れられた。その3分の2は、ア
  メリカの市民権を持っていた。
  http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_2/jog054.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
1. 「ペルー遙かな道 フジモリ大統領の母」★★、千葉境子、
    中公文庫、H7.3
   
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■前号「言葉狩り〜祭りの後で」について     田邊さんより

     私は常々マスコミの責任と言うことに関心を持っております。
    政府であれ企業であれ警察や軍のような組織であれ,明白な失
    敗に対してはそれなりの責任を取ります。ところがマスコミは
    絶大な力を持ちながら,決して責任を取ろうとはしません。

     先の大戦の後,高級軍人で責任を取って自決した人は沢山い
    ましたが,さんざん戦争を煽った新聞を始めとするマスコミは
    軍部に強制されたと言う逃げ口上を使って謝罪もせず,マスコ
    ミ人では誰一人として自決した人はいませんでした。更には軍
    部への協力を拒否して廃刊した大手新聞社があったとは寡聞に
    して知りません。

     マスコミはいかなる権力にも屈しないと偉そうなことを言い
    ますが,例えば北朝鮮と言う場合にいちいち朝鮮民主主義人民
    共和国と正式名称を麗々しく唱えるのは北の圧力に負けたこと
    を証明する以外の何者でもないと思います。要するに強いもの
    には尻尾を巻き,弱いものや叩いても安全と思うものは徹底的
    に叩くと言う,まさに学校内のいじめと同じ構造です。

■ 編集長・伊勢雅臣より

     かつての朝日新聞記者だった稲垣武さんの「朝日新聞血風
    録」(文春文庫)によれば、歴代首脳の中で一柳東一郎社長は
    群を抜いて良識に富んだ人だったそうです。しかしこの人は平
    成元年のサンゴ落書き事件(朝日のカメラマンがサンゴに「
    K・Y」と落書きをした上で、「サンゴ汚したK・Yって誰
    だ」という自作自演の記事をでっち上げた)の責任をとって、
    潔く辞任しました。
    
     立派な人が責任をとるような辞めていってしまう一方で、立
    派でない人が言葉狩りでも捏造記事でも責任をとらずにやり放
    題、というのが実態なのでしょうか。

     読者からのご意見をお待ちします。本メールへの返信で届き
    ます。ご意見は、本誌おたより欄掲載させていただく場合があ
    ります。メール・アドレスは伏せます。掲載不可、匿名または、
    ハンドル名ご希望の方はその旨、明記下さい。おたより欄掲載
    分には、薄謝として本誌総集編を差し上げます。

購読申込・既刊閲覧: http://come.to/jog お便り: jog@y7.net                     
購読解除: http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/quit_jog.htm
JOGのアップデイトに姉妹誌JOG Wing: http://come.to/jogwing
自分のホームページで発信しよう!
 JOG Town: http://www.simcommunity.com/sc/jog/jog_master

規約に同意してこのメルマガに登録/解除する

メルマガ情報

創刊日:1999-02-06  
最終発行日:  
発行周期:週刊  
Score!: 98 点   

コメント一覧コメントを書く

この記事にコメントを書く

上の画像で表示されている文字を半角英数で入力してください。

※コメントの内容はこのページに公開されます。発行者さんだけが閲覧できるものではありません。 コメントの投稿時は投稿者規約への同意が必要です。

  • コメントはありません。